02 刷り込み
日は中天を過ぎ、夕暮れの気配が見え始めた頃。一組の男女が森の中を歩いていた。
一人は、色素の薄い金髪を揺らす、長身の少女だ。装いこそどこにでもいる汎人種の町娘だが、気品のある顔立ちと典雅な所作は隠しきれていない。
加えて森で狩りをするためか、腰に幾本ものナイフを提げ背には矢筒を背負っているのに、短弓さえ帯びていない不自然さ。本人の印象も相まって「世間知らずな貴族の娘が冒険者の真似事をして遊んでいる」としか思われないだろう。
もう一人は、手足に鉛色の鱗を生やした茶髪の少年――否、青年。汎人種と鱗人種の混血である彼は、成人男性にしては低い身長に、線の細い顔立ち、加えてそばを歩く少女が長身であることも相まって、実年齢より随分と若く見える。
とはいえ、その身体はよく鍛えられた戦士のものだ。相応の筋力が必要となる金属鎧を苦もなく着用し、使い込まれた長槍を帯びる姿。多少なりとも目端の効く者であれば、まず彼を侮ることは無いだろう。
「お嬢、もう帰らないか? 別にそう大したことじゃないだろ、冒険者が定時連絡を怠るぐらい」
「嫌よ。それに、あの人たちは連絡をすっぽかすような冒険者じゃないわ。もしそんな不真面目なら、『最優の竜殺し』なんて呼ばれていないもの」
「……そんな竜殺し達がしくじるようなドラゴン相手に、俺たちができることも無いと思うんだがな」
「人里を襲ってきた時のために、外見ぐらいは知っておいた方がいいでしょう? 私、今住んでる街結構気に入ってるんだから。ルガルだって、嫌いじゃないわよね?」
「……そりゃまあそうだが。だからって、お嬢がやる必要は無いだろう。もう貴族でもないんだから」
「いいじゃない、これだって一応ギルドの依頼なんだから。それにもう貴族じゃないって言うなら、ルガルも『お嬢』じゃなくて『エリナ』って呼び捨てにしなさい」
少女――エリナにそう返され、茶髪の青年、ルガルが押し黙る。
いつもこうだ。彼女に恩があるルガルは、最終的にはエリナの判断に従うことになる。
それに、口では「もうお嬢は貴族じゃない」と言っているルガルだが、彼自身は未だに自分のことを『貴族の令嬢であるエリナの護衛』だと思っている。
そういう意識もあってか、余程危険が差し迫っていない限り、エリナの言うことに逆らえない。
「そろそろね。念の為にこれ以上は近づかないようにして、木の上から様子を――」
そう言ったエリナが、急に言葉を切って黙り込む。瞼を閉じ、険しい顔で意識を集中させていた。
「……どうした?」
「――子供の血の匂い。死にかけてる!」
そう言って、エリナは駆け出した。
「な……ちょ、待て、お嬢!」
慌ててルガルも駆け出す。彼の方が脚力はあるものの、何分金属鎧を纏っている身である。全力疾走でも追いつくのがギリギリだ。
木々を抜けた先にあったのは、巨大な竜の骸だった。
死してなお感じられる強大な魔力にルガルは身震いする。これに匹敵する竜は、各国で祀られる伝説の守護竜や霊峰に住まうという魔竜王ぐらいのものだろう。
「なんだ、この竜……。あっちは冒険者の死体か? もしかして、相打ちに……」
「ルガル、あの子!」
そして、血に塗れた一人の少女がいた。
ルガルはあまりの生気の薄さに死体かと思ったが、細く息を漏らしている。
十歳程度の、幼い少女だ。鮮やかな金髪に、黒髪が入り交じった不思議な髪色。破れた黒い服はどこぞの軍服のようだが、大きさが全くあっておらず、他人の物であることは間違いない。服から覗く肌は、内側から破裂したように裂けている。加えて、手には抜き身の魔剣を縋るように握りしめていた。
そして――それらが気にならなくなるほど特徴的な、額から生えた二本の角と、鱗の手足。
一見、鱗人種の近縁種のように見える。だが、自身も鱗人種の血を引くルガルには、この少女が全くの別物であることを理解出来た。
「何、あの傷……すぐに手当しないと……!」
「待て! ダメだ!」
「どうして?! あの子も鱗人種でしょ!?」
「アレは、竜の眷属だ! 竜に呪われ、その命に従う人間……!」
ルガルは険しい顔で少女を睨み、手に持った槍を突きつける。
モンスターの眷属となった人間は厄介だ。魔物の力を持ちながら、知能は人並み。一般人を装って、冒険者を襲うことも珍しくはない。
「アレは魔物の一種だ、弱っている今の内にトドメを――」
「ああもう、黙りなさい!」
