表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
きみと  作者: 今井零
4/7

第四話「七月のとおり雨」

雨ですね。

 セミが一匹、どこかで鳴いている。

 縁側から鈴の音色が聞こえる。

 鉛筆と紙がこすれ合う。

「ねえ」

「…………」

 呼び掛けても、陽介くんがすぐに反応することはない。浅い微睡まどろみから、まるで覚めるみたいに意識を手繰たぐり寄せてから、ようやく私へ視線が移る。

「……どうしました?」

 陽介くんはいつも、割れ物かなにか扱うかのように、じっくりと言葉を選ぶ。こういう慎重なところは好感が持てた。頼り甲斐がある、というには少し大人しすぎるし、先月まで私を四・五歳上に見積もっていたことも失礼極まりないが。

 教科書を見せて、彼へ質問してみた。

「ナントカ18O(オー)ってのは、結局なんのために使うんだっけ?」

δ(デルタ)18O(オー)か……これは、有孔虫化石の中から抽出するもので――」

 二言目からすでに、始めて聞くワードを言い放っている。講義に三度しか言ってないのだから、当然のごとく知らない記号や用語だらけだった。

 こんな時こそ、子供たちの出番だ。

「センセーわかんなぁい」

 私たちを隠れて見ていた小学生の子が横槍を入れる。突然のことに、陽介くんは思いきり気圧されてしまった。

 緑道の先にある、民家をそのまま使ったフリースペースには、毎日いろんな子供たちが遊びに来る。大学の騒がしさが苦手な私にとって、この空間は秘密基地みたいなところだった。分かりやすく説明しようと奮戦している彼を横目に、ここがなかったらどうなってたんだろう、と要らない想像を膨らましてみたりする。

 キャンパスも緑道も独りで歩いて、一年生じゃないから誰も気にしないで。彼がいなかったら、私は、本当に孤立していたのかもしれない。ここも、子供たちだって。

 しあわせ、なんだろうな……

「ニコニコしてたって、問題は解けないと思います」

 訝しむ陽介くんに私は、ブラウスの裾をきちんと直してから、やんわり否定した。

「なんでもないですよ、センセー?」

「…………」

 不服そうな彼もかわいかったけれど、それ以上に意地悪するのはやめておいた。


 外へ出る直前、雨が降りだした。

「やっぱり、一人で帰ります」

 篠突くしずくが陽介くんの声とかき消す。それをいいことに、聞こえていない素振そぶりの私が、緑道の脇にある掲示板を読み上げた。

「“今年もやるよ”」

「なにをですか?」

「大学のフェスタ。前にも話した、子供お神輿とかのパレードがあるお祭り! ……あっ」

 覚えず調子の上がってしまった声に、自分で恥ずかしくなる。彼も反応に窮してしまったようで、「そっ、それは、そう、ですね」と支離滅裂に返された。内心では謝りつつ、陽介くんへも八つ当たりしてみる。

「キミはそんな返事だけかー」

 結構、私もイジワルな女かもしれない。

 いつも彼は、たっぷり時間を掛けて物事を考える人だったから、こうやって不意をつけばすぐ青ざめてしまう。テスト期間中でよく一緒に勉強している中で、少しずつだけど、こういう癖や特徴も分かってきた。

「えっと、ごめんなさい、?」

 左手で頬をよく触ること。

「四月の無視よりかはマシだけど」

 聞く時は意外にも目を合わせること。

「……あなたに会えてなかったら、」

 時おり、茫然と遥か彼方を眺めていること。

 陽介くんは急に黙って、また、どこへも焦点を合わせないでいた。理屈じゃ説明できないけど、自分の心を見透かされたようで、ちょっと怖かった。その右手から、紫苑色の傘がこぼれ落ちた。

「ねえ」

「…………」

「ねえったら」

「…………」

「……ねえ――」

「………!」

 三度目でやっと、彼を覆っていた霧のようなものが、さっと退いたように感じる。陽介くんは今になって気付いたから、半泣きの私をまじまじと凝視された。こんな情けない表情を見られるのは(たぶん)最初で、恥ずかしさに首筋まで染める私を前に、なぜか彼も一緒に慌てた。

 ジェスチャーでもしようとしているのか、両手をまごまごしている様子がおかしくて、雨で風邪を引いてしまわないか心配で、笑うのか泣くのか、自分でも分からなくなる。彼も輪を掛けて慌てた。

「僕、今ヘンでしたか? ヘンですよね?」

「心配させないでよ……ふふっ、うははは」

「えっ、笑わないでくださいよ!」

 

 楽しかった。でも、この時間がずっとは続かないことも分かっていた。

 ポスターの日付が目に入って、ふと笑い声がやむ。

「どうしたんですか?」

 陽介くんの問いに、んーん、と首を振った。

「なんでもないよ……」

 彼の不思議そうな表情が、今はただ苦しかった。


 雲間から太陽が覗く頃、私たちはもう駅前へ着いていて、ものすごい湿気の中にいた。抜け出してしまおうと陽介くんが、改札へ一歩踏み出してから振り返る。

「テストは明日ですから、しっかり休みましょう」

「……お母さんみたいなこと言わないの」

 笑って誤魔化ごまかした私へ、にこっと陽介くんがはにかむ。彼を直視できず、顔はずっとその胸板に向けたままだった。指先がみるみる冷たくなる。

 改札を通って、彼は雑踏の中へ消えた。


「いつまでも――」

 ポケットから震動が伝わる。携帯電話の画面には、見慣れた名前が英語で表示されていた。ホストファミリーからだと分かった途端、嗚咽が洩れるくらい乱暴に、私は現実へ引き戻された。

 彼と、私と、子供たちと、

 あの静かな時間ときが、

「――続いたらよかったのに」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