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iの享楽

こんにちは、という挨拶をお昼に限定しない節のある遊月奈喩多です! 面倒だからという理由で「こんにちはorこんばんは」という挨拶を使わせてもらっていた時期もありますが、長い! 長いのです。ということで、大体はこれを公開する時間に合わせた挨拶にすると思います……どうでもいいですね。

前回までの『iによるiへのiの物語』! (ウェザー好きや!)

「ぼく」はある奇妙な夢を見ます。自分が死んで、皧ちゃんが泣いているのをただ見ているだけ……という。目を覚ました「ぼく」は、改めて妹を独りにはしないと決意して、その日も皧ちゃんを起こしに行くのでした。

今回は、少し様子が変わってくるお話です。

小説情報が変わったりしたのにも、一応の意味があるのです

というわけで、本編スタートです!

「ごちそーさまーっ」

「おなかいっぱいになった、皧?」

「うん!」

 そう言ってお腹をぽんぽん、と軽く叩いて見せてくれる皧。その満足そうな笑顔を見ると、テーブルに並ぶ空っぽの食器たちとぼくとでハイタッチの1つでもしたくなる。そしてそれ以上に、皧の食べたばっかりでちょっとだけ膨らんだお腹にも。お粗末さまでした。

 満腹になってニコニコしている皧。さぁ、今日もちょっと言いにくいけど……。

「じゃあ、皧。食べたら歯磨きしよっか」

「やー!」

 ……む。案の定か。皧はいつも、食後の歯磨きを嫌がる。『今日はみがかなくていい日だよ?』という風に、勝手に記念日みたいなものを作り出したりしてしまう程度には歯磨きが嫌らしい。

 皧が言うには歯を磨いてしまうと、せっかく口の中に残っているおいしい成分が消えてしまうのだそうだ。「お兄ちゃんは、それでもいいの?」と心底疑問そうに尋ねられてしまったら「う、うーん……」と悩まないでもないけど、いや、たぶん単に面倒なだけだよね? でもそうとは認めずに頑張る皧の姿はやっぱりかわいいし、何ならぼくの舌を歯ブラシ代わりにしてもいいような気さえする。

 ……いや、それは駄目か。

 さすがに兄妹同士でキス――の意図はもちろんないんだけど、結果的にそう見えてしまうようなこと――をするわけにはいかない。いくらぼくと皧が愛し合っていたとしても……ぼくらの愛はそういう「愛」ではないのだから。

 その辺りは、ぼくって紳士。

 ということで、意表を突いたりもできないぼくは、歯を磨きたくないとかわいらしくごねている皧をどうにかすべく、説得を試みる。

「歯ぁ磨こ?」

「や! めんどくさい」

 ……あ、白状したな。かわいい妹め。

「でも、歯磨きしないと歯、痛くなっちゃうよ」

「いたいの、へいきだよ」

「そっか。でもね、皧が虫歯になっちゃったらやっぱり歯医者に行かなきゃいけないよ」

「はいしゃさん?」

「そう! 怖いよ~、チュイーンだよチュイ、」

「あつしせんせい!?」

 ……そう来たか。ぬぅ。

 ぼくが幼い頃、歯医者に行くと言われたらそれこそ近所迷惑になるくらい泣き叫んでいたと生前の肉親は言っていた。しかし、安心してください。皧の歯医者への好感度はなかなか高いみたいです。

 忘れていた。近所の歯医者には江田敦司という、何となく頭のよさそうなメガネ・その奥の優しげな眼差し・雑誌に「会いに行けるイケメン医師」として取り上げられるくらいのルックス・そして何より誰に対しても優しいその態度が特徴的な先生がいるんだった! そんな人だから、もちろん患者からは老若男女問わず人気がある。もちろん、ぼくだってそんな江田医師のことは好きである。というか、初めてはこの人がよかった!

 でも、それとこれとは話は別だ! ぐぎぎ……これは思わぬライバルの発覚だ! 何としても皧の虫歯を阻止しなくてはっ!

 こうなったら、最後の切り札だ!

「それじゃ皧、今日はお兄ちゃんが磨こうか?」

「ぶくぶくしてきま~す!」

 わが妹ながら、感心せずにはいられない身代わりの速さ。洗面所に向かう皧の横顔には、「待ってました!」とも「してやったり」とも取れる笑みが浮かんでいた。

 うん、そんなちょっと小悪魔ちゃんじみたところも、やっぱりかわいくて悶える(ただし皧に限る)。すっかり手玉に取られたかも知れないぼくは、とてとて廊下を歩く皧を追いかける。追いついてみると、もうコップで口をゆすいだ後らしく、「もー、おそいよー」とか言いながらぼくを待っていた。

「はい、あーん」

「あー」

 大きく口を開けてくれるわが最愛の妹。かわいい。

 よっぽどぼくを信頼してくれているのか、口を大きく開けたまま目を瞑っている。もちろんこれはかわいいし、何より皧が誰かを疑う必要のない中で生きていられていることの証明みたいなものだから嬉しい限りなんだけど、あんまり無防備な姿を見せられてしまうと、家族としては心配になってしまう。

