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聖女召喚されて追放されましたが幸せになれました・後編

 私がこの世界にやってきて、屋敷で働き始めてから一年が経った頃。

 従業員の面々がサプライズパーティーを開いてくれた。

 私が怪我を全治した時にも歓迎会も兼ねて開いてくれたし、他のメンバーのお祝いごとも今まで何回かあったし、そういう催しが好きなのかもしれない。

 まあサプライズつっても開催の数日前にはほとんどの人がよそよそしい態度になるから丸分かりなのだが。


 生活は、平穏だ。

 誰に嫌われることも、迫害されることも、存在が迷惑みたいな顔をされることもなく。

 今のところ何の支障もない。


 この世界にやってきた当初。

 私はとにかく帰りたがっていた。

 家に帰って布団に潜ってスレ立てしてお前らに報告してきゃっきゃしたかった。

 今は、まるで思わない。


 帰りたくない。

 子供が引きこもりになっても無関心な、ただ血が繋がっているだけの母親がいる家も嫌な思い出でしかないし、

 あの人…大好きな父親だと思っていた男も、今はもう、私を捨ててどこかに消えたどうでもいい存在だとしか思えない。

 本当に私はどうして、あんな奴の帰りを今か今かと待ち望んでいたのだろうか。


 理由は単純。

 私に無償で優しくしてくれたのが、あの男しかいなかったからだ。

 いや、正確には、無償で優しくしてくれているのだと思い込める態度をしていたのが、あの男だけだった。

 この屋敷の人々に会って、分かった。

 本当に優しい人というのは、ここの人達のことを言うのだ。

 あの男は彼らの足元にも及ばない、ただ幼い私を甘やかしてお姫様扱いして機嫌を取って、上っ面を取り繕うのが上手いだけだった。

 …外面を取り繕うのに必死って考えると私みたいですね。

 いやいや、別に血縁でもねえし、一時期一緒に暮らしてただけの赤の他人。似てるわけなかろう!


 そんな前の世界の話はどうでもいいんだよ。

 どうせ帰ることもないし、悟った今となっては未練もない。何せ友達も一人もいなかったからな!親戚・近所付き合いもないし一人っ子だし引きこもりだし長く関わりのある生身の人間といえば母親くらいしかいなかった。

 その母親も私がいなくなってせいせいしているだろうし、また男漁りでも再開してるんじゃなかろうか。


 前の生きがいといえばネットを見ることで、アニメも漫画も批評だけ見て乗っかって愚弄する程度しか触ってこなかったし、インドアの趣味に熱意を注いでいたわけでもない。 

 毎日をのうのうと生きていた。

 生きてても死んでても何の影響もないような人生だった。

 だから未練なんかあるわけない。


 うん、どうでもいい。

 私はこの世界で平和に生きていくのだ。




 一年経ってもハリーと私の仲は良好だ。

 彼は私を尊重してくれる。付き合ったからと言って特にやりとりが大きく変化したわけではなく、ほどほどに良い距離を保っている。

 男は下半身に脳を支配されているってのは前の世界だけらしいな。こっちの男は実に紳士だ。

 身体的な接触をしたことないけど、一緒にいるだけで嬉しいし落ち着く。愛って本来そういうもんなんじゃない?


