第6話 秘められしその力
またしても投稿に時間がかかってしまいました。
さて、あの後手押はどうなったのでしょうか。そしてなぜ、麻技亜は彼らを拒むのでしょう。
私は咄嗟に近くにあった木の後ろに隠れた。
そこにいるのがまずかったからではない。ほぼ本能的に体が動いた。
「なによ…………あれ………」
それを見た瞬間、完全に思考が止まった。現実離れした光景に、思わず隠れるしかなかった。
一瞬の時間で、何かがあった。
「……そんな………嘘でしょ……」
何が起きたかを確認するため、一旦記憶を整理する。
公民館内の自販機で飲み物を買って広場に戻る途中で、2人の声がした。何かを話しているようだったから近づいてみようとしたその時だった。
麻技亜ちゃんが叫んで手を横に振ったまでは分かった。問題はその後だ。彼女の体の前から謎の光のようなものが飛び出した。
「閃光…………あれって超能力!?」
まさかと思った。一度は経験したことあるはずの現象だが、全く現実感が持てない。似たようなホログラム技術はいくらでもあるけど、あれはそんなものではなかった。あの子が手を振った瞬間に起きたわけだし、わざわざ映写機を持ち歩く必要はない。
なぜ彼女がそんなものを。
どうしてこのタイミングで。
根拠のない憶測が脳内を飛び交い、思考をさらに混乱させてゆく。さっきまで普通の日常の中にいたせいか、反動が大きい。
そして何より、
「手押は!?手押は無事なの!?」
あの後彼はどうなった。
見えたのはただの光線のようだったが、実際はどんな要素を含んでいるか分からない。もしかしたら、触れた物体を蒸発させてしまう漫画みたいな光線かもしれない。彼の姿は一瞬の出来事だった上に、閃光のせいでよく見えなかった。でもあれは光だ。少なくとも、人が見て回避できるものではない。あれがただの光ならいいけど、そうでないのなら…………
「お願い、どうか無事でいて…………」
辺りが静まっていることを確認し、私は木陰から顔を覗かせた。
「く、黒魔法だって……………?」
僕は何が起きたのかまだ理解できなかった。
咄嗟に体をひねったのは覚えている。直後に何かが起きた。
何だあれは。
突如突き抜けた黄緑色の閃光。僕がよけた後、はるか彼方の空に向かって飛んで消えた。首のそばを抜けたとき、猛烈な熱を感じた。考えなくても分かる。あれは危険だと。
正直、今なぜ自分が五体満足でいられるのかもわからない。あれが麻技亜の言っている黒魔法なのか、単なるホログラムなのか、見当もつかない。ただ、得体の知れない恐怖が体を覆っている。
「じょ、冗談だろ?」
僕は目の前で起こったことを頭の中で否定しようとした。
ありえない。そんなまさか。先ほどまでの彼女はどうしたんだ。
「冗談なんかじゃありません。これは事実なんです………本当は自分だって認めたくはないんですよ!」
そう言って今度は右手を横に振るように伸ばした。
ズバッと。
右腕の延長線上に閃光が走り、その先にあった小さめの木を真っ二つにへし折る。
と言うより、強力な熱線で強引に焼き切ったという表現のほうが近いか。
「なっ……!」
再び現実感のない光景を見せられ、思考が止まる。唯一木が倒れる音だけが、僕をまだ現実に留めた。
破壊。その単純な力を目の当たりにする。
視線を麻技亜に戻すと、彼女は伸ばしていた腕をそっと下ろした。そして止まることのない涙が頬を伝う。
「……なぜなのでしょうか」
その声は、いまだ震えている。
「よりにもよって私なんかに………こんなわけの分からない力が与えられて、普通の人間としていられるわけないじゃないですか!」
本気の心の叫びに、僕はただ麻技亜の言葉をただ受け入れるしかなかった。
異能の力。
フィクションの上でよく語られる存在でありながら、現実に存在するとされる力。
僕と絵須羽は間接的にだが、学校で一度経験している。しかし今でも確証を得られたわけではない。あまりにも現実離れしすぎて、特撮映画かホログラム体験をしているかのようだ。
「こんな力のせいで、とても大切なものを失ってしまいました。それ自体はこの力のせいですが、やってしまったのは私です。私がそんな人間だから、きっとこんな力も備わってしまったんですよ」
あくまで悲観的に、自分自身を否定する。その気持ちはわからなくもない。
黒魔法とは名前からわかる通り、良くないものである。定義自体は様々だが、広く知られている意味としては怪しげな魔法の他に、使用者本人にとって有害であるものが挙げられる。おそらく麻技亜の場合後者だろう。
これは本当にどうしようもないのかもしれない。
異能の力に関して彼女も、僕自身も対処しようがない。最も、本人が一番辛いはずである。思春期の中学生によくある不思議な力に憧れるというのは、単純にかっこいいと理由だけではないが、少なくとも想像の世界での話だ。そんな彼らが、実際に力を手に入れてしまって果たして正気でいられるだろうか。おそらく無理だ。それが完全に制御できるならまだいい。誰に教えられたわけでもないのに、使える状態になるのだ。単純な破壊しか生み出さなかったり、自分の意思を無視して暴走したり場合はどうだ。対処法はない。何が起きるかもわからない。そして誰も助けてはくれないのだ。おそらく、その本人の人間性や、周りの環境はがらりと変わってしまうだろう。そんな絶望状態の中に、麻技亜はいるのだ。
僕は彼女の顔を見据えた。
大切なもの。
それを自分の意思とは全く無関係の、自分が生み出した何かで失ってしまった。それがどれだけ本人に恐怖を与えたのか。
「………………」
普通に考えて、これは仕方がないことなのかもしれない。しかし、このまま放置していいわけでもない。
「…………ちがう」
僕は明確な意思を持って言う。
「絶対違う。今日の麻技亜を見ていてそれだけは確信できる。そんな自分を蔑むようなこと言わないでくれよ」
一瞬、それを受け入れたように……でもすぐに戻ってしまって、
「違いません!こんな私だから、こんな人間だからダメなんですよ!」
悲痛な声が響く。存在するべきでない自分を否定して、何とか自我を保とうとしているのか。これだと僕の言葉はそう簡単に受け入れてもらえなさそうだが、このままの状態が続くのも良くない。最悪、自我が崩壊しかねない。
「どうしてだ。どうしてそんなに自分を否定するんだ!?君はそんな悪い人間じゃないはずだ。確かに黒魔法があるかもしれないけど、君自身が悪いわけではないだろ!」
今まではその恐怖に怯えていたかもしれない。最悪の存在である自分を否定し続けていたかもしれない。
だけど、
「さっきも言ったけど、麻技亜は決して悪い人間なんかじゃない!確かに、最悪なことをしたってのは自分を否定したくなる。だけど、いつまでもそのままでいいってわけじゃないだろ!あの時の笑顔はどうした!?楽しそうにしていたのは何だったんだ!?」
本人の力が悪だったとして、それが最初から本人を否定する理由にはならない。
「辛かったら一緒にいてやる。周りが冷たい目で見てきたら、必死で説得してやる。失ったものについても、いろいろ考えてやる。最初に僕たちは麻技亜が学校に戻ってくれないかと聞いた。だから最後まで付き合ってやるって決めたんだ!だから元の麻技亜に戻ってくれよ!」
僕を見つめる彼女の顔からは、何を考えているかわからなかった。だけど僕の言葉の意味は理解してくれたように見えた。
だけだった。
「そんなの…………できるはずありませんよ!」
さっと、僕のほうに腕を向けた。
避けれなかった。ただ今回は幸運だっただけかもしれない。
閃光が僕の耳元を掠め、背後で何かが破壊される音がした。
「………っ!?」
再び恐怖で体が硬直した。振り返って状況を確認するとうい気を完全に奪う。
「そんな簡単に元に戻れるわけないじゃないですか!自分のせいで大切なものを失っといて、どんな顔して学校に行けばいいって言うんですか!」
いやな予感がして今ある場所から体を逸らす。その直後、麻技亜が軽く腕を振り下ろすように杖を振った。
閃光が、彼女の頭上から僕の足元に向かってつき抜け、レンガで舗装された地面を抉った。
