第四話「七月のとおり雨」
雨ですね。
セミが一匹、どこかで鳴いている。
縁側から鈴の音色が聞こえる。
鉛筆と紙がこすれ合う。
「ねえ」
「…………」
呼び掛けても、陽介くんがすぐに反応することはない。浅い微睡みから、まるで覚めるみたいに意識を手繰り寄せてから、ようやく私へ視線が移る。
「……どうしました?」
陽介くんはいつも、割れ物かなにか扱うかのように、じっくりと言葉を選ぶ。こういう慎重なところは好感が持てた。頼り甲斐がある、というには少し大人しすぎるし、先月まで私を四・五歳上に見積もっていたことも失礼極まりないが。
教科書を見せて、彼へ質問してみた。
「ナントカ18Oってのは、結局なんのために使うんだっけ?」
「δ18Oか……これは、有孔虫化石の中から抽出するもので――」
二言目からすでに、始めて聞くワードを言い放っている。講義に三度しか言ってないのだから、当然のごとく知らない記号や用語だらけだった。
こんな時こそ、子供たちの出番だ。
「センセーわかんなぁい」
私たちを隠れて見ていた小学生の子が横槍を入れる。突然のことに、陽介くんは思いきり気圧されてしまった。
緑道の先にある、民家をそのまま使ったフリースペースには、毎日いろんな子供たちが遊びに来る。大学の騒がしさが苦手な私にとって、この空間は秘密基地みたいなところだった。分かりやすく説明しようと奮戦している彼を横目に、ここがなかったらどうなってたんだろう、と要らない想像を膨らましてみたりする。
キャンパスも緑道も独りで歩いて、一年生じゃないから誰も気にしないで。彼がいなかったら、私は、本当に孤立していたのかもしれない。ここも、子供たちだって。
しあわせ、なんだろうな……
「ニコニコしてたって、問題は解けないと思います」
訝しむ陽介くんに私は、ブラウスの裾をきちんと直してから、やんわり否定した。
「なんでもないですよ、センセー?」
「…………」
不服そうな彼もかわいかったけれど、それ以上に意地悪するのはやめておいた。
外へ出る直前、雨が降りだした。
「やっぱり、一人で帰ります」
篠突く滴が陽介くんの声とかき消す。それをいいことに、聞こえていない素振りの私が、緑道の脇にある掲示板を読み上げた。
「“今年もやるよ”」
「なにをですか?」
「大学のフェスタ。前にも話した、子供お神輿とかのパレードがあるお祭り! ……あっ」
覚えず調子の上がってしまった声に、自分で恥ずかしくなる。彼も反応に窮してしまったようで、「そっ、それは、そう、ですね」と支離滅裂に返された。内心では謝りつつ、陽介くんへも八つ当たりしてみる。
「キミはそんな返事だけかー」
結構、私もイジワルな女かもしれない。
いつも彼は、たっぷり時間を掛けて物事を考える人だったから、こうやって不意をつけばすぐ青ざめてしまう。テスト期間中でよく一緒に勉強している中で、少しずつだけど、こういう癖や特徴も分かってきた。
「えっと、ごめんなさい、?」
左手で頬をよく触ること。
「四月の無視よりかはマシだけど」
聞く時は意外にも目を合わせること。
「……あなたに会えてなかったら、」
時おり、茫然と遥か彼方を眺めていること。
陽介くんは急に黙って、また、どこへも焦点を合わせないでいた。理屈じゃ説明できないけど、自分の心を見透かされたようで、ちょっと怖かった。その右手から、紫苑色の傘がこぼれ落ちた。
「ねえ」
「…………」
「ねえったら」
「…………」
「……ねえ――」
「………!」
三度目でやっと、彼を覆っていた霧のようなものが、さっと退いたように感じる。陽介くんは今になって気付いたから、半泣きの私をまじまじと凝視された。こんな情けない表情を見られるのは(たぶん)最初で、恥ずかしさに首筋まで染める私を前に、なぜか彼も一緒に慌てた。
ジェスチャーでもしようとしているのか、両手をまごまごしている様子がおかしくて、雨で風邪を引いてしまわないか心配で、笑うのか泣くのか、自分でも分からなくなる。彼も輪を掛けて慌てた。
「僕、今ヘンでしたか? ヘンですよね?」
「心配させないでよ……ふふっ、うははは」
「えっ、笑わないでくださいよ!」
楽しかった。でも、この時間がずっとは続かないことも分かっていた。
ポスターの日付が目に入って、ふと笑い声がやむ。
「どうしたんですか?」
陽介くんの問いに、んーん、と首を振った。
「なんでもないよ……」
彼の不思議そうな表情が、今はただ苦しかった。
雲間から太陽が覗く頃、私たちはもう駅前へ着いていて、ものすごい湿気の中にいた。抜け出してしまおうと陽介くんが、改札へ一歩踏み出してから振り返る。
「テストは明日ですから、しっかり休みましょう」
「……お母さんみたいなこと言わないの」
笑って誤魔化した私へ、にこっと陽介くんがはにかむ。彼を直視できず、顔はずっとその胸板に向けたままだった。指先がみるみる冷たくなる。
改札を通って、彼は雑踏の中へ消えた。
「いつまでも――」
ポケットから震動が伝わる。携帯電話の画面には、見慣れた名前が英語で表示されていた。ホストファミリーからだと分かった途端、嗚咽が洩れるくらい乱暴に、私は現実へ引き戻された。
彼と、私と、子供たちと、
あの静かな時間が、
「――続いたらよかったのに」