第五話「八月のふかい海」
来週、
納涼祭の手伝いを頼んだついでに、彼女は切り出した。
ここを発つの
俄かに飲み込めず、この街を発つんですか、と質問する。
何秒か間を置いて、返ってきたのは思いもよらない言葉だった。
この街、というより、この国、って方が正しいのかな――
遠い水面…………
「坊主」
…………息ができない、
「おい、聞こえてないのか」
「!」
背中を叩かれて、ようやく意識が戻った。夕刻、小学校の鉄棒前に建てられた屋台では、わたがしとポップコーンの準備が終わっている。
「任せたからな、ちゃんとやるんだぞ」
開口一番、おじいさんは突拍子もないことを口走った。どちらも作ったことがない僕に、そんな無茶ぶりをするのは、いくらなんでも酷じゃないか。けれど盾突くのも怖い。相変わらず僕は弱気で、大学は居づらくて、夏は暑くて、
違っていたのは、彼女がいないことだけだった。
「みんな持ち場につけ、祭りだ!」
威勢よくおじいさんが発破を掛けると、地域のオッサンたち(うち一名はインド人)が応え、素早く散開した。校門から子供たちがなだれ込んでくる。
「興奮しすぎて死ぬんじゃねえぞ、仁尾ジイ」
「ガキは黙っとけ!」
隣にある金魚すくいの屋台から聞こえた声を、おじいさんは全力で迎え撃った。仁尾、というのは彼の本名だったけど、そう呼ぶのは嫌な予感がするのでやめた。
ザラメ糖を機械の中央部へ入れると、温められ綿状になって出るから、それを絡め取れば完成だ。と、書くだけなら簡単だが、思いのほか現実にするのは難しい。もたついてると、ふわふわの食感が失われてしまうのだ。無残に変わり果てたわたがしらしき物体を、仁尾さんが僕の右手から奪う。
「売り物にならん」
「……ですよね」
苦笑いした僕は、すぐさまポップコーン機へ左遷された。こっちは材料を入れて待つだけだ。両目を灼くような熱風に耐えながら、おじいさんの様子をじいっと観察してみる。
魔法使いみたいだ……
傍から見ると、なかなか不思議な光景だった。彼がくるくる手首を回していると、勝手にわたが付いていき、いつの間にかゆうに30cmは越していた。
『わあああ☆』子供たちの表情が輝く。
「美味そうだろ? さあ並んだ並んだ!」
ドヤ顔になった仁尾さんが、坊主、と缶ビールを空けながら僕へ教える。
「いいか。こういうのは子供の顔よりデカく作るんだ」
無我夢中だった。何度かお手本を見ているうちにコツを掴んで、不格好なりにもふわふわなわたがしが作れるようになった。
「すっげえ!」男の子が歓声を上げる。
「ホント?」
「ホントだよ、センセー」
「…………」
年上に見えるのは、彼女だけじゃないかもしれない。いや、彼女がセンセーと呼ばれてるのなんて聞いたことないから、むしろ……それはさておき、子供に喜んでもらえるのは嬉しいもので、自然と腕にも力が入った。
時間は飛ぶようにながれていき、気付くともう九時を過ぎていた。
「終まいだ」
おじいさんの宣言で、みんな片付けに掛かる。
雑巾を使い、僕はわたがし機の内側に残ったザラメを丁寧に拭い取ることにした。その後、残ったポップコーンを色んな屋台の人へ配っていたら、なぜか大量のお土産が帰ってきた。
「バカかよ仁尾ジイ!?」
叫び声に自分の屋台まで戻ると、おじいさんが金魚すくいの水槽に、わたがし機とポップコーンマシンをまとめて放りこんでいる。拍子で彼のポケットから落ちた一枚の紙切れを拾いつつ、唖然としてその様子を眺めた。
こっち
「?…………!」
みんなの意識が仁尾さんへ向けられている隙に、僕の左手を誰かが握った。ぐいぐい引っ張られたまま、小学校の外まで駆ける。
「はあ、よ、陽介くん」
「手の感触で分かりましたよ」
ヘンタイめ、と冗談に目を逸らす彼女はしかし、いつもの彼女と全然違っていた。
杜若色の浴衣が、蛍のように暗闇で浮き上がる。僕は、裸電球みたいに火照った頬が、彼女のせいなのか走りすぎたせいか、判然としなかった。
「キミに見てもらいたかった。その、最後、だから……どうかな?」
伏目がちの彼女は、現世の存在とはっきり別たれていた。それくらい綺麗だった。夢に似た時間の中なのに、皮肉にも「最後」という言葉だけが、場違いなくらい現実味を持っている。
……
…………
………………
「どうしたらいいんだろうね、私たち」
分からなかった。分かるわけないじゃないか。
笑顔を作った彼女を、今度は僕が引いて歩き出した。坂道を下ると、緑道と一車線だけの、小さな交差点が見えてくる。
「あなたは……」
震える右手を包んで、まっすぐ彼女と向かい合った。
「きみは、」
言葉を直す、僕を見つめた彼女の瞳は、まるで少女のように怯えていた。自分と同じ学年であることを今更思い出す。
「いつも頑張っているから――」
少しやわらげた語気で、僕の方が居たたまれない心持ちになった。
「そんな、私は、」
彼女はまだ気丈に振る舞う。それが耐えられなくて、見ていられなくて、気付くとその小振りな頭の上へ掌を乗せていた。躊躇いを覚えて離れるとすぐに、こらえていた笑顔がはがれるように変わっていく。
「ずるいよ……」大粒の涙が零れる。
「ごめん」
「バカ!」
平手打ちでもされるかと思ったのに。
胸が潰れそうになるほど、強く抱きしめられた。僕はただ、腕の中で号泣する彼女が、風邪を引いてしまわないか心配で、心配で、冷めないようにしてあげるしかなかった。全然違うつくりの身体が、肌の白さと裏腹に熱く感じた。これほどの体温がどこに隠されてたのだろう。驚くと同時に、最初で最後の涙を流す彼女を見て、妙に安堵している自分もいた。
「……不安?」
「当たり前じゃない」
「大丈夫だと思う、きみなら」
「ちょっと無責任……でも、頑張ってみる」
小さくしゃくりながらも、彼女は浴衣の袖で涙を拭った。駅と反対側の緑道へ消えていくのは見ないで、僕が小学校の方へ戻る。もう戻れなくなりそうだったから、振り返りたい気持ちだけは、死ぬ気で我慢した。
「坊主、どこほっつき歩いてたんだ」坂の上に仁尾さんが見える。
「……すいません!」
なんとか捕まえた最終電車の中、おじいさんに渡しそびれた紙片を開く。そこには人間かも分からない似顔絵が描かれていた。でも、二色のクレヨンだけを使ったそれは、妙に仁尾さんの特徴を捉えていて、笑顔であることもちゃんと分かった。
表をめくると、右下に“奏”と名前らしきものが見える。
「カナデ?」
膝上に乗せられたお土産の焼きそばが、脈打つような温もりを持っていた。