「例えそれができたとして、辛い記憶は決してなくなることはないんですよ!それをそんなに簡単に言わないでください!」
さらに立て続けに3回、魔法が放たれる。3回ともギリギリのところで当たらなかったが、避けるたびに後退させられ、麻技亜から離れてしまう。
「あなたはこの苦しみがわかるっていうんですか!?自分も周りも、望まない破壊で変わり果ててしまうこの苦しみが!」
また放たれる魔法。必死に回避しながらも、僕には彼女の顔に現れる本心が伝わってきた。
ああ、そういうことか。
僕は麻技亜が戻ってくれたと思っていただけだった。
実際は違った。
最悪な人間である自分に、やさしくしてくれる人を失いたくなかった。これ以上、自分のせいで周りを壊したくなかった。
だから、
「………昼間の楽しそうにしていたのは嘘だったっていうのかよ!僕たちに近づいてるように見せて、遠ざけるために!」
あくまで、他人には触れさせないのが前提。
これ以上、周りを変えたくない。壊したくない。そのために他人を遠ざける。それはある意味正しい判断かもしれない。外と関わることで未知の破壊力が振るわれるのなら、いっそのこと関わらなければいいと、そう思っているのか。
なんだそれは。
それでは、彼女自身が絶対に救われないではないか。この先ずっと、誰に対しても関わりを持たないというのか。
「…………ふざけるなよ」
僕はこぶしを握った。
「自分の殻に閉じこもったままでいいわけがないだろ!確かに自分では立ち直れないさ。でもそんな状況にいることを知ってなお、手を差し伸べてくれる人もいるんだ!それを否定して何が無理ですだよ!自分を信じられなのだとしても、他人は信用してもいいだろ!それとも、僕たちを信用してくれてなかったのかよ!」
「それは…………っ!」
麻技亜はまた杖を振…………らなかった。僕の言葉に思うところがあったのだろうか。少しばかりの沈黙があった。
そして、
「………信用していますよ」
そのまま持っていた杖を握りしめ、落ち着いた雰囲気で話し出す。
「今日だけでも、十分そう思えます。あなたたちはこんな私も優しくしてくれました。一緒に出掛けてこんなにも楽しいと思えたのは初めてです。これは嘘なんかじゃなくて私の心からの気持ちです」
それを聞いて、僕も体の力を抜く。
「どうしていきなり訪ねてきて、優しくしてくれるのかなとずっと考えてました。学校に来ないかと誘われて、ここまで真剣に考えてくれる人も初めてです。私も、少しは変われるかなと思いました。自分に優しくしてくれる人といるなんて、こんな楽しいんですね。これだけでも、外に出る意味が十分わかりました」
麻技亜は嬉しそうな顔をしていた。今の状態から考えて、これは本心であると確信できる。少しでも引きこもりの状態から変わってほしかったのが僕たちの願いで、今日の買い物で少なくとも前までの暗さは取り払えたんじゃないかと思う。
「これは本当に感謝しています。初めて同級生と楽しく会話できて、非常に有意義な一日だったと思います。ですが……」
麻技亜の顔から、再び微笑みが消える。
「いくら楽しい記憶で上書きしても、普通の生活に戻そうとしても、私はもう普通の人間には戻れません。手を差し伸べてくれても、それに応えるだけのだけの資格も心ももうありません!こんな力があるせいで、私は一生救われることはないんですよ!」
また魔法が飛んだ。当たらなかったものの、さっきより確実に距離を離される。
間合いは約40メートル。走ればすぐの距離だが、今はかなり遠く感じる。彼女が拒み続ける限りこの距離は開き続けるだろう。これがさらに続けば、もう関わることすらできなくなってしまうかもしれない。この距離自体が、お互いの心のそれを表しているようにも見えた。
「………それでいいのかよ」
その考えは否定しない。だが、それが本人のためになるとは限らない。
「大切なものをこれ以上失いたくない。だから関わりを持とうとしない。でもそれじゃ、今日の出来事はどうなるんだ?手にいれたはずの幸せを、自らの選択で失うって言うのか?」
辛い記憶だってある。解決できない問題はたくさんある。本人はそれを自分ごと閉じ込めようとしているが、心のどこかではそれをしたくないと思っているのかもしれない。
「過去に起きたことは消えない。記憶を変えることはできない。だけど乗り越えることはできる」
苦しい道になるだろう。それでも、彼女なら悪い方向へは進まないと確信できる。
彼女は僕達を拒んでいるようだが、どこか寂しさも感じられた。自分で否定しながらも必死で助けを求めている。手を差し伸べてくれることをずっと待っているのかもしれない。
なら、僕はやれることがある。
「いくらでも泣いていい。どんな暴言だって言っていい。本音を全部吐き出して、本当の君を見せてくれさえすれば」
麻技亜がそう望んでいるのなら、僕も応えてやる義務がある。可能な限りのことを尽くす。
「だから、僕は君を救ってやる。孤独の地獄から引っ張り出してみせるよ」
確信に満ちた笑顔を向ける。正直うまくいく自信はないが、もうやるしかない。彼女を再びあの孤独に戻してはならない。
「………わかりました」
何かを覚悟した顔で、こちらに杖を向けた。
「では、私を救ってみてください。こんな最悪の人間を、あなた達が望む形へと」
「おう」
僕は飛んでくるであろう魔法に備えた。
直後、鋭い閃光が突き抜けた。
「どうすればいいの、私………」
先ほどの木陰から私はずっと動けずにいた。
会話の一部始終を聞いていたけど、間に入れるタイミングがなかった。それにあの謎の光――黒魔法がどうなるかもわからなかったために、ここで見ているしかなかった。手押が何とか話をつなげていたけど、少しまずい状況になったかもしれない。もっとも、少し前や今入っていってもいい方向に進んだとは限らない。とりあえずさらに2人に近い位置にある木に移動する。隠れているだけでは何もできないが、今はそれが最善であると判断し2人の様子を見守ることにした。
最初の1発はかわせた。
だがいつまでもそこにとどまっては居られない。次を撃ってくるまでに、次の行動をしないとまずい。とりあえずできるだけ距離を詰めるために前に出る。走れば数秒の距離だ。せめて数メートルだけでも近づきたい。
しかし、そうはうまくいかなかった。踏み込み始めるのとほぼ同時。彼女が腕を振る仕草を見せた直後、
「おわっ!」
最初の数歩進んだところで2発目がわき腹を掠める。走り出した直後なのもあって、バランスを崩し、危うくこけそうになる。体勢を立て直したいところだが、今はそんなことはしてられない。バランスを崩したその勢いで横に転がる。直後に閃光がすぐ近くの地面を抉った。
「くっ……」
すぐさま立ち上がるも、依然状況は変わらず。むしろ、距離が開いたんじゃないかとさえ感じる。一方、彼女の姿勢は最初から変わっていない。状況は振り出しに戻った。
(どうすればいい。これじゃ近づけないぞ)
そもそも具体的な方法すら考えられていない。安易に近づくだけでは駄目かもしれないが、他にやれることはない。このまま離れていくなんてもってのほかだ。
つかの間の時間を利用して必死に考える。その先に見据える麻技亜の腕がいつ動くとも限らない。最悪、というかほとんどの確率で避けれずに終わってしまうかもしれない。ただ今まで回避できたのだから、不可能ではないはずだ。
僕は一旦心を落ち着かせ、再び全力で駆け出す。案の定、腕を振る仕草に入った。
「そこかっ!」
突き抜ける閃光。それを僕は最小限の動きでかわす。体すれすれを黄緑色の光が埋め尽くす。
「よしっ!」
再び全力で前に出る。
この回避はただ体をひねったわけではない。先ほどの状況から、麻技亜は僕の接近を妨げるためにあえて避けづらい位置に撃ってくると考えた。最初の回避は無理だったが。バランスが崩れることを想定して動けばある程度は体勢を保てる。
麻技亜は一瞬、驚いたような顔をしたが、すぐに次の動作に入る。体勢を立て直しつつある僕がどのように体をひねればバランスを崩すのか、自分が一番分かるその勘を頼りに体勢を変える。直後に大体予測した位置に閃光が走る。この攻撃も、何とかかわすことができた。
(このままいけるか?)
