iの起結
こんにちは、今日は土用の丑の日ですが、別に食生活に変わりはない遊月奈喩多です!
会社の昼休みを満喫しています!
さっそく行きます。
前回までの、『iによるiへのiの物語』!
皧ちゃん視点2話目でした。幸せな日々を過ごす2人でしたが、皧ちゃんはある夜、いつもと違う夢――別人の「わたし」ではなく自分自身が死ぬ時の夢を見てしまいます。そのことを話したところ……というのが前回の大まかなお話でしょうか。
今回は、色々と真相じみたものが出てくる回ということで、他の話以上に気合を入れて書いたつもりです(ほかの話は気を抜いているというわけではないですよ?)。
では、本編スタートです!
地上では雨が降っているようで、ぼくのいる地下室にも、地面を通り越して地中までも叩きつけるような雨音が響き渡っていた。
僕らを育てた肉親は、家族の目から見ても、いや家族の目から見たからこそ、明らかに心を病んでいた。どうやらそれは僕が生まれる前からのことのようで、そして僕の「親」と呼べる人はその肉親しかいなかった。
そして、僕の名前は「あい」以外にはありえなかった。
その「あい」が誰なのかはわからない、でも幼いながらに、肉親の呼ぶ「あい」が決して僕自身の名前ではないことは理解できていたし、そんな肉親に対して周囲が何かしら嫌悪感じみたものを抱いていることだって理解できていた。
幼い頃の僕は、肉親に依存することでしか生きられなかった当時の僕は、肉親に対して嫌悪を向ける周囲に対して攻撃した。
もしかしたら、その行動の裏には肉親の注意を自分に向けようという意図があったのかもしれない。
何故なら肉親は、僕ではなく僕の名前に刻まれた「あい」のことしか見ていなかったから。
朝、優しい声をかけられるときも。
温かいご飯を与えられるときも。
幼稚園に向かうバスに乗るときにも。
家に帰って、温かい体に抱きしめられるときも。
体中を洗ってもらう心地よさにも。
添い寝してもらいながら夢の中に落ちるときまで。
肉親の呼ぶ「あい」は僕ではなかった。だから、肉親の愛を得るために僕の方からできるアピールとして、肉親のことを守ろうとしていたのかも知れない。
『あい、今日は何してきたの?』
そう尋ねる肉親の声に答えるときに、僕には少しだけ不自由が伴った。
『今日は、ゆーちゃんといっしょにあそんできたよ!』
『誰、それ』
肉親は、僕の友人のことは知らない。
知っているのは「あい」のことだけだ。
だから、肉親の知る「あい」の範囲を超えたことを言ってしまったら最後、そのことを「あい」の範囲まで修正して言い直すまでは肉親の怒りと嘆きは治まらない。そして、それは僕や肉親自身への暴力という形でアウトプットされる代物だった。事実、その気になればその手の修正は簡単だった。何故なら幼い頃から、ぼくは「あい」になるべくして「あい」のことを教えられてきていたから。
だから、僕は僕ではなく「あい」であり続けた。そうしていれば肉親からとりあえずの愛情は得られたし、僕自身もそれで幸せだと思っていたから。
それでも僕の求めているものは一向に与えられず、時間だけが過ぎて、やっと「あい」ではなく僕自身に執着が向けられるようになったのは、年を重ねて、僕の体が肉親の知る「あい」に追い付いた頃のことだった。
その頃のことは思い出したくもないけど、だけど忘れようとも思えない時間だった。
肉親が、代用品としてとはいえ、僕自身を求めたのはそのときだけだったから。
それでも、そういう関係性が異常であることは世間の情報で分かっていたし、僕自身も心のどこかで気持ちが悪いと思っていた。そうやって日々を過ごすうち、僕は自分の存在をどこかに消してしまうことを望むようになっていた。
どうやって消えようか。
通学に使う駅で、電車にでも飛び込もうか。
自宅マンションの屋上から飛び降りてしまおうか。
美術で使う彫刻刀で首を刺してしまおうか。
僕だとわからないように、灯油をかけて燃やしてしまおうか。
どこか人目につかない所で首でも吊ろうか。
他県の山の崖から落ちてみようか。
そこらに積み重なっている建材を自分に向けて倒そうか。
誰にも迷惑をかけない方法を選ぶべきか。
それとも、誰の目にも付く方法を選ぶべきか。
苦しまずに、楽に死んだ方が心地よいのか。
僕みたいな人間は苦しみ抜いて死ぬべきなのか。
考えても、考えても、答えは出なかった。その分だけ僕の苦しみは続き、僕の模索も続いていた。
ただ、肉親に迷惑をかける方法だけは採るまいと思っていた。
肉親は、精神を病んでいるくせにそれを外面にはあまり出さない人だった。だから、きっと息子である僕が死んだら、息子の死を悲しむ親を演じるに違いなかった。演じる――そういうと語弊があるかも知れない。
