03 ドラゴンの少女
部屋に月の光が差し込む。
自身を照らす青白い輝きに、竜画は目を覚ました。
「……」
ぼぉっと窓から覗く月を見上げる。何があったかよくわからない。自分がどこにいるのかもよくわからない。何か大切なものを失くしたことだけは覚えていて、真っ白な頭で見る月を、とても綺麗だと竜画は思った。
日本ではとても見ることができないような満天の星空。けれど、視線は白く輝く丸い月に注がれていた。
竜画の血が、わずかに熱くなる。
――何かが、食べたい。
すんすんと鼻を鳴らし、寝ぼけ眼で周囲を探る。
少し前に、すごく美味しそうなモノを見た気がする。柔らかくて、暖かい、優しい感じのする、肉――
そして、竜画がそれを思い出す直前。
「……どうした、寝てろ」
――すぐそばで自身を睨む赤い双眸と、その身で輝く黒い鱗に、一瞬で記憶が想起された。
「ぎゃぁああああああっ!?!?」
正常な論理を失った状態でトラウマを見せられ、混乱した竜画は、ドラゴンのような赤い瞳と黒い鱗――実際には朱色の瞳と鉛色の鱗なのだが――を持つ青年、ルガルに向かって思いっきり拳を振り回す。
「う、おっと」
ルガルは突然の喉を裂くような絶叫に驚くものの、子供の闇雲な拳に当たるほど愚鈍ではない。軽く身を捩って回避する。
次いで、ルガルの顔に向けて竜画の纏っていた毛布が投げ放たれた。
「ったく……」
悪戯のようなその攻撃を、ルガルはため息をつきながらはたき落とす。
だが、布団で視界が遮られた一瞬で、竜画はルガルのすぐ横へと移動していた。
「なっ――」
「ぐ、る、ぁあああああアアアアアッ!」
側面からの全力の体当たりに、ルガルの体が揺れる。
「チッ――!」
失態だ。あれだけエリナに油断するなと言っておきながら、その見た目と行動にまんまと騙された自分に舌打ちをする。
背負っていた槍を構え、目の前の敵に向ける。
「アア――――く、ひ、ははっ」
瞬間、ぞくりとした怖気を感じ、ルガルは槍を振り払った。
甲高い金属音。竜画の小さな身体が弾き飛ばされ、部屋の扉に叩きつけられた。
「ひ、はは、くくっ……ドラゴン……こ、ろ、すぅ……!」
地面に倒れた竜画の手には、金光を放つ竜殺しの魔剣が握られている。ルガルがエリナから預かり、ついさっきまで腰に提げていたものだ。
(……体当たりの時の一瞬で、奪ったのか)
目の前の少女の底知れなさに、ルガルは敵意と警戒を高める。力や速さ自体は大したことはない。子供にしては強いが、常人の域だ。だが、気を抜けばどうなるかわからない。
竜画が再度剣を構え、ルガルに飛びかかろうとした瞬間――竜画の背後にある扉が開いた。
「ルガル、何してるの?」
「――!」
(まずい!)
竜画がエリナへと手を伸ばす。慌ててエリナを守ろうと駆け出すルガル。
そして、竜画は鋭い爪がついた竜の手で――エリナを庇うようにルガルとの間を遮った。
「……あ?」
「――にげ、て」
「え……?」
「にげて……!」
必死にエリナへと声をかける。
心が麻痺してなお、竜画の脳裏には、ドラゴンに潰された名も知らない男の姿がありありと焼き付いていた。
「う、ぅ……」
「…………」
ルガルは槍を構えながら困惑する。
ルガルとて、血も涙もない人間ではない。泣きそうな顔で、震えながらこちらを睨みつけてくる少女に対し、躊躇い無く槍を振るえるほど割り切ってはいなかった。
エリナがため息をつき、竜画の頭をぽんぽんと優しく叩く。
「……もう見張りはいらないでしょ、ルガル」
「あ、ああ……」
ルガルが槍をおさめ、椅子に座る。
竜画はエリナを庇いながら、項垂れるルガルを睨み続けていた。
※
「《灯の光》」
ルガルがいる隣の部屋。エリナは魔術で部屋を照らしながら、少女の隣の椅子に座り、話を聞く。
「名前は?」
「……りゅー、どぅ」
「リュード、か。リュードはどうやってあの森に来たの?」
「……?」
「家はどこにあるかわかる?」
「……」
裸の上に毛布を纏い、ルガルの作った簡素な夜食を食べる少女――リュードの返答に、エリナは頬をかく。
心神が耗弱しているようで、あまり明瞭な答えが返ってこない。エリナを見ながらも、その目はどこか虚ろだった。
「霊薬でも、精神は治療できないからなぁ……」
精神状態を回復させるための魔術・魔法もあるにはあるが、使い手の大半が神官などの聖職者だ。竜の眷属であることがわかれば、即座に処刑されてもおかしくはない。
