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朝だ。
天気は昨日と打って変わって晴れ。フレディの外遊びは決行される。
でも、ハリーは明け方に出かけていったらしいから、いつもみたいに庭で顔を合わせることはない。
主人一家で食事を済ませたフレディを庭に置いた後、従業員の朝食をとりに行ったら扉の前でクリスと鉢合わせた。どうやら私が来る前にトンズラする予定だったらしい。
「昨日はすみませんでした」
先手必勝。素直に謝る。しかし、クリスはまた何も言ってくれなかった。焦り顔で頷いて、ダッシュで消えてしまった。
へこむ。
ダイニングに入った私をリオとスタンリーの二人が出迎える。今日はハリーも出かけたしクリスもいなくなったから隙間が多くてちょっと寂しい。
「お、おはよう、アン。その…クリスと会った?」
「はい、ちょうどそこで。避けられてしまいましたが…」
「だ、大丈夫。クリスはちょっと調子が悪いだけで、機嫌が悪いわけじゃないから!」
補足してリオは「さ、ご飯食べて、今日も元気でやらなくちゃね!いただきます!」と話題を露骨に打ち切る。
スタンリーは我関せずといった様子で黙々と炭水化物を摂取しているし、ハリーとクリスがいない今、話を回すのはリオと私しかいない。まあハリーも喋れないから声量的にそこまで痛手ではないが、クリスがいないのはやはり大きな違いがある。
大切なものは失って初めて気づくんだ。この人いつもくっちゃべってんなとか思っててごめんよクリス。
「リオさんは今日何か特別な予定はあるんですか?」
「な、ないよ?私はいつも通り過ごすだけ」
ところでリオはどうしたんだろう。妙に浮き足立っている。
「あーでも今日は何だかフレディと遊びたい気分だなあ!夕方前に私も行っていいかな?ていうか、私にフレディを任せてアンは早上がりしてもいいんじゃないかな!?」
目的は何だ?なんて、考えるまでもない。
ハリーとクリスとリオはグルだ。確信する。この絆の固そうな従業員三人組は何かを企てている。おそらく、私にとって不都合な何かを。
「…私はいいですが、親方がなんて言うか」
「親方?ああ、フレディか…うん、大丈夫だよ。なんだかんだ私もここに来て長いし、フレディも了承してくれるよ」
そういえばリオはここに勤めて何年なのか、と尋ねると、小首を傾げてから「三年かな」と答える。意外と最近だった。
「クリスは私の一年後輩だから、二年目だね」
「えっ、すごい」
二年目で旦那の補佐と屋敷の雑用全般を担う有能ムーブを!?
クリスは私の一つ年上だ。つまり十八歳。二年前は十六歳。これが若さか。
「リオさんって何歳なんですか?」
口に出してから、女性に年齢聞くのは失礼問題を思い出したが、彼女は特に気にすることなく「二十三だよ」と教えてくれた。故郷換算だと新卒のお姉さんだったか。
旦那様は三十一、奥様は二十九…と呟いてリオは食後の茶に手をつけるスタンリーに矛先を向ける。
「スタンリーはいくつだっけ?」
「忘れた」
「もー」
これは言いたくないから誤魔化したのか、本当に覚えていないのか。多分後者だろうな、と見当を付けつつ、私は平らげた皿を流し台に運んだ。
「ちなみに、ハリーは二十六歳だよ」
「そうなんですね」
「…年の差っていうのは十歳からだからね!」
何の宣言だろうか。今日のリオは突飛な言動が目立つ。
しかし、今までの会話で分かったことがある。
私はリオに、嫌われていない。
と思う。多分。そうであって欲しい。
彼女が嫌いな人にあからさまな敵意を向けるような人間ではないのは既知だ。もしかしたら内心では「あーあ、相手するのめんどいな」とか感じてるかもしれないけど。
が、今回に限っては、普通に会話を成立できたのだから、少なくともハリーやクリスのように好感度は下がっていない、と願いたい。
私は「ごちそうさまでした」と頭を下げてダイニングを後にした。
フレディに教わる文字の進捗具合はまあまあだ。教本がなくともどうにか文を読めるようにはなっているので、じゃあ学習ステップアップ!と新しく数字が追加された。泣きたい。
と、思ったら四則演算の仕方は変わらなかった。違うのは数字の形だけらしい。
助かった。「エックスイコールニーエーブンノマイナスビープラスマイナスルートビーノニジョウマイナスヨンエーシー」とか出されたらどうしようかと思った。
フレディは計算ができる。文字も読める。なのに書くことだけできなかった。計算式は書けるのに、文字は書けないってどういうことなのか。
しかし、それはどうやら本人のやる気の問題だったらしい。
私と一緒に勉強するようになってから、奴はあっという間に文字の書き取りを習得してしまった。
そうして、私が勉強しているのを覗いて間違いの訂正を入れたり、馬鹿にしたり、あるいは背中にもたれて分厚い本を読むようになった。
それが最近のお勉強タイム。運動との割合で表すと勉強:運動=3:7くらいの時間配分だ。
フレディは独学で文字教育を達成した。
習得済みの算術はともかく、他の分野の…理科とか社会とかどうするのか。家庭教師とか、呼ばないんだろうか。
私は勉強のお目付役であって教える役じゃないし。というか教わる側だし。
フレディを停滞させたままでいいのだろうか。
隣からのフレディによる「そこの字ヘタクソで読めない」「綺麗に式を書け」などの文句ラッシュを打ち切るべく、連絡事項を伝える。
「今日はリオさんが後で遊びに来るそうです。仲良くしてくださいね」
「は?何だそれ。何であいつが来るんだ?」
「さあ…」
「お前、おれに内緒で何勝手なことしてんだよ。生意気だぞ!」
怒られると腹立つ。
というわけで、フレディにとって痛いであろう「家庭教師問題」で話題を逸らすことにする。
何か知らんがこのショタは屋敷から出たくないみたいだし。
「それはそれとして親方はお勉強するにあたって先生とかほしくないですか?」
「…いらん。本があれば充分だ」
思いっきり顔をしかめて、フレディは私の背中をごんごんと本の角で叩く。痛えよふざけんな。
「何でですか?ああ、そういえば前に聞きましたよ。家に来る見知らぬ人達を親方は片っ端から罠に引っ掛けて撃退してたって。人見知りなんですね、かわいー」
はったりである。
しかし私がこの屋敷で目覚めた初日のように、こいつが来訪した人々に悪戯をしかけ嘲笑っている光景は容易に想像できる。
そして、当たらずといえども遠からずだったのか、フレディはグッと息を詰まらせた。
言ってみるもんだな。
「…そういえばお前今日ハリーに呼び出されてんだってな」
ぐえええ!カウンター!
こ、こいつ誰から聞きやがった。
まあ情報丸出し人間のクリスだろうけど。
「あのハリーから呼び出しか。せいぜい気張れよ」
「あの」という部分を強調するフレディに、二の句が継げない。
ま、負けた。この私がレスバで…。
せせら笑いを浮かべるフレディに負けを認め、私は学習帳を閉じると「さて今日のお勉強はここまでにして。あの木の枝に向けて玉当てゲームでもしましょうか」「自分に有利なの選んでんじゃねー!」臨戦態勢を取った。
運動において明確に勝っているのが身長くらいしかないんだからしょうがない。