肉親はまず僕の死を悲しむだろう。悲しむには違いないが、それは息子を喪った悲しみではない。そんなの、僕の望むところでは全くなかった。
それがわかっていたから、肉親に関わる死に方はしたくなかったし、ましてや肉親を道連れにしようなんてことも当然思わなかった。僕がいなくなった後、また誰かが僕のように肉親の毒牙にかかってしまうのではないかということを恐れないでもなかったけど、そんなことよりも死んでから僕と肉親が並んで新聞の記事に載せられるだろうことが耐えられなかった。
だから僕は死ぬに死ねず、方法すら見つけられず、ただ悩み続けていた。
そんなときだった、皧が生まれたのは。
たとえ誰の――嫌悪するような関係性の中で生を受けた――子どもであっても、僕には関係なかった。
皧がこの世界に生まれた、それだけで僕には十分だった。
僕よりも小さな「あい」。
肉親がやはりそう名付けたその小さな生き物を見たとき、僕の中には確かに何かが生まれた。
今度の「あい」は女の子だった。
散々、一応は僕の名前だけど肉親は別のものを求めていたらしい、「あい」として、肉親の欲望を余すところなく見せつけられ、味わい、すっかり人間というものを軽蔑していた僕にとって、自分以外の「あい」との出会いは大き過ぎる転換点だった。
抱いたとき、訳もなく、涙が止まらなかった。
目の前で何も知らずに自分の命を叫んでいる「あい」は小さくて、脆くて、今では散々言葉や行動で伝えているけれど、当時の僕には形容できそうもなかった類の感情が押し寄せて止まらなかった。
それが肉親の言っていた「愛」と同じものなのかどうかはわからなかったけど、このとき、きっと僕の中で初めてこの世界に、そして僕自身の存在に価値が生まれたのだと思う。
この「あい」のことは、何があっても大切にしたい。
心から、僕はそう思った。
そんなときに、肉親が僕の小さな「あい」のことも、僕に求めた「あい」と同じようにしようとしていることに気付いた。
もう、僕は肉親の「あい」ではない。
肉親の知る「あい」の年齢を通り越してしまっていた。これは僕自身が「あい」本人に会って確かめてしまっていたから、間違いないことだった。そして彼は、もう肉親とは関わり合いにはなりたくないと、僕に向かってはっきり言った。
何が言いたいかというと、つまりその時点で、僕らの親は肉親以外にはおらず、そして肉親にとっての「あい」もやはり、もういないのだということが決定的になったということだ。
だから、そんな状況でも「あい」に依存せずにはいられない肉親には、新しい「あい」が必要だったのだ。
肉親は、「あい」を手に入れるためなら手段を選ばない。そのことは、僕が誰よりも知っていた。
小さく純粋で愛らしい「あい」を、僕にしてはいけない。
僕のような人間は、僕以外に作らせてはいけない。
だから、僕は、「あい」が眠っているときに、行動に出た。
『ねぇ、《肉親》』
『え? どうしたの?』
もう、このときの肉親は僕のことを「あい」とは呼ばなくなっていた。その代わり、もう僕は肉親にとって何者でもなくなっていた。
だから、何者でもない僕は、最高の笑顔を作って告げた。
『僕もいつか、同じ所に行くから』
だから、さようなら。
それは別れの言葉として、きっと一番僕らに合っていただろう。
悲しみも、罪悪感もたぶんなかった。よくドラマで見るように自分が恐ろしくなるようなこともなかったし、動揺のあまり半狂乱で痕跡を消そうとすることもなかったと思う。
ただ、これから「あい」を守らなくてはならないという決意だけが僕の胸にはあった。それだけは今でも覚えている。
その為に肉親の痕跡が不便だったから、その日から数日間、夕食は硬く筋張った肉料理になった。
食材を片付けてから、僕は自分たちの名前を区別した。
2人とも「あい」では、何かと不便だと、そう思ったのだ。実際のところは分ける必要はそこまでなかったかも知れないのだけど、それでも、肉親から完全に逃れたくて、僕は必死になって考えた。
考えたけど、結局、肉親の血を引いて、長い間「あい」として馴染んでしまっている僕に思いついたのは「あい」と読む名前だけだった。
肉親と僕自身の願望から薄汚れ果てた僕は「清瀬 穢」。
誰よりも清らかで、愛らしくて無垢な少女は「清瀬 皧」。
それが、僕らの名前。
僕らが肉親の物ではなく、あくまで「僕ら」である為の、第一歩だった。
僕にとって皧は、かけがえのない存在だ。
皧にとっての僕も、きっとそうであるに違いない。
そう信じて疑わない僕でも、時折皧の言動に苛立ちを覚えることがあった。
皧のことを想うからこそ、時々は皧の希望に沿うことができない場合だってある。そうすると、当然のことだとは思うけど、皧はひどく怒る。泣き喚くこともあれば、癇癪を起こして辺り構わず物を投げつける癖もあった。
