第六話「九月のひがん花」
去年の今ごろ、秋学期の授業が始まってばかりのことだ。
あなたにはついていけない。
カノジョが号泣しながら絞り出した言葉を、僕は棒立ちになったまま聞いていた。何度も何度も、その声がカセットテープみたいに再生される。ついていけないついていケナイツイテイケない……どういう意味で話しているんだろう。
次の日から、カノジョを大学で見なくなった。いくつか同じ講義を受けているはずなのに、教室を探したところで視界へも入らず、神隠しにでもされた気分だった。
二日が経って、一週間が過ぎた。
やっぱりカノジョはいなくて、代わりといってはアレだけど、その友達が僕を追及しだした。彼女たちは使命感を持っているかのように、行く先々で攻撃してくる。あの子はアンタのいる学校には行けないんだとか、どうして平気でいられるのとか、アタシたちの身にもなれとか。ご苦労様と声を掛けたくなるほど、彼女たちはマメだった。
詫びるにも、なにを謝ればいいのか分からなかった。そもそも会えないのでは仕方あるまい。まあ彼女が来れるならと考えて、十月の頭くらいからは、晴れた日くらいしか大学へ行かないようになっていた。それで気に病むこともなかった。
「うう……」
朝、青空を見ることが億劫に感じられた。外よ灰色であれ。カーテンを開く瞬間、いつの間にか、そう雨を願っている自分に気付く。
学校へ行くだけの理由を、僕はすでに見失っていた。
こんな思い出話をしているのも、緑道を歩いているのが一人だからで。確かに彼女がいないのは寂しいけれど、隣に誰もいないから、ちゃんと表情に出すのはやめた。
不思議だ。あれから自分の中で、カノジョの輪郭は少しずつ曖昧になった。動画のように鮮やかだった記憶も、紙芝居みたく細切れになり、そのピントすらボヤけてきて。年度が変わった頃まで憶えていたのは、“カノジョがいた”という事実くらいだった。
向こうに背中が見える。
「仁尾さん?」
「おお、坊主か」
緑道で彼と会うのが初めてだったせいか、けっこう意外に感じた。話し相手がいないのはお互い様で、仁尾さんはなにも言わず歩調を合わせてくれた。
「知っとるか」
RPGでよく聞く無理難題に、一応いいえと答えてみる。
「昔、ここには小川が流れていた。足許を見てみろ」
「“日之下橋”……ただの道なのに」
「小川が埋められて二十年は経つ。孫は、それも知らずに育ってきた」
祭りで疲労が溜まったのか、仁尾さんの皺は、いつもより十年分くらい深く見えた。そもそも彼が何歳なのかも知らないけれど。
「坊主もひでえツラだな」
「ひどいのは顔じゃなくて疲れです」
抗議する僕は無視して、おじいさんが耳を澄ませる。真似してみたけれど、通学路でウォークマンが手離せない僕には、いまひとつ聞き取れずにいた。彼女がいなくなってから、電車で聞こえる他愛ない会話すらも苦痛と感じるのだ。
キュル、キュルル……
鳥だ。研いだナイフみたいなさえずりが、何度も響く。
キュル、キュルル……
「なんの声でしょうね」
「八哥鳥。まあ、籠抜けってところか」
仁尾さんはそう呟いて、ハバナシガーの吸い口を切った。葉巻とはずいぶん渋い趣味だ。珍しい光景に見入っていると、主の手許を離れた八哥鳥がキュルルとまた鳴いた。
「帰りたいんでしょうか」
「読心術でもやる気か? 女心もわからんくせに」
さりげなくダメージを与えながら、おじいさんが紫煙をゆーっくり燻らせる。五月、帰り道でおしゃべりしたベンチを通った。六月の水たまりも、四月に会った公園も過ぎた。七月、傘を並べて歩いたときは、彼女の靴が汚れて困らされたっけ。
八月の交差点に出る。左は小学校で、右はいつぞやのフリースペースだ。
「オレは小学校に用がある、こないだの落とし物があるからな。坊主はどうする」
「右に行きます」
「……あの民家か」
紫煙を吐き出す仁尾さんは、どこか遠く、茫漠とした時間へ目を凝らしているように見えた。紅色の花が二本だけ咲いている。
「思い入れがあるんですね」
「大袈裟な。昔チビと通ってただけだ」
「チビ?」犬でも飼ってたのだろうか。
「孫のことさ、不孝者どもがオレに押し付けたからな」
おじいさんの言葉が尻すぼみになっていくのと同時に、僕は花の名前を思い出した。
「元気な子になったんじゃないですか? お孫さん」
「まあ、な。虫も殺さん美人に育ったかと思いきや、今度はドイツに留学するだの抜かしやがった」
再び葉巻をくわえ、深々と吸う。
先端が花びらみたいに燃える。
それを見ながら僕は、心臓を手で直接握られたような、激しい痛覚に襲われていた。脈打つ左胸を押さえたいのも我慢して、腹から絞るように質問する。
「彼女……なんて名前ですか」
「妙なこと訊くやつだな。カンナ、最近の名前はよく分からんが、演奏の”奏”と書くらしい」
「センセー。おねーちゃんは?」
学校帰りの子供たちが、僕を一斉に取り囲む。奥歯を噛み締めつつ、なんとか口角を上げ目尻を落とした僕は、いかにも温和そうな声で答えようと努力した。
「今はね、世界中を旅行してるんだ」
「りょこう?」男の子が小首を傾げる。
「そう、荷物をこんな大きいバッグに詰めて」
スーツケースの形をなぞるような手振りに、子供たちの反応も上々だった。明らかに嘘をついている、というわけではないけれど、それでも罪悪感は拭いきれなかった。彼女だったら――奏だったら、どう返していたんだろう。
僕の想像する彼女は、いつも独りだった。ドイツには緯度が北海道より高いところもあるという。肌寒い異国のベンチで、長い楽譜と向き合い、迷子みたいな表情を浮かべて……
「どしたの~?」
容赦なく頬をつねられハッとする。目の前に、女の子が心配そうな顔で立っていた。
「……大丈夫だよ」
「ホントにだいじょうぶ? ホントのホントにだいじょうぶ?」
なにしてるんだ、自分。
「うん、ホントのホントに大丈夫。ありがとう」
燃えるような恥ずかしさを笑顔に隠しながら、少女の頭をなでて安心させる。彼女がいなくなったからといって、それは、僕が落ち込んでいる理由にならない。そうだろう? 念を込めるように、置いた手へ力を入れた。
このままじゃ、きっと一生変われない。
「……というか、今、思いっきりつねったよね?」
少女が悪戯っぽい顔になる。ふにゃりと和らぐ表情はまるで、緑道で二本だけ連れ添っていた、あの花が咲いたようだった。