 ぼくがいない間とか、本当に大丈夫だろうか? カメラを増やしてみた方がいいかも知れないな。なんて妄想しつつ、歯ブラシ片手にニヤニヤ。だって、皧かわい過ぎるし。

「皧、今日は特別だよ?」

 この呼びかけ、実はもう日常茶飯事である。

「まいにち、とくべつだよ?」

 それじゃ特別じゃないんだけどな……そう思いつつ、歯ブラシで皧の喉奥を刺激する。

「――――っ!? う、うぇ……っ、けほっ、けほっ」

 透き通るような、むしろちょっと水色くらいの澄んだ白目にさっと走る赤。生理的反射として潤んでいく過程も、もちろん愛らしい。まぁ、それもすぐ苦しげに細められてしまうんだけど、そんな潤んだ瞳もかわいいからよしとする。う~ん、皧はかわいいなぁ、やっぱり♪

「大丈夫、皧?」

「……、……っ、げほっ、う、うん」

「よかった」

 何となく喉を傷つけそうな嘔吐き方をしたからちょっと心配したんだけど、大丈夫そうならよかった。安心して、もう一度歯ブラシを持つ。

「じゃ、もう一回あーんして?」

「うん……」

 ぼくの声に応えて、もう一度皧は口を大きく開ける。今度はちゃんと目をきちんと開いている。あ、でもちょっとだけとろんとしてるな。うちの妹はおねむらしい。まぁ今日はね、好きなテレビアニメのテーマパークに行ったりしたから、はしゃぎ疲れたのかもしれないね。

 かく言うぼくも、今日は疲れている。皧が寝たら明日の朝食の準備をして、すぐに寝ようと思っている。ふ、あふ。

「お兄ちゃん、おっきぃ口!」

 おかしそうに笑う皧がかわいらしくて、ぼくも思わず笑ってしまう。おっと、手元が危ない!

 歯を磨き終わって、皧の着替えを手伝う。今は少しだけ不自由な左腕も、もう少しで快復するだろうか。楽しみだ。

 皧が布団に入ったのを確認。布団はちゃんとかかってる? 乱れてない? 枕は定位置? 頭下がってない? 色々確認して、部屋を出る。

「おやすみ」

 そう声をかけたところ、返事がない。ふふっ、もう寝てる。鍵をかけて、明かりを消して、ぼくは階段を上がっていく。

 ゆっくりおやすみ、皧。明日はもっと楽しい1日にしようね。

 世界の誰よりも、ぼくは君を愛してる。


「あれ……」

 朝起きてみると、どうやら予報外れの雨。決して強いわけではないけど、この時期の雨はだいぶ冷たい。今日は皧と一緒に遊園地に行く予定で、随分楽しみにしてたみたいなんだけど、これじゃ今日は家にいるようかな……。

 がっかりする皧の顔が目に浮かぶようで嫌だな。

 そう思っていたら、どうやら皧が目を覚ましたようなので、起こしに行くことになった。はぁ、ちょっと気が重い。

「皧、おはよう!」

「お兄ちゃん? おはよ……」

 敢えて元気よくドアを開けてみる。すると、少し眠そうな顔をした皧が布団の上で目を擦りながらぼくを迎えてくれた。

 うん、今日は普通の寝起きみたいだ。最近よくない夢を見ているようだから、心配だったんだ。たまに夢と現実の区別がつきにくくなっていることもあるようだ。もう、全部忘れられればいいのにね。まだぼくの愛が足りないのかも知れない。

 と、そんな皧の目がいきなり輝き出す。……あ、そうか。

「今日、ゆうえんち行くんだよね!」

「あー……」

 いい笑顔だ。直接は言いにくいなぁ、ちょっと行けないよなんて。だから答える代わりに皧の手を引いて階段を上がる。やっぱり自分で見て、納得してもらおう。

 皧の「?」と言わんばかりの顔が窓に向けられる。

 窓ガラスを雨粒が伝っていく有様を、じっと見ているようだった。そのうち、「雨、ふってる」と小さく呟いた。

「今日は、ゆうえんち行けない?」

 ぼくの手をぎゅっと掴んだまま小さな声で訊いてくるその声に、雨はぼくのせいではないのだけど、何だか罪悪感が募ってきて、胸が痛くなってくる。あぁ、朝からがっかりさせてしまったな……そう思っていたぼくの前で、皧は急に目を輝かせて「かっぱ!?」と言い始めた。

「……かっぱ?」

 河童? そう言えば怖い話とか好きみたいだけど。水から連想したのかな? それにしても急にオカルティックな。

「かっぱ! かっぱきて、お出かけしよ!」

 あぁ、合羽。か。どうやら我が妹は、合羽を着て外を出歩くことを楽しみにしているらしい。

 ぼくら、あんまり外に出ないからなぁ……。その弊害かも知れないな。だけど、風邪でも引いたら元も子もないし。しかし皧の目を見ていると「風邪引くかもよ」とも言いにくくなってきた。

 そもそも、普段外出せずに皧を退屈させてしまっているのは間違いなさそうなので、責任を感じないわけでもない。

 そうなるとぼくのすることは、朝食をとりつつ皧の機嫌をとって外出を断念させることではなく、何か魅力的な代替案を示して皧の気を引いてみせることなのではないだろうか。朝食を用意しつつ、足りない頭をできるだけ絞って考えを巡らせる。雨だからあんまり遠くには行きたくないし……。

 そんなこんな考え込んで、とりあえず皧の興味を引けそうな場所を思いついたぼくは、朝食のフレンチトーストにかぶりついている皧にプレゼンしてみることにした。

「皧、今日は図書館に行ってみようか」

「としょかん?」

「えっとね……」

 そういえば、皧を連れて行ったことないな……。う~ん、改めて訊かれるとどうやって説明すればいいものか悩むな。ということで、とりあえずすぐに思い浮かんだ「本がいっぱいある所だよ」という、シンプルかつある意味身も蓋もない説明をすることになった。

 それでも、皧の興味を引くことはできたようだ。

 たぶん、もう遊園地のことは頭から消えてしまったかな?

