第一話 雲丹の君
三年前投稿されちゃってた事に気付いたのでついでに次話投下。インスタントラーメンは一度に二玉食べます。
巨大な構築物が空に浮かんでいる。
眼下に見下ろす瓦礫と化した都市の住人ならば、真っ黒な雲丹が五・六個歪に連なった様だと表現できるだろうが、自らの居城が他人にどう印象を持たれようと魔神には興味がないし、見る限り地平の果てまで壊滅せしめた島国を眺めたところで、さしたる感慨が湧く事もなく、もはや廃墟となった都市のあちこちからもうもうと吹き上がる黒煙がテラスまで上がってきても、気怠げに足を組み直し払い散らすだけだった。
「"靴紐"、いるか?」
「ここに、主様」
"靴紐"と呼ばれた者が音もなく虚空より現れ、魔神の背後に跪く。
縦七メートル、横に三メートル程の複雑な華美をもたされた摩座の後ろから、そこに腰掛ける己が主を窺うことはできないが、次なる言葉が溜め息とともに吐き出され、小石のように足下へ転げてゆくのも、その後の問答の行方も"靴紐"には分かっていた。
「簡単だったなぁ」
「左様で」
この星の、この島国の時間で、現在は中天を過ぎた頃。
朝方に侵攻を開始し、一段落ついてから三時間程。
それからこの会話を何度繰り返したろう。
主は失望している。
それは、主の期待した"力"の持ち主が現れなかったからだ。
やはりというかなんというか。
最初から次元を超える者は見付からなかったのだから、こちらが出向いたところでいない者はいないのだ。
そもそもやる気出し過ぎだ、と"靴紐"は思った。
確かに主としては心踊る試みであったろう。前回"稀な者たち"が挑み来た時、近衛である自分は当然先に倒されたのであるが、瞼を閉じる刹那に垣間見た主の顔は、待ちに待ったと喜悦に輝いていた。
あれからどれだけ時が経ったのか。新たな戦いを待ちきれない主が今回の事を思い付いた、その時の顔ったら。まるきり目の前に"稀な者たち"が現れた時とおんなじだった。
いきなり主要戦力投入ですか?と十五回聞いて、柔らかく諌めたつもりだった。自分には"力を持ち得る兆し"の様なものは感じ取れなかったのだが、もしいたとしても、覚醒前に初戦で丸焼きにさらしてしまうのである。
結果焼け野原になってしまった。
これではもう、どうしようもないな。
"靴紐"は心中でひとりごちた。
「いなかったのかなぁ…」
主はだらしなく摩座に半ば寝そべり、うなだれながら、でもまだ諦められない心の内を、突き出した下唇にのせてピロピロさせているのだろう。見えないが。
「…いなかったのでしょう。惑星全体ではまだ第二走査中ですが、第一の偵察精査も間もなく報告が上がるはずです。が、この島国ほど挑み得る気運は、他の地域からは観測されておりませぬゆえ……」
"靴紐"は、気を遣いながら何度目かの応対を、ぼそぼそとつぶやいた。
「…………」
背の高い摩座を通り越してがっかりが伝わってくる。こうまで落胆する主を見るのは初めてである。最初から無茶苦茶だと思ってはいたが、さすがに"靴紐"も気の毒になってきた。
ゆえに、もう気分を切り替えましょうとお声掛けをする。
「……精査結果を待たずに、もうこの星、消してしまって、次の機会を待ちましょうか?」
魔神は押し黙り、ふんぎりのつかない様子が窺えたが、しばらくして口を開いた。
「そうだな……」
「……では、その様に致します」
気取られぬようにほうと一息つき、"靴紐"は努めて少し明るい声をあげた。
「私にお任せを。ご帰還の準備をさせましょう」
配下の者に命じようと振り返りかけた"靴紐"に、魔神が再び声をかけた。
「そうだ"靴紐"、おまえほれ、あの技なかなか仕上がったって言ってなかったか?撃てんなら試してみなよ。見てみたい」
「……未熟な術ですが、よろしいのですか?」
摩座の背を見つめながら、"靴紐"は思いもよらぬ主の申し出に心を浮き立たせた。
