第七話「かんな月」
日本は秋の国だ。古事記にだってそう書いてある。台風が去っていく。稲妻も轟かなくなる。空が少し高くなる。蝉の代わりに鈴虫が鳴くようになり、道行く人たちは薄い上着を羽織るようになる。街は祭りの雰囲気に浮足だち、子供たちは満足げにナンをほおばり、僕は神輿の準備に追われていた。
「テントは建てたか、坊主?」
「これで最後です!」
組み立てながら大声で返す僕へ、仁尾さんはペットボトルを投げてきた。慌てつつ両手で受け止めたのを確認して、ご機嫌そうに叫んだ。
「手柄だ! 飲んどけ」
「ありがとうござ……これ、コーラじゃないですか」
「嫌いなのか」
全然そういうことではないのだけれど、怖いからキャップへは手を触れずにいた。
なんて言うんだろうな、と思う。彼女が今の自分を見たらたぶん、キミは変わらないなあ、なんて笑われてしまうだろう。
――到着便のご案内をいたします。北京、中国からの……
ドイツでの一か月は、とにかく忙しい毎日だった。一年半の勉強で言葉はそれなりになっていたけれど、細かい慣習や仕草がさっぱりだったからだ。お母さん(ホストファミリー)から頼まれてハム一包みを買いに行ったとき、レジの順番を三人分も譲られたのには驚いてしまった。
右も左も分からない生活だったけれど、だれも私を特別扱いしないことが、ただただうれしかった。一年生のこと、無条件に近寄ってきた人たち、ろくに無難な話もできない私を避けていった人たちの、まるで人を人とも思わない態度が悲しくて仕方なかったのだ。その点で異国の人は、とてもフェアだと思えた。
日本は醤油の匂いがするらしい。鼻を利かせようと頑張ったけれど、空港ではあまり分からなかった。やっぱり人混みは苦手だ。
一ヶ月で、自分はどれくらい変われたのだろう。変わりましたね、と言われるのを想像すると、少しわくわくした。
――彼はどうかしら……
茫然と遠くへ目をやる陽介くんが、ふいに脳裏を横切る。
ミニチュア神輿が出るまで時間があったから、僕は駅の反対側、キャンパスへ足を延ばすことにした。祭りは大学のとある学生団体が主催しているのだ。
まっすぐ続く並木道の両脇に、いろんな屋台が軒を連ねている。やきそば、イワナの塩焼き屋の隣に学生サークルのブースと、秋祭りと学園祭が混ざったようなフシギ空間だった。目移りするような光景で、ただ道を歩くにもずいぶん時間が掛かった。
校舎のひとつに入ると、即席で組まれたステージの上で、合唱団が出演していた。サークルじゃなくて、みんな地域の住民(平均年齢は65くらい)だった。
「相変わらず好き放題に歌ってやがんな」
「楽しそうでいいじゃないですか」
祭装束を着たままの仁尾さんに、僕はいつもより大声で返す。味気なく静かだった空間には今、歌声が幾重にも響いていて、十メートル向こうの人と話すぐらいの音量じゃないと通じなさそうだった。
「……つも…………らな」
仁尾さんがなにか言ったけれど、聞き取れずにいる。
「なんですか?」
「二度も言うことじゃねえよ」
笑ってごまかした彼は、なんだか”らしく”ないように思えた。時間だ、と叩いて僕を急かし、一緒に商店街まで直行する。
「あ、センセーだ!」
一瞬で僕を見つけて、子供たちがわらわらと駆け寄ってきた。みんな半纏に身を包んで、ミニチュアお神輿の準備も万端、という感じだった。両手を拘束された僕は、ぐいぐい引っ張られていく。
呼び鈴を鳴らしても返事がない。
そういえば。
今日が祭りだということを思い出して、スーツケースを翻した。おじいちゃんは喧嘩騒ぎが大好物だったから、今ごろ大学にでもいるんだろう。
――彼はどうかしら……
たった一人で、賑やかな街に立止まっている彼を想像すると、また同じような心配をしてしまう。