そんな皧を、言葉でたしなめるのでは駄目な時もあった。口で言って皧の気分を収めることもできたけど、僕が言葉を尽くせば尽くすほど皧の感情が昂って収拾がつかなくなることなんてしょっちゅうだ。
そういう自分に素直なところだって、皧のかわいらしいところの1つではあるんだけど、僕側がそれを受け入れられる状態でないこともある。
初めて皧に手を上げてしまったときの自己嫌悪を僕は忘れない。
だけど、そうすると、皧は落ち着いて僕の話を聞いてくれた。そのことがあって、僕は考えを改めた。
何故なら、皧を叩いてしまった後でも、僕は彼女を嫌いになったわけではないから。
僕は、皧を愛している。
愛しているから、その気持ちを伝えたいから、僕はその一つの手段として皧を叩いてしまうだけだ。でも、なるべく皧を叩いたりしなくても気持ちを伝えられるように僕も努力しよう。そう思うことにした。
それからも何度か皧を叩いてしまうことがあった。でも、皧が泣き喚く声を聞くと胸が苦しくなってきて、だから僕は必ず伝えることにしたのだ。
『皧、大好きだからね』
その言葉だけは、絶対に忘れないことにした。
皧、僕は君のことを本当に大切にしているんだ。誰よりも愛している。だから皧。ずっと僕と一緒にいて。
僕と一緒に、ずっとずっと、いつまでも。
世界より、誰よりも、僕は君を愛しているから。
夏前とは思えないほど冷たい雨の降る梅雨の日だった。
皧の通う小学校の担任教師が、家庭訪問のときに皧が学校で問題を起こしている旨のことを告げてきた。
話を聞いてみると、皧が友達のことをよく叩いてしまうということだった。見かねた担任教師が皧を職員室に呼び出して話を聞くと、その友達のことが大好きだから叩くのだという。
『お兄さん、ご家庭で皧ちゃんにそういった兆候はありませんか?』
そう尋ねてくる担任教師の目は、明らかに僕の虐待を疑っていた。皧から普段の様子を聞いていると児童たちのお姉さんみたいな印象だったけど、そのときの彼女は間違いなく児童の生活に責任を負った、立派な教師だった。
そんな教師の言葉は、僕を揺るがすには十分すぎるほどの力を持ってしまっていたのだ。
それからの僕は、皧が何をしても叩くことをしなかった。言葉でたしなめ、それでも聞いてくれないときにはより厳しく叱る、そういう、口だけのものに留めていた。
それが、皧にどういう影響を与えるかについて、僕はあまりに楽観的過ぎたのだろう。
僕の中に、少しでも保身の気持ちはなかっただろうか。
皧ではなく、世間体も気にしていたのではないか。
僕と皧の間には、誰にも理解されなくてもいい絆があったはずなのに。
そう、自問自答せずにはいられなかった。
その報いを受けたのは、夏の気配が近づいてくる、梅雨明けの時期だった。
学校から帰ってきた皧が、少しだけ元気がなかった。
もしかしたら学校で何か嫌なことでもあったんじゃないか? そう思った僕は皧本人にも聞いたし、皧のランドセルに入れてあるボイスレコーダーを再生したりして様子を窺ったりしても、その理由はわからなかった。
多少の疑問を残しながらも、僕はいつもの日常に逃げ込んでしまった。
夕飯の時間になって、呼んでも皧が居間に来ないので迎えに行ったのが、時計を見るともう二時間も前のこと。
でも僕にとって時間は、もう意味をなさない。
何故なら、皧が死んでしまったから。
皧は、いつか僕が彼女に対してそうしたように、部屋に中で首を吊っていた。
違うのは、傍に助ける僕がいなかったことと、用意された台が倒れてしまっていたこと。そして、鬱血した顔面。
すぐに下ろして、蘇生を試みた。
何か事故があってもいいように準備していたAEDも試して、知る限りの心配蘇生法をあらかた試した。でも、皧は僕の声に答えることも、微笑みかけてくれることもなかった。
皧が、僕の目の前で死んでいる。
その瞬間の僕にとって重要なのはそのことだけであり、自分の行いを悔いることも、その理由を考えることも、何の意味も成さなかった。
それでも、皧の姿を見たときに、皧が何を考えてこのようなことを試みてしまったのかはわかった。そして理解した「理由」は、すぐさま後悔となって僕の心を軋ませる。僕は皧のことが大好きだったはずなのに。世界中の何を差し置いても、皧の存在が一番大事だったはずなのに。だけど、その後悔すらもう必要ない。
皧が死んでしまった以上、もはや僕に生きている価値などないのだから。この世界で生きている意味は、皧の命とともに完全に失われてしまったのだから。
僕の命は、皧が握っていた。
僕の意味は、皧に付随していた。
僕の価値は、皧に与えられていた。
僕の全ては、皧がいるからこそ存在することを許されていたのだ。それを全て、皧ではなく、皧と僕を取り巻く世間の目へと気持ちを傾かせたせいで失ってしまった。
僕が、皧を「愛する」ことをやめてしまったから……っ!
