「1」
私がこの世界に来てから二年が過ぎた。
ハリーと結婚してからは、一年。
おそらく年齢は十九歳を超えている。誕生日がいつなのか暦が分からんので正確ではないが、まあいい。
問題はそこじゃない。
この度、神崎天使改めアンは、新たな生命を宿しました。
つまりはご懐妊です。
これマジ?
やることやってんだから当たり前だろと言われそうだが何より私がびっくりしている。
性行為一回で子供って孕むもんなんすねえ。
ひょっとしてハリーは竿役のハーフかなんかか?
冗談はさておき。
この事実が発覚した時、私は背筋が寒くなる感覚を得た。
嬉しいとか、嬉しくないとか、そういう次元ではなく、ただ頭が働かなかった。
私の母親は、私に興味がなかった。
実の父親が誰か知らないが、どうせ行きずりの男とかなのだろう。母親は私に自分のことを何も教えてくれなかった。
私は母親に兄弟がいるのかどうかも知らない。
幼い頃から私の世話をしてくれたのは、主に父親だと思い込んでいた細面の男で、そいつも私が思春期に入る時にはいつの間にか消えてしまった。
私は温かい家庭というものに憧れ、憎み、いずれ嘲笑するようになった。
その私が理解のある彼くんと出会い、結婚した。
そして子供を作った。
かつての私が知ったら「キッッッモ」と吐き捨てるだろう。
いや、分からない。
もしかしたら今もそうかもしれない。
私は、自分がこれから母親になるという自覚がない。
けれど。
「ありがとう、アン」
ハリーは、涙を流して喜んでくれた。
「うわああああああ!!おめでとうアン!!」
「どどどどうすればいいんだ、僕は幼児の世話をしたことはあるが産婆の経験はないんだ、分からないどうすれば」
「落ち着け、医者がここにいるだろうが」
リオは大手を振って祝福し、クリスは狼狽し、スタンリーは呆れてたしなめた。
「…となれば部屋を一階に移すか。妊婦に階段の上り下りは危ない」
「子供…お前に…!?」
「おめでとう、アン。何かあったらすぐに言ってね。何でも助けるわ」
ロバートは建設的な意見を口にし、フレディは驚愕し、ヘレンは力強く約束してくれた。
そう。
この人たちがいれば、何の問題もない。
私が役立たずでも、彼らは私を献身的にサポートし、子供を健全に導いてくれるだろう。
何も心配は、いらない。
私はもう、彼らの前であまり仮面を被らないようになっていた。
彼らは、私に危害を加えない。それが信じられるようになった。
私は、彼らを信じている。
最近天気が悪い。
基本的に晴れか曇りが多いこの地にしては珍しい光景だ。
まあ寒冷地だしちょっと離れれば豪雪地帯になるわけだから、むしろこっちの方が違和感はないのだけれど。
寒いのは勘弁してほしい。
私の経過はというと、順調だ。いやマジで。世の中に出回っているマタニティブックが嘘ついてんじゃねえのってくらい、何の障害もない。
つわりもないし、マタニティブルーもない。
マジで何もない。
私には妊婦の才能があるのかもしれない。妊婦の才能ってなんだよ。
日に日に大きくなるお腹と、笑顔が絶えない周囲の人々を見ていると、嬉しいような気分になってくる。
うん、大丈夫。だって私一人じゃないから。
きっと、大丈夫。
子供の名前は、ハリーに一任した。
天使の名を持つ私に万が一キラキラネーム遺伝子が流れていたら大変だからな。
いいの?と気遣いつつ、ハリーは任されてくれた。
子が生まれた時に初めて聞くことになっている。ちょっと楽しみだ。
ハリーは割れ物を扱うように私を大事にしている。
私が水を飲みたいと言えばすぐに注いでくれるし、肉が食べたいと言えばその日の夕飯に獣肉が並ぶ。ちょっと至れり尽くせり過ぎる。
しかし彼自身はそれをとても嬉しそうにこなしてくれる。私と子に貢ぐのが何よりも幸せと言わんばかりの態度だ。
この間なんか。ハリーがちょうどお腹に手を当てている時に子が蹴ったらしく、滝のように感涙していた。なんとも情け深い人である。
ハリーが町からたくさんの物資を買い込んできてくれた。私の好きなお菓子、子供のおもちゃ、母子お揃いの洋服。
私がお礼を言うと、ハリーは私を抱きしめて「こちらこそありがとう」と伝えてきた。