しかし、油断は禁物だ。
攻撃前には予備動作があるようだが、照準方法は不明。予備動作があるからまだ何とかなるかもしれない。しかし、どうやって狙いを付けているのか分からないため、次に来るであろう攻撃の、大まかな予測しかできない。
しかし短すぎる時間では他の具体的な方法を考えられずに次の魔法が来る。僕が取れる対策は一つだけなので、先ほどと同じように最小限に体をひね……………れなかった。
「……なっ!?」
一瞬の間違いだった。
予想していた位置とは全く違うところに魔法が来た。考えるよりも先に体が動くが、こちらは既に回避の体勢に入っていたせいで、回避がぎりぎりになってしまう。そして今度こそ大きくバランスを崩す。
「ぐぁっ!」
走った勢いを殺せず、そのまま地面に倒れこむ。景色がぐるんと周り、体が地面を転がったのがわかった。まずいと思いつつ立ち上がろうとするが、盛大にこけたせいですぐには動くことができなかった。
どうして避けれなかった。その理由は一瞬で浮かんだ。
(やはり回避を読まれた……っ!?)
さすがに同じ手が何度も通用するわけがない。彼女からすれば、本来足止めのために放つコースの逆を撃てばよいだけなのだから。そもそもいろんな条件が相手のほうが有利。こちらの手数を潰すのは簡単である。
そして、今の体勢から咄嗟に動くことはほぼできない。間合いは約20メートル。人はもとより、魔法の速度からしても一瞬である。
などと考えていてはもう遅いのだ。
終わった。
こんなにあっさりと。
僕は麻技亜を救えなかった。
「うそ………だろ……」
思考が現実についていかなかった。ただ足元の舗装されたレンガが、冷たく今の状態を伝えてくるようだった。
「くそ………っ!」
どうしてこんなところで止まってしまったんだよ!僕は彼女を救うって約束したじゃないか!
自分の中でそんな言葉だけが飛び交う。猛烈な悔しさだけが残り、この現実を受け入れるのを頭が必死に拒んだ。
(こんなので終わったのかよ………)
顔を上げて麻技亜の顔など見れるはずがない。もとより覚悟は決まっているつもりだ。ただもう少し、あがくチャンスさえあればなと今更ながらに思った。
(ごめんよ………)
僕は心の底から謝罪した。
(あんなに威勢のいいこと言っておいて、君を救えなかった………本当にごめん)
次に何が起きても僕は受け入れる気でいた。言うだけ言って、結局何もできなかったのだから。
しかし、何も起きなかった。
一瞬、自分に起きていることが理解できなかった。本当だったら、ここで消し飛ばされていてもおかしくはない。なのに、まだ自分は生きている。
代わりに飛んできたのは、麻技亜の声だった。
「どうして………」
その声は、ありえないものを見たときのような声色だった。
「どうして………そこまでするんですか…………?そんな危険を冒してまで、どうして私を救おうとするのですか…………?」
さっきまでの、拒むといった感じではない。ただ普通に、心からの素直な疑問を口に出しているように聞こえる。
「普通だったら、あんな魔法見ただけで逃げてしまいます。ましてや、そんなのが体ギリギリに飛んできたら恐怖で動けなくなってもおかしくないのに………どうして……」
予想外の展開に、僕はどうすればいいか分からなかった。どうしてそこで、最後の一撃を撃たなかったのか。だが言葉の意味を理解するにつれて、徐々に安堵した。
なんだ、そんなことか。
てっきり、失敗した僕を責めるのかと思っていた。あるいは、これ以上の関係を拒むのかと。約束を果たせなかった僕に投げる言葉などいくらでもあるだろう。
しかし、実際に出てきたのはおそらく彼女の本心。素直な疑問だ。そこには、僕達を遠ざけるような言葉はなかった。つまりまだ僕達の可能性を信じているのではないか。本気で切り捨てるのなら、動けない僕を放置するなりするはずだ。だが彼女は疑問を問いかける道を選んだ。自分では理解できないほんの僅かな期待を、心のどこかに持っているのではないか。
だからまだチャンスはある。彼女が完全に拒んだりしない限りは。
僕も疑問に素直に答える。
「ああ、確かにそうだ」
転んだせいで痛む身体を、ゆっくりと立ち上がらせる。
「普通だったら逃げるだろうさ。というか、正直怖い。めちゃくちゃ怖い。だっていきなり謎の閃光が体を掠めたんだ。まともな思考が働かなかったよ。現実感が全く沸かないくせに、やたら目の前の現象がリアルに恐怖を与えてくるんだ。普通で居られるわけがない」
僕は今も少し震える手を見る。何箇所か擦り切れ血が滲んでいたり、砂が付いていたりした。だがそんなものは視界に入ってこない。
「今自分がなぜ無事なのかも分からない。よく考えてみれば、次の攻撃の予測なんてすっごいバカなことしてたなって自分でも思う。少しずれれば即死だろうに、それをただ勘を頼りに避けようなんて。ただ、そんな現実感がない中でも自分でも確信を持って言えることがある」
僕は彼女をまっすぐ見据え、
「そんな危険があったしても、君を救いたかったんだ。それがどんな魔法だろうが関係ない。何が起きるか分からない上に、死ぬかもしれない恐怖ってのは確かに大きかったけど、それ以上に君が辛い思いをしてきたんだろ?僕はまだ避けられたけど、今の君みたいに拒むことすらできない恐怖が、常に自分に付き纏ってる状態なんて僕だったら耐えられない」
過去にどんなことがあったのか予想しかできない、だけど、今の彼女を変えることはできる。
「大切なものを失いたくないっていう気持ちはわかる。二度と繰り返さないために、自分に関わってほしくないってのもわかる。でももうそれは終わりだ。目の前にある優しさを信じてくれてもいいんじゃないか?」
言葉は返ってこない。それでも僕は手を差し伸べる。
「僕は君を救うと約束した、そのために全力を尽くすよ。だから君も、この思いに全力で応えてほしい」
彼女はまだ僕達を拒むかもしれない。だがそれは見捨てる理由には決してならない。僕達に向けてくれた、ほんの僅かな期待さえあればそれに応えてやる。絶対にだ!
