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迷いの森

作者: 壱葉竹鶴

1

 森の中を走り回っていると野犬に追い掛けられた。その野犬がすぐ後ろまで来てから飛びかかってきて俺は地面に倒れたが、うまい具合に手がそいつの眉間にあたって「ギャンッ!」と鳴くと逃げて行った。俺がちびで弱そうだから追いかけただけでたぶんあいつも強くはない犬なのだろう。まだ子犬なのかもしれない。ついた汚れをはらって今度は強そうに大きく手をふって歩いてみた。鳥が甲高い鳴き声を響かせると強い風が吹き、顔の向きをかえると瓜坊が目に入ったので強いふりをするより逃げた方が良いと小走りで森を抜けた。親猪に突進されたら着物が汚れるだけではすまない。

 いつものように寺に行った。上がり込んで障子を少し開け、中を覗くと兄が拭き掃除をしていた。こうやって早い時間にここに来て、そんな兄の姿を見るのが好きだった。作務衣がこんなに似合う僧侶は他にいないと思う。父だって同じようにしていても生臭にしか見えない。胸を高鳴らせて兄の姿を覗き見ていると

「掃除した所を汚すな」

と尻を蹴られ、振り返るとその生臭坊主がいた。

「毎朝どうしてここまで来るだけでそんなに土まみれになるんだ」

「野犬に追いかけられたんだよ」

と舌打ちをしてから答えたが

「昨日は猿の集団と戦ったとか言っていなかったか」

と言われて顔を反らした。それはちょっとした嘘だ。近所の連中と喧嘩をしたのだ。でもまったくの嘘というわけでもない。人も猿も体型はそれほど違わないと思っている。

「三森〈みもり〉じゃないか。おはよう」

 覗いていた障子が開けられて兄が顔を出した。

「兄ちゃん」

 俺が叫んで抱きつくと、兄はしゃがみこんで抱き締めてくれる。

「お前も土まみれになるぞ」

 父は呆れたような声をかけるが兄が

「着替えならいくつでもありますよ」

と笑うのを見て、息子にも弟にも甘いやつだなとため息混じりに呟いて父は奥へ歩いて行った。歩く背中だけは美しいのにとしばらく俺は見ていた。立ち上がった兄に背を押され、裏の兄の住む家に向かって砂利の道を行くと、小さめの門と手前にある大きな石が見えた。その石の上で丸まった背で膝を両腕で抱えた子供がいる。兄の子の康介だ。それが見えると兄は足早になって俺よりも何歩も前に進み、自分の子供を抱き締めた。俺は歩むのをやめてしばらくその様子を見ている。この時いつも、どうして自分が兄の子でなかったのだろうと悲しくなるが、俺が兄の子だったらあの生臭坊主が寂しい思いをするだうからこのままで良いのだと思うようにしている。

 石からおりた康介と目が合った。康介はやわらかく笑って手を綺麗に揃え、こちらに深く頭を下げてから

「おはよう。みっちゃん」

と、まるで兄の分身のような挨拶をした。

「おはよう」

 つい口を尖らせてしまうのだが、もうずっとで今さら直せはしないと諦めることにしている。

「学校に行くぞ」


2

「みっちゃん」

 さっきの森を二人で通り、学校への道を歩く途中に康介が弱々しい声で俺を呼んだ。

「妙な声がする」

そう言うのだ。しかし辺りを見回しても人影はおろか獣の影もない。すると康介が突然走り出した。驚いたもののすぐに後を追って走ると何か血まみれの獣が倒れて悲鳴をあげているのがわかった。近づくとよりひどい叫びになった。怯えているようだった。ひどい傷が身体中にあり他の獣に襲われたのだとわかった。あの時俺が逃げていなかったら俺がこうなっていたかもしれないと思ったが、悲痛な叫びに俺はただ「ごめんな」という言葉ばかりが浮かんだ。もしかするとこいつは俺を襲ったのではなくて、俺に助けを求めて走ってきただけだったのかもしれないのだ。森は獣の世界。人とて獣のひとつではあってもあまりに弱い。俺には助けてやることは出来ない。

 泣きそうになるのを我慢して歯を食いしばっていると康介が座り込み、その犬の頭に手を置いて撫でた。その命は絶えた。目は開いたまま遠くの世界を見ているようだった。

 森を抜けてからすぐそこにある井戸で水をもらい、康介の手をすすいだ。何らかの命がいくつも絶える。その時にただ悔しくて泣く者と手を差しのべて安らかな死を祈るものとどちらが善とされるのか俺にはわからない。ただ俺たちは他の何かの命をいただいて生きている。


