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「6」

 子供が眠っている。

 正確には眠っているというより、停止している状態に近い。

 ふっくらした頬の赤みと、掌から伝わる温かさ、新生児特有の柔らかい匂いが、この子がまだ死んでいないという自信を持たせてくれる。


 ふわふわした髪は、私と同じ黒。目の色はなんだろう、黒か、それともハリーと同じ色か。

 全体的な顔立ちは私に似ているか。欠点のない部位がバランスよく並んでいる。口が大きめなのはハリー似だろう。

 小さな指、小さな足、手製のおくるみに包まれて何の苦しみにも触れず身を横たえている。


 私が産んだ、可愛い女の子。

 この子を救うには、誰かの犠牲がなければならない。


 犠牲にするのは誰か。それはもう決めた。


 ベッドのそばの椅子から腰を上げ、子供の姿を目に焼き付ける。

 静かに、半年ほど寝食を過ごした一階の部屋を出た。




 二階の私の部屋。二年以上、この部屋を拠点として過ごした。ハリーと結婚してからも、この部屋は私の居場所として機能してくれた。

 壁際の収納棚には、大切なものが入っている。

 フレディからもらった花冠の押し花やらヘレンからもらったメイド服やら…。

 …それにハリーからもらった、いくつものメモ。


 ハリーは私のことを忘れてしまったけど。このメモに書かれた言葉たちが消えることはない。

 彼が私にくれたものが世界から綺麗さっぱりなくなったわけではない。

 形として、確かにここに残っている。


 私は窓を開く。冷たい風が容赦なく吹き込んでくる。外は変わらず雪模様だ。

 ヘレンがキャパオーバーしてしまったせいで、天候は本来の寒冷地仕様へと戻ってしまった。だがもう少しすればそれも元に戻る。

 私の子は安定したのどかな土地で平和に暮らしていけるだろう。


 窓から身を乗り出して下を覗くと、割と高さがあるように思える。それでも下手をしたら目的は達成できないかもしれない。

 だがやるしかない。


 私はこれから命を絶つ。

 子を救うための犠牲に、私がなる。




 女神の言うことを信じたわけではない。

 私が信じたのは、ロバートだ。


 ハリーの記憶喪失を知って、怒りに任せて馬車に戻った時。

 反応のないロバートに罵声を浴びせ、胸ぐらを掴み、私は短絡的な思考を巡らせた。


 私は被害者だ。

 加害者には何をしても許される。

 そう例えば、ヘレンの夫を寝取るのも、私には正当な権利であると。


 全部ぐちゃぐちゃにしても許される。

 私は悪くないから。悪いのはヘレンだ。

 彼女のせいで私の子供は普通に生まれてくることができなかった。

 彼女に痛い目を見せなくては。旦那を寝取られ、子供を奪われた私と同じ目に遭ってもらわなければ不平等だ。


 私はロバートの端正な顔を眺めながら彼の首元に手をかけた。


 だからまずはこのロバートをぐちゃぐちゃに。

 ヘレンを苦しませるために。

 ヘレンを。

 あのヘレンを。

 顔を焼かれ全身ズタボロでおまけに記憶喪失とかいう怪しさ満点の女を躊躇なく屋敷に受け入れてくれたヘレンを。

 仕事をしたいと自分から申し出たくせに行き詰まった私に、無理する必要はないと逃げ道を用意してくれたヘレンを。

 いつも笑顔で「何かあったら言ってね」と声をかけてくれて、実際いつでも相談に応じてくれたヘレンを。

 私に娘のために作ったウエディングドレスを着せてくれたヘレンを。

 私の子のためにせっせと服を編んでくれたヘレンを。


 できるわけないだろ。


 私は腕を離し、膝を折って床に蹲った。

 最初から心の底では分かっていた。

 私がヘレンを害するなんてできない。

 だってあの人は。


 私の夢見ていた理想の母親そのものなんだもの。


 私はお母さんに笑って欲しかった。

 一緒にご飯を食べて欲しかった。

 悩みを聞いて欲しかった。

 「無理しないでね」って言って欲しかった。

 返事をして欲しかった。

 おはよう、おやすみって、言って欲しかった。

 こっちを見て欲しかった。

 私が何をしても、愛して欲しかった。

 生まれてきてありがとうって、思って欲しかった。


 そんな幼稚な願望を、私はずっと奥底で抱き続けていた。

 その聖域を自らの手で汚すことなどできるはずがない。


 たとえ本当にヘレンが私を陥れたのだとしても。

 フレディを生かすために私の子を身代わりにしたのだとしても。

 それは、自分の子を守ろうとする母親の愛ってやつなんじゃないのか。


 彼女を憎むなんて、私には、無理だ。


 項垂れる私のそばで、ロバートがぼんやりと座り込んでいる。

 この人も哀れだ。私に付き合わされたばっかりに、障害未遂の尻拭いをする羽目になり、凍える息子を一人村に置き去りにしなければならなくなり、口元に爪で傷を負わされて、挙句は自分の意志をどこかへなくしてしまった。


 思い返せば、最近の私は本当にどうにかしている。

 意識も朧げなヘレンに自分勝手な問答をして「やっぱりこの人のせいなんだ」と決めつけ、出来もしないのに「あいつを殺さなければならない」と思い込み、暴言を吐いて脅して子供を放って無理やり王都にまで連れて行かせて、綺麗な顔に戻ればハリーが帰ってきてくれると盲信し、夫を瀕死から救った女の人を石で殴ろうとした。