少しでも世間の「常識」に僕自身を、何より皧を合わせようとしてしまった。皧の気持ちなんてまるで無視して、それが皧のためになると自分に言い聞かせて。
それで皧が何を思うのか、そこまで考えないまま。
その結果、目の前で、鼓動を止めた皧が横たわっている。
皧が笑ってくれていたことを思い出して、頬や鼻をくっ付けてみても、髪を手で梳いてみても、抱きかかえてぐるぐる回ってみても、赤黒く変わった顔が微笑みを作ることはないし、力の抜けた体は、相変わらず無力で冷たい重さを僕の腕に伝えるだけだった。
僕は、皧のことを愛していた。
この世界の誰よりも、皧のことを愛していた。
その皧が、僕の前から永遠に失われてしまったことを、どうやって受け止めればいいのか、僕にはわからなかった。
だから、糸が切れた操り人形のように、僕はただただ皧の亡骸を見つめていた。受け止め方だけではなく、もう、僕自身が何をどうすればいいのか、それすらわからなくなっていた。
持てる時間を全て皧のために――そう思って生きてきた僕にとって、皧がいなくなった後の時間なんて存在しなかったから。存在しない時間をどうやって過ごせばいいかなんて、わかるはずもない。
どれくらいの間、そうしていただろう。抜け殻となっていた僕がやっと動けたのは、埃だらけの部屋に僕と皧以外の何かがいることに気付いた後だった。
「お困りですか、清瀬 穢さん」
合成音じみた声に振り向くと、「あいのおへや」というネームプレートが掛けられた木製のドアの向こう、薄明かりが途絶えた暗い廊下に、その人物は立っていた。
悪い夢でも見ているのだろうか。率直にそう思った。
個性の欠片もないスーツを着たそいつは、それには似つかわしくない山高帽を被っていた黒ずくめの姿をしていて、そして何より、背が異常に低かった。僕の腰くらいしかないその男――声が低めだったから、僕はそう判断した――は、そんな僕の戸惑いを意に介さない様子でこちらに近寄ってきた。
「何だ、あんた」
僕は男がそれ以上部屋の中に入らないように体を動かした。
この男に、皧の死体を見せるわけにはいかない。
勝手に人の家の2階にまで上がってきているのだから、きっとこいつがこの家で起こっていたことについて通報するだとか噂を流すだとかそういう類のことをしたりはしないだろう。そんなことよりも、皧の死体を僕以外の誰かが見ることを許してはおけなかった。
部屋に持ち込んでいた包丁に、手を伸ばす。
別に、これが初めてではない。だから動揺なんてない。
皧の死体を見た者が、僕以外にいるのは危ういと思ったし、感情的にもそんなやつの存在を許しておくわけにはいかなかった。
殺す。
存在しない時間を過ごす僕の、最初の目的だった。
皧が生きているうちだけではない、皧自身の命がもうこの世界から消えてしまったとしても、こんな風に僕らの世界を踏み荒すものがいるのなら、僕が守らなくてはいけない。
「答えろよ」
答えを聞く気なんて更々なかったけど、不法侵入者を見つけた家人の姿を想像しながら、僕はその男に近寄った。そして、包丁を男に突き立てたとき、また合成音がした。
「もう1度、そのお嬢様にお会いしたくはありませんか?」
戯言とはわかっていても、その言葉は僕の手を止めるには十分だった。
「いいえ、もう1度などとは言いません。今まで通りの生活を、お嬢様と過ごされてはいかがでしょうか?」
その言い方が、あまりに簡単そうだったから。
不可能なはずがないと言わんばかりの声音だったから。
その口調が、僕の中にあっさりと沁みこんでしまったから。
僕は、男の首筋に刺さった包丁を引き抜くこともしないまま、体中の力を抜いてその場に尻餅をついた。その姿勢で見上げたその男は、まるで神か何かのようで。
「できるのか……?」
疑いを挟むことすらできずに、尋ねていた。
「皧を生き返らせるってことか? そんなことが本当にできるのか!? また、皧と一緒に過ごせるのか!?」
「その為には、貴方の努力も必要になりますよ」
努力さえすれば、できるというのか。
だったら、どうして僕がその努力を惜しむというのだろう。
もう、僕にはこの男を殺す理由なんてなくなっていた。
