01 あまりにもあんまりなランダムエンカウント
彼は、いつも通りに学校の帰り道を歩いていた。
夕焼けに染まる町。この時間帯は家に帰る人々で少し道が混むが、その日は全く人気がなかった。
「珍しいこともあるもんですね」と一言つぶやく。当然、それに答える者はいない。友達の少ない彼は、高校に入ってから一度も誰かと一緒に下校したことがない。
彼が高校生になってそろそろ三ヶ月。未だに知り合いも友達もろくにいない現状にため息をついた。
別段、人付き合いが悪いということもないはずなのにな、と赤くなった空を見つめる。
ともあれ、人が少ない以外は何の変哲もないいつもの通学路だ。家が近くなり、彼はわずかに足早になった。
今日も何事もなく一日が終わりそうだ。嬉しいような、悲しいような――そう思いながら、彼、柳道竜画は何度も通った道を進む。
そして、竜画が家のそばにある交差点を曲がった瞬間、そこはいつもの通学路ではなくなっていた。
見渡す限りには木々しかなく、そろそろ地平線に沈むはずだった太陽が空高く登っている。
ここは、どこだろう――彼はそう思って、振り返った。いや、振り返ろうとした。
「異世界の人間はいかなる味かと楽しみにしておったのに、こやつは男ではないか。つまらぬ」
背後から低くくぐもった声が聞こえる。瞬間、竜画の体は吹き飛ばされた。
浮遊感とともに視界が回る。鈍痛が全身に響くのと、地面に落下するのは同時だった。
痛みに呻く。驚愕より先に感じたのは疑問だった。何が起こったのか。何をされたのか。何のために、誰が。
その答えはすぐに出た。竜画の眼の前にいる怪物を見れば瞭然のことだった。
そう、それはまさしく怪物だった。
体高は十メートルを優に超え、鉄のような黒い鱗がギラギラと輝いている。加えて力が詰め込まれた強靭な四肢に、大きな影を落とす一対の羽。獰猛と残虐が同居した紅の瞳。禍々しい光を放つ赤銅色の双角。
竜――およそ、存在するはずのない、実在するはずのない生物。ゲームや物語の中にしかいないはずのその存在が、他の全てを塗りつぶすほどの威圧感をもって、自身を過剰なほど鮮烈に主張していた。
「おい、お前。言葉はわかるのだろ? 眼鏡などかけて、賢そうな顔だ。面白い小噺でもこさえてみよ。楽に殺してやるかもしれん」
ずん、と無造作に体を踏みつけられる。体内の何かが衝撃に潰れ、はみ出した右腕がありえない方向に曲がった。
全身を伝う激痛。聞こえてくる音はあまりにもけたたましくて、彼は一瞬それが自分の悲鳴だとわからなかった。
「ぎ、ぁあああああああ――ッ!?」
「おお、良い鳴き声だ。くははっ、やはり、ヒトの苦鳴は快よいな。こればかりはどこの世界でも変わらぬらしい」
ドラゴンが顔を覗き込むようにして屈む。肺が圧迫され、肋骨の折れる音が響いた。
「っぐ、あ、ぁああっ……!」
「まだ寝るなよ、遊び足りぬではないか。……くく、我も上手くなったものだ。ヒトを生かさず殺さず、丁寧に潰すことにかけては、竜の中でも一番だろうな」
激痛で頭が回らない。視界が揺れるのは、恐怖で身体が震えているからだろうか。竜画にはもはやそれすらわからなかった。
「おっと、よく叫ぶものだから、何を話すか忘れるところだった」
景色が回る。
七回、竜画の体は地面を転がり、何か水気のあるものにぶつかって停止した。折られた腕に衝撃が響き、彼の全身が痙攣する。
竜画は目だけを動かし、それを見た。
「さて。我は生娘の肉しか食わぬ故、普段なら男など甚振って晒すだけなのだがな」
死体だ。馬車らしきものの残骸に埋もれ、血の赤色に塗り潰された四つの人型。
四人のうち二人はこれ以上なく残虐に壊され、もはや容姿などわからない。だが、体格からして全員が男性であるように思えた。
「……異世界人の肉というのは少し興味がある。しかし、お前を哭かせて遊ぶのも楽しそうだ」
ドラゴンがゆっくりと竜画に近づく。ひゅん、と音がしてその巨大な腕が捉えきれないほどの速さで動き――眼球が、潰れた。
「いっ、ぎぃいいいいッ!?」