マジで、そんなに嬉しいのか。まあ、ハリーは家族を皆殺しにされてる悲しい過去があるから感動もひとしおなのかもしれない。
また買ってくるね、という優しい声に、私は半笑いで頷いた。
リオは「栄養いっぱいとってね」とご飯を大量に提供してくれる。
クリスは「何かあったら危ないだろう!?」と私が移動しようとするごとに監視してくる。
スタンリーには何から何まで世話になっている。今のところ私はスタンリーの「あまり食べ過ぎないように」「軽い散歩も続けなさい」「寝る時は横向きになること」などという指示に従っている。
ロバートは宣言通り私の寝室を一階にしてくれた。おかげで食っちゃ寝が楽になった。
ヘレンは何かにつけて気を遣ってくれる(経験者はひと味違うらしい)のと、お裁縫に目覚めている。子供が男でも女でもおかしくない服。多様性の最先端だな。
フレディは、私に一切ちょっかいをかけてこなくなった。どうやら母親にきつく言い含められたらしい、珍しく落ち込んでいた。しかしたまに話しかけてきては「こいつ本当に妊婦か?」と疑わしげな視線を向けてくる。
正直、私が一番現実味を帯びていない。
だが、それでもいいだろう。私が駄目でも周りがなんとかしてくれるのだから。
臨月が近づいている。
この世界にはレントゲンがないので子供の性別は未だに分からない。
ハリーはどちらでも嬉しいと言っていた。父親の鑑だ。
けど、私は女の子じゃなければいいなあと思う。
生まれてくるのが、傷を負う前の私―――母親にそっくりな綺麗な顔をした女だったら、私はどうしていいか分からない。
だからせめて、男だったらいいなと思う。
でも、私は母親とは違う。
だって私は、あの人のようにはならない。
生まれてきた子供を放っておくようなことはしない。そもそも私が放置しても周囲の人たちが構ってくれるだろうし。
私はあの母親よりも、まともだ。あの人よりは、いい親になる。絶対に。
それは、揺るぎのない事実だ。
ハリーがまた町に行ってくると言っていた。
お土産を楽しみにしていて、と手を降って出かけていった。
しばらくして屋敷に戻ったようだが、ひどい風邪をひいてしまったので私とは隔離されている。
「心配しなくていいよ。きっとすぐに治るから。でもそれまでは会えないの、我慢してね」とリオが至極申し訳なさそうに報告してくれた。それに、クリスの姿を一切見かけなくなった。
不安が、心に染み込むようだった。
その日は雪が降っていた。
私がこの屋敷に来てから初めて見た、降雪だった。
私は破水していた。処置が遅れることもなく、スタンリーがすぐ医務室で出産の準備を始めた。
立ち合いは経験者のヘレン。ハリーは、相変わらず体調が悪いのでここには近づけない。もう病床に伏して二週間程度になるはずだ。そんなに悪化しているのだろうか。
出産は、何の問題もなく、進んでいた。
鈍い痛みに堪えながら、私はぼんやりと「この先何があっても大丈夫だろう」と未来に思いを馳せていた。
可愛い子供を産んで、夫と一生懸命に育てて、ぐずる子供の相手をしてあげて、いつも成長を見守って、反抗されたりしても愛し続けて、笑顔の絶えない家庭を築いて、幸せな生活を送る。
くだらない幻想。けれど、実現しそうな幻想。
きっと、ここにいればそうなる。
何の苦しみもなく、平和でいられる。
子供が、出てきた。
赤い顔をして、丸まっている。女の子だ。少し嫌な気持ちになる。
スタンリーが臍の緒を断ち切った。
瞬間。
産湯を用意し終えていたヘレンが、真っ青な顔で崩れ落ちた。
「―――いっ」
私は。
それどころではなかった。
「いっ…ああああああああああ!?」
痛みが全身を駆け巡るようだった。
何が起こったのか分からない。ただひたすらに体が引きちぎれるような痛みが、主に腹部にかけて暴れ回っている。
まるで出産中のダメージが一気に放出されたかのように、私に襲いかかった。
しばらく悶え転げて這いつくばって脱力して、ようやく少しずつ回復の兆しが見えてきたところで、気づいた。
医務室は異様に静かだった。
ヘレンは、まだ床に蹲っている。どうしたんだ、一体、大丈夫なのか?