 危険人物どころの話ではない。

 こんなゴミクズをハリーが選ばないのは当然だ。


 怒りが絶望に変わり、原動力を失えば、気勢を保っていられない。

 私は力の入らないままロバートの対面にへたり込んでいた。


 しばらくして、手元に何かが転がっていることに気づいた。

 手帳、のようなものだ。

 ロバートの所持品だろう。さっき揺らした時にこぼれ落ちたのか。スタンリーといいフレディといい学者肌の連中はすぐ何か書き残したがる。

 拾って中を見る。

 読み書きはマスター済みだが、この文章はお堅い感じでどうにも解読しづらい。

 それでも他にやる気が起きなくて読み続ける。


『異なる世界から生物を呼び寄せるには、この世界の魂の数を減らす必要がある可能性』


 これはロバートが王城で演説していた内容だ。


『聖女の召喚年に向けて口減らしが始まる。聖女召喚の後には必ず人口抑制の政策が取られる。召喚期間中の死産の増加。供物量の増加』


 きな臭い文章が並んでいる。気が滅入ってページをパラパラとめくる。


『聖女が子供を産んだ場合、その子供は世界に存在できるのか』


 手が止まる。


『聖女一人を召喚するのに多量の贄を捧げようやく釣り合いが取れるならば、聖女の血を継ぐ子供は贄なしで世界に産み落とされるのか』

『世界に存在できる魂の量が決まっている場合。異界の魂は一人で現地民の魂の百人以上(推定不可能)の量を持つ。その例に子供も適用するのか』

『ヘレンの力で子供を引き留めている現状、子供の時を動かし進めるには聖女召喚時と同じく人口を減らす、もしくはもう一人の聖女を元の世界に帰還させ子供の分の魂量を空ける』

『ヘレンの力の限度を大きく上回っている可能性。現状維持ではヘレンの寿命が尽きるのが先と考えられる。対処が必要』


 ロバートが王城で言っていたことがようやく理解できた。

 この人、本当に私の子を助けようとしていたのか。

 …ヘレンの力って、本当は、なんなんだ?

 手帳の前から後ろまでざっと目を通しヘレンの名前が書いてある箇所を探し、発見する。


『ヘレンは自らの生命力と引き換えに災いを回避する。本人の意志とは関係なく常時発動しており、彼女が対象に回避したい感情を抱いた瞬間に発動する。故に雨が降る、風が吹くといったありふれた事象にも彼女自身が忌避を抱けばそれは消失し、同時に彼女の寿命も強制的に削られる。心は制御できない。嫌だという感情を一瞬でも持ってしまった以上は絶対に避けられない』

『ヘレンの能力に限度があることを確定。死人の蘇生は不可能。怪我の自然治癒能力促進は可能。瀕死の人間の延命は可能。天候の安定化は可能。任意での選択は不可能。ただし世界に及ぼす影響があまりに大きいと、その対象の災いにしか反応できない。その間、他の細かな災いは防げない』

『空を晴らす事例と小石に躓かない事例とで、消費する生命力が同等であると判明。すなわちヘレンの寿命は力の及ぼす影響の大きさではなく、発動する回数によって左右される』

『転居後。天候の安定化に容量を割くことで、ヘレンの力の発動回数の減少を確認』

『ヘレンに降りかかる災いが彼女の力を長時間上回った場合の検証失敗。並の事例では彼女の力を上回れない、もしくは彼女が諦めることで収束する』

『ヘレンと私の子供が生まれる。どうすればいい』

『本来ヘレンの力は女神に向けるものであった。お母様に言い聞かせてもらっていたとの供述。真龍派の統制者が何を考えているのか不明。彼女に祝福と称して生命を削る呪いをかけている事実から統合するに悪意を持った行動の可能性』


 …何が何だか分からねえ。

 もっと読みやすく書いてほしい、マジで読みづらくて敵わん。

 とにかく、ヘレンには不思議な力があって、それは本人の意志ではオンオフできなくて、寿命と引き換えに不運を回避するってので合ってる。はず。

 多分。

 そして、先に読んでいた「聖女の子供この世界で生きられるか問題」と合わせると。


「…私の子供が、世界に存在できる魂の容量数が足りなくて死産になるはずだったのを、ヘレンの力で先延ばしにしている」


 それに加えて、


「でもヘレンの力でも限界がきてる。このまま呑気に待ってても時間は解決してくれない。下手すりゃ私の子だけじゃなくヘレンも死ぬ」


 私は項垂れるロバートを見つめて、問いかける。


「それで、合ってますか」


 当然返事はない。

 でも、肯定されている気がした。


 正直、よく分からない。小難しい話は毛嫌いしてきた。どういう理屈で原理なのかさっぱりだ。

 けれど、納得はいった。


「馬鹿だなあの人…」


 ヘレンが泣いて謝った理由。自分の力が及ばないせいで、私の子を元気に生まれさせることができなかった。自責の念が強いなんて言葉じゃ足りない。狂気だ。

 でも今まで大体のことが自分の思い通りになっていたなら、そういう人生を送っていたら、そんな考え方にもなるのかもしれない。


 彼女は、私の子を助けようとした。

 私の子が動かないのは、ヘレンのせいでもフレディのせいでもなかった。

 それが分かれば十分だ。

 女神の言ってたこと?そんなこと知るか。あんなぽっと出の上から目線の女とロバートの手記だったら流石にロバートを信じるわ。

 なんだかんだ、私の雇用を認めて結婚も出産も支援してくれた人なのだから。




 そうして私は決意した。

 この世界の魂の数が限度に達しているから子供が生きられないなら。

 聖女がいなくなれば空きができるのなら。

 私が死ねば、解決するはずだ。


 今から私は、飛び降りてこの世に別れを告げる。

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