「2」
出産から数日。
清められた子供は私の寝室に寝かせられた。
この子のために用意されたベビーベッドの上で、息はしていないが決して冷たくもならないまま、横たわっている。
リオとクリスは、私と子を大層心配してくれた。
「いきなり旦那様が目の色を変えて飛び出していくから、何かと思ったよ」
「気落ちするなよ、アン。君は何も悪くないんだからな」
「そうだよ、アンは何も心配しなくて大丈夫だからね。旦那様とスタンリーが、解決策を探ってくれてるから」
「でもまさか、こんなことになるなんてな…奥様も体調を崩されて、ハリーも不在の時に」
「クリス!」
急に、リオが声を荒げた。
咄嗟に子供の方を見るが、反応した様子はない。
少々がっかりしつつ、それどころではない事実に息を飲む。
「…ハリーが、不在?」
…だから、最近クリスの姿が見えなかったのか。
私にうっかり秘密をバラすと大変だから。
リオに睨まれ、クリスは慌てて口を手で塞ぐがもう遅い。私は知ってしまった。
「…ハリー…いないんですか」
「…ごめん。出産に影響があると悪いから、隠すことになってたんだ。でも、もう隠せない、ね…ハリー…ハリーがね」
行方不明なの。
目の前が、暗くなるようだった。
数週間前、町に出かけたハリーは、それきり帰ってくることはなかった。
ハリーが三日経っても戻ってこずこれはおかしいとクリス、ロバートが町まで探しに行ってくれたが、見つからず。
未だに、何の続報もない。
そんな状況の中で、私の出産。確かに、隠さないと駄目だろう。ただでさえ私は精神状態が悪いのだから。
リオとクリスを責めるべきではない。
それが正しいとは分かっていても、どうしようもない場合もある。
「…何なんですか、隠すなら徹底的にやってくださいよ。中途半端なんですよ。私をどうしたいんですか?」
「うん…ごめんね。でも、大丈夫だよ、きっとそのうち」
「そのうちってなんだよ」
こいついつも根拠のない気休めしか言わないよな。
怯んだ様子のリオに、私は畳み掛ける。
「無責任なこと言わないでもらえません?そのうち帰ってくるって?あのハリーが行方不明なのに、のうのうと待ってたらひょっこり戻ってくるって?そう仰りたいんです?」
「あ、う…そう、だよね、ごめん」
「ていうかその顔やめてもらっていいですか、露骨に傷ついたみたいな顔。気分悪いんですけど」
「っ…」
唇を噛み締め、目を伏せてじっとしていたリオは、更に深い傷を負ったみたいな表情をする。
あのさあ。
「ていうかこの際だから言わせてもらいますけど、二年も一緒に暮らして薄々気づきましたけどあなた男ですよね?カマホモ属性のくせにか弱い女の子面して恥ずかしくないんか?キモくない?」
リオが息を飲んで目を見開いた。次の瞬間には、手で口を塞いでいたクリスが怒号を上げていた。
「さっきから何を訳のわからないことを言っているんだ君は、今回の件と何も関係ないじゃないか!僕らに落ち度があっても、そこまで罵倒される謂れはないだろう!どうしてわざわざ傷つけるような言い方をするんだ、悪意があるように感じてしまうぞ!」
「割って入るの遅いでしょ。いつも絶え間なく喋ってるのに都合が悪い時は黙るなんて都合が良いですね。沈黙は金って格言をご存知?」
憤慨して言い返そうとしたクリスを「もう、いいよ」と俯いてリオが遮った。
「リオ!君はこのまま引き下がるつもりか!?まだ僕らは疎通が取れていない、ここで引いたら」
「いいから」
クリスの袖を引っ張り、無理やりに扉の近くまで連れ出す。長い髪に妨げられてどういう表情をしているのか窺い知ることはできない。
「行こう」
消え入るような声で呟き、リオは私を一瞥もせず、クリスはまだ納得のいっていない様子で喚きながら、二人は私の部屋から去っていった。
一気に部屋が静まり返る。
なんであんなに暴言を吐いたんだろう、とぼんやり考える。答えはすぐに見つかった。
これまではハリーが私の捌け口になっていてくれていたからだ。
世界、環境、他人、あらゆるものに対する私の不満を尽きるまで聞き届け、否定せず受け入れ、最後には「でも君は周りの人が優しいことを知っている」と上向きに着地させてくれていたから。
だから溜め込まずいられた。
ハリーがいなくなってこの数週の間、私は蓄積されていく不安をずっと一人で持て余していた。それが爆発したのだ。
…仕方ないことだ。一番辛いのは私なのだから。
しんとする部屋には私と、動かない子。
どうして、こんなことになったんだろう。
どうしてここにハリーはいないんだろう。
彼がいれば、きっと私を慰めてくれるのに。
大丈夫だと思っていた。私が駄目でも、ハリーがいれば、周りの有能で優しい人たちがいれば、子供を産むのに何の問題もないと。
でも、ハリーはいない。子供は時が止まったように動かない。
クリスとリオは私から離れた。
スタンリーとロバートは…様子がおかしい。
そう、ヘレン。ヘレンだ。彼女に何が起こったのか?