主の仰る技とは、"靴紐"が独自に練り上げた新式の広域殲滅魔法である。ほぼ完成までこぎ着けたものの試し撃ちにちょうど良い機会がなかなか無く、さりとてそこいらにぶっ放しても、正確な観測結果は得られず、微調整も精度が落ちる。
ゆえに完成間近で停滞していたのだが、この星ならば惑星寿命もまだまだ若く頑丈で、大きさも手頃であるから、かなり良い現在値を得られるだろう。
「かまわんよ。やってみてくれ」
主にとっては思い付いた暇つぶし程度の事であろうが、“靴紐”には願ってもない機会であった。喜びが顔に出すぎないよう意識して、背筋を伸ばし、摩座の後ろからゆっくり主の前に歩み出る。
今朝から見慣れた主の容姿は、この星の文明を築いた原生生物の形を取っている。主だけでなくその軍勢のほとんどは、体型が変わり戦闘技法に著しく影響が出ない範囲で、迎え撃つ敵種族の姿へ自らを似せる慣習があるのだ。
それは挑み来る好敵手の感情を昂らせ、その似姿に主へ手が届くかも知れ得ぬ希望を抱かせ、そして正面から叩き潰す意思の脅威を与え、何より敬意を表する為である。
今回は初めての侵攻という事になるが、慣例通りこの星の生物の姿に寄せている。今“靴紐”の目に写る主の姿はこの星の雌、支配種族なら『人間女性』と呼ばれるものだ。重力に合わせたサイズ、この星の単位で170センチメートル程。波打つ長い金色の髪から黒い巻角が飛び出ているところは元の生物と違うが、スマートな身体にくびれた腰と大きく膨らんだ胸部は、おおよその『人間』が好む容姿となっている。
“靴紐”もまた人間女性の姿を取っていた。魔神の肉体に比べてやや控え目ではあるが、充分魅力的とされる身体と、特にこの島国の『壁を超える気運を高めた者達』が嗜好を煽られる様な、表面積の少ない衣服を身に付けている。
主の正面から恭しく御辞儀をし、踵を返して廃墟の街を向く。テラスの端へ歩み寄り、宙へ掲げた両手に魔力を集中し始めた。全身から淡い紫色の燐光が沸き立ち、徐々に両手の間で大きくなってゆく。
「第一術式、展開……」
“靴紐”が慎重に進めようとした、その時。
「あ・ちょっと待て」
主の声で即座に止める。
ほんの僅かに感じた苛立ちを決して表に出さないよう己に厳命し、居住まいを直して振り返った。
「はい主様、如何致しましたか?」
「良い事を思い付いたぞ。この星の奴等は、要するに下等過ぎて力が足りないのだな?なれば、育ててみようそうしよう」
この時ばかりは主が何を言い出したのか、“靴紐”は分からなかった。何を、育てるって?
「どうしたそんな間抜け顔をして。素晴らしい思い付きだろう?相手がいなければ、造れば良いのだよ。そもそもこっちから出向いたのは、敵に会う為だ。ううむ我とした事が迂闊よの。では早速」
「おまお待ち下さい主よ。偉大なる御力で、敵をお造りになられるのですか?」
「そうだが?何か問題あるか?」
“靴紐”は考える。
別に問題なかった。
「ありませんね」
「ないだろ?」
「ないですね」
例えば強大な敵が顕れたとして、主が負けても何の問題も無い。今まで主は何度も倒され封印された。その度に甦って来たのだ。もし今回本当に消滅させられたとしても、それも含めて主が望まれる事だ。
すらりと長い脚で立ち上がり、ツンと顎を反らせて愉しそうに下界を睥睨する主を見るにつれ、だが“靴紐”は、何故自分はこの思い付きを止めようとしたのか考えた。そう、何の問題も無いのだ。なのに、何故?しかしその思考は、テラスを進んできた主へ場所を譲る為に身体ごと横に追いやってしまった。
主は片手を軽く上げ、膨大な妖力を溜め始める。“靴紐”の頭にほんの少しこびりついた懸念は、生み出された巨大な光球に目を奪われた所為で消し飛んだ。
そして主が手を振ると、光球は幾万にも別れ放たれ、島国へ散っていった。満足そうに頷く主。
「さて、楽しみだな“靴紐”よ!!」
“靴紐”もまた頷くが、主の思い付きに対し働いた直感を、頭に鳴り続けていた警鐘を無視した事を、たった数時間で後悔するとは思いもしなかったのである。