第一話「四月のつむじ風」
「うう……」
アラームと眩しさに無理やり起こされ、片手で掛け布団をはねのけた。空いた手は顔を覆っている。昨日の帰り買った菓子パンで、食事もとい栄養補給を済ませると、なにも考えずに大学へ向かう支度を始めた。窓の外を見てみると、やっぱり、晴れていた。
青空のどこを取っても、雲を見つけることはできなかった。
駅の構内は、新入生たちの歓声で溢れ返っていた。期待に瞳を輝かせている人たちを見ると、同じ場所に平然と立っている自分が、ひどく恥ずかしく思えた。
居心地の悪さに耐えきれず、キャンパスとは逆の方角へ向かう。昼食の時間帯で混み合う銀行通りも抜ける。住宅街まで逃げ込んで、僕はようやくひと息つくことができた。相変わらず、明るさとか賑やかさとか、そういうのは苦手だ。
ここまで来れば、聞こえるのはバスのエンジン音くらいだった。やっと一人になれ
「こ ん に ち わ !」
大声に、覚えず五十センチくらい跳び上がる。急いで挨拶の主を探すと、僕の半分くらいしか背丈のない小学生が、不思議そうな表情で覗き込んでいた。
焦りながら、どう返したらいいのかを考える。
「えっと……その……どう、も、?」
「んんー?」
無邪気って怖い。男の子はじーっと大学生の腑抜け顔を見つめて、まいっか、と言わんばかりに全力ダッシュで消えてしまった。その後ろ姿を眺めながら、僕は口を半開きにしたままでいる。なんて言えばよかったのか、なんだって“どうも”で済ましてきた自分にとっては、謎で仕方なかった。
……まあ、いいや
結論は先送りしておいて、またぶらつくことに決めた。駐車場の手前を左へ曲がると、道幅はだんだん狭くなる。きっちり施された舗装もガードレールも、交差点ふたつ越えたあたりから途切れて、間から砂利が顔を覗かせていた。
じゃり、じゃり、
驚かされたのは、自分がその音をずっと聞いてなかったことだ。足許で鳴ってるなんてとても思えない。電車、歩道、校舎、決まった場所ばかり歩いていた僕にとって、靴底の感触は、どこか遠い世界のものみたいだった。ここまで来ると風まで新鮮に感じられて、くすりと笑ってみた。隣に誰もいなかったから、ちゃんと表情に出すのはやめた。道はまだ続いている。“松の川緑道”と看板が見える。川は見えない。
じゃり、じゃり、
キャンパスライフとかいう代物が、背伸びしていた身の丈に合わなくなったのは、もうどれくらい前のことだろう。心当たりがあるような気もしたけれど、ないと言われればないような気もした。
――新入生のみなさん、まずはご入学おめでとうございます。
講堂へ響く、少々綾のついた祝辞。あれを聞いていた頃はまだ、将来に胸を膨らませていたはずだ。初めて迎えた新歓だって――もう一年前のことだ――、友達を作ることができるかどうか、それは心配でたまらなかった。
どんな人間になれるのか不安もあった。でも、不安と期待は紙一重だと思っていた。交遊関係もかなり広い方だったし、大きな声じゃ言えないけれど、カノジョなんてのもいたのだ。
じゃり、じゃり、
夏が終わって、秋学期の授業が――
「ねえ」
…………
――秋学期の授業が始まった頃――
「おーい」
…………ん?
現実に引き戻され、感じる気配へ視線を向けてみる。
そこには、女の人が不機嫌そうな表情をして立っていた。ウグイスがさえずるような声で、彼女は手に持った物体を見せ、僕へ訊いた。
「キミが落としたんじゃないの、これ」
「え、まあ、一応そうです」
「……んん、拾ってあげたのに、“一応”なんて冷たいなあ」
彼女がため息をつきながら、青いスマホを自分のバッグへ入れようとして、慌てる。
「いや、そのっ、それ、僕のです! えっと、拾ってくださって、その、すいません」
「どうして謝るの」
意地悪な質問をする彼女の前で、僕がしどろもどろになる。軽く手のひらで転がされているみたいで、それでいて、不快でもなかった。緑道に吹く風は、彼女の長い黒髪をなびかせると、楽しそうな言葉と一緒に僕へ届いた。
「面白い子ね、何年生?」
「大学二年生です」
「……そっか」
微妙な反応をしながら、やっとこさスマホを返してくれた。両手で受け取るのを眺めて、彼女の口角が少しだけゆるむ。
「キミは、ここによく来るの」
「始めてです」
必要最低限の回答だけを返して僕は、去年の自分なら違ったんだろう、なんて情けない気持ちにさせられた。もっと積極的に接していたはずなのに、今の自分を見る限り、欠片ほどの社交性もない。ただ、くすくす笑われ赤顔しているだけだった。
ねえ、と彼女が切り出す。
「また、来てみなよ、ここに」
「………………えっ」
少し不意をつかれた僕が、数秒遅れて振り返る。
草木の緑しか、視界には映らなかった。
って、そりゃおかしくないか!?
我に返ると、緑道の隣にある公園で、彼女が立っているのを見つけた。小学生低学年くらいの子供たちが、まだ上手に回らない舌で名前を呼ぶ。
「カニャちゃんだ!」
「カーナちゃんあそぼうよ」
香奈ちゃんとか、川名ちゃんとか、いろんな候補が頭をよぎったけれど、いかんせん発音が不明確すぎた。なんにしても彼女は人気者らしい。
「お名前は?」
「先にキミが教えてくれないと」
「ヨウスケです。ひなたの陽に、介で」
春告鳥はホーホケキョと鳴く。
軽快なステップを踏んで、彼女は楽しげに言った。
「じゃ、次に会えるまで、ヒ・ミ・ツ☆」
『ヒ・ミ・ツ☆』子どもたちはすかさず真似をする。
とまどう僕と、
微笑む彼女と、
間をつむじ風が、音も立てずに隔てていた。