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「だからそれはウネだって言ってるだろ!」
「はあ!こっちにあるフケの字と区別つかないんですけど!」
「よく見ろ、こっちは丸まってて、こっちは尖ってる!」
「教科書ですらこれって、手書きの時に絶対間違うでしょこれ」
「だからそれは前後の意味合いで判断して…」
頭の痛くなる会話だった。
だが、認めたくないことにフレディは知能が高かった。むしろあれだけ部屋に罠を仕掛ける脳があるのだから当然というべきか。
教育者としては不遜すぎて駄目だろうが、教え方だけ見ればまあ悪くはなかった。何ていうか筋道立っている。
ショタに読み書きを習う十七歳…いややめよう。私だって本当はヘレンに優しく手取り足取り教えてもらいたかった。現実はいつも残酷だ。
連日仕事場でぎゃあぎゃあ騒がしくする私達を咎めることなく、とんとん、と肩を叩いてくるハリーのメモを受け取り、目を通す。
「…疑問…具合、善悪…」
「調子どう?だろ」
「ああそういう意味…」
横から覗き込んでくるフレディが「お前は応用が効かないな」と馬鹿にしてくる。
でも単語自体はちょっとずつ覚えているんだから褒めてほしい。暗記力のない私にしてはよくやっている方だ。
私は別に褒められて伸びるタイプではないが怒られるとやる気を失うタイプなのでどうか優しくしてもらいたい。が、ショタ相手にそんな舐められるようなことも言えないので我慢している。
本当に、教師がヘレンだったらなあ…絶対単語一つ覚える度に「すごい、偉いわね」って祝福してくれそう。あの聖母ならそうする。
この世界の丸かったり角ばってたりする文字(日常で使うのを「ヒラガナ」と呼称するらしい)の形には違和感しかないが、日本語みたいに発音が同じなのに字が異なるもの(「お」と「を」とか)はないからまだ量としてはマシかもしれない。まあその分逆に覚えにくいんですけどね!
ちなみに今は単語を学んでいる最中なので文章には手をつけていない。するとしても単語を拾って大雑把に把握する程度だ。
ハリーのメモも大概易しい文章で書いてくれているらしいが、解読には時間がかかる。
ただ、身振り手振りと合わせることで意思疎通が可能になってきた。これで二人きりでもお話ができるね。
…もっとも、最近はハリーと一緒にいると落ち着かない気持ちになるので二人になるのはできれば避けたい。彼にはだいぶ醜態を晒しているので恥ずかしいのだ。
私にありがたくもお勉強を教えているフレディは、私が書き取りの自習をしている間に自分の学習もテキストを活用してこなしている。
何勉強してるんですか、と尋ねたら計算と答えられ、奴がサラサラとつづっていく計算式の中に見知った語が一つもないことに絶望した。
数字の形だけは万国共通じゃねえのかよ…また新しく覚える項目が増えた。
「ま、子分にしてはよくやってる方なんじゃないのか。おれは天才だからお前とは比べられないけどなー!」
「そうですか。天才って99%は努力でできてるらしいんで頑張ってくださいね」
ハリーがまた新たにメモを渡してくる。
あん、肯定、努力。自分、劣る、比較。
「自分に比べたら一号もすごいって?ハリー。お前はほんとに一号に甘いな」
「えっなんて書いてあるんですか」
「は?今言っただろ。自分に比べたらお前の成長のスピードは早いってよ」
ああ、そういや、あんって私のことか。毎回「え、餡子?」って引っかかるんだよな。
そしてフレディに「自分の名前も覚えられないのか」と馬鹿にされるまでがワンセット。
本当このショタの性根をどうにかした方がいい。いちいち他人を蔑まないと呼吸できないのか。
何故あのヘレンからこやつが育ったのか。まるで意味が分からんぞ。
「おい一号。休憩は終わりだ。ハリー、また後でな」
こくりと素直に頷いて、ハリーはまた自分の持ち場へと戻っていく。残されるのは生意気なショタと進展しない私。帰ってきてくれハリー。ヘレンでもいいぞ。
「アーン!」
髪に角が生えてる娘の感じで呼ぶんじゃない。私は空手どころか部活とも無縁だし、ましてや殺人事件とは程遠い一般庶民なんだ。
祈りが通じたのか、よく響く声が私の学習時間を中断させた。残念ながらヘレンではない。あの大音量はクリスだ。バタバタと裏口から駆けてきた彼は、立ち上がって迎えた私に「大変だ」と言い募った。
「どうしたんですか、事件ですか」
「ああ、君にとってはな」
何だと。どういうことだ。私限定の何かってことは新入りにまつわる何かかい。焼き入れか?
「旦那様が近日帰ってくる。既に王都を出立していると手紙がきた。その手紙も結構前に出されたもので、ここにたどり着くまでに迷って周辺の町をうろうろしていたそうだ。だから、いつ旦那様が戻られてもおかしくない」
クリスがまくし立ててきたその内容に、私はそこまで驚きはしなかった。
この家の主、ヘレンの旦那が帰ってこようが、ヘレンが味方にいてくれる限り、私に動揺はない。
だが、隣に座るフレディが一度大きく身を震わせた後、微動だにしなくなったため、何かが起ころうとしているのだという予感は芽生えた。