スタンリーに訴えようとして、彼が目を見開いて固まっているのをやっと知る。
彼の目線の先には、私の子供がいた。
特に、異変はない。
頭頂部に黒い髪が生えており、目は閉ざされている。全体的に体を丸めていて、赤子という字の通り肌は紅潮している。まつ毛が長い、可愛らしい女の子。
スタンリーは何を驚いているのだろうか。
私の視線に、スタンリーは一呼吸の後に子供を抱き差し出してきた。
私はゆっくり受け取る。
温かい。
ぐっすり眠っているのか、子供はぴくりとも動かない。すやすやと寝息を立て、寝息、
息?
「…息してない」
なんで?
『アンジェ』
母親が私の名前を呼んでくれたのは、一体何回だろうか。少なくとも、ここ十年の記憶にはない。
会話もなく、一緒に出かけることもなく、ご飯を食べたこともない。お金は出してくれるけど、それだけ。
ただ、幼い頃は、時折勇気を持って声をかければこちらを無言で見下ろしてきた。
どこかで見た目だった。
それが何なのか分からずに挑戦を続けて、ある日気づいた。
あれは、男からもらった花束にたかる羽虫を見た時の目だ。
それ以来、私は母親に関わろうとするのをやめた。
母親は、最悪だった。
私を愛さず、どうでもいい存在として見限っていた。
だけど。
それでも。
私は、健康だった。
五体満足だった。
偏頭痛や喘息などの持病を患っているわけでもなければ、大きな病気の経験があるわけでもない。
母親は私を、健康な子供として誕生させた。
私は、できなかった。
私はあの母親にさえも、及べなかった。
「なんで」
「分からん…こんな、ことは初めてだ。息をしていないのに、これほど温かいなんて」
はっと、我に返る。
温かい?
腕の中の子供は、呼吸をしていない。
胸に耳を当てても、心臓の音は聞こえない。
なのに、温かい。
冷たくなっていく兆しもない。
「一体、どうなっているのか…」
医者にも分からないことがあるのか。
スタンリーは額に浮かんだ大粒の汗を拭うこともなく、私の子供を見つめている。
この子は今も、生きている?
だったら何故、こんな状態になっているんだ?
「…あ、ヘレン、は」
「ヘレン?」
訝しげに私の言葉に振り向いたスタンリーは、遅れてヘレンの異変を悟った。
慌てて彼女に駆け寄り、具合を確かめ、「そうか、そういう、だから…」と早口で呟き、スタンリーは喜色を浮かべて私に告げる。
「その子は死んでいない」
「…え」
「だが、このままでは…分からん。どうにかせねば…」
さっきから何を一人で自己完結してるんだこいつは。
「ヘレンの力がここまで強いとは…」
なんだよ力って。厨二病の相手してる暇ねえんだよこっちには。
なんで私の子供がこんな目に遭わなきゃならないんだって聞いてんだ。
「相殺したのか」
別の声がした。
ドアから堂々と入ってきたロバートは私と子になど目もくれず自分の嫁の元に突撃する。そしてぐったりとした彼女の様子を見て震えた。
「素晴らしい。これでようやく…」
ロバートがヘレンの介助を交代し、スタンリーは私の側に戻ってくる。ひたすらに渋面で、怒っているのか興奮しているのか分からない。
ただ視線は私の子に注がれていて、私は妨げるように子を腕で覆った。
なんだってんだよお前らは。
「感謝するぞ、カンザキアンジェ」
いきなり本名を言われて心臓が跳ねた。
ロバートは高揚した表情で、「これでようやく進められる」と噛み締めるように言った。
何も分からない。
けれど、この二人が、ヘレンにまつわる何かで盛り上がっているのは認識できた。
ロバートは、私の子がこんな状態になっていることに対して、間接的にでも喜んでいるということも。
私は子供を抱えながら、リオとクリスが恐る恐る様子を伺いに来るまで、沸き立つ男の背中を見つめることしかできなかった。