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「7」

 雪がずっと降っている。

 見渡す限り白で染まり、ハリーが手塩にかけていた庭の草花もすっかり埋もれて見えない。

 たとえ落下による死亡に至らなくても、この天気なら一晩外で倒れているだけで生命活動は停止するはずだ。


 私は、死ぬ。

 そう決めた。

 決めたのだ。

 だから動け足!


 もういいんだ。

 私なんかの命で子供が助けられるなら十分過ぎる。

 私はあの子を普通に産むことができなかった。私が聖女で、異世界から来た存在で、バグみたいなものだから。

 そのせいでヘレンも苦しんでいる。

 ロバートも廃人になった。

 でもきっと、私がいなくなって、子供が動き始めて、ヘレンが回復したら、彼女の力で旦那も理性を取り戻すはずだ。

 私がいなくなれば、全てうまくいく。


 ハリーだって、記憶喪失なら、新しい大切な人たちを見つけたなら、私がいなくても平気なはずだ。

 あの人は、優しい。誰とだって幸せになれる。実際あの母娘はハリーを家族みたいに扱っていた。記憶のないハリーもそれを受け入れていた。

 あまりにも綺麗な家族の形だった。


 そこに私はいらない。

 そうだ、そもそも、私がいるのがおかしかった。

 私はいてもいなくても変わらない。本来いるべきでなかった存在だ。

 いない方がうまくいくなら、いなくなるべきだ。


 だから、動けってんだよ、体…。


 窓から身を乗り出した体勢で、少し足に力を込めるだけだ。それだけなのにどうして力が入らない。

 分かってる。怖いんだ。死ぬのが怖い。死にたくない。

 でも死ななきゃ。

 死なないといけないのに。


 気づけば呼吸が荒くなっていた。

 肺を冷たい空気が満たしていく。少し喉が痛い。今からもっと酷い思いをするのに、情けない。

 私には美しい思い出がある。この記憶があれば、未練なんてない。そうだろう。

 

「…ああああ!」


 声を出して力を入れようとする。少し動いた気がする。この路線で行け、早く、早く、私が早く死ねば死ぬほど事態が解決へと動き出す。

 もしかしたら皆が気づいてここに来るかもしれない。

 その前に、早く。

 早く!


「…あっ」


 焦りに任せ地面を蹴った足が上がる。

 重心がずれる。前に傾く。

 上半身が均衡を崩して外に放り出されていく。


 ああ…。

 これで終わりか。


「駄目だ!!」


 耳をつんざく悲鳴のような声と共に、下半身が誰かに捕らえられ、そして引き戻された。

 呆然と床に転がる私を、その人が見下ろす。腰を落としてなお私よりずっと目線が高い。

 誰かなんて決まっている。


「…ハリー」

「死んじゃ、駄目だ…」


 彼は酷い顔をしていた。目の前で親に見捨てられた子供のような、子供が行方不明になった親のような、どちらにせよ最悪の状況に面した顔。


「…あなたには関係ないじゃないですか」


 無意識に、掠れた声で私は言っていた。


「あなたは私のハリーじゃない。何も知らない。ていうかなんでここにいるんです?あの女の人と娘さんは?」

「…あの人たちには、お礼をして、もう二度と会うことはないとお別れした。…無神経なことを強いてしまって、申し訳なかった。夫が行方不明の中で一人で子供を産んだあなたがどれだけ苦しんだか、本当に…」


 それ以上寄り添われたら泣く。泣いて甘えて決心が鈍る。私は強引に口を挟む。


「私は望んで死のうとしてるんです。邪魔しないでください」

「…どんな理由があっても、それは無理だ」

「お優しいことですね、私はあなたの恩人を殺そうとしたんですよ?場合によってはあなたを父親と慕う娘も。そんなクズに構ってないで平和に暮らせばいいじゃないですか」

「自分にも、娘がいる」


 言葉が詰まった。


「記憶はない。けど…見れば分かった。あの子は自分の子供だ。何を差し置いてもあの子を守る義務がある」


 ハリーはそこで私を苦しそうに見つめた。


「あなたも、そうなんだろう?」

「何が」

「最終的にはあの子を守るために、そのために自分を犠牲にしようとしたんだろう?」

「…違います」


 否定する。ハリーをここから追い出さなければならない。嫌われて失望されて、見限られればいい。かつてのハリー相手には到底無理だけど、今のハリーなら。何も知らない男なら騙せる可能性がある。

 私は仮面を外した。顔が綺麗に戻って、帰宅してからずっと身につけていた。だから屋敷の人たちは私の顔が変わったことを知らない。

 彼らに私の浅ましい感情を晒したくなくて、ずっと隠していた。

 けれど今は外した方が効果的なはずだ。


「分かりませんか?人は死ぬと怨念を残すんです。私はその怨念であなたの大切な人と娘を呪い殺します」


 笑顔を浮かべて適当なことをでっち上げる。


「聞いたんですよね?私とあなたは夫婦だって。でも正直私あなたのこと好きでもなんでもないんですよ。ただ私のことを好きになってくれたから応えてあげないと可哀想かなって思っただけで。肉体的な関係も一回しか体験してないし」