「いくよ」
僕は再び身構える。
間合いは変わらず20メートル前後。だがこの際関係ない。途中で妨害されようが、届くかそうでないかだけだ。
「君が信じてくれた思いを、無駄にしたりはしない!」
そう言うと同時に、僕は駆け出す。無言だった彼女もまた、腕を振った。
麻技亜ちゃんのすぐ後ろ。約10メートル。
私はまだ、木の後ろから見ていることしかできなかった。2人とも、私が一緒だったことを完全に忘れているのだろうか。ちょうど向かい合わせに居るはずの手押ですら、私のほうに視線を向けることはなかった。
どうしてだ?もしかして彼は1人でこの状況を何とかするつもりなのだろうか。あるいは、まだ私が出るタイミングを見計らって、あえて私がどこにいるか悟らせてないだけなのか。
(…………いや、違う)
最初に彼女に会おうとしたのは私だ。よく考えれば、買い物の約束も、引きこもりを何とかしてあげようとしたのも私だった。それで手押も一緒に考えてはくれたけど、本来はここは私がなんとかするべきだったのではないか。なのに彼1人にやらせて、さらにあんなに危険な場所に立たせてしまっている。
「なんとかしなきゃ。じゃないと手押が……」
だがどうすればいい。
彼は彼なりのやり方があるのだろう。今も、なんとか麻技亜ちゃんを必死で助けようとしている。一方今まで隠れてた私に何ができる。あの閃光を回避して、彼女の元にたどり着けるのか。
「どうしよう…………」
彼女の位置は最初から変わっていない。ここからなら大股で数歩であるが、あんな魔法を見せられた後では離れすぎているとしか思えない。もうここから先は何もないため、身を隠すことは不可能だ。
などと考えている間に、次の動きがあった。
手押が駆け出すと同時、魔法が飛んだ。ほぼ一瞬の駆け引き。それに完全に思考を持っていかれ、私は再びその場に固定されてしまった。
「今度こそ」
僕は全力で前に向かう。
「今度こそ、麻技亜を救ってみせる」
一度逃したチャンス。もう二度と失うものか。
ほんの一瞬の出来事なのに、とんでもなく時間が引き延ばされているようだ。数歩を踏み出すと同時に魔法が飛んできたが、最初は当たらなかった。そのまま勢いを殺さず、走り出す。
(大丈夫だ。必ずできる)
麻技亜がこちらに腕を向ける。自分の速度は遅く感じるのに、こういった動きだけは何故か異常に早い。杖はこちらの真正面を向いている。魔法の軌道は確実に僕を狙っていることだろう。
予測はもう当てにできない。次こそ本当に来る位置がわからない。だが僕はある確信を得ていた。それは安全という意味ではないが、失敗するという未来でもない。
つまり。
ズバッ!と。
魔法が飛んだ。
杖の先端から僕の真正面…………から僅かにずれたところに向けて。
「………っ!?」
麻技亜の表情が変わった。
魔法はギリギリで当たらなかった。後ろに抜けていく閃光を見ながら僕は再び確信する。さっきまでの魔法とは何かが違う。続いて3発目。今度は僕の足に向けて。
僅かに逸れた。
「……なっ!?」
再び外れた。僕はただ直進していただけなのに。
見れば、麻技亜は明らかに動揺している。それは果たして僕に向けられたものなのか、それとも自分自身に向けてなのか。狙えばほぼ必中の魔法。それが外れた、外した理由はもう明白なものだ。
(やっぱりそうか!)
一方僕はさらに前に進んだ。それでもあと10メートル。もう手が届く距離だが、それは逆にこちらが魔法を避けられないことを意味する。しかし、だからといってここで止まれる状態じゃない。どのみち通る道ではあった。
「届け………っ!」
僕は手を伸ばそうとした。しかし次の魔法があった。
麻技亜は僕に向けて………ではなく手前の地面に杖を向け、閃光を放った。
「え……っ!?」
僕は正面ばかりを意識していた。それ以外に気にする必要がないからだが、ここにきて突然の足元である。バランスを崩すわけではないが、対処ができない。
そして、魔法が地面に当たったときにもたらすものと言えば単純だ。
すなわち、破壊。
原理はわからないが、直撃を受けた地面が爆発する。その衝撃波は意外にもすさまじく、僕を軽く吹き飛ばす。
「うわっ!?」
数メートル後ろに背中から叩きつけられた。何が起きたのか一瞬理解できなかったが、本能的にすぐ立ち上がる。
(くそっ!また失敗してたまるかっ!)
さっきよりも体が痛い。だがそれ以上に気を取られることがあった。
麻技亜が下がった。
さっきまでずっと同じ位置に居たのにだ。ほんの数歩だったが、明らかに彼女に変化が見られた。
そして再び、彼女の目から涙が流れる。
「もう、やめてください………」
その言葉は僕を拒むものではなく、そこまでどうして危険なことをするのか。といった意味が含まれているような気がした。先ほどの僕の言葉に対する返答がようやく返ってきた。
「こんな私のために、そんな辛い思いする必要なんてないじゃないですか………これ以上あなたが近づいてしまえば、今度こそ取り返しのつかないことになるかもしれないのに………」
またしても悲痛なものを見たような表情になってしまう。彼女はまだ僕達を信じ切れていないのか。僕の決意はまだしっかりと伝わっていないというのか。
一瞬悔しさが残る。だがここで立ち止まってはいられない。
ここで終わらせてやる。これが最後だ。もう辛い思いをさせないために。
僕は走るのではなく、ゆっくりと前に歩き出した。
麻技亜までの距離が徐々に縮まってゆく。
「そんなんじゃないさ」
一歩、また一歩と確実に近づいていく。
「こんなのくらったら、どうなるか全くわかんないよ。一歩間違えてたら、ぼろ雑巾みたいにズタズタになってたか、体が蒸発していたかもしれない。でもさっき言っただろ?僕は君を救いたかったんだって」
間合いは約15メートル。だがさっき走っていたとこのように長くは感じない。むしろ、短すぎると感じてしまうくらいだ。
「確かに魔法を受けたら、取り返しのつかないことになる。一生、大切なものを失い続けることになる。だけど、それは君を見捨てても同じ結果だったと思うよ?」
距離がさらに縮まる。麻技亜はさらに後ずさりした。
「どうして………そこまでする理由なんてないのに…………」
そして魔法を放つ。しかし当たらない。
「理由なんてないよそんなの。じゃあどうして、今も僕はまだ生きてるんだ?あんな魔法、十数メートルの距離で当てるのは簡単だろ?なのに当たってない。どうしてだと思う?」
さらに立て続けに魔法が飛ぶが、全て外れる。
「どう……して……」
彼女の杖を持つ手が震えている。それでも僕は前に進む。
「そんなに………自信を持てるのですか……」
立て続けに5発。連射に近い形で放たれるが、いろんな方向に散らばってしまい当たらない。いや、当たらせてない。
「なぜかって?そりゃ簡単さ」
辛い記憶があった。
長い間、苦しんできた。
これ以上何かを失いたくない。だから周りとの関わりを断ち切ろうとする。しかしそれでは、助けるために伸ばされた手すら拒んでしまう。ただ、彼女は間違ってなかった。ここで手放せば、もう二度と戻れなかったかもしれないチャンスを、差し伸べられた手を、自分の力でつかみとった。
そう、全て終わった。
だから最後に。彼女の目の前で、本当にの意味で安心させる笑顔で。
「君は拒みながらも、心のどこかでは僕を信じていてくれたんだろ?ただ僕は、君のわずかな希望をかなえてやっただけさ」
この力のせいで、あらゆるものを失った。
そう、あの日を境に。それはまだ私が小学6年生だった時の話。
その頃私は両親と一緒に、山梨にある家に住んでいた。駅周辺の開発されたエリアではなく、もう少し山に入ったとこの広い土地で、今よりずっと大きな家だった。ただ小学校は家から離れていたので、車で送り迎えしてもらっていた。クラスには友達がいたけど、家が遠いのもあって遊ぶことは少なかった。それでも一緒にいてくれる人がいるだけで楽しかった。
