魔王、疲れを癒し、思い出す
シロリア王国
王専属科学者ダニールの研究室の地下。
「さあ、早く血でサインをしろ! 」
鞭がバシッと褐色の肌の男の背中を打った。
男は奴隷である。嘗て負けてしまったダラハットの国民の一人だ。
意識が朦朧としてきた男は、指先の傷口の血を契約書に塗った。
衛兵が男を押さえ付け、白衣の研究員が手に持った、赤い液体の入った注射器を男の動脈にぐさりと突き刺した。
赤い液体即ち人一人分の魔力を抽出して凝縮させたものである。
それを、一気に注入した。
「ウアアアアアアアアア!!」
獣の様な絶叫が響く。
男の体は醜く肥大化し、背は4m迄達した緑の怪物へと変貌した。
男の絶叫に木霊すように、他の怪物にされた者達も唸り出す。
「静かに!」
ダニールが叫ぶと怪物達は静かになった。
「だいぶ命令がきける様になったな。だがまだ訓練しなくては。次は魔法の訓練を。」
怪物達は今のところダニール含め、国の上層部の命令でしか動かない様にしてある。
契約書の文字には金や銀を溶かしてアメジストを一定量混ぜた豪華な泥で書いてある。
金や銀等ただでさえ貴重な素材な上、泥はある問題のせいで、ストックが残り僅かしかない。
フラスコ3個分しか成功しなかったからだ。
他にも幾つものフラスコで泥を作製したが、どれも何故か効力を発揮しない。
300個中たったの3個。成功率1%である。
その貴重なもので描かれた貴重な契約書で作った貴重な人工魔法兵の一人を、あろうことかアイツは逃がしてしまった。今まで失敗は多かったが今回の失敗は、許すことは出来ない。
「トーマス、貴様はクビだ!」
ダニールは容赦無くトーマスこと魔王、縁 飛魔 の腹を蹴った。
ぐぇっ、と音をたてて魔王が扉の外に放り出される。
震えつつ起き上がった魔王はこれまた震えた声で訴えた。
「すみません! すみません! 申し訳ございません!」
地面に頭を擦り付けて懇願する魔王に対してダニールは憤怒の表情で怒鳴った。
「今回ばかりはこの失敗は許せん! まさか、地下のハッチを間違って開くとは。
お陰でエマリカ国境まであれを逃がしてしまった。殺せたとは言え、奴等に死体を晒すことになったのだ! 其がどれ程危険なことか分かるか!?」
「 スイッチを間違えたことは本当に申し訳ございません。ですがもう失敗はしません! お願いです‼ 解雇しないで下さい!お願いします!」
バタンッと研究室の扉が閉じられた。
魔王は一度、項垂れてトボトボとその場を後にした。
普通は死刑にされてもおかしくない失敗だが、ダニールは情のある男だ。隠蔽してくれて解雇ごときで済ませてくれた。
甘いわね、ダニール。予想通りだわ。
だからあんたは、あたしが来るまで出世出来なかったのよ。
さてと、取り合えず次の就職先を探す振りでもしておこうかしら。
あえて解雇にされた魔王は、トボトボという効果音が似合いそうな程見事なトボトボ歩きで、シロリアの朝の街へと繰り出した。
パン屋に行って、パンを次々と焦がして解雇。カフェに行って次々と皿を割って解雇。
その他様々な失敗をして合計5つ程仕事をクビになった。
この位かしら。
魔王は空を見上げた。
すっかり暗くなった空を見上げる。星が雲間から瞬いていた。
魔王は石畳の橋の上に着いた。下にはリョーシカ川が流れている。
魔王が演じているのはヘタレなトーマス。
せっかく研究員の助手になれたのに大ぼかをやらかし、新たに職を探しても次々と失敗ばかり。
そして、人生と自分に絶望したトーマスは。
魔王は橋の欄干に足を掛けた。
「自殺をする筈よね。」
そのまま川へとダイブする。
ざばーーん。
水しぶきが上がった。
死体が流されていく。
顔を潰したトーマスと背格好がよく似た死体が。