 上手な嘘のつき方は、真実を交えて話すことだ。

 私の語りに、ハリーは固まったままでいる。


「あなたとやりたくないし、それなのに子供ができたのはまあびっくりしましたけど。その矢先にあなたがいなくなって、私がどんだけ大変だったと思います?恨みましたよ、私が辛い思いしてる時にあなたは呑気に綺麗な奥さんと娘と一緒にきゃっきゃうふふしてたわけでしょ、ふざけんなよ?」


 彼が呑気でなかった証拠は、彼の体に刻まれている。

 かつて手にも足にも巻かれていた包帯はもう取られているが、塞がっているだけで至る所に傷跡が残っている。崖からでも落ちたのだろうか、昔の私のように。

 頭には、まだ包帯がある。記憶を失うくらいの強い衝撃を受けた。生き残ったのが奇跡と言っても過言でないんじゃないか。本当に、生きててくれて良かった。

 そんな重傷を負った記憶喪失の人間を看病して、家に置いてくれた恩人。

 無碍にできるはずがない。


「嫁の私を放って綺麗な奥さんと擬似家族になれて良かったですね、どうぞそのまま浮気やっててください。私あなたに興味ないので、あなたがいると邪魔っていうかとにかくうぜえので消えてください。私は私で勝手に幸せになるんで」

「じゃあなんで死のうとしたんだ」


 ……。

 筋道立てて喋らないからこうなる。思いついた端から口に出すのは矛盾が生じるからやっぱ危険だ。


「だからあ。察してくださいよ。私は聖女なんですよ。特別な存在なんです。人の生き死ににいちいち騒がないんですよ。そういや私のせいで何百人くらい死んだそうですよ。…ていうか、なんだったら、あなたの故郷も…」


 恐ろしいことに気づいた。

 ハリーは、女神教徒に村を焼かれたと言っていた。

 それって、聖女召喚のための人口調整だったんじゃないのか。


「…あなたの、故郷は…あなたの、家族は…私のせいで、死んだ…」


 ハリーが声を出せなくなるくらいのトラウマを引き起こしたのが、私?


「…わ、かるでしょ、こんなゴミクズが生きてちゃ駄目なんですよ」


 震えそうになる声を抑える。

 なんでだ。どうして私はこんなに後ろ暗いものを抱えているんだ。

 こんな奴が幸せになっていいはずがなかった。

 ハリーに深い傷を残した事件に自分が加担していた事実が受け入れられない。

 私のせいで何百人も死んだ。

 想像したくない。恐ろしい。怖い。信じられない。

 私は被害者だと思っていた。でも見方を変えれば加害者側に、元凶の一員に違いなかった。

 私の意思ではない。そんな言い訳がどこまで通用するというのか。


 私は立ち上がった。そしてまた窓に手をかけようとして羽交い締めにされる。


「離して!!」

「どうして」

「こんなの間違ってる死なないと」

「何を言っているんだ」

「こんなクズが生きてちゃ駄目なんだよ!」

「クズだって言うなら!他の人なんて気にせず生きればいいじゃないか!」


 …え?

 今…なんと言った?


 およそハリーの口から出た言葉とは思えず私は動きを止め、解放した彼を振り返った。

 ハリーは、切羽詰まった顔をしていた。先程の叫びは衝動的に出たものだろう。ハリーはそんなこと言わない。

 彼は私を肯定してくれるけど。他の人に迷惑をかけることを良しとはしない。

 博愛主義とまではいかないが、大抵の人を、ハリーは肯定的に見てくれる。

 だから私のことも好きになってくれた。


 彼は悩みながら、伏し目で台詞を続ける。


「…あなたは、悪くない、とは言えない。自分は何も知らないから」


 そりゃそうだ。

 でもハリーの姿でそんな突き放すような言い方しないでほしい。泣きそうになる。

 けれど、彼の説得はまだ終わっていなかった。

 

「でも、たとえあなたが何かを誤ったのだとしても、あなたの生きる意志を奪うことは誰にもできない。あなた自身が生きたいと望むならそれに従えばいい。他の何を犠牲にしても、他人を蹴落としても、あなたの意志を貫けばいい」

「…だって、私が死ぬのが一番簡単で、確実で」

「それでもあなたは死にたくないんだろう」

「私はさっきから何回も死にたいって言ってんのになんでそんなこと言えんの」


 ハリーは面食らった後、答えを探しているのか視線を泳がせ、やがてぽつりと返した。


「そう、見えるから」


 何の根拠もない答え。しかしあまりにも得心のいく答え。

 そうだよな。

 仮面を被っていても私の涙を見抜いたハリーが、この程度の問答で誤魔化されるはずなかった。


 そうだった。

 …隠し事なんて、できない。


 私は顔を上げてハリーに伝える。


「…私は死にたくない」

「うん」

「私のせいで人がいっぱい死んだけど、幸せになりたい」

「うん」

「あの子も、一緒に生きさせてあげたい」

「うん」

「だから」


 私が死ななくて済む道、とっくに開示されていた方法を口にした。


「もう一人の聖女を、殺す」

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