メイドさん達がいるとはいえ、私1人には広すぎる豪邸。もう家の隅々まで探検済みだったため、友達と遊ぶ以外の楽しみといえば本を読むかアニメを見るかの一人でできることぐらいだった。もちろん、メイドさんたちも遊んでくれたこともあった。
中でも一番の楽しみは、両親とのお出かけだった。普段あまり出掛けない市内のほうにいって、買い物をしたりご飯を食べたり。大好きな両親は私にとても優しくしてくれた。
何不自由ない生活。そんな生活に少しばかり飽きてきた頃にそれは起きた。
その日も私は両親に連れられてお出かけしていた。後ろの席に座って車窓に流れる景色を楽しく眺めていると、
「なあ未来。お父さんたち、少し寄っていきたい場所があるんだ。いいかな?」
車を運転する父が、バックミラー越しに視線をこちらに向ける。
当時はまだ好奇心旺盛な時期。外出自体あまりしたことがない私は、久しぶりのお出かけということもあっていろんな場所に行ってみたかった。
「うん!いいよ!」
「わかった。ありがとね」
それがどんな場所か気になった私は、素直に聞いた。
「あのさ!その行きたい場所って一体どこ?楽しいところ?」
「うーん、そんなんじゃないけどちょっと用事を済ませるだけだからそんなに長い時間居ないよ。まあ、車で待ってるのもあれだから一緒にくる?」
「うん!」
「はは、そうか。なら一緒に行こうか」
すると母が少し心配そうな顔で、
「あなた、連れてって大丈夫なの?」
「大丈夫さ。行ったところで未来は何もすることはないんだから。ちょっと寄るくらいなら許してくれるだろう。それに」
父は視線を前に戻して、
「いつかは自分でも行かなきゃいけない時が来るだろうからな。その時の慣れだと思えばいい」
母はどこか府に落ちない様子であった。だがその時の私はまだその意味を理解できなかった。
見慣れない景色が流れる。やがて視界を埋めるものは立ち並ぶ家から木々に変わり、車は山道に差し掛かった。何度も左右に体がゆすられ、上下した。かなり長い間そんな状態が続いていたが、しばらくして壮大な自然の中を抜けると一気に視界が開ける。
「着いたよ」
その声を聞いて正面を見た。そこには、おとぎ話に出てきそうな西洋風の建物がいくつか並んでいた。どれも似たようなつくりをしていたが、中央にあるものだけ周りのより一回り大きい。
私たちは車を降りてその建物に入る。入口には金属のプレートにこう書かれていた。
『第43結社山梨支部』
これが何なのかわからないまま、その建物の入り口――木製の扉を開けて中に入る。
中はそれほど豪華ではないが、どちらかといえば市役所の内部に似たような感じだった。ただ、不思議な飾り物がおいてあったりよくありそうなカウンターが無かったりと、そこに漂う空気は市役所のそれとは違うのがわかった。
私は疑問に思って父に聞いた。
「ここ、何の施設なの?」
「お父さんたちが所属してるとこなんだけど、なんというか…………そう、同好会みたいなものさ」
「同好会?」
「わかりやすく言えば、同じ趣味なんかを持った人たち同士で集まるグループみたいなものだよ」
「へぇ」
(随分と大きなグループなのね。一体どんなことをやっているのだろう?)
まだ私は同好会というもの自体も知らなかったため、たかが同じ趣味で集まるだけで、こんなに大きな施設が必要なのかという疑問は浮かばなかった。そういうもんだと勝手に理解した私は、歩き出した両親の後を追った。
しばらくして、奥のほうから黒いスーツを着た若い人が出てきた。
「お待ちしておりました麻技亜夫妻。既に準備はできておりますので、司書室までおいでください」
「ああ、ありがと」
その人とは既に面識があるようだが、一度も見たことがない私は両親を見上げて訪ねる。
「誰?この人は」
すると母が答えた。
「木部さんて言って、このグループに所属している方よ。ほら、挨拶なさい」
私は素直にその人の方を向いて、
「初めまして、麻技亜未来です」
「初めまして。木部と申します。あなたのことは両親から話は聞いておりました。その通り本当に綺麗な娘さんですね。その上礼儀正しいことで」
私は照れたように両親の後ろに隠れた。それを見ていた父は私の頭を撫でながら、
「ははは、ありがとな木部君。さて、私たちは作業に入るとしよう」
その木部と言う人が2人と歩いていく。私もついていこうとしたが、
「未来は少しここで待っていなさい。すぐ戻ってくるから、それまで大人しくしているんだよ?」
「うん、わかった」
正直言うと、その両親が何をしようとしているのか興味はあった。でも大人の事情があるのだろうと思って、私は大人しく待つことにした。よく見れば木部さんのほかに何人かの大人が様々なことをしている。父はある企業の幹部だったために数々のパーティーに呼ばれたりしていたのもあって、そこについていったことのある私は大人しか居ない空間には多少慣れていた。といっても、初めてくる場所だから少し緊張する。
すると木部さんが話しかけてきて、
「ご両親はまだ掛かるようですので、何かお相手できることであれば仰ってください。それとも、何かお飲み物でもお持ちいたしましょうか?」
改めて見ると、とても親切そうな人だった。ただその時特にしたいことも無かった私は、
「ありがとうございます。でも今はお気持ちだけ受け取っておきますね」
目上の方への返事は丁寧に。そう教えられたとおりに返した。
「左様でございますか。では、もし何かあればご遠慮なく」
そう言って木部さんは奥の部屋に歩いていこうとした。そこでふと、壁などに飾ってある展示物が目に入った。
「あの」
「はい、何でしょう?」
「これらの展示物は、見てもよろしいのですか?」
そこにはポスターのようなものや、なにやら道具のようなものが展示してある。何か面白いことが書いてあればなと思った。
「はい、構いません。ただ触っていいものに関しては丁寧な扱いをお願いしますね」
「わかりました」
「では」
私はそれらに近づく。貼ってあるポスターは何やら文字がたくさん書いてある論文のようなものだった。ただその時はまだあまり漢字を読めなかったのと、日本語以外の言語で書かれていたところもたくさんあって内容はわからなかった。いくつか貼ってあるポスターを眺めながら、読めそうな内容はないか、知ってる知識はないか探した。すると最後に見たポスターに両親の写真が載っていた。
(お父さん、お母さんだ!)
写真から見るに今より若い頃の写真だろう。書かれていることは全くわからなかったが、なんとなくすごい事を成し遂げたんだろうと察する。
一体どんなことをしたんだろう。気になった私は後で聞くことにした。そしてポスターには文章の他にイラストのような図が入っていた。
(なんだろうこれ)
なにやら不思議な模様が内側に描かれた円、謎の光を中心として半球状にドームを作っている絵、複雑で規則性がないオブジェの設計図。説明は難しい日本語やわからない言語で書かれていたが、ポスターのタイトルは日本語で書かれていた。
『設置型空間固定術式における力場の自己修復性を利用した防御構想』
何を言ってるのだこれは。
いくら日本人だとはいえ、よくわからない単語を並べられてはお手上げだ。私は諦めて他の展示物に目を移す。
ポスターが張ってある壁から少し離れたところに展示用のテーブルのようなものがあり、その上に多数の何かが置いてあった。形大きさは様々で、道具のような形をしているものもあれば、何か意味があると思われる形をした置物もある。気になったのを手にとっていろんな角度から眺める。
(これは………なにかの芸術品?)