 ハグ?事故った時以外経験ないよ。

 キス?経験ないよ。

 性交?経験ないよ。

 当たり前だろうが、ハリーをそこらの獣と一緒にするな。

 私はむしろ感銘を受けているのだ。これこそ真実の愛ってやつじゃんか。

 正直私も性欲で物事判断したくないしね。

 私の性欲の強さ?まあ普通じゃないっすか。少なくともやりたいとは思えない。健全な女子高生です。

 つっても一年経ったからおそらく誕生日も過ぎてるしもう十八歳で基準はクリアしてるんだけどね、基準はね。


 何にしても、このまま時を過ごせればいいと思っていたのだが。




 一周年パーティーから数日。

 私は日課として、庭でフレディの勉強を見ていた。

 勉強を見るっていうのは「成果を見る」とか「間違っていないか確認する」とかいう家庭教師的な意味ではなく、そのままの意味だ。

 私はこの年月で文字の読み書きが(私目線)完璧にできるようになっていた。

 基本の四則演算もマスターした。

 教育課程を達成した時、教師役のフレディは「もうお前に教えることは何もない」とテンプレな送辞をしてくれた。

 私は学舎を巣立った。

 そして、フレディの次なるお勉強に付き合わされるハメになった。


 私よりも奴の方が賢いのは残念ながら事実だ。何せ私が書き取り計算に苦戦してる間に、奴はこの世界の地理や社会科学、生物学に手を出していたのだ。

 分厚い教本を手に、自主学習に勤しんでいる。

 父親に似て、一旦手をつけたら極めないと気が済まない性質らしい。

 私が卒業した後も、奴は庭での勉強会を継続した。


 フレディは成長期のせいか、日々ぐんぐんと身長が伸びて生意気にも私に追いつこうとしている。

 父親が割と長身だからそれに準じようとしているのかもしれない。

 たまに体を動かして遊んだりもするけれど、私がハリーと付き合って以来、その回数は目に見えて数を減らし、奴はあれだけ嫌がっていた勉強に主軸を置くようになった。

 メイドの私はそれを一日生暖かく見守っているというわけだ。


「おい、フィネイから見て南西の国名は?」

「みそスープ」

「ふざけたことばっか言ってんじゃねー」


 たまにフレディはこうやっていきなりクイズを出してくることがある。

 大体分からないので適当に答えているが、フレディはそれを起点に「だからお前はダメなんだ」としたり顔でぐだぐだ言ってくる。

 おそらくストレス解消法なのだと思う。

 そしてストレス解消だとしても私が馬鹿にされる謂れはないので煽り合いが始まる。


「そんなん自分で答えたらいいじゃないですか、そんなことも分からないんですか?」

「お前がサボってないか定期的に確認してやってるんだよ、少しは感謝しろ」

「不思議ですねー私そんなこと頼んだ覚えないんですけどね、ひょっとして幻覚でも見てらっしゃる?」

「毎日夢見てんのはお前だろ、ハリーが甘いからってつけ上がりやがって。この前なんかハリーに町まで乳菓子買わせに行ったくせに結局忘れて腐らせたんじゃねえか、罰当たりが!」

「なんでそんなこと知ってんですか!?あ、あれは食べるのが勿体無くて取っといたら悪くなっちゃっただけで悪意があったわけでは…!」


 それに本当は私も町に行くつもりだった。初めての外出、ウィンドウショッピングってやつだ。

 まあ結局は人がいるところに行くのが怖くて断念したのだが…。

 ていうかこのことはハリーと町に詳しいリオ、許可をもらったロバートしか知らないはずなのに何故…。


 ちなみに私はまだ、あの女神教の兵士に襲われハリーが声を取り戻した一件以来、屋敷から足を伸ばしていない。

 細々した生活必需品とか娯楽の品とかは主にリオが付近の町へ買い付けに行っているのだが、それに同行する度胸はなかった。

 食料品やら調度品は屋敷まで運送されてくるもの(ロバートの実家のツテを使って定期契約しているそうだ)と従業員が町に買い出しに行くものの二種類に分かれているが、後者のリストを制作するのがクリスで、実際に購入の手続きをしているのがリオだ。

 何故クリスがやらないのか…?と思ったら、クリスは口が軽すぎるから商人には会わせられないらしい。そりゃそうだ。

 

 とにかくお家の買い物事情はそんな感じになっている。

 ハリーも買い物に行くことは滅多にないが、この間は私の希望ということで気安く請け負ってくれた。

 おありがたくて涙が出ますよ。


「…何で親方はそれを知っていらっしゃるんですか?」


 まあ十中八九リオに聞いたんだろうとは思うが、一応聞いてみる。


「ハリーに聞いた」

「えっ」


 予想外の答えに思考が止まる。

 えっ…ハリーがフレディにそんな話をしたの?どういうこと?