「少しばかり戯れるとしよう。飽きた頃に生きていたら、適当に弄ってみるか」
そこからは、地獄だった。
「が、あ、あ――」
痛めつけられた。切り落とされた。叩き潰された。抉られ、砕かれ、刻まれ……
「――」
彼の絶望ももはや何度目だろうか。どれだけの時間が経過したのかもわからない。
「――」
誰でもいいから誰かに会いたい。父さんの顔が見たい、母さんの声が聞きたい――けれど、もう目も耳も口もなくなっていた。
そして、竜画の身体に液体のような何かが落ちてくる。全身が溶ける、おぞましい感覚がした。
肉が寄り集まり、失った器官が生み出されていく。
目に光が戻り、破壊されたはずの聴覚が再度機能し始めた。
「ほう、竜血の呪いなど普段使わぬ故知らなかったが、ここまで壊しても戻るのか」
だが、それは救いでもなんでもない。まだ地獄が終わらないというだけの、無慈悲な宣告だった。
「しかし、思ったよりも小さくなってしまったな。遊んでいる時に肉が削げたか? ま、子供の肉は柔らかいし、これはこれで美味そうだ」
彼はまだ薄暗い視界の中で、自分の身体を見る。
「……え」
破け、血に塗れた学ランのサイズが、合わなくなっていた。
制服の裂け目から見えるのは、細くなった自分の腕。元々竜画は筋肉も贅肉もあまりない痩せ型である。だが、それでもこの細さは異常だ。まるで、子供の腕のような――
「では、食うか。ああ、その前に酒でも呑むか? せっかくの珍しい肉だからな……」
「ひっ――!」
気にしている余裕はない――動く四肢が戻り、恐怖に突き動かされた竜画は、立ち上がり、駆け出そうとする。だが、それより早くドラゴンの口から超常の言語が発せられた。
「《動くな》」
「ぎっ……!?」
地面に崩れ落ちる。脚全体が爛れるような痛みだ。逃げようと足を動かすだけで、骨の内側から焼かれていくような激痛が走る。
「い、あぁああっ……!」
「くは――子供の悲鳴も良いな、水晶を砕くような音だ。さて、人間共の運んできた酒はどこにやったか」
「だ、れか、だれか……!」
竜画は必死に手を伸ばす。だが、腕に走った激痛に、ほんのわずか指が伸びるだけで止まってしまう。
「たす、けて――」
しかし、その指が何かに触れた。
「――――」
「……あ」
血溜まりの中に倒れていた四人のうちの一人が、立ち上がる。
ドラゴンがそれを見て小さく呟いた。
「……ほう、しっかり潰したと思っていたのだがな」
他の三人とは違い、その男にはまだ息があった。
だが、何故立ち上がれるのかわからないほどの有様だ。身体中の骨が折れ、呼吸はほぼ止まり、心臓も動いているのかわからない。そもそも心臓の運ぶべき血の大半が体外へと流れ落ちていた。
それでもその男は、わずかしか開かない目に闘志を宿し、杖をつくように金光を放つ剣を持って、ドラゴンと相対していた。
竜画は縋るような目で男の背中を見る。
「助けて、ください……っ!」
男は掠れた声で、けれど確かに竜画へと応えた。
「大、丈夫だ……すぐに、こいつを――」
「そら」
そして、無造作にドラゴンの足が振り落とされ、男は潰れて死んだ。
「――――」
「おお、あったあった。我としたことが、壊れぬように木の陰に隠したことを忘れていた」
ドラゴンが転がっていた酒樽を拾い、強引に蓋をこじ開ける。
「うむ。普段は飲まぬが、なかなか美味いな。久々の美味そうな肉のために、喉を潤すにはちょうどいい」
竜画が呆然と持ち主を失った剣に触れる。すがりつくように柄を握りながら、狂ったように笑いだした。
「ひ、ひひ……」
張り付いた狂笑の上を、涙が流れ落ちた。その哀れな姿を見て、ドラゴンが楽しげに笑う。
「――ああ、本当に美味い」
竜は口元を歪め、景気良く酒樽を飲み干した。
※
哀れな人間の絶望を肴に、竜――邪竜王ノウォルは酒を呷る。
これほど美味い酒は久しぶりだった。やはり今から喰らう贄の哀れさ故だろうと、喉を鳴らして笑う。
一瞬でも、助かると思ったのだろうか? 喰われずに済むと思ったのだろうか? あのズタボロの冒険者が、英雄のように自分を救ってくれると夢見たのだろうか?