「いっぱい!?」

「うん、いっぱい!」

「お兄ちゃんの本だなくらい?」

 ぼくの本棚……というのは、ぼくの部屋にある物を指しているのだろう。まぁ、一般的な部屋よりは大きいし、それが3つくらいあるからそれなりに量は多いんだけど。そうだよな、皧が知ってる「本のある所」っていうのはこの家の中だけだもんな。

「ううん、もっとだよ。お家よりもずっと広いんだ」

 そう言うと、皧の目はますます輝いた。

 へぇぇ、と声を上げているところを見ると、本当に楽しみで仕方がないようだ。さっきから「はやく、はやく!」と朝食を急かしてくる。食器をカチカチ叩くのはお行儀よくないぞ、皧。

 で、それくらい朝食後の外出を楽しみにしていた皧のこと、起き抜けの目覚めきっていない胃腸に配慮した量なんてあっさり間食してしまったのは言うまでもない。ちなみにぼくはゆっくり噛むタイプなので、皧の「はやく! としょかん行こーっ!」という催促にもなかなか応えられない。

 それにしても、本当に楽しみにしてくれてるんだなぁ、ニヤニヤ「はやくー!」……はい。

 雨の降る、少しだけ暗い町並み。

 雨合羽が見当たらなくて、結果として相合傘で歩いているぼくと皧の足取りはいつもより少しだけゆっくりだ……といっても、決して重いわけではない。

 いつもとは違う、雨に煙る町並みを楽しげに見つめている皧。雨の日なんて蒸すようで日が出ない分ちょっとひんやりしてたりするし、傘とか合羽とかそういうのを用意しないと濡れてしまうし、ぼくとしては何となく憂鬱になってしまう日なんだけど、ぼくの妹にとっては、そんな雨の日でさえもハレの日になるのだろうか。

 水溜りにまた雨が降り注いでできる波紋であったり、道から見える民家の窓ガラスを伝い落ちる雨粒であったり、重苦しい雲の中にわずかに明るい一点があったり。

 そんな、普段ぼくが1人で歩いていたら気にも留めないようなことを、楽しそうに、嬉しそうに、まるでそれが新しい命が生まれる瞬間だとでも言わんばかりにはしゃぎながらぼくに教えてくれる皧の姿が何だか眩しくて、思わず頬が緩んだ。

 雨粒がブロック塀に当たって弾ける様を凝視していた皧が、思い出したように「としょかん、まだ?」とぼくに尋ねてきた。

「もうちょっと歩いたら着くよ」

「そっか! ……♪」

 嬉しそうに歩き始める皧。

 歩きながらもまた色々発見しているのだろう、時折「あっ!」と声を上げて何かを目で追っていたりする姿を隣に、ぼくもニヤニヤしながら歩く。

 ぼく1人で歩いていたら10分かそこらで着く交差点。時間を計っていたわけではないけど、今回はもう少しかかったと思う。

 雨のせいかやはりいつもより人の少ないこの交差点を渡った所にあるケーキ屋は、皧の好物であるチョコレートケーキを売っている、馴染みの店だ。今度買うときは皧も一緒に連れてきて、自分でケーキを選んでもらうのもいいかも知れない。

 そんなことを考えていると、くいくい、と手を引かれた。

「ん?」

 振り向いてみると、皧が近くの掲示板を指差している。

「お兄ちゃん。これ、どうしたの?」

 よく見ると皧が指差していたのは掲示板そのものではなく、その中心に大きく強調された「探しています」という文字だった。大体笑顔で撮られている十数人の写真が名前付きで載せられている。どうやら、彼ら彼女らはここ1年以内に行方不明になっているらしい。やっぱり皧が心配だなぁ。

「……この人たち、どうしたの?」

 意味はわからなくても、その雰囲気で、写真に写る人物たちの身に何やら深刻な事態が起こっていることを察したのだろう、皧の声がわずかに硬くなっている。ぼくは、説明すべきか躊躇いつつも、「この人たちはね、どこかに行ったまま帰って来られなくなっちゃったんだって」とだけ説明することにした。

「かくれんぼ?」

 うん……、そういう平和な発想をしてくれる皧は、お兄ちゃんにとってずっと癒しなんだよ。

 心の底から隣にいる妹が愛しく思えて、そしてそんな妹が行方不明になんてならずに隣にいてくれていることを確認したくなって皧に向き直ったぼくは、皧が行方不明者のうち一人の写真をじっと見つめていることに気付いた。

 写真には「紗月 莉緒」という名前の、ぼくとそう変わらないくらいの年恰好の女の子が写っていた。その写真を見ている皧の表情は何とも形容しがたく、それまで見たことのないようなものだった。

 何故だろう、胸が軋むように痛んだ。

 胃の中から徐々に何かがせり上がって来るような感覚がして、脈が次第に速くなっていることが自分でもわかった。

 このままじゃいけない。

 皧を今すぐ止めなくてはいけない。このまま皧に、掲示板を見せ続けてはいけない。

 そうしないと、ぼくらは――――。

「皧、誰か見たことある人いるの?」

 予感に苛まれるまま、口を開く。

 辛うじて尋ねたぼくを皧が振り向くまでの時間が、やたら長く感じた。振り向いた皧は、ぼくをきょとん、とした目で見た後、何かに気付いたように表情を変えた。

「お兄ちゃん! しんごう、チカチカになってる!」

「えっ!?」

 冗談じゃない!

