「5」
麓の村に戻ってきた。
ハリーと再会してからすでに数週間が経過している。私はもっと早く帰りたかったのだが、ロバートがとにかく調子が悪くて速度を上げられなかった。
あの家に向かう。
そこに、ハリーはいた。
この間見た時と同じ、少女と視線を合わせて何か話していた。傍らにはあの女もいる。
私は堂々と彼らの前に近寄った。
「ハリー」
声をかければ、驚いたように彼が振り返った。女も驚いた後に首を傾ける。娘は私を見た途端、眉を逆立てた。
「帰ろう」
「やだ!」
答えたのは、娘だ。
お前には聞いてねえんだよ。
「ハリー、見て、もう大丈夫だから、私綺麗になったから、もう苦しまなくていいから」
「やだああああ!」
うるせえ。
「やめなさい、モニカ!失礼でしょう、静かにしなさい」
声も綺麗とかどうなってんだこの女。
娘は涙目で母親を見上げ、その足に縋り付く。
「やだ…やだあ」
「ごめんなさいね、お気を悪くしたでしょう。それで、その…あなたは、どちら様でした?」
「この前会ったと思うんですけど」
「えっ?」
ああ、そういやこの前仮面被ってたしな。
人間って初対面の人に特徴的なパーツがあるとそれを重点的に記憶するから、メガネを外したら誰か分からない、なんてことがあると聞くが今回もそれに当たるのだろう。
「この間はどうも石で叩こうとしてすみませんでした」
「あっ…ああ…」
気まずそうに女が目をぐるぐると泳がせる。ハリーが短く息を飲み、私をじっと見つめてきた。
そうだよハリー。私はこのために戻ってきたんだ。
意識的に可愛く見えるように笑顔を浮かべるなんて初めてだ。私は渾身の顔でハリーに笑いかけた。
…あれ?
反応なし?
頬を赤らめるとか、目が潰れそうになって視線を逸らすとかさ。
ハリーは私をまじまじと見てくる。真顔で。
いやいやおかしいだろ。
バカ男に好かれたくないから仏頂面でいた頃とは違って。
可愛さを前面に押した私の顔だぞ?
狂信者や既婚者やバカ女相手ならともかく、普通の男なら反応しよう?
あれ?
あれ…?
なんで?
なんでって、決まってるだろ。
ハリーは、顔なんて気にしないからだよ。
とっくに分かっていたことじゃないか。
それなのに、どうして私は。
「あっち行っちゃえ」
「モニカ!」
「あっち、行っちゃえ…」
娘が泣き出す。女は叱りつつも私から視線を外さない。例え今この瞬間にこの異端者が襲いかかってきても絶対に娘は守る、みたいな挙動。
おかしいだろ。
「…あなたには、本当に、申し訳なく思っております」
「あ?」
急に女が謝罪を口にした。
「勿論、私とこの方に不義な関係などありません。ただ…娘が、非常に懐いてしまって。この方に、亡き夫に似ているところを見出してしまったものですから…」
「はあ」
それでパパ呼びするもんかね。
お前の娘おかしいんとちゃうん?
「別にいいです。ハリーを返してくれれば」
「それは、勿論」
「パパの名前ハリーじゃないもん」
「モニカ」
今度は諭すような呼び方。
けれど娘は黙らず泣きべそで言う。
「もうパパと会えなくなるの、やだ…」
「また会えるよ」
ハリーが口を挟んだ。
は?
「大丈夫、またいつか」
「いや会わないでしょ何言ってんの。お人好しにも限度があるからやめてくれないです?なんでハリーが家族ごっこに巻き込まれないといけないの?」
私は慌てて割って入る。いくらなんでもそれは親切にし過ぎだ。確かに同情するべきところはあるだろう。三歳か、四歳くらいの女の子が父親を亡くして寂しいのは理解できる。が、それは違うだろ、ハリーにはもっと優先することがあるだろ。
「ごめん。アンの言う通りだから、もう会えないよ」ってハリーなら言うだろ。
言えよ…。
なんで、そんな目で私を見るんだよ。
「アンジェさん」
「え?」
「辛い思いをさせて本当にごめんなさい。でもどうか、この子の前では、話を合わせてもらえませんか…」
高みから小声で頼んでくる。
それどころではない。
なんて、呼んだ?