「お疲れさまでした。魔王様。よくぞご無事で。」
魔王は今、橋の下で待機していた秋桜と共にシロリア王国の夜の空へと逃げていた。
秋桜の持ってきた金の刺繍が施されたアメジストに魔力を流して、姿を消しているのだ。
どんどん上昇していく二人はやがて雲海を越えた。
星々を遮るものは何もない。
本当の意味で満天の星空が広がった空間。
そこに突如として、キラリとオレンジ色の灯りが光った。
二人はその光に向かい、そして飛び込んだ。
オレンジ色の光、それは空の色と同化させている飛行船の窓の1つが開いて、室内のランプの灯りが漏れたものだった。
「よいしょっ。」
魔王はスチャッと部屋の中に着地する。
秋桜も寄り添うように続いた。
「お帰りなさいませ! 魔王様! 」
「お帰りなさいませ。よくぞご無事で‼」
仲間達が口々に魔王の帰還を、喜んでいる。
石蛭に至っては感激に涙を流して、飛び付かんばかりに魔王に迫ってくる。
魔王は慌てて仲間から一歩離れた。
「ありがとう。皆には心配をかけたわね。ただ、今はちょっと近づかない方がいいわよ。今ちょっと川臭いから。」
魔王は石蛭を見た。
「石蛭、お風呂の用意をしてちょうだい。」
「畏まりました!」
石蛭がダッシュで部屋から出ていく。
その顔は心底嬉しそうだった。
飛行船内2階の風呂場。大理石をあえてざっくりとカットして並べたそれは岩風呂の様な造りをしていた。
体をシャワーで洗った後、溜められたやや熱めのお湯に足先からゆっくりと入る。
肩までじっくりと浸った。
「あぁ~、生き返るわ~。」
湯槽には魔王のリクエストで蜜柑の皮が浮かべられている。
暫く寝不足な生活のため疲弊した魔王の白磁の肌に、美肌効果のある蜜柑の皮のエキスが潤いを与えていく。
体が熱くなったので上半身だけを湯槽から出して、魔王は大理石の一つに背中を預けた。
そのまま、ボーっと天井を見上げる。
赤と白の市松模様のタイルで出来た天井。赤いタイルには、一つ一つ黒い線で絵が描かれている
魔王はそれを目でなぞっていった。苺、林檎、薔薇、てんとう虫。
そして紅葉、、、。
山々が見事な紅葉を向かえた季節。紅葉の葉がひらひらと舞い躍り、庭のススキに降り注ぐ。
ヒガリ王国の古く、奥ゆかしい木造の王城。
紅葉の木の見える庭に面した廊下を、二人の影がバタバタと駆けていく。
「待ちなさい! 桜! 」
短い黒髪に漆黒の瞳を持った少年が、深紅のフリルがふんだんに付いたドレスを持って追いかける。
対して、もう片方の人影はアハハハと笑いながら逃げていく。
濡れたような長い黒髪に、桜色の瞳。そして誰もが目を見張るような美貌を備えている少女は、軽やかに兄の追撃をかわして走る。
「兄様、こっちよ~。」
鈴がなるような声で可憐に兄を挑発する。
だが、兄も負けてはいない。
「今日こそ、そのダサい灰色の民俗衣装をやめさせてみせるわ!」
持っていた深紅のドレスを走る方向に吹いていた風に乗せて、パッと離した。
風に吹かれてドレスが少女の小さな頭を包み込む。
「うわわっ!」
少女が足を止めたところで少年は、すかさずドロップキックをかました。
「痛っ。兄様、反則ですわ!」
「別にあたしは、あんたと追いかけっこしてるつもりは微塵もないわよ。だから反則とかルールとかは無いの。さっさとそのダサい灰色の服を着替えなさい。せっかくそんな綺麗な顔しているんだから。もっと女らしくなさい。」
「私はこれが良いのです! 兄様の分からず屋。それに兄様こそ、もっと男らしくすべきではなくって? サボってないで、もっと剣の稽古をすべきです。」
「あんたと違ってあたしは忙しいのよ。魔道具の改良とかしなきゃだし。逆にあんたは乙女にしては剣が強すぎるわよ。腕っぷしの良すぎる乙女は結婚出来ないわよ。」
