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「あんの悪戯小僧!全く、何度言っても聞きやしない!そもそも前任の執事のせいで…」
また話が長くなりそうだったので、床に落ちた私を苦笑しながら助け起こしてくれたリオにこっそり尋ねてみる。
「あの子供はいつもこんなことを?」
「まあね…そういう年齢なんだろうけど、私達も時々迷惑してるんだよ。奥様か、旦那様の言うことなら素直に聞くんだけど…奥様も割と緩い人だからね」
奥様というのはヘレンのことだ。やはりメイド服を着ていても、屋敷の主人と結婚している女性に同僚扱いはできないらしい。
「旦那さんはどうしてるんですか?」
「旦那様も旦那様で忙しいし、子育ての部分に関しては奥様や私達に任せられているからね。そう気安く、あの悪戯坊主にお仕置きしてくださいなんて頼めないんだよ」
リオの口ぶりからすると、男が育児に参加しないのはごく当然であるようだ。元いた場所だったらとある団体からフルボッコにされそうだな。
引き続きクリスが長話しているのを視界に入れつつ、もう一つ質問してみる。
「ところで…ここで働いている人って、合計何人いるんですか?」
「五人だよ」
何だって?
「料理人の私と執事のクリス、庭師のハリーに医者のスタンリー、それと奥様を含めた五人。アンも加われば六人だね」
従業員が少なめという話は聞いていた。クリスが屋敷の管理を一人でもやれるくらい有能だとも聞いていた。だが誇張や比喩でなく本当にそうだったとは…。
固まった私に何を思ったのかリオは慌てたように「やーでも結構暇なんだよ?確かに少人数で回してるけど、基本的にゆったり仕事できるから」と言い募ってきた。
きっとクリスだけでなく、彼らそれぞれが有能で、効率的なのだろう。働いたこともない私がそのスピードについていけるのだろうか。
すると、一部始終の会話を聞いていたのか、ハリーが近寄ってきた。
今日は皆がいるから私に近づいても平気だと判断したのだろうか。
相変わらず読み取れない紙片を渡してくる。リオに読み上げてもらう。
ところでこの世界では文字が読めないのもそんなに珍しいことではないらしい。うちの従業員は全員読み書きバッチリらしいが。何でも、ハリーは元々読めも書けもしなかったが、ここに就職してから、クリスの前にいた執事に教えてもらったらしい。胸を張って自慢できる職場だ。
「多分アンが担当するのは雑用になると思うけど、それも油断してるとクリスが全部やっちゃうから実質ほとんど自由だって」
ニートか。わーい、と喜びかけて止まる。
ヘレンにあれだけ優しくしてもらっておいてまだ私は惰眠を貪るだけの存在でいようとするのか?恩知らずだと思わないのか。ヘレンに雇ってもらえなかったら野垂れ死に確定の化け物のくせに。
多分彼女は私を気遣って、負担のない仕事に回そうとしてくれたのだろう。優しさが本当に身にしみる。でも、穀潰しだとは、思われたくない。
今は病み上がりだからしょうがない、と許されても、時間が経てば、ろくな仕事もしない人間は煩わしく思われるだろう。
それは、きつい。
「…その、できれば私も皆さんのように何か、特定の仕事をもらえるとありがたいです」
リオは何故か驚いたように目を見開いて、顎に手を当てた。
「…うーん、料理は私でしょ、庭の手入れはハリーでしょ、医療がスタンリーで、クリスは旦那様の補佐に加えて、奥様と一緒に掃除とか裁縫とか、足りないとこに手を回してくれてるし…」
分担の量を考えるとやっぱりクリスがおかしいのだ。この青年のせいで私のいる意味が曖昧になっている。いや元々雇用はしてなかったそうだから当然ではあるが。
もし彼が無能、いや普通の人間だったら主人の補佐だけを担当し、私は気兼ねなくヘレンのサポートに回れただろう。ていうか補佐役のくせに出張中の主人に付き添わないってどういうことだ。
「あ、そうだ」
リオが何か思いついたように手を打った。しかしすぐに苦い顔になる。
「あー、でもなあ…ねえアン、子供って好き?」
頼んだ手前引き下がれないが、少し嫌な予感がした。
「えっ?アンジェがフレディの相手を?」
「歳も近いしあの子を一日中好き勝手にやらせておくよりは、アンと一緒に勉強させた方が良いと思うんです。アンもフレディも字を学ぶ必要があるし」
ヘレンは、なるほどねえ、と得心がいったように呟いた。
リオが考えたのはそういうことだった。
私はあのショタの遊び相手になりつつちゃんと勉強もさせ、その代わりに文字を教えてもらう。
これまでもショタには毎日お勉強の時間が設けられていたが、いつもばっくれてどこかへ消えてしまうそうだ。
この屋敷の中でショタに一番年齢が近いのは私らしいが、それくらいであの生意気そうな子供が私のいうことを聞いてくれるとは思えない。
むしろ舐められるのではなかろうか?
ショタは文字は書けないけど読めはするらしいし、自分より劣る相手は思いっきり馬鹿にしてきそうだし。劣ってなくても馬鹿にしてきそうだが。
「ううん…どうかしら、アンジェ。いえ、アン。やってみたい?」
悩んで、ヘレンが困ったように笑って問いかけてくる。
「もしやってくれるなら私としては大助かりだけど、無理する必要はないわ」
そんなことを言われたら答えは決まっている。
「やってみます」
ヘレンへの恩返しの第一歩だ。
せめて何らかの成果は残せるように頑張ろう。