「表面上であっても平和的に別れたいんです。瀕死だった自分を救ってくださった恩を無碍には…」
「なんでそんな喋り方なの」
「…ごめんなさい、記憶、早く取り戻せるように頑張りますね」
え?
…記憶?
記憶、喪失?
「なんで」
そんなの、聞いてない。
「…アンジェさん?」
私の様子が変なことを悟ってかハリーが気遣わしげな声を出す。
そりゃ、私だって変だとは思ったよ。
身重の私を放って自分一人綺麗な女の家になんてことないように世話になっていた時点で。
私があの時、女に殴りかかった時に。
あのハリーが、こんな私を何よりも大切にしてくれたハリーが、いくら恩人とはいえ私よりぽっと出の母娘を優先した時点で、嫌な予感はしていた。
でも、何もかも忘れてしまっているなんて、思わないじゃないか。
こんな。
全部失ってしまっていたなんて、思わないじゃないか!
私はハリーに背を向けて駆け出した。
向かうのは馬車、ロバートのところだ。
剣幕にビビり倒す御者を無視し中に飛び込む。
「なんで教えてくれなかった!」
ロバートは知っていたはずだ。障害未遂を犯した私を隔離した後に、ハリーと話をして、彼が記憶喪失だということに気づいていたはずだ。
それなのに何故こいつは沈黙を貫いた。私を泳がせて何がしたかったんだ。
「なんとか言えよ!」
ロバートは何も答えない。
女神と会ってから、ロバートは一言も喋っていない。ただ虚ろな目で虚空を見つめている。
私が襟元を掴んでガクガク揺らすと姿勢を崩して人形みたいに床に両膝をついた。
「役立たず!」
罵倒しても何も答えない。
「なんで私がこんな目に遭わなきゃならないんだ…!」
生まれた子は死んでないけど、生きてもいなくて。
愛してくれた人は記憶喪失になって、私を覚えていなくて。
せっかく綺麗に戻ったのに、ハリーが見てくれないんじゃ何の意味もない。
わざわざ王城にまで行ったのに、何の意味もなかった。
あと、私ができることと言えば、フレディを殺すこと。フレディを殺して、本来の運命に戻して、私の子の生を取り戻すこと。
もしくは…。
私は目の前の男を見下ろした。
ヘレンの夫。私の子をあんな状態にした女性とその息子の、大切な人。
私は、子の人生を奪われた。何の因果か旦那もぽっと出の女と娘に寝取られた。
私は被害者だ。
やられたことを八つ当たりでやり返しても許される立場だ。
私はロバートの端正な顔を眺めながら彼の首元に手をかけ、肌に触れた。
「アン!良かった、無事に戻ってきてくれて…」
雪の降る中、仮面をつけた私の帰りに、家の前でウロウロしながらほっとした面持ちで出迎えてくれたのはリオだ。
苦い記憶が蘇る。心配してくれたリオに対して「無責任」だの「キモい」だの言いやがった記憶が。
「あ…そ、その、リオさん、この前は、ほんと、酷いことを言ってしまって、本当にすみませんでした…」
「ううん、気にしないで。私が悪かったんだよ。一番辛いのはアンなのに、無神経だった。イラッとするのも無理ないよ。クリスももう怒ってないから。こっちこそごめんね」
「あなたが神か…?」
「一号てめえええええ!なに勝手に親方を置いてってんだ!ふざけんな!」
和解の会話を、ショタの怒号が遮った。
「おかげで風邪引きそうになったんだぞ!おれがせっかくハリーを見つけてやったってのに」
「そう!ハリーね、今ちょっと村の方に出向いてるんだけど、心配しないで、すぐ戻ってくるから!」
フレディの不満を乗っ取ってリオが困った顔で笑う。
かつて置き去りにしたフレディが無事にここにいるってことは、屋敷の面々もハリーの件を知っているわけで。
彼女は本当に気遣いの人だ。私は頷いて告げる。
「会いましたよ」
「えっ!?そ、それで、い、一緒には帰ってこなかったの…?」
「ええまあ、向こうで大事な人たちに引き止められてるようでしたし」