 ぼくは皧の手を引いて、ギリギリのところで赤になってしまった横断歩道を渡り終えた。

「赤だったよ?」

「うん……、皧は気を付けてね」

 息が切れて喋りにくかったけど、皧はわかってくれたようだ。そして「だいじょうぶ?」と言いたげの気遣わしげな表情で頷いてくれた。すぐに傘を真上に戻す。これで皧は大丈夫だ。

 何となく申し訳ないやら情けないやらの気分になりながら更にしばらく歩いて、ようやく図書館に着いた。ぼくらの住む地域は読書に力を入れているというアピールを内外にしているけど、この図書館はまぁそれに相応しいといえば相応しい大きさだ。

「着いたよ」

「としょかん!?」

 とても広いとは言っていたけど、どうやらこの図書館の大きさは皧の想像をいい方向に裏切ってくれたようだ。傘越しに図書館を見上げる皧の瞳が、ますますもって輝いてくる。もうぼくらの周りだけ、雨が止んでいると言ってもいいんじゃないですかね、と誰かに語りかけたくなる。

 そんな、終始和やかな雰囲気の中で、ぼくと皧は何の変哲もない公共図書館に足を踏み入れた。

 入ってみると、どうやら今日は近隣の少年少女を対象とした図書館見学イベントが催されていたらしい。元気いっぱいな少年少女が、いつもカウンターでにこにこしているお姉さんから色々と注意事項みたいなものを説明されている場面に出くわした。

「「はーい!」」

 何度か、元気のいい返事が聞こえてくる。

 人によってはそういう声を聞くと元気が出るとか、逆に耳障りでならないとかいうこともあるみたいなんだけど、ぼくはそのどちらでもなくて、結局この世界にある音は全てぼくと皧を盛り上げるためのBGMでしかないといういつものスタンスに変わりはなく、特に興味をひかれるようなことはなかった。

 あくまでぼくは、という話だけど。

 普段外に出ない分、皧は好奇心旺盛だ。だから、予想できることではあった。

 皧が足を止めるのとほぼ同時にぼくも足を止める。

「どうしたの?」

 一応尋ねてみると、皧は案の定、元気な一団をじっと見つめていた。ぼく個人はあまり興味ないんだけど。……でも、皧は行ってみたいんだろうなぁ。

「お兄ちゃん」

 と、皧に言われて抵抗できるぼくではないのもいつものこと。

 だからぼくは、注意事項とかの説明に割って入る形でお姉さんに「あの~、すみません」とできるだけ柔らかい声で声をかける。

「あ、どうもこんにちは~」

 負けじと(なんていう意識はないだろうけど)お姉さんも眩しい笑顔をぼくに返してくる。

 そんなお姉さんの表情は、「ぼくたちも参加していいですか?」という恐縮しながらの質問と同時に怪訝そうな、ちょっと困ったものに変わってしまった。う~ん、と少しの間露骨に対応に困った感を出された後、「すみませーん、今回は小学生以下のお子様が対象ですので~」とやんわりとした口調で断られてしまった。

 そして「もう自分の言うべきことは終わった」とばかりにぼくたちに背を向けて、また元気いっぱいな少年少女たちに説明を始めた。え、ちょっと冷たくない?

 と一瞬は思ったけど、カウンター奥にある張り紙を見るとどうやら予約制だったらしいので、まぁ仕方ないかな――そう思って皧のところに戻ると、「たんけんできないの?」という少し沈んだ声を出されてしまったのでもう一度挑んでみた。だけど、今度は取りつく島もなかった。その代わりということで2週間後にある保護者同伴可の(ということで大人も参加できる)イベントも紹介してもらった。

 すごすごと戻ったぼくに皧は「ありがとう」と言ってくれた。その優しさに泣きそうなんだけど……っ!

 だからって、図書館の中で泣いているわけにはいかないから、「よし、じゃあ本読もっか!」と空元気いっぱいで皧を誘うと、皧も元気よく「うん!」と言ってくれた。

 皧は児童文庫くらいなら読めるので、児童書というよりはヤングアダルトコーナーくらいでいいのかも知れないけど、たまには絵本とかを読みたいという皧の希望に従って児童書のコーナーにぼくらは足を向けた。

「おー、いっぱい……!!」

 図書館の中を歩いている途中から、並んでいる様々な本に、皧は本気で感動した様子だった。ぼくが初めて来たときどうだったかはもう忘れてしまったけど、たぶん皧はぼくよりも本が好きな人になるんだろうな……なんて皧の将来像を妄想してニマニマしてしまう。知的な皧……、いい!

 そんなことを考えているぼくなんて知ったことじゃないと言わんばかりに背の低い本棚に収められている好きなアニメの厚紙本を読み始めていた。

 あー、何か微笑ましいなぁ♪

 あんまりニヤニヤばっかりしていると見た目にも問題がありそうなので、ぼくは自分用の本を探しに行くことにした。

「じゃあ、お兄ちゃんもちょっと本を探してくるよ」

「うんー」

「この近くで待っててね」

「うんー」

「知らない人に付いて行っちゃダメだよ?」

「うんー」

 ……大丈夫かな。

 明らかに聞いてなさそうな返事をする皧をちょっと心配しながらも、ぼくはその場を離れたのだった。


 よし、こんなもんかな。

 文庫本や雑学本を数冊携えて、ぼくは皧が待っているはずの児童書コーナーに戻ることにした。それ以外にも、この近辺の観光ガイドなんかも借りている。

 理由は極めて単純、最近皧が外出を楽しんでいるからだ。

 前に行った公園とかも楽しそうにしていたし、出かける道中も楽しそうで、きっと今の皧なら外に出たら万遍なく外を楽しめるのだろう。

 そう思うと、皧の世界が広がってきていることを実感できて少し嬉しい。

 今まで通りぼくが行き先を決めてもいいんだけど、これからはこの手のガイドブックを見ながら、皧自身に行きたい場所を選んでもらうのもいい。そうすればもっと、外に出るのを楽しみにできるようになるかも知れない……そんなことを、甘いぼくは考えていた。