「どうすればいい!? 何でも……! 何でもするからっ、その方法を教えて下さい!」
男に対して抱いていた疑念なんて僕の中からは掻き消えて、僕はまるで奇跡を乞う信徒のように、男の足下に額を付けていた。
「それが、貴方の幸せなんですね?」
「はい! もう一度皧に会えるなら、僕は何だってする! だから、どうか……っ!!」
「頭を上げて下さい、穢さん」
そう言った男の右手が指し示す先には、いつ現れたのか、それとも初めからそこにあったのか、鉛のような色をした液体が5リットルほどケースに入れて置かれていた。
「こちらをお使い頂ければ、間違いなく貴方は幸福を迎えることができます。どうか、お役立てください……」
雨音が窓を叩き、他の音を全て掻き消すような夜。異様に背の低い黒服の男は、そう言って口元を歪ませたように見えた――。
あの日とよく似た、激しい雨の降る夜。
ぼくの目の前に、体中を傷だらけにして、首の骨を折って死んだ少女が転がっている。
彼女は何人目だっただろう。まぁ、いいか。死んでしまったのなら、もうこの子は「皧」ではないのだから。
あの日――ぼくが皧を死なせてしまった日――、男の言った「皧を生き返らせる方法」は、こういうものだった。
皧の頭から脳を取り出し、男の足下にあった鉛色の液体と混ぜて溶け合わせる。そうしてできた液体を、他の誰かに飲ませると、その誰かの脳を皧のそれに書き換えることができる。
それは、僕が期待していた皧そのものの復活とは違った。
だけど実際に試してみるとわかったのだ、たとえ姿形は違ったとしても、そうやって作り出した「皧」は、紛れもなくぼくの妹である、清瀬 皧だった。表情から仕草から、全てが僕の妹に違いなかった。
体の年齢や性別が違っても、関係ない。
体格が違っても、そこにいるのは間違いなく皧だった。そして今度こそ、ぼくは皧に対する愛情表現を間違えなかった。
こうして、今度こそぼくらの日々は永遠になるはずだったけど、ごくたまに「皧」が皧らしからぬ言動を見せることもあった。たぶん、体の方の意識がかすかに残っているのだろう。それをぼくが確信したのは、今寝室で死んでいる少女の前に「皧」だった女性と、近所の図書館に行ったときだった。
ぼくが不覚をとった記憶。
少し目を離してしまったがために、「皧」は脂ぎった汚物に出会ってしまった。それに対する「皧」の怯え方は異常で、そして何より、その汚物の名前を叫んだのである。
そういう逸脱があったときは、ぼくはかつて皧にそうしていたように、「皧」を愛してみせた。そうすることで、「皧」の意識を皧に寄せることができると思ったから。その効果は思った以上にあって、そうすることでぼくは、「皧」との愛に溢れた日々を続けていくことができていたのである。
問題となる「皧」の体の用意だけど、それも決して難しいことではなかった。
ネットでいろんな掲示板を覗いていけば、それなりに悩みを抱えていそうな人を見つけることはできたし、寄り添ってみせれば会う機会は作れた。会う機会を作れば、例の液体を飲ませることも簡単にできた。勧めて飲んでくれればそのまま、最後まで飲まなければどうにかして気絶させてから喉に流し込めばいいだけのことである。
最初の体は、ぼくが皧を失う一因となった、担任教師だった。
彼女はとても熱心な教師だったのだろう、皧が死んだ(学校には病気になったと伝えていた)後も皧の様子を気にかけてくれており、学校帰りにも度々寄ってくれた。そんな彼女を電話で呼び出したら簡単に自宅まで来たし、ぼくが勧めたそれも何の疑いもなく飲んだ。たったそれだけのことで、もう彼女は「皧」になったのである。
彼女のことを受け入れることについて、最初は少し抵抗があったけれど、1時間ほど過ごすうちにやはり彼女はもう「皧」なのだと思うことができた。声は本物の皧より少し低い。体つきだって、やはり大人の女性だった。それでも、ぼくに向けてくれる無邪気な笑顔であったり、妙に甘え上手であったりするところに、僕は確かに皧を感じることができたのだ。
この最初の「皧」も、やはり「皧」ではない――皧がお世話になっていた小学校教諭としての記憶をどこかに保持していたようだった。ぼくのことを「お兄ちゃん」ではなく「お兄さん」と呼ぶ姿は、確かに見覚えのあるものだった。