そう言うと、リオはキッと表情を改め「アン!」と私の肩を掴んできた。
「大丈夫だよ…ハリーは、記憶をなくしちゃったけど、きっと戻ってくる。ここで一緒に、幸せに暮らしていれば、きっと…」
手の力が弱まった。リオの黄緑色の目が潤んでいる。ぎょっとする私にごめんと囁き、リオはぽろぽろ涙を流し始めた。
「ごめん、ごめんね、アンだって記憶が戻ってないのに、こんなこと言っても無責任だよね、ごめん」
だから泣いて謝るのはやめれって。
というかそうだった。私、記憶喪失設定だった。
まさかこんなところでしっぺ返しを喰らうことになるとは…。日頃の行いの賜物だな。
それと、何気なくリオが「私もハリーの記憶喪失を知っている」前提の口振りをしたな。
てことはやっぱりロバートも勘違いしてたのだろう。あの時は、私がハリーの記憶喪失を知った上で「記憶のない夫を誑かした女」に襲いかかったのだと。
でなければ、人を石で襲っておいてお咎めなしで済むものか。
態度が悪くても優しいことに変わりないのだ、ロバートも。
そのロバートを、私はリオとフレディの前に引っ張り出した。
フレディもいるのは想定外だが、仕方ない。いずれバレることだ。
それまで無視され膨れっ面になっていたフレディも、父親の異変を感じ取って流石に狼狽し始める。
「と、とうさま…?」
ロバートは答えない。
リオが顔色を変え、フレディはおろおろと父親の袖を引っ張るが、無反応。
「スタンリーを呼んでくる」とリオが即座に動いてくれて、すぐに医者がやってきた。
「ロバート…」
旦那の名前を呼んでスタンリーは絶句した。彼のこんな姿を見るのは始めてだ。
しばらく間を置いてから「女神に会ったのか」と問いかけてきて驚いた。
「分かるんですか」
「前にも同じような奴がいた。式典の際に降臨した女神の一声を聞いて発症してな。…こいつは、直に会ったのか?」
「会ったというか、私と話してるところを聞いてただけですけど」
そうか、と首を縦に振り、悲しそうにスタンリーは呟いた。
「女神と長時間相対して正気でいられる者はいない。どうしようもなかったんだ」
その発言を、フレディは呆然と立ち尽くしながら聞いていた。
ロバートが正気を失った。
クリスは、私の帰宅に反応する前にその事実を知らされ、「…………君たちは何を言っているんだ?」と掠れた声を出した。文頭にたっぷり間をとっている辺り、珍しく思考停止していたのだろう。
無理もない。
クリスにとっても、リオにとっても、ハリーにとっても。ロバートは住み込みで働かせてもらっている大切な主人だ。フレディにとっては尊敬する父親だし、スタンリーにとっては気の合う研究仲間。
そして何より、彼女にとって、ロバートはかけがえのない存在であるはずだ。
ヘレンは、まだ病床に伏していた。
具合は、まるで良くなっていないようだ。
私はわざと音を立てながら入室し、彼女が起きているのか伺った。
「…だ、れ…?」
「ただいま、戻りました」
「…アン…?」
途端に、かつてのように彼女は起き上がろうとする。私はそれを手で留め、「寝ててください」と布団を掛け直す。
「…私の言葉、分かりますか?」
「分か、るわ」
会話は成立しているらしい。
「アン…どうか」
「大丈夫です」
「え…?」
「もういいんです。もういいんですよ。もう、自分を責めないでください」
「でも…わたしは…」
真っ白な顔で、ずっと下がらない熱にうなされ、それでも私の心配をしようとする彼女に、私は首を振って告げた。
「責められるのは私の方です。あなたのご主人は…ロバートは、正気を失いました」
「……え?」
「私のせいです。私が王都に行かなければ、こんなことにはならなかった」
「…どういう…?」
「ごめんなさい、ヘレン…」
状況を飲み込めていない彼女を置いて、私は部屋を出る。
窓の外では白い雪が絶えず降り続いていた。