彩る爪
週に一度、私は自身の兄の部屋に居座る。
別段、仲が悪いわけでもないが、毎日のように部屋に押し入り過ごす、なんてことはない。
始まりはいつだったか、確か中学二年生の冬休み頃だったか。
その時の友人と出掛けて、似合うよ!と押し付けられた真っ赤なマニキュア。
深いワインレッドなどでもなく、純粋な赤。
マニキュアなんて塗ったこともなければ、この色は主張し過ぎるよ、と苦笑してみたものの、友人の熱弁に負けて買ってしまった。
因みにその時の友人の言葉は思い出せない。
買ったそれを、居間に置き去りにしていたその時、それを見つけたのは、年齢で言えば二つ上の兄。
兄弟が多く、上にも下にもいる私からすると、何番目、と呼んだ方が分かり易い。
二つ上の兄は双子で、その中でも兄の方だ。
ツンツンとした黒髪に、刃物のように鋭い瞳を持つ、兄はそのマニキュアを持って眉を寄せていた。
「勝ちゃん」
襖を開けて首を捻る私を見た兄――愛称は勝ちゃん。
残念ながら、その見た目に似合わない可愛らしい愛称で呼ぶ者は、私しかいない。
無骨な手がつまみ上げている未開封のマニキュアは、何というか、似合わなかった。
双子の片割れ辺りが見たら、お腹を抱えて笑うだろう。
「……お前のか?」
「うん。と言うか、私以外使わないんじゃない?」
家の中の男女比は完全に男に偏っており、マニキュアなんて物があるのは珍しいのかもしれない。
実際に私も、初めて買ったのだが。
年頃の女の子らしいオシャレには大して興味がなく、流行りに乗ることもなかった。
置き忘れちゃって、なんて言葉と共に手を伸ばすが、勝ちゃんは手渡してくれない。
じっとマニキュアの小瓶を見下ろしている。
真っ赤なそれは、勝ちゃんに良く似合う色だと思うけれど、マニキュアは、似合わない、かなぁ。
「……座れ」
ストン、と腰を下ろした勝ちゃんが、自身の目の前を指差した。
目を見開いた私だが、そっと襖を閉めて、胡座をかいて座る勝ちゃんの前で正座をする。
まるで今からお説教でも始まるみたいだ。
真っ直ぐに見つめた勝ちゃんの眉間には、深いシワが刻み込まれている。
ぼんやりと勝ちゃんの眉間のシワを見ていれば、ペリペリと音を立ててマニキュアの包装が剥がされた。
薄いビニールが、小さく丸められてテーブルに置かれる。
何で、開けてるの、言葉にならなかった疑問は喉の中心で出口を探す。
包装を剥がしたマニキュアの蓋を捻れば、独特のシンナー臭が部屋に広がっていく。
蓋と一緒になった刷毛からこぼれ落ちる赤は、燃えるような、ある意味毒々しい色で多過ぎる液体を落とし終えれば、その刷毛は私の爪に向かう。
冷たいような感じがした液体は、ぺたりぺたり、時間を掛けて私の爪を彩っていった。
***
マニキュアを塗り始めた切っ掛けを思い出していると、コツリと目の前に小瓶が並べられた。
冒頭に戻り、私は週に一度の勝ちゃんの部屋訪問中である。
部屋訪問、というよりは、私専用ネイルサロンに来たと言うべきか。
週に一度、私は自身の爪を整えるために、二つ上の兄である、勝ちゃんの部屋にやって来るようになった。
事の発端はやはり思い出していた、中学二年生の冬休み頃で、そこから高校一年生になるまで週一単位で繰り返される。
因みにそれなりに自由な校風の高校に通っているので、マニキュアくらいで何かを言われることはない。
回想している間に、ヤスリで爪を整えることも、甘皮処理も終わってしまったらしく、私は並べられた小瓶を順番に見ていく。
右から順に、アプリコットオレンジ、レモンイエロー、ラベンダー、コバルトブルー、カーマイン。
分かり易い色の示し方なら、橙、黄色、薄紫、青、深い赤。
今日はこの中から選ぶの、と勝ちゃんの顔を見上げたが、相変わらず眉間にシワを刻んで黙っていた。
いつの間にか、勝ちゃんの部屋にはネイル用品が揃っていて、回を重ねる事に、マニキュアの種類は増えている。
私はゆるゆると小瓶の上で指先をさ迷わせた。
暫く迷った末に、一番左にあったカーマインの小瓶を持ち上げる。
すると、勝ちゃんは他四つの小瓶をケースに仕舞い込み、私の指からカーマインの小瓶を奪っていく。
無骨な手には、やはり、それが似合わない。
無言でマニキュアを塗り始める勝ちゃんを見ながら、そっと息を吐き出す。
余談だが、勝ちゃんは濃いめの一色で爪を彩るのが好きなようだ。
はみ出すこともなく、ムラも見えない塗り方を見て、フレンチネイルを頼んだこともあったが、完成後には「こういうのは、あんまり好きじゃねぇな」と呟いているのを聞いた。
その言葉の割りには、とても綺麗に可愛く仕上げてくれたけれど。
シンナー臭いカーマインが、私の両手の爪を彩っていくのを見て「勝ちゃんは器用だね」と言う。
バイクいじりが趣味の勝ちゃんは、短い黒髪に鋭い瞳で、実に男らしい。
程よく鍛えられた体は、妹ながら、見ると拍手を送りたくなる程だ。
「……お前だってこれくらい出来るだろ」
最後の爪を塗り終え、勝ちゃんは小瓶の蓋を閉める。
ケースに戻っていくそれを見ながら、私は緩やかに首を傾げて「やったことないもの」と答えた。
初めてマニキュアを買った頃から、私は一度として自分の手で爪を彩ることがなかったのだ。
長さを整えることも、彩ることも、全て目の前の勝ちゃんがしてくれる。
「乾いたらトップコート塗るから」
「はぁい」
近くに置いてあったバイク雑誌を手に取り、勝ちゃんはその場で開く。
特にすることもなく――と言うか手を使えないので、出来ることがない――手持ち無沙汰な私は、勝ちゃんの部屋を見回す。
物の少ない部屋だと思う。
必要最低限と言うべきか、ベッドに折り畳み式のテーブル、勉強机は存在しないけれど、パソコンはある。
壁に引っ掛けられたパーカーには、子供が見たら泣くようなドクロが描かれていた。
しかし、物が少ないので特別気になるものもない。
それでもネイル用品が詰まったケースは、異質とも言える存在感があったけれど、慣れたものだ。
「ね、勝ちゃんって実はマニキュア塗るの好きなの?」
早く乾かないかな、と指先をパタパタさせながら問い掛ければ、雑誌から顔を上げた勝ちゃんが眉を寄せる。
しかし、直ぐに眉間のシワを残したまま「な訳ねぇだろ」と言われてしまう。
剥き出しの耳に付いた派手な色のピアスが、部屋に入ってくる太陽光でキラキラ光った。
「じゃあ何で?こんなに綺麗に塗れるのに」
「お前の爪だけな」
ふぅ、と爪に息を吹きかければ、雑誌を閉じた勝ちゃんがトップコートの小瓶を手に取る。
テーブルにそれを置いて、私の手を取る勝ちゃん。
無骨な手には似合わない、優しい手付き。
「私も好きだよ。勝ちゃんが爪、塗ってくれるの」
透明の液体が濃い赤に乗せられるのを見て、緩やかに笑えば、勝ちゃんの眉間のシワが消えるのを見た。