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白熱した試合を繰り広げているとリオがやってきた。いつも付けている黄緑色のエプロンが外れ、動きやすそうな服に変わっている。
「…何やってるの?」
「あの太い枝に玉をどちらが先に五回当てるかの勝負です。今のところ四試合勝負して私が三勝」
「お前のが背高いんだから当てやすいのは普通だろ!くそ!」
一敗したのは誤審からだった。「今当たりましたよ!」「当たってない!おれは見た!」「何ですか私よりチビのくせに!遠くて見えないでしょ」「一号よりおれの方が視力はいい!」の議論で負けた。
スマホやらパソコンやら結構使ってたから、眼鏡が必要なほどじゃないけど、奴と比較すると視力は劣るのだ。
「へえ四試合も…そんなに楽しいんだ」
「…たの…しい…?」
リオが何気なく口にした単語に熱していた思考が止まる。
楽しい?
冷静になって考えてみると、何だこのしょぼい遊び?
考案したのは私からだけど、高校生が木に毛玉を当てて喜んでいる図を俯瞰してみると、今更になって恥ずかしくなってきた。
待て、正気に戻ってはいけない。これまでも小学生程度の子供と同レベルになって散々ごっこ遊びをしてきたんだぞ。
黒歴史になっちゃうから!毎日が黒歴史になるから!
「ぷーっ!お前は本当に分かってないな!これは戦略も伴う競技だぞ!?時間をかけて投げてはいけない、何故ならおれの場合、後半は見上げるのが辛くて首が痛くなる!それを見越して角度と調整秒数を設定して…」
フレディが何かテンション高く解説し始めた。そんな奥深くねえよ。
けれどもリオは感化されるものがあったのか、「すごいね」と微笑んだ。いやこれ大人の対応ってやつだな。
「さて、アン。後は私が引き継ぐから、君はもう上がっていいよ」
「あ…」
そうだった。
途端に気が重くなる。
ハリーはもう、帰ってきたんだろうか。
「ハリーが二階で待ってる」
いつの間にか帰宅していたらしい。心の声を読んだかのようにリオは告げた。
「では親方、リオさんの言うことをしっかり聞いて良い子にするんですよ」と注意を残して、お暇をいただき裏口へ向かう。
「…っおい一号!」
「はい?」
「何かあったら来い。笑い飛ばしてやる」
「そりゃどうも」
何故かぶすっとしているフレディと、にこやかなリオに一礼し、私は庭を離れた。
一旦自室に戻る。試合のせいで少し汗をかいた。いつもはこれくらいなら放っておくけど、今日はそうもいかない。
ハリーの話を聞く。どんな内容であろうと多分私は動揺するから、今だけでもさっぱりと身綺麗にしておきたい。
何を言われるのか。結局ネタバレクリスは使用できなかったからヒントも何もない。強いて言えばリオのあの態度くらいか。
悪いことではない、と思いたい。
君を嫌いになったから距離取るね、だときつい。
クリスと話したんだけど君のここは改善すべきだよ、は何とか受け入れよう。
僕はそろそろ自立して屋敷を出ようと思うんだ、とかは…祝福すべきだけど寂しい。
自立、自立か…結婚で婿入りとか?
ハリーは良い人だから外に惚れられた女いてもおかしくないよね。屈強なガタイしてるし。近くで見るとそこまで筋肉質でもないんだけど。
現実逃避のためにくだらないことを考えながら、身嗜みを整えた私はハリーの私室に向かった。
話し声が聞こえる。
あのよく響く声はクリスだ。特有の長文を聞いていないのは昨日からだが、何だかすごく久しぶりに感じられた。
だが、今のクリスの声は何というか、優しさに溢れているような。
「心配ない、大丈夫さ。きっとアンも受け入れてくれる。弱気になるなよ。僕にとっても大事なことなんだから。リオも協力してくれたんだ、全てが順調だ。ああ、ハリー…上手くいった暁には。きっと、僕は君を…」
扉の隙間からチラッと見えた。
こっちに背中を向けているクリスがハリーと抱き合って顔を近づけていた。
!?
動揺して後ろの壁にぶつかった。その音を敏感に聞きつけたクリスが飛び出してくる。
目が合う。
彼は、見られた!という顔をして無言のまま俊足で走り去っていった。
!?
次にハリーが出てきた。壁に手をついて体を支える私を見て大丈夫か、と言いたげに眉を下げたが、すぐに真顔になって室内へ手招きする。
よろよろと、どうにか後に続く。
厳かに手紙を渡された。震える指で開く。
長々と書かれている文章の中で、「結婚」という言葉が一番に目に入った。
あ、これこの前フレディゼミで予習した単語だ!