 ハリーは言わずもがな口が固い。そんな愚痴みたいなことを誰かに話すはずはない、と信じていたのだが。


「お前に食わせられなくて残念だってよ。今度はもっと美味しいもん買ってきてやるって意気込んでたぞ」


 なるほど、惚気か。

 良かったー!死ぬかと思った。

 あんな人にすら陰で不満を漏らされてたらと思うと、心臓が止まりそうになりますよマジで。


「しかしお前…ほんとろくでもないよな」


 自覚してるからやめてほしい。


「…なあお前、一回でも自分からあげようと思ったこととかあるのか?」


 …どういう意味だ?

 問い返す前にフレディの視線が私の後方に投げられた。

 振り返ると、ハリーの姿があった。


「どうしたハリー」


 「夕飯」と書かれたメモを彼が掲げる。もうそんな時間になっていたのか。

 今日は激しい運動はしておらず、フレディの服は汚れていない。風呂も着替えも必要なさそうだな。

 このままダイニングに直行させよう。


「じゃあいってらっしゃい親方」


 フレディを父ロバートと母ヘレンの待つ食卓まで送り、私はハリーと一緒にフレディを見送る。

 この一家団欒が終わってから、私達従業員の食事の時間となる。


「……」


 ハリーの目線が私の頬に突き刺さる。何か言いたげだ。


「どうしました?」

「…楽しそうだった」


 珍しい、喋った。

 しかし楽しそうって何のことだ。

 言葉の内容とは裏腹に何故かハリーは悲しそうだった。眉の端が下がり目が床を向いている。


「私また何かやっちゃいました?」


 恐怖心が刺激され揺れそうになる声を抑えておちゃらける。

 何だろう、何なんだ、はっきり言ってほしい。いや嘘、やっぱオブラートに何重も包んでほしい。

 とりあえず、ハリーを連れて二階に行く。立ったままでは落ち着いて話もできない。


 ハリーの部屋に入る。彼の部屋は私のと同じ構造(というか従業員皆同じ)だが、私の部屋より整理が行き届いている。要するに脱ぎ捨てた服とか書き取り練習の紙束とか、そういう無駄なものが何もない。

 ハリーが淹れてくれたお茶を啜り二人で椅子に座って隣り合う。向かい合うのは私が苦手だからこの形になっている。私は二人っきりの場合は特に、真正面から見られるのが嫌いなのだ。


「…アン」

「はい」

「アンは、何をしてると一番楽しい?」


 難しい質問だ。

 楽しい、か。嬉しいならハリーと一緒にいる時なのだが。

 一番喜んだのはハリーからプレゼントもらった時だし。

 楽しい、ってのは夢中になるものだと思う。大笑いするとか、体を動かすとか。そういう無心なものではないだろうか。

 ハリーと接している時はボロを出さぬよう、醜い自分を出さないよう頑張って律しているから、無心でないのは間違いない。


「…この前パーティーしてもらった時とか、楽しかったです」


 あの時は皆浮かれてたから多少ハメを外しても気にされず済みそうだったしね。


「…なるほど…」


 横で考え込む気配がする。

 ハリーは体が大きい。私より身長が大幅に高く、この位置からだと彼の顔が下から伺える。どう見ても晴れやかではない。

 こんなことは今までなかった。

 不安が湧き上がる。

 バレたのだろうか。私がろくでもない奴だって。

 それとも、飽きられた?呆れた?愛想を尽かされた?