その姿を受け入れたくなかったぼくは、すぐに例の液体を飲ませた。その結果は散々なもので、僕はもうそんな愚は犯すまいと誓うことになった。
考えてみれば、例の液体に溶け込んでいるのは、夏前に死んだ皧の脳なのだ。それ以降の季節を一緒に過ごした「皧」にそれを飲ませたら、その記憶が混乱してしまうのは当たり前のことだったのかも知れない。そうして混乱に拍車がかかってしまった「皧」は、死ぬまで元には戻らなかった。
2人目の「皧」は、恋人からのDVに悩んでいるとかいう女子大生だったと思う。ぼくには恋人なんていた試しがないからそんなことを言われてもわからないのだけど、プロフィールを見るといなくなっても探す人が少なそうなところが、ぼくの求める条件に合致していたのだ。この「皧」に対しては、手を上げること事態が以前の記憶を蘇らせる引き金になってしまい、早い段階で見切りをつけることになった。他人になってしまえば、罪悪感なんて抱く必要はない。
ただ、何人目かの「皧」が死んだ後、ぼくは以前より「皧」を見つけにくい状況になっていた。
近所にいる人を数人続けて「皧」にするというぼくの失策のせいで、町内パトロールが強化されてしまったのである。なかなか見つけられず、都内で出会ったかわいらしい容姿の男の子に声をかけたりもしたものだった。失敗に終わったけど。
そしてこの頃から、ぼくは例の液体を小瓶に入れて持ち歩くようにしていた。目的はもちろん「皧」を探す場所を散らすことで、更にその量では、精々小学校低学年くらいしか完全な「皧」にはできないということは何人か実験してみてわかった。それでも、使えるなら使ってみたかった。
皧が死んだのは、まさに小学校低学年のときだったから。
しかし、なかなか「皧」にしたいと思う子どもを見つけることはできなくて、やっと見つけたのは、深夜の公園で独りブランコに揺られていた、ぼくとそう変わらないくらいの年齢の女性だった。
いかにも遊んでいそうな雰囲気のその女性は、それでもやはり、人を惹きつける魅力を持っているように見えた。だからこそ、家に連れ帰る面倒があっても、次の「皧」にしようと思ったのかもしれない。世界で一番魅力的な少女だった、皧の体にしよう、と。
『こんばんは。ねぇ、いま1人なの?』
『え?』
彼女はぼくに訝しげな、しかし一瞬出たそんな本心をすぐに隠して、にこやかな表情で『うん、あなたも?』なんてことを言ってのけた。
素敵だけど、皧には必要ない。
ぼくは疲弊しきっていた彼女を誘い出して、そしてまた生まれた「皧」は、しかし図書館での失態で壊れてしまった。
いくら皧にするように接しても、それまでの例に漏れず、そうなってしまった「皧」はもう元には戻らなかった。
好きになり始めていた外出を拒むばかりか、恐怖はぼくにも向けられ、最後に至ってはほぼ完全に体の人格に引っ張られてしまっていたようだった。
結局、その「皧」も死ぬまで元には戻らなかった。
今、ぼくの足下で死んでいる少女のように。
彼女はいじめに悩む女子中学生で、消えてしまいたいとかそんなことをいつも言っている少女だった。どんな内容かは想像することしかできないけど、いじめによってほとんど見えなくなっていた(と、彼女が語っていた)彼女の目はもちろん「皧」にも影響を与えたけど、それでも「皧」が毎日を幸せそうにしていたから、特に問題はなかった。
しかし、計算外のことが起きてしまった。
まさか「皧」が、皧の死を夢に見てしまうなんて。
今までも、「皧」がぼくらの日常を乱す夢を見ることはあった。ただ、それはいつも別人の「過去」であり、だからぼくが愛することで元に戻すことができた。
しかし、この「皧」が見た夢は、皧の過去だ。
どんなに手を尽くしても、「皧」の心は平穏を取り戻すことができず、とうとう死ぬまで「皧」は戻って来なかった。その結果、首の折れた少女が足元に転がっている。
皧の脳を溶かした液体は、もう残り少ない。
だから、もう「皧」をそうそう失うわけにはいかない。
ぼくらの日常をこのまま続けていくには、もっと対策を考えなくてはいけない。つまりこれは、それを如実に告げているということなのだろう。