数えるほどだが、美術館には行った事がある。名前も知らない芸術家たちの絵をたくさん見たが、造形などに関して今手元にあるような感じの作品もたくさんあった。私はまだその形が何を表しているのかなどわからなかったが、すごく不思議な気持ちになった。
(どれも面白い形をしてるのね。なんですごいのかわからないけど、私も一度こんなの作ってみたいなぁ)
そして、それらの中にこんなものまであった。
(これは…………魔法の杖?)
素材は不明だが随分と複雑に削られていて、曲がったり膨らんだりしている部分がある。また大きさは実に三十センチほどもある。謎の魅力に取りつかれた私は、その杖を手に取ってまじまじと眺める。
「すごい……」
気のせいだったかもしれないが、その辺のグッズ店で売ってるようなレプリカ品に近いものとは何か違う気質を感じた。木だから思った以上に軽いが、謎の重みがある。
そして後ろに誰かが来た気がして振り返った。両親がやることを終えて戻ってきたのかなと思ったが、数人がただ通り過ぎただけで何もなかった。少し期待を外された感じがしてがっかりした。
「まだなのかなぁ」
私は建物内を歩いて両親がいる部屋を探したくなった。ただ建物はかなり広い。適当に探しては見つけにくいだろう。
確か「ししょしつ」って言ってたよね?木部さんに案内された奥を探せばその部屋があるのかな?
長い通路に向かって歩き出す。途中何人かの大人とすれ違ったが、「ししょしつ」がどこにあるかを聞かなかった。単に思いつかなかっただけだが、そういった策を取らなかったため、目的の部屋がなかなか見つからない。
「どこだろう………」
展示物に見入ってしまったせいで、待っていなさいという言いつけを完全に忘れた。しかしその時はすぐ終わるからと言われたのに結構時間がかかっていたことの方が気になっていた。いくつかの曲がり角を曲がる。そこで私は重大なことに気が付いた。
いくつもある部屋の扉の横にはその名前が書かれているのだが、それらは全て漢字である。あいにく私は「室」は読めても「司書」なんて知らなかった。だからいくら探しても両親が出てくるか案内されない限り、どれがその部屋なのかわからない。
(どうしよう……)
さらにこの辺りはあまり人がいないのか、建物内なのにやたら静かである。ここは一体どのあたりなのだろう。ずいぶんと奥まできた気がする。帰り道は覚えているものの、当初の目的は果たせそうにない。
「はぁ…」
小さいため息がもれる。結局今の私には入り口で待っているしかできないようだ。そう思った私は大人しく戻ろうとしたが、なぜだか通路の奥に意識が行った。
「?」
その奥に何が見えるというわけでもない。だけど何かがそっちにあるような気がしてならなかった。私はその意思のままに通路を進み始めた。
途中さらにいくつかの分かれ道があったが、迷わず道を選ぶ。どちらかと言えばこれは自分の意思と言うより不思議な何かに導かれるような感じだった。そして最後の曲がり角。ここを曲がればそれはある、という確信があった。
そして着いた。
その導かれた源となる部屋に。
「ここは………何なの?」
部屋の壁、天井、床が真っ白かつ一切の模様がないタイルで埋められている。模様というより、敷き詰めた跡すらない。本当の白。よく見れば照明もないのにやたら明るいのも不思議だ。ただそれより異常なのが部屋の広さだ。歩いてきた通路的に考えてもおかしい。途中で階段を降りたわけでもないのに、この建物の一体どこにこんなスペースを取るというのだ。下手すると入り口のロビーすら上回る広さがある。ただでさえそんなおかしい空間なのに、ずっとそこにいるとと頭がおかしくなりそうだった。
しかし、そんな中で一際目立つものがあった。
その部屋の中央。七色の光を発しながら動く謎のオブジェが木の台の上に載っている。さらにそこを中心として複雑な模様が描かれた円が床に広がっている。
「なんだろう……あれ」
謎の魅力に囚われ、私はそのオブジェに近づく。
それを構成する物体は特に形を留めていない。ガラスのような透明度のある結晶が炎のように常に様々な形に姿を変えつつ、台の上に乗るような範囲で収まる。そしてその中心部は七色に発光しているが、何故だかずっと見ていても気持ち悪くなるようなことはなかった。台はかなり高そうな木材を使っており、何か意味があるであろう彫刻がなされている。
美しい、と表現するのは少しずれているが、その綺麗な何かに見入ってしまう。すると、どこかこれと似たような何かを見たような気がしてきた。
(あれ?これって……)
そう、あの両親の写真が載っていたポスターの図そっくりだった。足元の円もよく見てみればあそこに描かれていたものと記憶が正しければほぼ同じような模様だ。
つまりこれは両親の発明品ということか。
私は大発見をしたかのようなときめきに包まれた。
「おおおおお!」
周りから見れば私の眼が輝いて見えただろう。偉大な功績を成し遂げた2人の技術の結晶が今目の前にあるのだ。ここに惹かれたわけは、おそらくこれのせいなのではないか。
私はとても感激していた。
すごい、すごいと。
ただ、そのせいで警戒心が完全に無くなっていた。
今すぐ両親にこのことを聞きたいと思った。それと同時に、なんとなくこれに触ってみようという思考も働く。
子供だったから、いろんなものに触ってみたいと思うのは当然かもしれない。でも私は、両親の言いつけを最初から守れていなかった。
『ここで待ってなさい』
それさえ守ってれば、何も起きなかった。
この日常が壊れたりしなかった。
見た目は普通の台。触っても特にないはずだ。
ゆっくり、ゆっくりと近づき、撫でるように触った。
その一瞬は何もなかった。だがその直後、
ガキン!
金属とは違う何かがはじける音。それと同時に閃光が視界を奪う。
何が起きてるかなど把握できなかった。
爆発なのか、あるいは何かの不思議な力が働いたのが。聞いたこともない物体が壊れるような音とともに私の体は軽く宙を舞い、床に叩き付けられる前に意識が飛んだ。
気づいた時には、私の知らない部屋のベッドの寝かされていた。
あの時何が起きたのか。いやそもそも何で自分がここにいるかわからなかった。頭からつま先まで、全身を猛烈な痛みが襲う。まともに意識すら保てない中で、部屋の外であろう場所から両親やいろんな人の声が聞こえた。
何を言っているかなど正確にはわからなかった。ただ、この一言だけはっきり聞こえたような気がする。
「どうしてあんなものを入れた!貴様らは邪教の下部なのだろう?」
意味は分からない。でも両親がたくさんの人に怒鳴られているのだけはわかった。そのたびに、2人は必至で頭を下げているように感じた。
なんで?
なんで……?