『お前、一回でも自分からあげようと思ったこととかあるのか?』


 …ない。

 そんなのないよ。

 だって私からあげられるものなんてないし。

 顔の良さも失って、かろうじて良い子を取り繕ってる私ごときが、何をあげられるというのだ。

 何も持っていないのに、分け与えることなんてできるわけないじゃないか。

 プレゼント?それは経験あるけど、滅多なことではない。そもそも物で釣ってご機嫌取るのって、本当の愛って言えんの?


「ごめん、アン。これから頑張る」

「はい?」

「アンが一緒にいて楽しいって思えるように、頑張る」


 咄嗟に返事ができなかった。

 ああ、そういうことか。そういう意味だったのか。やめてよ、本当に終わりなのかと思ったじゃないか。


「フレディといる時のアンを見て…自然体というか、楽しそうだなって思った。そんな顔を、自分はアンにさせてあげられているのか…疑問に思ったから」

「…そうでしたか…」


 そういや、ここの人達の中で誰が一番遠慮がいらないかって、フレディかもしれない。

 それは当然だ。だってあいつガキだし。何を気遣えというのだ、あんなネットに思考停止で素顔と友達の画像上げて住所バレ炎上しそうな年齢の子供に。


「誤解させるような態度を取ってごめん。気をつける」


 私の安心した空気を悟ったのか、優しい声でハリーは付け加える。

 謝らないでください、私もハリーさんを楽しませられるように頑張ります…とは言えない。

 そんな余裕は私にはない。

 嫌われない自分を保つだけで精一杯で、それ以上を求めたら間違いなくボロが出る。

 私の低スペックさは私が一番よく理解している。

 だから私は緩く、肯定とも否定とも判別しきれない程度の角度で首を振った。


「ありがとう」


 何に対しての感謝なのだろう。


 私はハリーに何をしてあげられるのだろう。

 せめてこの人に何を返せるというのだろう。


「…アンは」

「え?」

「アンは…自分はアンを、ずっと好きだけど、アンに嫌われることはあると思う。だから聞いておきたい。何が嫌なのか、好きなのか…」


 こいつ今何つった?

 自分がアンを嫌いになることはない?

 アンが自分を嫌いになることはあっても?

 随分大きく出たもんだな、私の内面も知らないくせに。


「…じゃあもしもの話をしますけど」


 私がどんなにハリーに嫌われないように気を配ってるか知らないくせに。

 背中を丸めて、万が一にも見られないように顔を俯かせて、手を膝の上で握りしめて息を吸う。


「ずっと喋ってるのが気持ち悪い、人の恋路にズカズカ踏み込んでくるのがうざい、聖女みたいにいっつもニコニコしてるのが怖い、医者だからってなんでもお見通しみたいに見てくるのが腹立つ、研究者気取ってるサイコパスが悍ましい、子供のくせに生意気な口をきいて見下してくるのがイライラする…」