次は、もっとうまくやってみせる。どんなものからも、今度こそ「皧」を――ぼくらの日常を守ってみせるから。
ならば、問題はこの死体の処理だ。
今回はどの料理にしようか。ぼくは、次に見つかる「皧」の好き嫌いの有無を想像しながらレシピサイトにアクセスした。
曖昧な暖色が広い空を染め上げる、雨上がりの夕方。
ぼくは次の「皧」を探し、その候補にしようと思った人と会う予定だった。
木々が生い茂り、周囲の高層ビル街から隔絶されたように静かな公園の噴水前。不自然にならない程度の格好で、ぼくはその女性を待っていた。
人生に疲れきって、いつ死んでもように身辺整理をしているというその女性に、自分も悩みを抱えているけど、自分だけで整理をしていく勇気がないということを言ってみせたら、「じゃあ、私が手伝ってあげる」と向こうから言ってきたのである。
待ち合わせ時間を、少し過ぎていた。
「もうすぐだよ、皧」
もうすぐ、また一緒に過ごせるようになる。
また、君をこの世に生まれさせられる。
だからもうちょっとだけ、待ってて。
夕陽が西の空で最期の光を放ち、空が1色に染まる頃、ぼくの指定した格好をした女性が、遠くから歩いてくるのが見えた。やっと来たか。
ぼくは腰を浮かせて、彼女に駆け寄った。
「こんばんは」
「えっと、清瀬さんですか?」
「はい、清瀬 穢です。今日はその……、お願いします!」
慌てて駆け寄ったからだろう、少し驚いたような顔をしたその女性と少し話をして、家に誘うことができた。そうしたら頃合いを見て液体を飲ませればいい。もうすぐだ。
今度は、もう離さないからね。
今度こそ、ぼくらは永遠だ。
「じゃあ、皧。行ってくるね」
「いってらっしゃい」
「ちゃんと鍵かけるんだよ?」
「かけれるよ」
皧は、心外だとでもいうような言い方でぼくにむくれてみせている。ふふふー、やっぱり皧はかわいいな♪
そんなときは、ちょっとほっそりした頬に自分の頬をくっ付けて、「ふに~」ってやって機嫌を直してもらおう! 「お兄ちゃんのほっぺ、やわらかいね」と少し嬉しそうに言ってくれる皧がかわいすぎて、何か発狂でもしちゃいそうだよ!
「ふふふー」
「ふふふー」
鼻と鼻をくっ付けて、そんな笑い声を出す。
皧はそのやり取りがとても好きで、そんな皧を見ているうちにぼくも好きになっていた。ふふふー♪
「じゃあ、すぐに帰ってくるからね」
「うん! まってるからね、お兄ちゃん」
帰りに皧の好きなお菓子を買ってくる約束をしているからだろう、眩いばかりのキラキラお目々に見送られながら、ぼくは蝉の声が喧しい夏の外へ、その日の夕食を買いに出かけた。
その帰り道。
ぼくは、皧のリクエストにあったお菓子をあちこちで探した末にようやく見つけ出し、予定より少しだけ遅くなった家路を急いでいた。なかなか見つからなかった。売り切れ続出なんて、ちゃんと入荷しておいてほしい!
ん、今日はやけに通行止めが多いな。
近くの町で断水があったから、水道管の整備がどうとかそういうことは耳にしていたけど、こんなに一気にやらなくてもいいだろうに。
待っててね、皧。
ぼくは少し早足で大通りを通り抜ける。本当なら、こんなごみごみした所を通らない近道があったけど、そこも通行止めになっていたから仕方ない。
そして、交番の前を通りかかったときだった。
「藍田 沙弥さん?」
ふと、ぼくに向かってくる声に気がついた。
振り返ると、日に焼けた掲示板の写真とぼくの顔とを呆けた顔で見比べている駐在の姿があった。
それにしても、誰だ、藍田って?
「ねぇ、君、」
そう思ったのも束の間、反射的にぼくは駆け出していた。
今は夏だ、こんな所で余計な時間を食うわけにはいかない。ただでさえ予定外の回り道を強いられているのに、ここで更に時間をロスしたら、家の中で皧が熱中症にでもなってしまうかも知れない! そういう危険のある季節だ。
それに、何故かはわからないけどぼくは、あの駐在に捕まってはいけないと本能的に感じたのである。
「ちょっと、待ちなさい!」
駐在の声に、少しの怒気と真剣さが加わった。
追いかけてくるのがわかる。
速く、少しでも速く!