あの時、赤子と私を繋ぐ臍の緒が切り落とされた瞬間に、彼女に異変が起こった。
その後スタンリーとロバートの顔色も変わった。
彼女は、今も部屋で寝込んでいるらしい。
一体、何がどうなったというのか。
焦燥に駆られて私はベッド側の椅子から身を起こすと、ヘレンの寝室に向かった。
彼女は、いつも綺麗な銀髪を乱して荒い息を漏らしながらベッドに突っ伏していた。
「…奥様、大丈夫ですか?」
「…ア、ン?」
「自分の名前は言えますか?」
「アン…」
会話が成立してねえ。
けど、意識はあるらしい。
少しホッとしたところで、急に彼女が身を起こした。そして、私に対面しようとして態勢を崩し、私は慌てて彼女を抱き支える。
彼女の顔は異常に白く、体は異常に熱かった。
「ちょ、無理しないで」
「アン…ごめんなさい、ごめ、んなさい…私の、せいで…私のせいで、貴女の子供が…」
私のせいで?
「…どういう意味ですか?」
「私の、おまじないが…私が、こんなだから…ごめんなさい、ごめんなさい、許して、助けて、お母様…」
うわ言のように彼女は繰り返す。いつもの落ち着いた彼女とは違い、幼児みたいに咽び泣いていた。
「しあ、幸せになってほしいのに…どうしても、こんな風に…なって…」
どういう、意味だ。
「…あなたのせいで、私の子供が、あんな風になったんですか?」
「ごめんなさい…ごめんなさい…」
否定しないのか。
でも、彼女のせいだと決まったわけではない。彼女が望んでそうなったわけではないかもしれない。
ヘレンの、力。
心当たりは、ある。
この屋敷にいると、私の怪我は、顔以外何の後遺症もなく、回復した。
女神教の兵士に襲われた時、ヘレンが現れた途端に兵士に不運が襲いかかった。
この土地は、寒冷地のはずなのに、雪も降らず、雨も降らず、常に過ごしやすい安定した気候を保っていた。
屋敷…ヘレンの居場所から少し離れれば、異常に雪が吹き荒れていたのに。
ヘレンは、うなされるように泣いて謝っている。一児の母、フレディの母親とは思えないほど、ボロボロの姿。
…あれ。
もしかして、そういうことなのか?
「…本来、フレディが死産になるはずだった?」
点と点が繋がる感覚。
屋敷は雪が降らず、その離れた周辺に豪雪を押し付けた。
兵士に不運を押し付けた。
…私に、私の子に死の運命を押し付けた。
「ねえ、どうなんですか、ねえ、ヘレン!あなたのせいであの子は」
がくがくと揺らして私の仮説が正しいのか問いかける。彼女は、ぐったりと顔を伏せながら、細い声で答えた。
「ごめん…なさい…」
否定、しなかった。
ハリーがいない。
つまり、私の味方がいない。
屋敷の人たちは、本当に優しい。
けれど、私とヘレンだったら、ヘレンを選ぶ。付き合ってきた時間の長さがそれを物語っている。
誰も頼れない。
私がこの子を守らなければならない。
ハリーがいない。せめて私が味方でいなければ。
身代わりにされかけているこの子を守らなければ。
フレディを殺せば、この子は元に戻るのだろうか。
そんな前向きな考えが浮かび、私は屋敷中を巡ってフレディを探す。
見つからない。
代わりに、ロバートに見つかった。
「何をしている」
「あの子は私が守る」
そうしたらせめて母親としての自信が持てる気がする。
「…錯乱しているのか。先日は…すまなかった。無神経が過ぎた。だが心配することはない。時間はかかるが、子供は必ず助かる。約束しよう」
「あなたに何が分かるっていうんですか」
「本来聖女は一人である。だが今代は二人召喚された。それに伴い、贄に召されるものの数も倍になっていた。すなわち…」
いきなり何意味分からないこと言ってんだ。
頭良さそうな話して私を誤魔化そうとしているのか?
「知らないけど、助けるってんなら早く助けてくださいよ。今、すぐに!」
「…そうだな。では、共に行くか?」
「はあ?」
聞き返した私に、ロバートは淡々と返答した。
「王都。もう一人の聖女の元へ」