 ぼくは気付いていなかったのだ。

 離れてしまっていた皧の身に何が起こっていたのか。その辺りに考えが及んでいなかったのだ。

 いつもは気を張っていたつもりだった。

 外には何がいるかわからない、もしかしたら皧に危害を加えようとする輩がいるかも知れない、見せたくないようなものを見せえてしまうかも知れない。日頃ぼく自身そう思っていたし、皧にも外は危ないと言い聞かせていた。

 だからこそ、外に出るときはそれなりに気を張っていたつもりだった。

 ただ、今日は違った。

 気を張ってはいても特に何も危険なことはなく、平穏無事に1日を終えられるというパターンが続く中で、少しだけ気が緩んでいたのだ。

 間抜けにも本選びとそれを見せたときの皧の反応を想像することにかまけていたぼくは、すっかり忘れていたのだ。平和の終わりというものは、ほんの一瞬油断した隙を突いてくるのだということを。

 ぼくがそのことを思い出したのは、皧が待っている――ただ平穏に待ってくれていると思い込んでいた――児童書コーナーまで戻ってきたときのことで、そのときには手遅れだった。

 足下に、皧が読んでいたと思しき本が数冊散らばっていた。

 開きっぱなしになったページに描かれたかわいらしいイラストが、目障りだ。

 その少し先の方に視線を移すと、皧はそこにいた。

 怯えきって、どうすればいいのかわからないような感じで、視線を泳がせている。

 皧の前には肥満気味の男が立っていて、汚い唾を飛ばしながら何事かを訴えかけている。

「皧……?」

 頭が真っ白になりそうなのを必死に堪えて話しかける。

 皧はぼくに気付くと、怯えたような目で駆け寄ってきて、ぎゅっ、としがみ付いてきた。回された腕に込められた力の強さが、皧の感じた恐怖を物語っている。

 目の前では、皧に何事かを訴えていたらしい男がその汚物じみた顔をこちらに向けて、尚も皧に向けて大きく口を開けてノイズを発し続けていた。

「りおちゃん、僕だよ、僕! 忘れちゃったのかい!?」

 黙れ、汚物。

 そう声に出さなかった理由が自分でもわからない。たぶん皧に汚い言葉を聞かせたくなかったのだと納得しておくことにする。

 言葉の代わりに視線で刺し殺すことにする。

 しかしそれでも引く気配はない。

「おいおい、りおちゃん! どうしちゃったんだよ、そんなやつの後ろなんか行っちゃったりして! 君は僕の大事な大事なおもちゃだったじゃないか!」

 脂ぎって薄汚れた唾を吐き散らす男から皧を隠す。

「すみません、人違いじゃないですかね。この子はぼくの妹ですから」

 お前の汚らわしい妄想にぼくの妹を巻き込むな。

 まだ何か言いたげな顔をしていたけど、そんな汚物にぼくらが関わっているなんて、そんなの時間が惜しすぎる。こんな肉袋に割く時間なんて、1秒だってあってはならない。

 ぼくと皧は、いつだって幸せでなくちゃいけないのだから。

 ごめんね、皧。ぼくが不用心だったせいで皧に怖い思いをさせてしまった。

 ぼくは皧の様子を窺う。すっかり目が泳ぎ、鳥肌が立って、呼吸が浅くなっている。

 もう大丈夫だから。

 そんな虫のいいことは到底言えないから、ぼくは皧を抱き寄せて、そのまま図書館を後にした。いつもなら外出先から家に帰ろうとすると「まだもうちょっといる!」と言う皧なのに、今回はもう何も言わなかった。

 雨の帰り道、ぼくらはただただ押し黙っていた。

 時折思い出したように「あっ、なんかあった!」と珍しげな声を上げてくれる皧の声が遠い。ぼくは、皧の話を聞いている一方で、皧のいる所からする臭いが気になっていた。

 皧の体に染みついているのは、たぶんさっきの男がしていた香水の匂いだろう。これだけ移っているということは、抱きつかれでもしたのかも知れない。………………。

「皧、帰ったらお風呂入ろう?」

 頷いた皧の頭が空気を揺らすたびに、ぼくの知らない香水の匂いがして、それとそんな状況を招いた自分がとても不快だった。

 湯加減を見てから皧を風呂場に呼ぶと、皧は先ほどのように明るさを装うことすら忘れたように呆けた顔でぼくを見つめ返してきた。

 声を出すこともなく、ぼくに近寄ってくるでもなく、ただ黙っているだけで、いつもの皧なら絶対にないその反応に、胸が妙に苦しい。

「皧、どうした?」

 その一言が、引き金になってしまったようだった。

「……やだ」

 消えそうなくらい小さな声でそう言った後、皧はいきなりその場で吐いた。溜息とか呼気とかそういうものじゃなくて、有り体に言うと嘔吐というやつだった。

 とても苦しそうな顔で吐いている。

 ぼくは胃液と涙を垂れ流している皧に駆け寄って、ただひたすら「大丈夫か!?」と訊くことしかできなかった。

 皧は吐くものがなくなってからも泣き続けていて、とても苦しそうだ。そんな皧の泣き声に混じって時折「やめて」とか「いたい」とか「たすけて」とかそういう言葉が出てきているのに気付いた。