ごす、とルガルの尻に飛び蹴りが叩き込まれる。
そのままエリナは脇腹に回し蹴りを放ち、ルガルを横に蹴り転がした。
装甲の薄い部分を適確に狙われたルガルは、地面に倒れて悶絶する。
「て……鉄板入りの靴で蹴るな……」
「大体それを言ったら、私だって魔物の一種じゃない! 私はこの子を連れていくから、ルガルはこの辺りを調べて、ギルドに報告しておいて!」
エリナはそう言いつけ、少女を抱える。
目を閉じ、周囲に輝く緑の魔力を迸らせながら、風を操る呪文を詠む。
「待て、お嬢――!」
「『塵を拐う旋、形無き運び手、我が手に手綱を譲れ』――《風旅の車輪》」
巻き上がった風が、エリナと少女の身体を空高く運んでいく。
ルガルの制止も虚しく、エリナは空を翔けていった。
※
とある高級宿の一室。
夕日が差し込む部屋の中、エリナは応急処置を終え、一息つく。神官に診せることはできないが、既に高位霊薬は飲ませてある。これで、すぐにどうこうということはなくなったはずだ。
(結構高い薬だったけど、仕方ないか)
空になった瓶を机に置き、少女の身体を拭いていく。
(それにしても……)
べっとりと血に塗れた布を洗いながらエリナはしげしげと少女の顔を眺め、そっと頬を撫でた。
「……この娘、可愛いのにね」
こんな苦しげな顔でなければと、エリナは沈痛な面持ちで顔を歪ませる。
顔立ちはそれなりに整っているが、別段美少女というわけではない。むしろ、雰囲気としては少女より少年に近かった。けれど、小動物的な愛くるしさというか――そう、食べちゃいたくなるという形容がしっくりきた。
「……」
家を勘当される原因となった牙を舌で触りながら、少女の鎖骨に付いていた血を指先で掬い、舐めた。
「……あれ?」
微かな酸味と、濃い旨み。エリナは予想と違う血の味に、きょとんとした顔で小首を傾げる。
「男の血?」
慌てて服を脱がし、股間を確認する。当然、何も無い。
エリナはほっと息をつく。きっと、死んだ冒険者達の返り血だったのだろう。
「あ、そうだ」
脱がせたついでに服を洗う。血塗れになった服をいつまでも着せておくわけにはいかない。
貴族だった頃は洗濯などろくに出来なかったし、そもそもやる必要もなかったエリナだが、今は別だ。身の回りの大半のことはラガラがやってくれるが、仮にも一人前の男である彼に自らの下着を洗わせるわけにもいかなかった。
この少女の服にも早めに服を買ってきてあげないと――そう思いつつ、ベランダに服を干していると、背後で少女が起き上がる気配がした。
「あっ、起きた? 痛いところはある?」
裸のままベッドに座り込んだ少女が、何もない空間に目をやる。その目は血のように赤く、暗い光を宿していた。
筋肉も贅肉もさほどついていない、精霊人種のように細い肢体をゆっくりと揺らしながら、小首を傾げる。
(……蛇みたい)
ルガルのような鱗人種は汎人種より瞳孔がやや大きいが、形状にさほど違いはない。
だが、少女の瞳孔は縦に割れていた。真っ赤な瞳も相まって、まるで毒蛇――否、正しく竜のようだ。
「…………」
「……どうしたの?」
少女はエリナの言葉に返事を返さず、虚ろな目で自身の身体を眺める。
ぼおっとした表情で鱗に包まれた手足を眺め、細い胴体を眺め、金と黒の入り交じった前髪を眺め――引きつった声を漏らした。
「――ひひっ」
まるで笑うような吐息。吊り上がった口元。だが、その表情は酷く苦しげに歪んでいた。
「く、ひひひっ……はははっ……」
「……」
「……はは……ひひひっ……」
「……」
「は、はは……はっ……」
張り付いた悲痛な狂笑は、まるで涙を堪える嗚咽のようだった。まるで怯えるように自身を見ながら震える少女を、エリナはぎゅっと抱きしめる。
「大丈夫……もう、大丈夫だからね……」
エリナには少女に何があったか推し量ることは出来ない。口から出てくるのはそんなありきたりな言葉だ。それでも、せめてこの少女を安心させようと、優しく声をかけ、そっと背中を叩く。
そこで初めてエリナの存在に気づいたように、少女が紅い瞳を向けた。
「あ――」
「安心して……もう、怖がらなくていいから……」
ぽたりと、エリナの肩に熱い滴が落ちる。
「う、あ……っ!」
声を押し殺して、少女が涙を零す。
流れ落ちた涙が止まり、ルガルが帰ってくる頃、少女は泣き疲れたように眠っていた。
その表情が僅かばかりに和らいでいるのが、エリナにとっての救いだった