走っているうちに、ぼくの頭は別の可能性を考えていた。
もしかしたら、かつての「皧」のことで何かを訊かれるのかも知れない。あの顔は、何かに気付いていたような顔だ。その「何か」次第で、ぼくは今の生活を壊されてしまうかも知れない。
いや、ぼく自身はいい。
いいわけではないけど、ぼくのしてきたことは、何かしらの罰を科せられてもおかしくないようなことだったかも知れない。
だけど、あの子を。
皧を、誰が守る?
ぼくがいなくなったら、皧はひとりぼっちだ。皧がそんな風になってしまうとわかっていて、どうしてむざむざ捕まることができる? 少なくとも、皧には何の罪もない。
そんな彼女には、ぼくが必要なんだ。
だから捕まったりしてはいけない。
走る。ただ、走る。今度こそ、通行止めなんか構わずに、民家の庭なんか構わずに、近道をして走る。
皧、待ってて!
すぐに戻るから、だから皧。
君は、お兄ちゃんの帰りを待っ――
慌てたような舞台装置たちの声が、やけに遠く聞こえた。
目の前の世界が上下左右に回転して、足下がひどく頼りないものになった。
一瞬のブラックアウトを経て、ぼくは自分が道路に倒れ伏していることに気が付いた。
――生きてるぞ!
――救急車! 誰か、救急車!
――い、いきなり飛び出してきたんだ!
様々な声が、曖昧なエコーと共に耳に入る。だけど、聞こえない。ぼくにとって大切な音が、唯一絶対の音が、ぼくの耳に入らない。
皧。
ぼくの妹。
たった1人の家族。
ぼくの世界。
遠ざかる?
離される?
嫌だ。
君から引き離されるなんて、考えたくない、いや、考える必要なんてないんだ、お兄ちゃんはずっと皧と一緒なんだから、だからぼくはここから早く動いて皧が笑っている家に帰らなくてはいけないのに何で体が動かない指先しか動かない足がただの重たい肉の塊に成り下がっているどうするぼくは帰れないのか救急車とか聞こえたぞそんなの真っ平ごめんだぼくにはそんなものよりも皧が必要なんだ皧だけが必要なんだ皧がいればそれでいいぼくの世界には皧がいなければならない皧の世界にはぼくがいなければならないだからぼくと皧は一緒にいなくてはいけないその為にぼくは帰らなくてはいけないやめろ運ぶなぼくの体に触るなサイレンの音が聞こえてぼくの動こうとする指先に反して体は容易に持ち上げられてどこかへ運ばれていく感触があまりに不快で暴れようとしてもぼくの体にはそんな力も残っていなくて大丈夫かと訊かれて瞬きを返せば安心したような顔をされてそのまま担架に乗せられてぼくは皧から引き離されてやめろやめろやめろやめろ皧皧皧皧皧皧皧皧が皧を皧に皧まで辿り着かなければ皧の所に帰らなくては皧がぼくを待ってるやめろ引き離すなぼくはぼくはぼくはぼくは君を探さなくてはいけない君に会わなくてはいけない君を抱きしめなくてはいけないそうでないとぼくがぼくの心がぼくの世界がぼくの全てが破綻してしまう嫌だ嫌だ嫌だ一時だって離れたくないんだどうしてこんなことに今度こそ一緒にいられるはずだったのに今度こそ一緒にい続けたかったのにどうしてどうしてどうしてどうして皧はぼくを待っているのに今でも待ち続けているのに夢の中でぼくを待っているぼくを探しているからぼくは皧の傍にいなくてはいけないのに――
救急車が、ぼくの自宅を離れていく。
皧。
道路の凹凸に乗り上げた救急車が、上下にバウンドする。
皧。
ポケットの中で、残り少なくなった小瓶の液体が鳴った。
皧。
そうか。
意識が混濁していく。
黒くなっていく。
その前に、ぼくが闇の中に沈んでしまう前に、ぼくが運ばれていく先に待ち構えるやつらにぼくのことを調べられる前に、ぼくにはしなければならないことがある。
力が入らない指先を、腕を、残った感覚を頼りに動かす。
皧。待ってて。
皧。今度こそ、ぼくらは――
こんにちは、交通事故って怖いですよね。遊月奈喩多です!
私も実際、信号待ちの最中にバイクと車の接触事故を目撃したことがありますが、どうしたらいいかわからなくなる節がありますね(気構えができてない、ということなのでしょうか)。ちなみにこの事故では、両者すぐに立ち去ってしまったので、信号が変わる頃には何事もなかったかのように元通りでしたが……。
ということで、第6話、「iの起結」はいかがでしたか?
感想などございましたら、お待ちしております!
夏はまだこれからですね……(もう暑い)。皆様、水分補給などしっかりして、熱中症に気を付けましょうね!
関係ない話がほとんどになってしまった……。
ではではっ!




