第二話「五月のかえり道」
陽介、という名前が、僕は嫌いだ。明るい人間になるよう言外に迫られてるみたいで、それが時折、ここから逃げてしまいたいような気分にさせた。あの一年間、増えたのは顔見知りばかりで、友達なんて数えるほどだし、昼食も基本的には一人ぼっちだし、
「キミって少し、名前の割には大人しすぎるというか……なにキャラっていうんだっけ」
「陰キャラですね」
ともかく、今がブルーな気分だ。
満面の笑みになって「それそれ!」とはしゃぐ彼女から、気まずさや罪悪感の類いは全然感じられなかった。内心うんざりしながら、引きつった表情で冗談を口走る。
「じゃあ今度から、僕のことは陰介って呼んでください」
笑えない。笑えなすぎて苦笑いするレベルの軽口、なのに。
「ダメ」
彼女が返したのは、意外にもかなり強い言葉だった。五秒前まで落っこちるように垂れていた目尻も、きりっ、と効果音が聞こえそうなくらい吊り上がってた。想像していなかった手のひら返しに、僕は思いきり面食らってしまう。
「次からちゃんと陽介くんって呼ぶから、キミは名前くらい」
「冗談ですって。というか、あなたの方こそ、まだ教えてくれてないでしょう」
始めて出会った日から、緑道へは週二回くらいのペースで訪れていた。だいたい二週間で一回会う計算で、一緒に歩くのは四回目となる。でも、彼女は未だに、自分の名前を教えてくれなかった。
そのせいだ、僕は始めて、他人の名前より性格を早く知る羽目になっていた。
「……ん? なに教えるって話してたっけ、誕生日?」
ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、彼女には忘れっぽいところがある。会話の流れを読むのが苦手なのは同じだから、間違いを指摘する気は起こらなかった。むしろ親近感すら感じていた。
「僕、昨日が誕生日だったんです」
強引に話題を変えてみる。
「ウソ?!」
嘘をついてどうするんですか、なんてツッコミのひとつも入れたくなるど、彼女はすぐさま喰いついてくれた。たまに、同級生かってくらいかわいく見えたりする。ころころした声が耳をくすぐる。
「本当ですよ。だから今日は二十歳です」
「おー、じゃあ今日は祝い酒にしましょう。アルコールは得意?」
「強くはないですが……」
「大丈夫。私は呑める方だから」
数時間後。
駅前にある居酒屋からの帰り道、黙々と一人で足を進めていた。二人、というのが正しいはずだが、片方は自分で歩いていないからノーカウントだ。背中から「ひだりぃ~」と声が聞こえた。はいはい、と軽い口調で応える。
「ヨースケくん、二杯くらいしか呑んでらいでひょ~」
「苦手ですから、お酒」
「あたひはろめるほ~だから……」
呑みまくって普通に酔ってるだけだと思うが、今の彼女に言ったら、命がいくつあっても足りなさそうだ。自分よりずっと柔らかい白肌と触れながら、差し掛かった辻を左折する。ヨッパライにせよ、綺麗な女の人とこんな長時間触れている経験が初めてだったせいで、鼓動はずっと早まったまま、正直聞き取られないか不安なくらいだった。
上着越しに、彼女の冷たい体温を感じていた。あの緑道にいる時よりずっと、今は活気がなさそうで、どこか苦しんでいるようにも見えた。たぶん、自分なんかには耐えきれないような重荷を背負って――
「ヨースケくんに問題れ~す♪」
酒臭い息と一緒に、僕の心配はあっさり吹き飛ばされてしまった。
駅からの距離に比例して、街灯が照らす彼女の帰り道は、一歩ずつ静けさを取り戻していく。しばらくすれば質問したことも忘れるんだろうな、と半分諦めながら彼女を促してみた。
「なんですか、聞きますよ」
「きょ~はヨースケくんのたんひょ~びれした」
「はい」厳密には昨日だがスルーだ。
「あたひはすごくおめでと~れした」
「ありがとうございます」
「今度は、あたひのたんひょ~びもおめでと~しれください」
「構わないですけど……誕生日はいつです?」
「ヒ・ミ・ツぅ~」
先月のそれより眠たそうな口調で、僕へ耳打ちする。これが問題ってことか。単純にいえば365分の1ということになる。さらに、当てた誕生日を憶えていろというのだ、こんな男に。
図らずもピンチに直面した僕は、すかさず助け舟を求めた。
「何日か、ってことだけ教えてもらえないですか」
「やだ~」
「一生に一度のお願い、使いますから」
ベンチに座らせ自分もひと息入れつつ、彼女をおだててみる。そうしたのは、本当に何日かを聞き出したかったわけじゃなくて、ここで一緒にいる時間を楽しんでいたからかもしれない。
……
…………
重たい扉、
証明の落ちた廊下、
誰もいない部屋。
「――いや」
道路を通る自動車に、呟きは強引にかき消された。彼女はそしらぬふりで、すっかり暗くなったねぇ、そう夜空へ向かって目を細めた。
「暗くなりましたね」意味もなく繰り返す。
「ここからなら帰れそう。迷惑掛けちゃって、ごめん」
「迷惑だなんて言わないでください。誕生日を、誰かが自分より喜んでくれたのが始めてで、本当は、その……」
「本当は?」
行かないで、と泣き言を垂れるのはあまりに女々しかった。けど一緒にいたいというのも事実だ。信じられないことに僕は、あれほど身近に感じていた孤独を、怖がっていたのだ。言葉を見つけられず、返答がテンプレートになってしまう。
「なんでもないです、ごめんなさい」
自分を嫌いになりそうで、左胸がきりきり痛んだ。うなだれるように謝る僕の背中を、彼女はゆっくり微笑みながら、優しく触れるように叩いた。
「私は三日生まれだから、憶えててね。じゃあ……」
またこんど、と小さく手を振ってくれる。
頭の中で散々悩んでやっと、僕もそれらしい台詞をひねり出すことができた。
「おやすみなさい」