かくいうエリナ自身も、そうなりかけたのだから。
私は何も悪いことはしていない、誰かから無理やり血を吸ったことなんてない。聞く耳を持たず、銀のナイフを掲げる神官達に必死に主張し、抵抗し、泣き叫び――どうにか家に逃げ帰るも、一番憧れていた兄に、家を追い出された。
ついてきてくれたのは幼い頃からの顔馴染みであるルガルだけだ。
ともあれ、リュードは下手に孤児院などに預けるわけにもいかないし、しばらくそっとしておくしかないだろう。
「ん……ふぅ」
よほど空腹だったのか、リュードは瞬く間に食事を平らげる。顔から少し緊張が抜けたのを見て、エリナは微笑ましげにリュードの頭を撫でた。
「……?」
リュードはきょとんとした顔でエリナを見上げた。今までより人間らしいその反応に、エリナはリュードを膝の上にのせ、何度も頭を撫で付ける。
「ん……」
リュードは無気力にされるがまま、けれど少し表情を緩めていた。
「……ふふっ」
エリナはリュードをぎゅっと抱きしめる。自分と同じように、魔物の特徴を持った少女。そんな子がこうやって、自分に気を許してくれるのが嬉しかった。
明日は服を買ってきてあげよう。髪も伸びっぱなしになっているし、整えてあげたい。迂闊に外に連れ出せないのが残念だが、その分できる限り外に出る用事を減らして、部屋で一緒にいてあげたい。
「よしよし……あ、そうだ。ルガルの持ってきた物、確認しておかないと」
エリナはリュードをベッドに座らせ、机の上に置かれた革袋の中身を取り出していく。
これは、ドラゴンの死体のすぐそばに落ちていたものだ。竜殺し達の持ち物ではないらしく、貴族として自分より見識が広いエリナに確認してほしいとのことだった。ドラゴンとの戦いに巻き込まれたのか、あちこちが破け、傷ついているが、貴重な物もあるかもしれない。
「ヒビの入った眼鏡に、本の入った鞄、これは、財布かな」
まず眼鏡。随分と精巧で、フレームが知らない材質でできている。鉱山人種の職人が作ったものだろうか。もしそうならヒビが入ったこの状態でも、レンズを取り替えればそこそこの額がつくだろう。
次に鞄。こちらもよくわからない材質だが、他のものより損傷は少ない。中に入っている本は、質の良い紙に見たことのない文字が印刷されている。ところどころにある絵も色付きの非常に写実的なものだ。国立の魔導学院でも、このような書籍はそうそう無いだろう。学士あたりが欲しがるだろうか。
そして財布。これは普通に革製だ。両替切手のようなものが数枚と、やはり見たことのない硬貨が十数枚。
加えて、少年の顔が描かれた冒険者カードのようなもの。カードは上半分が千切れ、少年の鼻から上の部分がなくなっている。そのせいで人相がわからないが、リュードの着ていた黒い服を身に着けているのが、手がかりと言えば手がかりだろうか。
最後に、金属で出来た板だ。片面は黒く、ガラスのようなもので覆われている。側面についた小さな出っ張りを押すと、真っ黒だった部分が淡く光り、水玉のような模様がゆっくりと動きだす。
「……何かしら、この板。魔道具みたいだけど、魔力は感じないし……」
「……ケー、タイ」
「え?」
それまで無気力にエリナを見つめていたリュードが、ぽつりと呟く。
「携帯? これを持ち歩くってこと?」
「……」
頷くリュード。だが、それだけでは何もわからない。
「えーっと……じゃあ、この男の子が誰か知ってる?」
「……」
エリナが千切れたカードを見せると、リュードは爪で自分を指差す。
要領を得ない返答に、エリナは頬をかいた。
「まあいっか……とにかく今日は寝ましょ。リュードは眠くないかもしれないけど、まだ体力が戻ってないだろうから、ゆっくり横になってて」
「ん……」
リュードをベッドに寝かし、魔術の灯りを消す。
魔力が散り、段々と暗くなっていく部屋。わずかに差し込む月光だけが室内を照らした。
自身もベッドに横たわり、毛布を被るエリナのそばに、リュードが近寄る。
「……一緒に寝たい?」
「……」
無言で首筋に顔を埋めるリュードを見て、笑みを浮かべながらエリナは目を瞑り、眠りについた。
※
「…………」
月が沈む。光が完全に消え、黒く染まる部屋の中、竜画は瞳を赤く光らせながらエリナに近づき、息を吸った。
――美味しそうだなあ。
体内をどろりと流れる竜の血を感じながら、眼の前の肉を眺め、竜画もまた、目を閉じた。