ああ、きっとそうだ。冒険者を軽く踏み潰した時の贄の表情と来たら、思い出すだけで酒がすすむ。
愚かなものだ。ヒトの命がどれほどあっさりと潰えるのか、全く知らぬ者の顔だ。
「くは、はははっ――」
これほど呑むのは久しぶりなので、少しふらつく。だが、たまにはいいだろう。
ノウォルは竜に珍しく、金にも酒にもさほど執着しないが、嫌いというわけでもない。
家族が路頭に迷うと言われればわずかな財宝でも嬉嬉として奪うし、今のようにヒトの絶望があれば安物の酒でも呷るように飲み干す。
確かに竜と言えば酔わせて殺すが定石だ。しかし、何よりもヒトの苦しみを好むノウォルにだけは当てはまらない。
そも、たとえ酔ったところで竜の王である自分が負けるはずもない。死んだ冒険者達も竜退治には慣れていたようだが、並の竜を殺して悦に入っている者など一捻りだ。
どこぞの貧弱な竜を殺した勲に、何の意味があるものか。竜を殺す魔剣など皮を裂くのが精々で、鱗の一枚も削げはしなかった。
己を預けた名剣にその身を貫かれる剣士の無様さたるや、どれほど笑っても足りぬほどだ。
しかし、ヒトというのは不思議なものである。痛みしか感じないほどに痛めつけ、一歩も動けないはずなのに、時折ああやって立ち上がり、自分に牙をむくことがある。
とはいえ、それだけだ。遊べる回数が一度増えるのみで、何の意味もない。
「む……」
急に眠気がきた。そして、身体の痺れも。思わず、手から酒樽を取り落とす。
「チッ……」
毒だ。並の竜なら即座に死に至るほどの猛毒だが、呪血を統べるノウォルには少し動けなくなる程度の効果しかない。
不承不承、地へと伏せる。
即座に贄を食えないのは不服だが、恐怖を与えると思えば我慢出来る。仮に逃げるならそれでもいい。アレの身体は既に自身の眷属と化している。ノウォルの命なく動くことはできない。逆らえば、竜の血を介した呪いによって、死に匹敵するほどの激痛を味わうだろう。
力を抜き、瞼を閉じる。
けれど、その寸前。
ノウォルが瞼を閉じる寸前に見たのは、苦しみに血反吐を吐き、血涙を流しながら自分に向かって魔剣を振るう贄の姿だった。
「くひ、ひ――くは、はははははっ!」
呪いで痛みしか感じないほどに痛めつけられ、一歩も動けないはずなのに、それは立って、笑うように牙をむいていた。
「な――」
ざくり、と眼球を貫き、脳髄に竜殺しの魔剣が突き刺さる。
それで最後だった。
人々に恐怖と絶望をもたらす邪竜の王は、命がどれほどあっさり潰えるのか全く知らぬ者の顔で死んだ。