 ぼくは黙って、皧の言葉に耳を貸す。

 皧は泣き叫んでいる。まるで何か恐ろしいものに襲われているかのように。

 皧の歯がガチガチ鳴っているのがわかる。今、きっと皧の世界にぼくはいない。

 …………。

 ぼくに構わず、皧は泣き続けている。

「いやだ、もうやめてください」

 うわごとのようにそんなことを言っている皧の姿は痛ましかったけど、それ以上にぼくは焦っていた。早くしないと。

 早く洗い落とさないと。

 皧は清らかでなくてはいけない。皧は笑っていなければいけない。皧はぼくの妹でなくてはいけない。だから、余計な汚れは全部洗い落とさないといけないんだ。

「もうやめてください、たかやまさん!」

「――――」

 何も言えなくなった。

 皧の口から出た、ぼくの知らない名前。

 洗い落とさないといけない汚れが、また見つかった。

「もう騙したりしないから、逃げたりしないから……!」

 そんな汚れも、皧には必要ない。

 ぼくは皧を浴室に引き摺って行った。口元を軽く洗い流してから、頭から体まで力いっぱい洗う。時々皧の「う~っ」という少し痛そうな声が聞こえてくるけど、何よりも皧の為だ、この汚れはしっかり洗い流さなくてはいけない。

 爪を立てて、力を込めて、皧の体から異物の気配を掻き出すように洗い続ける。途中から爪の感覚が鈍くなってきたけど、そんなのには構っていられない。皧の中に入り込んだ異物は何であっても許しておいてはいけない。

 何であっても、排除しなくてはいけない。

「皧、大丈夫だ。大丈夫だから……! 皧にはお兄ちゃんが付いてるから。ぼくが皧を守るから!」

 必死に言い聞かせる。

 皧の体はまだ震えている。

 泡が淡い赤色になっていく。

 皧は小さく声を上げている。

 指に何かが絡まっていく。

 皧がぼくから逃げるような動作をする。

 だから、ぼくはそんな皧の体をしっかり押さえて、体を洗い続ける。

 ぼくが守る。

 皧の、ぼくの妹の幸せは、ぼくが守る。その為なら、ぼくにできること全てをやってみせる。その為にぼくはいるのだから。


 風呂上りには、皧はもう元に戻っていた。体を見てみると、皧の体には小さな傷がいくつも付いていることに気が付いた。強く洗いすぎたのかも知れない。

 ぼくはその傷に、念入りに薬を塗りこむ。

 大丈夫だよ、皧。

 いくら傷があったって、皧は世界の誰よりもかわいいし、世界の誰よりも尊い。

 そして、ぼくは世界の誰よりも、皧を愛している。

 もちろん言葉に出すわけではないけど、そう心の底で囁きながら、ぼくはボサボサになって所々切れてしまっていた皧の髪をドライヤーで乾かす。

「ふい~♪」

 ドライヤーの風が気持ちよかったらしい、皧がかわいい声を出している。多少は異物を洗い出せたのだろうか。

 今日は皧の好物をいっぱい作ろう。

 膿は全部出さなくちゃいけない。たとえ目に見えるものじゃなくても。

 夕食後、体が温まって眠たげにしている皧を寝室まで連れて行った。階段を下りながら、ぼくはどうしても気になって皧に尋ねた。

「もう大丈夫?」

「? うん」

 皧のきょとん、とした反応。

 それを見て、ぼくは安心する。この様子なら、皧はもう大丈夫そうだ。何も心配することなく寝かせることができる。

「おやすみ、皧」

「おやすみー」

 その返事に満足して、ぼくは部屋を出る。

 布団で仰向けになった皧が寝息を立て始めたのを確認して、ぼくは携帯を見る。夕食の準備中に出しておいたメールには案の定返信が来ていた。

 膿は全部出さなくてはいけない。たとえ目に見えるものじゃなくても。

 まして、目に見えるものなら何が何でも出し切らなくちゃ。

 明日が、皧にとって今日より幸せな日でありますように。

 ぼくは準備を整えて、家を出た。


 いつもはちらほらと人影のある公園も、夜中の2時にもなるとすっかり無人だ。夜闇に対するなけなしの抵抗みたいに点いているアーク灯が、何とも言えず寂しい。

「お待たせしてすみません! えっと――鷹山さん?」

 皧が持っていた携帯に登録されていた中から『たかやま』と読みそうな名前を探した結果、鷹山という男が浮上した。通話記録を見ても頻繁に着信があったようだし、間違いないだろう。呼び出し方を工夫したからか、やはり無防備な姿で公園のベンチに座っていたその肉だるまの所へ、ぼくは駆け寄った。

「あれ、君は今日りおちゃんと一緒にいた……。う~ん、よく見ると君もかわいいよね」

 どうやら、この肉袋には見境というものがないらしい。

 ブランド物らしいハンカチで脂臭そうな汗を拭きながら、デレデレと鼻の下を伸ばしてこちらを美緒雄姿が実に無様で不愉快だ。

 こんなやつに付きまとわれるなんて、皧とぼくの生活にとって害悪でしかない。

 一刻も早く話をつけて、皧に二度とつきまとわないようにしなければ。


 寝覚めの良い朝。

 珍しく日が昇ったばかりの頃に目を覚ましたところから、既に何かが違っていたのかも知れない。

 天気は快晴。少し寒いけど、ここしばらくお無沙汰だった、お出かけ日和ってやつだ! 皧が行きたがっていた遊園地にも、今日なら行けそうな予感。

 部屋の鍵を開けて中に入ると、皧は既に起きていた。

 今日は皧もいつもより早起きなんだね。何だかいい日になりそう?

