31
ハリー、クリスと共に、無言の抵抗をするフレディを連れて、私は玄関に向かった。
そこには既にヘレンとリオ、加えてスタンリーの姿までもがあった。そして、並べられた大荷物の傍らで、彼らに対面する長身(ハリーよりは勿論低いが)の男。
フレディと同じ、チョコレート色の髪の毛を持った、貴族然とした男。
繋いだ右手にフレディが力を込めてくる。
男の顔には、私がつけているものと似た仮面が張り付いていた。
「おかえりなさいませ、旦那様。こちらが先ほど報告した新入りのアンジェです。愛称はアン」
クリスがすらすらと述べて、私に小声で「さあ自己紹介するんだ」と囁いてくる。
が、私は動けなかった。
仮面を見た瞬間に、思い出してしまった。
この世界に来た初日。ご飯も食べず部屋に引きこもるも、空腹に耐えかねて城内を彷徨っていたあの時。
暗闇の中、曲がり角から覗いていた仮面。盛大にビビっていたら一礼して消えていった仮面。
穴の隙間から覗く、水色系統の目。ああ、確か、トルコ石って名前のくせにトルコでは取れない宝石で有名な色の…ターコイズブルーの瞳。
この男は、聖女であった私と会ったことがある。
この目は、私を知っている。
バクバクという鼓動の音に思考が乱れる。
大丈夫だ、今の私は仮面を被っているし、もし取られたとしても私の顔はかつてのものとは違う。
バレる危険はない。
けれど、声は喉の奥に張り付いて出てきてくれなかった。
周囲の従業員が焦りと困惑が混じった顔でこちらをチラ見してくる。何してるんだ、どうして黙っている。旦那様の機嫌を損ねる気かって表情で。
でも動けない。体が動かない。
こんなこと、前にもあった。皆が祝福してくれて、豪華な食事を用意してくれて、包帯を取らなきゃいけないのに、怖くて動けなかった。
あの時は、ハリーが手を引いて、仮面をプレゼントしてくれた。
そして、今もまた、ハリーは私の前に立った。
ハリーの影にすっぽり覆われて、旦那の姿が消える。
恐る恐るハリーの背中を見上げる。横で同じように隠されたフレディがどこかほっとした顔をしているのが見えた。
「…手紙に書いた通り、王都で予想外の事態が発生した。だから帰りが遅くなってしまったが、ここは変わりないようで安心した」
淡々とした冷たい声だった。
それだけ述べると、旦那は私達に言及することなく、強張るハリーの横をスッと通り過ぎた。
ここは、変わりない。安心した?
そんなわけない。見知らぬ女が家にいるのに。それも、聖女として城に置かれていた女が。
それなのに、何も変わらないと。
言うまでもない。つまり旦那は、私の存在を真っ向から無視したのだ。
いないものとして扱うことにした。
多分、面倒だから。
「旦那様!お待ちください、こちらのアンがまだ…」
クリスは空気を読んで口を閉ざすなんてことしない。今にも立ち去ろうとする旦那に駆け寄り大声を上げた。
旦那はちらりとこちらを振り返って、視線で追っていた私とちょうど目が合う。
やっぱり動けなくなる。
「アンは緊張しやすいから、ちょっと今は難しいのかも。時間を変えましょうよ!玄関で過ごすのも何だし、お茶でも飲みながらこれまでのことお話しましょう、ね?」
リオが明るい口調でクリスの横に進み出て、取り成すように笑顔を振りまいた。
空気が緩みかけた時、確固とした雰囲気のハリーが旦那に近づいて紙片を渡した。受け取って読んだ旦那は軽く息を吐いて、躊躇なく仮面を剥いだ。
思わず呼吸を止めたが、その下には何もおかしなものはなかった。フレディに少しだけ似た端正で冷徹な顔があるだけだった。
何故、仮面をしていたのだろう。私と違って、隠すべきものは見受けられない。
「第一王子が処刑された。聖女を殺したからだ」
ぽつりと呟いた。
…第一王子?
「何ですって!?一体どうしてそんなことに!」
クリスが真っ先に騒ぎ出し、やにわにその場がざわめく。
第一王子って?
まさか、別人だ。違うだろう。だってあの王子は何か偉そうで、いつも自信満々だったし、憎まれっ子世にはばかるって感じで死にそうになかったし、処刑なんて、しかも聖女を殺したからって、え?
あれ?
私が原因で?
「王子の教育係である男が真龍派だと露見した。彼もまもなく女神の元に召されたそうだ」
教育係って、教育係?
私の顔を焼いた奴?
え?あいつも死んだの?
「何で?」
「どうして」
ハッとする。自然に疑問が口から飛び出していたことに気づき、慌てて唇を引き締める。
だが、私の小声はヘレンの声にかき消されて誰にも聞こえなかったようだ。
ヘレンは今にも崩れ落ちそうな悲愴な表情で旦那に問いかけていた。
「何のために、処刑なんて」
「もう一人の聖女が望んだらしい。同じ境遇にあった聖女を追い詰めた王子らを、許してはおかなかったと」
え?もう一人の聖女って、あの女の人?あの人が王子と教育係を殺そうって決めたの?私のために?そんな過激な人だったっけ?
ていうか、私を追い詰めたっていうならあの女の人も割とそうだったような…。
…思い返すとあの人には暴言を吐きまくっていたので何も言えない。あの頃は周りが全部敵だったから、誰かを思いやる余裕はなかった。
「これで城には聖女と女神の眷属のみが残った。私もしばらくは王都行きを控える」
「恐ろしいことだな」
ずっと黙っていたスタンリーがボソリと言った。
そういえば過去に城に勤めていたって聞いたな。真龍派に追われ女神教に目をつけられたから城で仕方なく働いていたって…女神教嫌いとは言ってなかった気がするが、恐ろしいとは思うのか。
「…それで、お前はどうするのだ?聖女」
「…え」
旦那は前触れなく告げ、射抜くように私を睨めつけた。