次の瞬間、ハリーが手紙をひったくった。
違う、違うとばかりにぶんぶん首と腕を振る。その顔は真っ赤だ。何か探しているのか、わたわたと机に覆い被さる。
呆然と大きい背中を見つめる私の脳内で、結婚という文字が踊って埋め尽くす。
ハリーが結婚?誰と?
さっきの見てなかったのかよ。
クリスとだろ。
!?
その瞬間、私の中で全ての点と点が繋がった。
かつて、クリスは私を呼び止め、言っていた。ハリーは良い男だと。とっても男前で素晴らしい奴だと。賞賛の言葉を並べ立てた。
その上で、私に「あいつのこと好きか」と尋ねてきた。
当時は「牽制か?」と冗談で思ったものだが、冗談ではなかったのだ。あれは本当に、恋敵を牽制していたのだ。
思い出せ。私が最初に目覚めた時だって、クリスとハリーはセットで動いていたじゃないか。
あの時、単独で私の見舞いをしたハリーに、クリスは激怒していた。
怪しい奴に一人で会いに行くなんて、君に何かあったらどうすると。何かあってからでは遅いと。そうなったら僕は耐えられないとか言っていた気がする!
それに、先日のクリスの態度。あれは、怒りじゃない。不安だったのだ。
私は新入りの余所者だから、二人の関係に対しどんな反応をするか分からない。もしかしたら軽蔑されるかもしれない。
だから、クリスは何も言えず逃亡したのだ。
そうして、男らしいハリーに私へのカミングアウトを委ねた。
さっきの手紙は、クリスに宛てたプロポーズの際に使う予定のものなのだろう。それを間違って渡してしまったから、あんなに焦ったに違いない。ハリーがあそこまで顔色を変えるところなんて初めて見たし。
いやいやいやいや。
何邪推してるんだ、そんなわけないだろ馬鹿か。現実的に、冷静に考えろよ。
そういえばクリスって早口だしいつもせかせかしてるよね。ホモはせっかち。
いやいやいやいや!
だって、え、違うよね?え?嘘でしょ?
眼前でハリーはまだ机を漁っている。その背中は汗が滲んでいるのか、服の一部が濃く変色していた。
改めて見ると、ハリーの格好はいつもの作業服ではなかった。正装なのだろうか、上品で割とお高そうなシャツだ。
まるで、デートの時に張り切って着るような。
脳内で、さっきのキスシーンがリフレインする。
あれが、紛れもない証拠じゃないのか。
これって現実らしい。
初恋の人はホモでした。
タイトルにすると面白そうだがちっとも笑えない。
やばい、泣きそう。
そりゃ、報われるなんて期待はしてなかったけど。でもこれは酷いよ。
目当てのものを見つけたのか、深呼吸して落ち着いたハリーが別の紙を渡してきた。今度は、短めの文章だ。
何が書いてあるのか読まなきゃいけないのに、読めない。
解読する余裕がない。
視界が歪んでいる。うっかり瞬きしたらこぼれそうだ。仮面があっても、ハリー相手に泣くとバレる。実証済みだ。
「…お、おめでとですっ!」
これ以上ここにいるのは無理だ。
私は祝福だけ伝えると、相手の反応も確かめず逃げ出した。
フレディは、「何かあったら来い」と言っていた。「笑い飛ばしてやる」とも。
「ハリーさんに失恋しちゃった!」「ガハハ、あいつが男好きだって知らなかったのか?バカだなー!」「バカですねー!」って黒歴史に刻むのも悪くない。が、今フレディのそばにはリオがいる。
彼女の顔を見たら「何で教えてくれなかったんですか」って責めてしまうだろう。
リオは、私がハリーに恋してるってことを知っていたのに。
ああ、いや、否定したんだった。「私はハリーさんのこと好きでも何でもありません」って。
あ、そっか。それが決め手か。
二人の関係を知っていて「もしかしてアンもハリーのこと好きなのかな、三角関係だ!」って悶々してたら私が「恋じゃないです。体調不良です」って言ったから。
リオはクリス、ハリーと親しい。彼らに「アンは違うって。ライバルじゃないよ、良かったね!」って言ったんだ。
それで、二人は気兼ねなくくっつけるようになったわけだ。
つまりは、私が墓穴を掘ったってことだ。
しんどい。
リオがいるからフレディのところへは行けない。
頼れるヘレンも、今は旦那ロバートと一緒だろう。
残る人間はスタンリーだが論外だ。「どうでもいいから出てけ」って閉め出されるのが目に見えている。
今ここに、私の相談に乗ってくれる人はいない。
私は衝動のままに屋敷を飛び出した。
頭を冷やす時間が必要だった。
ちなみに
クリスは本当にキスしようとしてました