 目を瞑って一気に言い切って、吐き捨てるように続ける。


「…何も知らないくせに根っからのクズを普通の健気な女の子だって勘違いして無理強いしてくるのが嫌い」


 痛いほどの沈黙の中で、私は告げる。


「…私がそう言ったら、どうするつもりなんですか」


 顔を上げる勇気はない。

 ハリーは静止している。何の物音も聞こえない。

 ああ…駄目だった。

 今朝。前の世界のことを思い出して嫌な気分になっていた時点で警戒するべきだったんだ。

 今日の私はメンヘラ度が高いから大人しく引きこもっていれば良かったのに。


 私は見た目以外は最悪の人間だった。見た目の良さすら失われた私は、動くゴミでしかない。

 それでも優しい人達と出会って、少しは変われたと思っていたのに。

 何も変わっていなかった。

 これでもう私には何もなくなった。

 信頼も期待も、上っ面に騙されてたとはいえ確かに向けてくれた愛も。

 全部、なくなった。


 不意に、体重が持ち上がった。

 えっ、と思う間もなく、体が温かな大きいものに包まれる。

 抱きしめられている。


 硬直していると、頬に手が伸びてきて、ふわり、と止める暇もなく、仮面を外された。


 無意識に顔を触っていた。

 覆うものは何もない。指先が眦から溢れてきた水滴に触れて濡れた。

 必死で隠してきたものが、顕にされている。

 素顔を、見られている。


「…泣いてるなら、仮面を取らないと苦しい」

「なんで」

「心配だから…好きだから」

「馬鹿な」


 そんなことあるわけない。

 ハリーにだって分かったはずだ。

 さっきの言葉はもしもなんかじゃない、私の本音だってことを。

 ハリーだけじゃない、大切な仲間も侮辱されているのに、失望しないはずがない。

 嫌いにならないはずがない。

 手足をめちゃくちゃに動かしもがいて暴れる。彼の体はびくともしない。


「悪口を言われて嫌な気持ちになったでしょう!?」

「そうだね」

「だったら!」

「アン。一緒にいて嫌な気持ちになったことがあっても、人を好きにならずにはいられないこともある」

「嘘だ…」


 掠れた声で囁くと、ハリーは悲しそうに私を見下ろした。


「アンは、普通の女の子だって勘違いされて強要されるところが嫌いと言った」

「…え、あ」

「本当は、嫌いだった?別れたかった?」


 それは、だって、話が違うじゃないか。

 私とハリーとではケースが違う。

 ハリーは何も悪くない。嫌いだと感じる私が悪い。嫌いなところが、短所があるとしても…それを補って余りある長所がある。

 私にはない。欠点しかない。総合点から見ればゴミクズだ。

 だからハリーが言っていることはおかしい。


「私とあなたは違う」

「違わない」

「なんでそう言い切れるんですか」

「好きだから」

「だからっ…それは私に騙されて…本当の私を知ればそんなこと言えるわけない」

「本当のアンって、何?」


「私は記憶喪失でも何でもない!今まで周りの人らを騙してきた。聖女だってバレたら追い出されると思ったから。記憶があるって分かったら色々聞かれるのが面倒だったから。


 私はシングルマザーの家に生まれた。私を嫌いな母親が嫌いで、親孝行なんてまっぴらで、いつも部屋に引きこもってた。何の目的もなくだらだら寝てた。

 外に出たら、なんか意味分かんない渦に巻き込まれて、別の世界に飛ばされて、聖女とかいう役目を押し付けられた。


 私はすぐ部屋に引きこもった。こんな世界のためにどうして私が頑張らなきゃいけないのか意味がわからないし、一緒に召喚された女はブスでバカでキモいし、王子は声デカくてバカでキモいし、教育係は狂人でバカでキモいし!こんな奴らのためにどうして私が身銭を切らなきゃいけないんだよ。


 だから城の奴らは私を殺そうとした。私が役立たずだからって崖から突き落として、女神への生贄とか意味分かんねえ理屈を振り翳して、さも自分達が正しいみたいな顔で追い詰めて!


 迫害された後、死にたかった。せめて綺麗な場所で死にたいと思って這いずってたら、大男とでくわした。すごく…綺麗な色の目をしてた。せめてこれなら死んでもいいかもって…思った。

 目が覚めた時、怪我の治療がされてた。誰かが助けてくれてた。でも死にたかった。死にたくて飛び降りようとしたけどできなかった。怖くて無理だった。


 助けてくれた人達は優しかった。その優しさに付け込んで家に置いてもらうことになった。本当は全部覚えてたけど、記憶喪失のフリをした。

 ずっと休んでいたかったけど、そのままだといつか鬱陶しがられて居場所がなくなると思って、仕事をすることになった。面倒で仕方がなかった。皆さんとの交流も、仕事を頑張ってみせたのも、全部、保身のためだった。