考える暇もなく、私の意識は再び闇に落ちた。
私の人生は壊れた。
後から聞いた話では、私はあれで吹き飛ばされた。それと同時に建物も吹き飛んだ。そこまででも衝撃だが、さらにショックなことが後に起きたらしい。
これは両親ではなく別の人から伝えられた話だが、吹き飛ばされて意識を失った私を助けようと木部さんが近づいた。するとその時、意識がなかったはずの私が立ち上がった。無事だったかと安堵したのもつかの間、私が腕を振った。それと同時に閃光が放たれ、木部さんの脇腹を抉った。みんなが何が起きたのかを理解する前に、倒れたその人を無視し再びいろんな人に放った。さらにいろんな場所で破壊を繰り返し、五時間後に数人と両親がようやく意識を奪うことに成功した。
なぜこのようなことが起きたのか誰にも分らなかった。ただ一つわかる事といえば、両親は所属していた同好会……と教えられた組織の事実上の敵となってしまったことだった。
そうなってしまったのかはかなり後で知った。そして両親が所属していたのはは同好会などではなく、『魔術結社』だったということ、意識のない私が使っていたものは『魔法』という力であることも知った。
まだ小さい私は罪にとらわれなかった。しかし代わりに両親がそれを背負うことになった。その罪は非常に単純な理由だ。事実上の敵勢力である私を結社拠点内に入れ、さらに破壊行為をもたらした、である。私は今でもよくわからないが、魔術と魔法というのはどうやら違うものらしく、意識が無いとはいえ魔法勢力を領域内に入れてしまった形となる。
勢力内に入れただけではまだ良かった。問題なのはあのオブジェに触れてしまったことだ。簡単に説明すると、あのオブジェはポスターにあった題名通り、あれを中心にバリアみたいなものを張り、外部や敵対組織の侵入及び攻撃を防ぎつつ施設を隠ぺいできる魔術で、非常に画期的な術式だ。今まで、存在を隠すために様々な試みをしてきた結社だったが、この術式を両親が開発したためにその必要がなくなった。このような偉大な発明をした両親は表彰され、一気に地位を上げることとなった。これも後で知ったことだが、探知範囲はゆうに3キロを超えているらしく、検証通りならば山道に差し掛かるあたりで発見できていたそうだ。
本来であれば組織内の人間以外が入った時点で探知され、中心部には強固なバリアが張られるはずだが、私の場合何故か反応しなかった。理由は今でもわからないそうだが、組織はこれを麻技亜夫妻は実は他組織のスパイで、内部の秘密を盗み出すのと同時に防御に弱点を作り、さらに支部の破壊を試みたとみたようだった。まあ当然だろう。仕組みを公開しているとはいえ、あれは両親が作ったもの。今回の事件があったせいで裏があると思われても仕方がなかった。
表立って語られないが、あの戦争以降姿を隠し続けている異能の力は水面下で争いを生んでおり、結社同士の抗争は世界的に見れば日常茶飯事。相手の上に立つにはいかに自分達が強くなるかの模索だが、他の組織に機密がばれるなどもってのほかだ。少しでも怪しいと思われれば、その場で処刑なんて形も珍しくはない、そんな世界での話なのだ。
そして、その後の人生は最悪だった。
両親は地位を一気に失い、かつての栄誉は夢のものとなった。その上、もし本当のスパイであると確定されれば、処刑される事となる。
一方私は、学校で追及されることも友達が冷やかしてくることもなかった。しかし、両親を大変な目にあわせてしまったという自責の念が常に付きまとい、普通の精神状態を維持できなくなった。友達が心配してくれたが、彼らにどうこうできる話ではない。次第に学校を休み始め、やがて友達も少しずつ離れていった。
食事も手がつかず、勉強も全くできない。ましてや、自分が何をして生きているのか、どうしてこんなところにいるのかさえ疑問に浮かんだ。
たった一つの出来事が、私の人生を完全に破壊してしまったのだ。
それを見かねた両親は既に持っていた別荘――福生の家へと私を移し、なけなしのお金を託してこう言った。
「ごめんな、未来………こうなっちゃったのもお父さん達のせいだ。未来は悪くないから、そんなに落ち込まないでくれ…………。せめてこっちの街で、今までのことは忘れて普通の学校生活を送りなさい。いいね?」
そんなふうに、どんなときでも私には笑顔を見せてくれた2人。ただその裏側ではすごく苦しい思いをいていた事はすぐにわかった。それでも私のせいだとは言わない両親を見ていて私は涙しか出なかった。その深い深い優しさは、幼稚な私には辛すぎた。
私のせいなのに。
2人は悪くないのに。
私があそこで約束をきちんと守っていれば、それでよかったのだ。さらに言えば、好奇心でついていこうとした私が悪いのだ。
そんなことを繰り返し考えているうちに、本当に自分が何なのかを見失った。残ったのは、私はひとつの約束さえ守れない、醜い人間であるという考えだけだ。
私は絶望に浸りながらも、せめて両親の約束は守ろうと学校に通った。気がつけば中学にあがっていたが、精神が不安定な上に新しい環境に放り込まれたせいで、まともな生活を送れなかった。
果たして、こんな人間が学校に行く資格はあるのか。
周りと関わりを持って、普通の生活を送れるのか。
絶対無理だ。
きっと、誰かを傷つけるに決まっている。
また取り返しのつかない事をしてしまう。
鏡に向かって「お前は誰だ」と言い続けると、最終的にその人は完全に崩壊する。その時の私はそれに似た状態で、自分を信じられなくなっていた。中学も一年の途中で行かなくなり、私は周りとの関わりを絶った。
自分は救われないのだ。生きていたって意味がない。広い関わりを持てば、それだけ相手に迷惑をかけるだけだ。
もう全てを諦めていた。クラスメイトが来てくれたときは嬉しかったが、彼らには私なんかと関わってほしくなかったから帰ってもらった。こんなことするなら、もっと有意義な時間の使い方があっただろうに、などと思ったりした。
そして私が気絶していたときに振るったと言われた例の力は、いつの間にか自分で使えるようになっていた。だが使うだけで周りのものが破壊される。ちょうど、あの時のように。
そうして何もしないうちに時間がただひたすらに経っていき、気づけば3年になっていた。自分がなぜ、こうしているかも知らずに。
そのことに関して疑問に思ったこともあるが、考えるだけで無駄だ。
私はあることを決意した。それまでに時間は掛からなかった。
「この世にいる意味がないじゃないですか………私なんて……」
結局学校に行くと言う約束すら守れてない。そんな人間など、誰も必要としない。必要とされない。
助けなど、求める資格などない。
自分は、最悪な人間なのだから。
この力とともに、永遠に終わりにしよう。
その決意は簡単に決まった。しかし、それを実行する日をなかなか決められないでいた。そうしてだらだらしているうちにも時間が過ぎていく。自分では気づかなかったが、まだこの世に未練があったのかもしれない。
そして、
『ピンポーン』
唐突に家のインターホンが鳴った。自然に体が反応し、誰が来たのだろうかと少し考えた。しかし、周りを拒み続けてきた私に会いにきて何がある。きっと幻聴だろう。
そういって布団に包まろうとしたら、
『ピンポーン』
再び鳴った。今度ばかりは、さすがに本物だとわかった。ドアホン越しに聞くと、自分たちはクラスメイトだと言っている。せっかくだし、話でも聞いておこうと思った。
自分の部屋に通し、お茶を用意する。いくら自分が崩壊しているからとはいえ、もてなす心はあったようだ。自分も一口飲んで、話を聞いた。内容はやはり、私がどうして学校に行かないかであったが、私に答える資格はない。できるだけ丁寧に接し、帰ってもらおうとした。すると予想外の言葉が飛んできた。
「明日、一緒にお出かけしない?」
「え?」
私は素直に驚いた。
なぜ、自分にそのような誘いをしたのか、私には理解できなかった。
故に私は、その誘いを断る。
「お誘いは嬉しいのですが、私外出は苦手なんですよね………………」
そう言えば、諦めてくれると思った。しかし彼らはそんな程度では折れなかった。
「本当に、ダメ?」
正直、断る理由はない。ただひとつ、私に関わってほしくないことを除いて。
だが何度か聞き返され、私のほうが折れてしまった。
「……………………いいですよ」
1回きり。それでこの関係はおしまいにする。
それならば、彼らの約束は果たせるし関わりを切ることもできる。
どちらにしろ、私はもう長くない。だからせめて、最後だけでもこの世界を楽しんでから終わりにしよう。そこで何が起きようとも、終わった後ならもう苦しむこともないのだから。
私は、何年ぶりかの笑顔を再び人に見せた。
「いいですよ。一緒にお出かけしましょう」
買い物は楽しかった。
久しぶりに笑った。
この2人には本当に感謝している。昨日来てくれなければ、こんな機会は絶対訪れなかっただろう。このときは、今まで生きていた意味があったと改めて思えるほどだった。
だけどもうおしまい。彼らは彼らの人生を歩み、私は自分自身に決着を付ける。ここで最後の別れを。この世界に、両親に、そして彼らに。
もう何も悔いはなかった。これで終わらせることができる。
はずだったのに。
「どうして………」
彼らは私にまだ関わりを持とうとしている。
「どうして!」
私は必死に拒む。これ以上、関われば彼らの人生が台無しになる。私のことを考えてくれるのは嬉しいが、せめてこれ以上迷惑は掛けないように。
「私はこんな人間なのに………こんな生きている価値のない人間なのに………」
彼らはただ拒んだだけではおそらく諦めてくれない。だから皮肉にも、全てを失ったこの力を使うしかなかった。
これは、使っている自分ですら恐ろしい。
放つのに必要なのは、何か体の底にあるものを放出するようなイメージだけだ。手を振るのは自分でタイミングを掴みやすくするためである。そうでもしないと、どうやって放たれるかわかったものではない。それがあって照準とタイミングは自分で調整できるようにはなった。これはあくまで彼らに諦めてもらうことが目的だ。だから脅し程度に撃って当てなければいい。
しかし彼は、手押君は諦めなかった。
最初の脅しでも、わき腹を掠めるような恐怖を与えても。さらに衝撃で吹き飛ばしても彼は諦めなかった。数十メートルなど走れば一瞬だ。私は諦めてもらうために必死で考えた。その結果、ひとつの結論にたどり着く。
すなわち、
(彼自身を、傷つけるしか……っ!?)