むすーっとした少女は、ふと、何を思ったのかフワリと花が咲くように笑った。
「ふふふ、私、知っていましてよ。」
「何を? 」
「兄様が実は女装して、こっそりとこの城を抜け出し、町に下りているのを。」
うっ、とつまった魔王は目を反らした。
「な、なんのことかしら?」
「その証拠に兄様の口調が最近下町の女性の様になっていましてよ。」
少年があー、えーっと、と言い訳を考えているのを見て、少女は畳み掛けるように口を開いた。
「それに、本当はそのドレス、兄様が着たいのではなくって? 」
「はあああ!? 何でそう思うのよ!? 確かにバレないように女装して主婦の洗濯しているとこに混じって井戸端会議に参加してみたりはしてるけど、別に女装したいって願望とか、別に無いわよ! 」
驚きのあまり、色々と口走ってしまっていることに気付いていない兄に、少女はまたしてもフワリと笑みを浮かべた。
「兄様、夜中にこっそりとフリフリのお洋服を自分に当てて、鏡の前で夜な夜なターンしているのを見ていましたのよ。」
少女はうふふふふっと笑った。
「ど、どっから見てたのよ。」
常に周りは確認していたのに。
兄のうめきに、少女はけろっとして答えた。
「天井裏ですわ。隙間から見ていましたのよ。」
「どっから覗いてんのよ! まったく。覗き見なんて、悪趣味!」
少女は不思議そうに首をコテンと傾けた。
「そんなに着たいのであれば、着ればよろしいのではなくって?」
「何を?」
「フリフリの服を。」
少年は顔を真っ赤にした。
「で、出来るわけ無いでしょ! お母様に似た綺麗なあんたと違って、あたしはお父様似なのよ! 平凡なの!」
「でも、兄様のかんばせはどちらかと言えば女形だし、似合うと思いますわ。なんなら、ギリギリ男っぽくコーディネートすれば良いのではなくって?」
「ギリギリ、、、男っぽく?」
「ええ。」
少年は目を見開いた。
「成るほど! その発想は無かったわ! ありがとう、桜。」
少年はくるりと向きを変えて元来た廊下から自分の部屋へと向かった。
少女は兄の追撃を逃れることが出来たことにホッとした。
次の日。
「飛魔!!?なんだその格好はあああ!」
ヒガリの王であり、少年の父である彼の絶叫が、王宮に響き渡った。
少年と同じ漆黒の瞳は驚きと絶望で見開かれている。
「まぁ、あなた、よいではありませんか。」
おっとりとした声で美しい王妃がなだめた。
少年は昨日少女にあげようとしていた深紅のドレスを改良して、黒のパンプスと合わせたのだ。更に赤いアイシャドウまで付けている。
「うっさいわね。あたしはこれが良いのよ!」
そう言って少年はタッタカと逃げた。
「待たんか! このバカ息子がーーー!」
父王の絶叫が再び木霊した。
バシャッ。
魔王は風呂の水面下から慌てて起き上がった。
「はぁ、はぁ。」
漆黒の髪から水滴が落ちる。
どうやら疲れが溜まっていたせいか、湯槽で眠ってしまったようだ。
「夢か。」
懐かしい、あの頃の思い出だった。
「もう、あの場所は、、、。」
無い。
あの頃にはもう、戻ることは、、、。
桜も、父王も 母上も、井戸端会議にいた主婦達も、もう、この世にはいない。
でも、過去を取り戻したい思いは、消せない。確率がゼロでない限り、絶対に。
魔王は湯槽から上がった。
ヒタヒタと歩き、風呂場の扉を開けて、脱衣所に出る。
バスタオルで体を拭き、ゆったりとした黒いバスローブを羽織った。
スリッパを履いて、そのまま自室に向かい、ロッキングチェアに腰かける。ロッキングチェアの肘掛けに右肘を立てて、頭を預けた。
窓の外はすっかり闇夜であるが、魔王はそのまま眠る気には、なれなかった。
ロッキングチェアを揺らしながら、星と星の間の漆黒の空間を、暫く眺め続けていた。