「皧、おはよう!」

「おはよう」

 皧はぼくの顔を見ると穏やかな顔で微笑んで、挨拶を返してくれた。暗い部屋の中でも、やっぱり皧の笑顔は眩しい。

 電気をつけて、皧を布団から下ろす。うー、と眠そうな声を出しながら、少し冷たい床に足をつける皧。……今度スリッパ買ってくるか。すぐにサイズが変わると思ってあんまり家の中でしか着ない服を買ってなかったことに思い至る。

 一応、寒くない程度に服は着せているけど、やっぱり足から冷えるって言うからなぁ。失敗だった。

 今日は今日のことだ!

 皧の柔らかほっぺに自分の頬をくっ付けて、ぼくは囁く。

「皧、今日はどこ行こうか?」

「みゅー」

 かわいらしい声が耳元で聞こえるのが幸せ過ぎる……。

 最近、皧は本当に外出が好きになった。別にぼくは皧の世界がこの家の中だって構いはしないし、皧の世界が広がっていくことに不安を覚えたことだってあったけど、それが皧にとっていいことであることだってわかってるつもりだ。

 だから、皧が行きたいと言うなら、特に今日みたいに晴れている日ならどこへだって――――

「おでかけ、したくない」

 その返事は、ここ最近ではめっきり聞かなくなっていたものだった。

「ん? どうかしたの?」

 今日はどこにだって行けるんだよ?

 雨も降ってないし、いつもに比べれば暖かいし。

 それに、皧に何かしてくるような輩は、ぼくが許してはおかないんだからさ。

 そう言おうとしたぼくの言葉は、皧の小さな呟きで止まった。

「だって、こわいから」

「怖い?」

 ぼくの声に、皧は俯き加減に頷くだけだった。

 ……図書館でのことか。

 思わず、歯軋りしそうになった。あれは、ぼくのせいだ。ぼくが平和ボケして皧を放っておいたのが原因だった。

「皧」

 ぼくは、頬をくっ付ける体勢から抱きしめるそれに変える。

「もう大丈夫だよ、皧。もうあんなやつは皧の前に出て来ない。今度こそ、ぼくらは永遠に一緒なんだ。それを邪魔するやつなんて、お兄ちゃんが許さないから」

 だから、皧が怖がることなんてないんだよ。

 ぼくは懸命に伝えた。それでも、皧の震えは止まりそうになかった。そう、ぼくは気付かなかった。皧の体はいつの間にか震え出していたのだ。おかしい、出かけたくないという会話をしたときは震えてなんかなかったはずなのに……!

 あの汚物が、ここまで皧を脅かすなんて。

 もう何もできやしないくせに、どうしてあんなやつの為にぼくらの日々が危うくならないといけない!?

「皧、もう大丈夫なんだ! あいつはもういない! だから――」

「いやだ、もういやだ、こわいの!」

 ぼくの言葉も届かないくらい、もう皧の心は恐怖に囚われてしまっていた。もう、大丈夫だと言っているのに。

 ぼくは、皧を心から愛している。

 だから2人の時間を守る為なら何でもやってみせるし、その障害になるものは何であっても除いてきた。ぼくらの世界に、悩みや不安なんて必要ない。

 だから皧がここまで怯えることはない。あの汚物についての問題は、ぼくが終わらせたんだ。

 なのに、何でそんな風になるんだ。

 皧は、ぼくの手を振り払って、まるで狂ったようにもがいている。見えない何かから逃げようとしてるのだろうか。もう、どこにもいない「何か」から。

「もう、あのおじさんは皧の所には来ないよ? お外はもう、怖くないんだよ?」

 だから、安心してほしいんだ。そう伝えようとしたぼくの耳に、予想していなかった返事が返ってきた。

「お兄ちゃん、あの人になにをしたの!?」

「え?」

 そんなことを皧が気にしてどうするの? だって、そんなの皧には関係ないじゃないか!

 そう皧に言う為に近付こうとして、ぼくは気付いてしまった。皧は、目を見開いてぼくのことを見ている。近付こうとしたぼくから急いで距離をとっている。しかも、慌て過ぎて尻餅をついてしまった。その必死な姿は、こういう行動でなければとてもかわいらしかっただろう。しかし、ぼくは受け入れなくてはならないのだろう。

 皧が怖がっているのは外に出ることだけではない。皧が恐怖を向けているのは、ぼくだった。

「皧、どうしてお兄ちゃんが怖いの?」

 言ってみてよ、怒らないから。皧が怖いというなら顔だって変えるし手足なんて切り取ってしまって構わない。目を潰したって、もう皧の姿はぼくの心の中にしっかりと刻み付けられている。だから、皧の要求なら何だって受け入れられる。ぼくはどうすればいい?

 やがて、皧は迷いながら口を開いた。

「だって、わたし見ちゃったもん。お兄ちゃんの洋服に赤いのがいっぱいついてるの。あれ、血じゃないの? お兄ちゃん、ケガしてないのに、何で?」

 ………………。

 恐る恐る、そして明らかに距離をとりながら言われたその言葉に、ぼくは心の底から安堵した。

 なんだ、そんなことか。

 よかった、ぼくが拒絶されたわけではなかったようだ。あんな汚い物を皧が見てしまったというところはぼく自身の迂闊さを後悔せずにはいられないけど、でも、そんなのは些細なことだ。ぼくは笑いながら皧に近付く。

「大丈夫だよ、あんなのは何でもない。すぐに忘れちゃえばいいから」

 ほら、いつまでもお尻が床に付いてると冷たいでしょ? 手を取ろうとした。

 パシッ

「近付かないで!」

 ……え?