そう考えるも、実際にはしたくなかった。だが彼を止める方法は、これしかない。
私なんかと関われば、こんなことになると。だからこれで終わりにしようと。
私は杖を構えた。
しっかりとイメージして狙えば、その通りに飛んでしまう。ここで彼が致命傷を負わずとも、直撃を受ければ止まってくれるだろう。
でも、少しでもそれがずれたら?あるいは、避ける動作をして逆に当たってしまったら?
彼はある確信があるといっていた。それが何なのか私にはわからない。
そんな気の迷いのせいだと思う。魔法は狙ったところとは全く別のコースを飛んだ。
「………っ!?」
何が起きたのか理解できなかった。放たれれば必中の魔法が、自らの意思で彼を避けるかのように外れたのだ。
私は続いて3発目を放つ。しかしこれも外れる。
「………なっ!?」
思わず声が出る。
ありえない。そんなのありえない。
彼は歩いている。的は止まっているようなものだ。しっかりと狙えば当たるはずだ。
しかし外れる。連射しても、広範囲から一点に集中させても。
距離は10メートルもない。まっすぐ見れば、彼しか視界に入らないというのに。
当たらない。
もはや最後のほうは、自分がなぜ魔法を放っているのかさえわからなくなってきた。自分は何を拒んでいるのだ。どうしてそんなに必死になる必要がある。
その間にも彼はゆっくり、ゆっくりと私に近づく。
そして、ついに魔法が放てなくなった私の前で、とっても穏やかな笑顔で言った。
「君は拒みながらも、心のどこかでは僕を信じていてくれたんだろ?ただ僕は、君のわずかな希望をかなえてやっただけさ」
その言葉を聴いた瞬間、時間が止まったような気がした。
私は、心のどこかで彼らに期待していた?
こんな最悪の人間に付き合ってくれて、それでかつ真剣に考えてくれる彼らに私を救ってほしいと、どこかで思っていた?
少し前の自分とは、圧倒的に矛盾している。それでいてどこか、それが間違ってない気がしてしまった。
「私は………」
もう拒む心はない。ただ単に、自分に問いかけてるようだった。
「私は………!」
今までどうしてそう思わなかったのか。あるいは思いたくなかったのか。自分では気づけなかったものに、彼らは気づかせてくれたのか。
私は数歩さらに後ずさりした。ほんの少しでも、自分の気持ちを整理したかった。だがそこで地面の段差にかかとをぶつけ、後ろに勢いよく倒れる。一瞬のことだが、体感的にはまるでスローモーションのようだ。
「あっ…………!」
徐々に体の傾きが増していく。今の私には受身をとることも、体勢を立て直すこともできない。果てしなく時間の流れが引き伸ばされた中で、私は思った。
私は本当に救われるのか?
普通の生活に戻るだけの資格があるのか?
彼らを、信じていいのか?
今起きていることが夢なのか、それとも現実なのかすらわからなくなっている。あの時の自分は?今の自分は?今まで、自分は何をしてきたんだ?
このままでは私は倒れてしまう。もう、これで終わりなのか。今見ているのは、最後ぐらい幸せな夢を見たいという自分の願望なのか。
私は、一体なんなのだ。
だが、すぐにここが現実だとわかった。
なぜなら。
視界の下のほう。既に死角に入りつつある手押が手を伸ばしていた。
「麻技亜………っ!」
私を倒れさせまいと伸ばしている。本当なら一瞬で背中から叩きつけられるはずが、スローモーションとなった世界では、とてもゆっくりに見える。
彼の顔は必死そのものだ。自分がどうなるかではなく、私を助けるため。バランスを崩してまで、手を伸ばしている。
こちらも手を伸ばせばおそらく届く。このまま倒れることは防げるかもしれない。しかしここで拒めばどうなる。もう一生、こんな機会は訪れないかもしれない。助けてもらえないかもしれない。
私も、ゆっくりと手を伸ばす。手押の差し伸べられた救いの手に。
救ってくれるのだ、こんな自分を。自らの危険を冒してまで。こんな人間だが、せめてそれぐらい期待してもいいだろう。これで終わりにするのだ。自分が決めた最期ではなく、私自身が救われるという形で。
私は限界まで腕を伸ばした。しかし、最後の最後で届かなかった。
(そん……な……)
指先は触れている。だがそれだけでは倒れる勢いを止めることはできない。角度の増した私の体の速度が徐々に上がり、やがて手押の手が遠さかる。
「くっ………!」
彼も必死だが、もうどうしようもない。倒れるのがスローモーションなら、彼もまたゆっくりしか動けないのだから。
私は腕をまだ伸ばしながらも、最期を悟った。
ああ、結局私は救われないのですね………
手を必死に差し伸べてくれる人がいても、それに応えられない、応えるだけの資格がないというのが定めなのですね………
オレンジ色に染まる空を仰ぎながら、私は目を瞑った。
これで、終わりなのです。
もう、何もかも。
やがて傾きはさらに速度を増し、背中から地面に叩きつけられる。
その一瞬手前で止まった。
「?」
何が起きたのかわからなかった。
自分は、本当に終わってしまったのかと思った。
しかし、ゆっくりと目を開けてみれば見慣れた美少女の顔がそこにはあった。
絵須羽由美。自分が地面にぶつかる瞬間にとめてくれたのは、紛れもなくこの人だ。
彼女もまた、涙をこぼしながら。それでいてどこか安心できる笑顔で、
「大丈夫」
その言葉を聞いた瞬間、今までのうやむやが全て吹き飛び、心の底から涙が溢れ出した。
「あなたは救われた。だからもう、1人で悩まなくていいんだよ?」
麻技亜は救われました。実はこの回、原案にあったのですが内容がかなり煩雑で彼女の過去については触れてませんでした。今回改めて書き直し、内容を付け加えて完成させました(実は過去についてはこの回を書くまで考えてなかった)。さて、麻技亜は救われました。これから、変わってくれるのでしょうか。学校に来てくれるでしょうか。次話以降にご期待下さい。また、誤字脱字は見つけ次第修正するのでご了承下さい。