3

 康介が中学生になる年がいつの間にかきていた。俺は高校生だった。康介も俺も子供の頃のまま大きくなったが、さすがに兄に抱きつくことはしなくなっていた。その話をすると生意気に言い返して笑うくらいにはなっていた。学校までの行く道が違うため、一緒に森を通って歩くことはほとんどなかった。休みの日にだけ一緒だった。兄が康介の入学式に着ていく一張羅を準備してそれはそれは楽しみにしていた。なのに兄は康介の入学式に姿を現さなかった。辺りがひどく騒ぎ出したので何があったのかと思っていたら、兄が足元の土や岩と共に土地の人でさえそう入ることがない山の谷底に落ちていったのだ。雨が続いて地盤がゆるんでいたのが災いした。町中が必死に探そうとしてくれたが、また崩れて誰かが命を落としてはいけないからと父がとめた。その時、俺はどれだけ父にひどい言葉を浴びせただろう。父は俺に何を言われようと黙ったままだった。康介は放心していた。

 ひと月ほど経って兄の遺体が発見された。父は黙って見つめ、手を合わせた。体が弱っていてずっと家の奥の間にいた母も何も言わなかった。涙も流さず葬儀をすませた。康介は魂がその体に入っているのかわからないほどだった。俺は毎日ひたすらに泣き叫んで過ごしていた。大好きな兄が死んだことが許せなかった。父があの時みんなをとめなければ助かったかもしれないのに。苦しみもせずにただ兄の写真の前に座っているだけの康介も腹立たしくてならなかった。障子を叩き開けて怒鳴り込もうとした時、俺の肩を強い力が掴んだ。

「やめなさい。三森、お前には私がいる。母さんもいる。他の兄弟もいる。でも康介には親戚はいても家族というものはもういないんだ。あいつにいつか家族と呼べる人が現れるまでお前は攻めるのではなくて守ってやってくれ」

 父は静かにそう言った。その瞬間、自分から厄が落ちたような感覚がした。自分の感情で曇らせた目ではなく、子供の頃からずっと見てきた目で康介を見た。苦しんでいないわけがなかった。

「父ちゃん」

 父は固くしまった顔で俺を見ていた。

「兄ちゃんはちゃんと父ちゃんに似てたんだな」

 形は違っても間違いのない強い優しさは同じだったことに、兄が死んで初めて気づいた。父は俺の頭に手をやわらかくのせ、背を向けて歩き出した。その背中はこれまで見てきたものと同じはずなのにまったく違ったものだった。


4

 それから俺は康介の魂を戻さないととあれこれ試した。名前を呼び続けたり、一緒に散歩をしようと手を握って歩いたり。しかし康介の魂は見つからない。戻ってくる気配を感じない。何度もそれを繰り返したが、自分自身の心や体も軋みだしてこれからどうすれば良いのかと考えていた。すると突然、違和感のある叫び声が聞こえて見回すとそこは康介と二人、学校への道を歩いた森だった。そしてその場所はかつて死ぬ間際の野犬がいた場所だった。ここにいては引きずり込まれる。ひどい恐怖で康介をその場から離した。そして入ったのが兄と康介の家の側の門だった。ここならきっと大丈夫と、すぐそこの石の上に康介を座らせた。

「もう大丈夫だからな」

と声をかけた途端、うんという小さな声が康介の口から溢れた。驚いて目を見開いたが康介は先程までのままに見えた。上から下まで彼の様子を見る。するとうっすら表情があった。その顔には覚えがあった。子供の頃に兄が戻って来るのを待っていた時のものと同じに見えた。

「康介、そこにいろ。すぐに戻るから」

 俺は大声で叫んで走った。父の横もすり抜け、兄の法衣を探した。しかしいつも中まで入って見ていたわけではないのでわからない。康介があちらの世界に引っ張られてしまう前に何とか探さなければとしていると、父が声を掛けてきた。俺は先程のことを伝え、兄の法衣のある所を教えてくれと言った。父は迷わずにそれのある場所から白衣〈はくえ〉を出した。

「康介はこれなら自分で着られる」

 父はそう言って笑った。俺はその顔を目を見開いて見つめたが、すぐに父の手からそれを受け取り康介の所に戻った。さっきのままの姿に安心しつつ、兄の白衣を彼の肩にかけ

「兄ちゃんの白衣だよ」

と声を掛けた。すると

「みっちゃん、ありがとう」

と微笑んで立ち上がり、康介は白衣を着て再び石に座った。

「おかえり」

 返ってきた魂に俺は泣くことしか出来なかった。

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