 聖女だってのがバレた。でも記憶喪失は続行した。現状維持したかったから。変わる努力をしたくなかったから。聖女を匿ったせいで何か起こっても、知らないと思った。


 好きな人に告白された。チャンスだと思った。上っ面に騙されてるらしいこの人をこのまま騙していれば、上っ面だけでも幸せになれると思った。

 なのに…」


 今まで必死で押し隠してきた本心。

 汚くて醜くてたまらない本性。


 私が全てを明かしている間、ハリーはずっと私を抱きしめていた。奪った仮面を握る手は震えていた。

 ようやく引導を渡してくれる。いくらなんでも、もう無理だろう。

 当初の激情は熱を失い、心の膿を搾り出すように訥々とした語りに変わっている。疲れた。どうして私はこんなことをしているんだ。

 情けない。絶対嫌われる。なのにどうして心が軽くなるのだろう。

 誰かに否定されることなく本音を聞いてもらうのって、そんなに効くのだろうか。

 相手の立場になれば、うんざりするに決まっている。誰がメンヘラの支離滅裂な自分語りを聞き続けたいと思うのだ。


 いくらハリーでも、流石にここまで明かせば私に失望してくれるだろう。

 それで良い。それが相応しい。


 …この屋敷も、出ていこう。

 クズはクズらしく、どこかで野垂れ死のう。

 ハリーに助けられなかったらどの道死んでいたのだから、同じことだ。


 ハリーは、ずっと無言だった。

 私が言葉を吐き出し終えてからようやく、息を吐いた。そして言う。


「聞けて良かった」


 馬鹿かこいつ。

 やっぱつれぇわじゃねえんだよ。

 狂人か?恋は盲目どころの話じゃないぞ。


「なんで今のでそんなこと言えるんですかね…?私は上部だけ取り繕った、仮面で覆ってまともなように見せかけてた最底辺の人間ですよ」


 ひょっとして嘘ついてる?上っ面だけ優しく理解力示そうとしてる?

 そんな人間でないことは、よく知っている。


「前に、アンにも自分の昔話をした。その時アンは、何も言わず隣にいてくれた。家族を見捨てて一人卑しく逃げ延びた人間を、受け入れてくれた」

「いや、それは、ハリーさんのは不可抗力じゃないですか」


 村を焼かれてそれでも家族に助けられてどうにか生き延びたのを私のチンケな物語と一緒にしちゃいかんでしょ。


「同じだよ。アンだって仕方がなかった。ひどい状況に置かれて、傷を負った。どんな傷でも、痛いことに変わりはない。アンは傷ついて、それでも、人に優しくあろうとした。すごいんだよ、アンは」


 なんでだろうな、この人に言われるとそうかもしれないって勘違いしそうになるのは。

 もはや脱力している私の体を、ハリーは難なく支えている。

 私の視界には彼の胴体がいっぱいに映っている。顔を見上げるには首を動かさないといけない。その気力もなかった。


「好きだよ」

「……」

「信じられるまで何度でも言う。好きだよ、アン」


 メンヘラの特効薬かよこいつ。

 私にとって都合の良すぎる人間だ。夢みたいだ。現実じゃないんだろう、多分。


「好きだ」


 夢なら早く覚めてほしい。幸せであればあるほど落差が大きくて死にたくなる。


「一緒にいたい」


 なんでそこまで言えるというのか。

 頼むから、希望を持たせないでくれ。

 信じそうになっちゃうから。


「信じてほしい」


 私に価値なんてないのに。


「嫌いになるなんて無理だ」


 もういいや。


「ア…」

「好きです」


 急に腕に力がこもった。


「離れたくないです」

「アン」

「私こそ嫌いになんかなれない」

「結婚しよう」

「うん」


 答えてから首を傾げる。


「…うん?」


 今何つったこいつ。

 結婚?

 …まあいいか。


「結婚しましょう」


 頬に大きな手を差し伸べられて、頭が持ち上げられる。

 高みから見つめてくる目は、夕日のようなオレンジ色だった。

 やっぱり綺麗だ、と思いながら、私は生まれて初めてキスをした。

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