「大体、何なの!? どうしてこんなことするの? ここどこなの!? それに……私は! ……私は、あれ? わたし……」

 …………あぁ、そうか。

 思っていたより事態は深刻だったのだろう。皧は、連日見ている悪い夢と、この間あの汚物に出会ってしまった恐怖のせいで、記憶が混乱してしまったらしい。皧に似つかわしくない言動も、きっと夢のせいなのだろう。

 だったら、覚ましてあげなくちゃいけないね。

 頬を強く叩くと、皧はあっさりと倒れた。恐怖のあまり体中に込められた力が完全になくなったかのように。そのまま、皧に歩み寄る。言い聞かせるように、名前を呼びながら。

「え、な……何?」

「皧、安心して」

 皧の愛らしい口から血が溢れる。その血は、間違いなく皧がぼくの前で生きてくれている証。皧がぼくの前にいるという証。

「皧のことはお兄ちゃんが守るから」

「――、や、やめ……っ、」

 小さな口から、小鳥のように愛らしい呻き声が漏れる。その声を聞いていられるのは、ぼくが皧の傍で生きているという証。ぼくが確かに価値のある世界で生きている証。

「だから、もう怖がらないで?」

「いや、……だれ、――――っ」

 大きくて愛らしい目から涙が零れ落ちる。触ると温かいその涙は、ぼくらが今ここに、2人でいる証。2人とも生きて一緒にいるという証。

「皧はただ笑ってくれていればいいんだ。ただ傍にいてくれればいいんだ。お兄ちゃんはね、皧とずっと一緒にいられるなら何だってできるんだよ? だから、皧を怖がらせるようなことなんて何も起こらない」

 皧の所々に傷ができていく。気が付けば、ぼくの拳も足先も、所構わず叩いたせいだろう、皧と同じように傷だらけだ。

「皧、大好きだから……!」

 この傷を通って、この血と一緒に、ぼくらの日常から出て行けばいい。ぼくと皧の邪魔をするものなんて、皧を怯えさせるものなんて、皧が皧でいることを妨げるものなんて、全部、全部、全部、追い出してみせる。

「はぁ、はぁっ、はぁ……っ!」

 拳が痛い。足が痺れる。視覚情報が感覚を喚起して、ぼくの体を軋ませる。

 1度立ち上がり、倒れたままの皧を眺める。

 皧の体を這って流れる赤い血。

 きっと、この世のどんな赤よりも綺麗な赤。

 この赤があるからこそ、皧はこの世に存在していられる。だからぼくも、ここに存在している価値を見つけられる。

「……皧。もう大丈夫?」

 ぼくはいつものように、皧の体を抱き起こす。

 そうすると、傷だらけの皧は微笑んでくれるんだ。皧はぼくの愛情を理解してくれている。ぼくの愛を愛として受け入れてくれる。

 嘘のない無垢な笑顔をぼくに向けて、『うん、だいじょうぶ』と言ってくれる。そうしてぼくは、皧の中から膿が出されたことを確認できる。

 そうやってぼくらの日常は続いていく。

 だから、これは全て、ぼくと皧のための確認行為だ。

 さぁ、皧。

 朝ごはんを食べよう? 外が怖くなってしまったなら、また家の中で一緒に遊ぼう? いつも本を読んでいるから、たまにはトランプで遊ぼうか。それとも久しぶりに家の中でかくれんぼでもやる? それともまた新しい本を読みたいかな?

 何でも言ってよ。ぼくの時間は全部、皧の幸せのためにあるんだから。

 まだ返事をしてくれない皧の体を揺さぶる。

 そして、ぼくは気付いた。また、皧はぼくから離れていってしまったのだということに。

 ……そっか。

 ぼくは、腕に抱えていた物を床に落とす。湿った肉が硬い床にぶつかる嫌な音がしたけど、そんなものは問題ではない。

 もう、これには用はない。

 皧はまた遠くに行ってしまった。

 ぼくは今、独りになったらしい。

 でも、大丈夫だよ、皧。

 ぼくはまた、君を見つけてみせる。だって、ぼくは皧のお兄ちゃんだから。ぼくらはずっと一緒なんだよ。

 ねぇ、皧。

こんにちは、前書きに引き続き遊月奈喩多です!

第4話「iの享楽」はいかがでしたか? 感想などございましたら、お待ちしております(もちろん、もっと前の話から書いて下さっても大歓迎です)。

人にもよるのかも知れませんが、私としては自分の死後、弟のことが心配になったりしますね。今この子を遺して逝くわけにはいかない、という気持ちで日々奮闘中です! というか、自分がいなくなった後対策として色々教えたりすることが多くなりました……。わりとシリアスな内容になってしまいました (^_^;)

前書きではウェザー好き、みたいなことを書きましたが、ジョジョキャラの中ではスピードワゴンが好きですね。なかなかいませんよ、あんな人! 「この人は、自分が惚れた(人間的に)ジョナサンに対してはもちろん、ジョナサンが死んだ後も、その家族のために生きてきたんだなぁ……とか思うとたまに泣きそうになります!

ということで、そんな彼を見習って、遊月奈喩多もクールに去るぜ。

ではではっ!

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