「カンナねーちゃんだ!」
子供たちは発見するなり、私を遠慮なく連れていった。
不思議な感覚だった。
「センセ-はきがえないの?」
「後でね」
確実に、近くまで“なにか”が来ている。
「おまつりたのしみ?」
「楽しみだよ」
“なにか”がどんなものかは見えないけれど、
僕にとって特別といえる“なにか”といえば、他にありえるはずがなかった。
商店街には続々とギャラリーが集まって、沿道の店からもお客さんが顔を覗かせていた。ミニチュア神輿だけ見たら帰ろうと考えながら、ぼーっと人だかりを眺める。ねじり鉢巻のおじいちゃんと、見慣れた子供たちと――
ずっと前から決まっていたかのように。
半年掛けて、つむじ風が“なにか”を連れてきたみたいに。
息が止まった。
彼は微笑んだ。
「安心したよ。全然変わってなくて」
「キミは……本当にキミなの?」
不思議なことを、彼女は口にする。
それへの答えは保留しておいて、最初に言うべきだったことを伝えた。
「おかえり、奏」
低音が、耳も頭も素通りして、胸をいっぱいに満たす。
親に見つけてもらった迷子みたいに、心が融けていくのが分かった。
スーツケースから離した右手を、彼女は静かに口許へやる。緊張で頬が強張った僕は、お神輿始まっちゃうよ、と子供たちを遠ざけておいた。
周囲の喧騒から切り離されて、彼女が話す言葉は直に耳をくすぐった。
――ドイツに行ったら、なにかが変わると思ったの。
僕は相槌だけを打つ。分かる。分かるよ。
胸の奥底から抜けていって、言葉が、陽介くんへ吸い取られていく。
「でも変われなかった」
罪を告白し懺悔するような私に、彼はなにも言わなった。なにも聞かないでいた。
「本当は高をくくってた。ここから出れば、なにか勝手に変わってくれる、なんて……」
どう説明したいいのかが分からず、うつむいてしまう。もどかしさとか、恥ずかしさとかを感じながらも同時に、私はどこか、安心していたのだ。
試されているんだな、と思う。
脳裏を駆け巡る数多の言葉から、一つだけ、僕は正解を掴まなければならない。緑道で奏と出会ってからの記憶を、細やかに手繰り寄せていく。狩人のように狙いを定めて。
――この街、というより、この国|《日本》、って方が正しいのかな
八月の深い海を泳いで、
――なんでもないですよ、センセー?
七月の通り雨に打たれて、
――苦手なのかな、こういうの
六月の木洩れ陽に照らされて。
「きみなら大丈夫」
自分へ聞かせるように、そう言って陽介くんは私の両手を握った。彼の手は温かくてちょっとザラついて、緊張のせいか硬くなっている。眼を閉じなにか決心する陽介くんに、がんばれ、と心の中で応援してしまう。
「それと……」
琥珀色の瞳を見つめる。
「誕生日、おめでとう」
五月の帰り道、彼女から受けた問題へ半年掛けて、僕は答えを出した。
「ありがとう……えへへー」
奏はにんまり、恥ずかしそうに破顔する。
それだけだった。なにか変わったわけでもないし、彼女が日本に留まるわけでもない。街は騒がしいまま、大学も居づらいまま、また一人、振り出しから始めなければならない。
でも、と僕は思う。
十分じゃないか。
変わらないために変わること。
誕生日をお祝いしてもらったことだってうれしいけど、今はただ、陽介くんが誇らしかった。
「か、奏!?」
私たちを見つけたおじいちゃんが、分かりやすく狼狽える。彼のことをなんて説明しようか、なんて考えを巡らせていたら、無意識のうちに涙が流れた。
「坊主! 孫娘を泣かせるたァいい度胸だ!」
「えっ、ちょっと待ってくだ――わああ!」
襟首を掴まれピンチに陥る陽介くんと、その可笑しさに泣き笑いしてしまう私を、街は今日も、静かに、賑やかに、温かく包み込んでいた。