魔人とカウンセラー、接触。
雅浩兄様視点です。
一般の生徒が登校し始めるよりもだいぶ早い時間、僕は高等部から離れたテラスに美智を呼び出した。理由は簡単。彼女の反応を見るためだ。
指定の時間を少し過ぎてから現れた美智は、僕の姿に気づくと普段と変わらない笑顔で近づいてくる。
「おはよう、篠井君。今日はどうかしたの?」
「おはよう。ごめんね、夜になってから急にこんな呼び出ししちゃって」
「ううん。朝早くから篠井君と会えて嬉しいよ」
ふわりと笑う彼女の表情はいつもとまったく変わらない。当たり前のように僕の隣に座ると、先をうながすように少し首をかしげた。
「ちょっと聞きたいんだけど、昨日、彩香に会った?」
「彩香ちゃんに? なんで?」
さも不思議そうに問い返され、内心ため息をつく。会ったとも会わないとも言わないあたりが微妙だな。
「ま、たいした意味はないんだけど、一応確認だけは、と思って。――どっち?」
「会ったというか、見かけたから挨拶はしたけど……」
「挨拶だけ?」
「うん。彩香ちゃん人見知りなのかな? あんまり話したくなさそうだったから一言二言だけね」
少し残念、とつぶやく美智に小さく笑う。
「彩香は僕にべったりだからね。時々、そういう時があるんだ。でも、美智ならすぐ仲良くなれるよ」
言って軽く髪をなでると、ほっとしたように笑顔が戻る。
「朝からごめんね。実は彩香、昨日誰かに殴られて病院で何針か縫ったんだ。誰にやられたのか話してくれないから問い詰めたら、美智だって言うから……。そういう変な嘘つく子じゃないと思ってたんだけどね」
肩をすくめて言うと、美智の目に一瞬だけたちの悪い光が浮かんで、すぐに消えた。続いて彼女はそれをごまかすように目をまたたく。
「……私、そんな嫌われてるのかな?」
しょんぼりと肩を落とす美智に、気にしなくていいよ、とだけ返す。心の中で大きく深呼吸をしてから、ゆっくりと表情を作った。
「あのくらいって難しい年頃だっていうからね。あと何年かしたら逆によって来なくなるだろうし、それまでは我慢するしかないかなぁ。美智の言ってた通り、妹って面倒だね」
さもわずらわしくてしかたがない、と言いたげにこぼしたら、満足気な気配をのぞかせてうなずく。
「ま、しかたがないよね。私でよければいつでも話聞くから」
「ありがとう。家ではこんな事言えないし、美智がいてくれてよかった」
柔らかく笑んで言いながら、見えない位置で片手を握りしめる。まずいな、そろそろ限界かも。
その時ポケットのスマホが短く音を立てた。さりげなく取り出して画面を確認する。
「ごめん、美智。そろそろ次のお客さんみたいだ」
「……え?」
「他にも何人か、彩香が名前を出しててね。事が事だし人目がない方がいいと思って、時間ずらしてもう一人呼んでるんだ。鉢合わせしない方がいいと思うから、外してもらっていい?」
眉を下げた笑顔で頼むと、あっさり立ち上がった。自分以外に疑いの目がむいている事にか、僕が彩香を悪く言ったのにか、あるいはその両方に満足したんだろう。
「じゃあ、また教室でね」
「うん。朝からありがとう。――そういえば、相良って人、知ってる?」
「え? そんな男の子知らないよ? なんで?」
「彩香が出した名前でその人だけ、僕にまったく心当たりがなかったんだ。――でたらめな名前かな? 気にしないで」
呼び止めてごめんね、と手をふると今度こそ美智が立ち去った。その姿が消えてから、念のためゆっくりと三十秒数える。このテラスは奥まったところにあるけど意外に見通しがよくて、盗み聞きするのは難しいから、このくらい待てば充分だろ。
「……知らないってさ? どういう事かな?」
表情を作るのをやめて、後ろに視線だけを投げる。 すると、盗み聞きの唯一の例外場所――テラスに影を落とすために植えられている大木の影から相良文也が現れる。
もちろん、僕が呼び出して話を聞かせていたんだ。
「僕と克人に彼女の悪口ふきこむ彩香に抗議したいからって、同席を頼まれたんじゃなかったかな? なんか、まったく違う話になってるよ?」
唇の端を少しだけ持ち上げて尋ねても相良は答えなかった。
「まぁいいよ? 話してくれないのなら、篠井の次期当主として相良家に正式な問い合わせをするだけだから」
そんな話がもれたら相良は相当苦しい立場になるだろうけどね、と笑みを含ませて言う。
「どっちでもいいんだよ、僕は。彩香を殴ったのは確かなんだから、家ごとでも君一人でも、破滅してくれさえすれば気がすむんだからね」
「……話したら、本当に家族はまきこまないでもらえるんですか?」
葛藤がうかがえる言い草を思わず鼻で笑い飛ばす。
「立場、わかってないね?」
「……え?」
「苦しい立場程度ですませてやるか、徹底的な破滅に追い込むか、それは君の発言で僕がいらつくかどうかにかかってるだよ? そんな事すらわからないほど馬鹿なのかい?」
後ろに立ったままの相良には見えていないだろうけど、あまりに残念な発言に笑いがもれてしまう。
篠井は大きな家だ。少なくとも、本家であるうちを本気で敵にまわして互角にやりあえる家は、国内に限れば久我城・綾瀬・高浜の三家の、それも本家だけ。他の家ではおとなしく潰されるのが一番傷が浅いという始末。相良程度、箸にも棒にもかからない。
今の時点で僕に課せられている義務の余禄である権力だけでも、充分相良の経営する会社を乗っ取って破滅させられる。
背後で凍りつく気配に、彩香に見られたら泣かれそうだな、なんて思いがよぎる。あの子、人のマイナス感情に敏感すぎるところがあるから、こんな姿絶対見せられない。魔人どころか魔王にされるかもしれないな。
――まぁ、あの子の事を考えるのは後にしよう。今は後悔してる場合でもない。
「あんまり僕を怒らせないうちに話したら?」
動く気配のない相手をせっつくとやっと立場を自覚したのか、おぼつかない足取りで僕の視界に入る位置に歩いてきた。
そう、話をするのに後ろに隠れてるとか、無礼極まりないんだよ。
「藤野先輩からは、さっき話した通りの事を言われたんです。嘘じゃありません」
「彼女は君なんて知らないそうだけど?」
「そんなはずありません!」
「証明できるの?」
ま、僕はしっかり言質もらったけど。そんな男の子? 僕は、相良って人、としか言わなかったのにね。ただ、物証が欲しいのは確かだけど。
「写真があります。出かけた時二人で撮りました」
「へぇ? それは中々いいかもね。で、まだ何か話せる事はないの?」
うながすと、相良は昨日あった事を思い出しながら洗いざらい話し始めた。聞き終わった僕の感想は一言。
「君、本当馬鹿だね」
あきれてものも言えないや。――言うけど。
そして、なんだかすごくいい笑顔になってる気がする。克人に言わせると、僕には本気で腹を立ててる時程笑ってるらしい。今までそんな自覚はなかったけど今回は別らしい。それだけ腹が立ってるって事かな?
「なんかもう、馬鹿発言もいい加減にしてくれって感じだね。転生とかどこの中学生の妄言なのかな? しかも年下の女の子の発言に逆上して殴るとかどれだけ低レベルなの? それもたった一言で? そんな程度だから学力が足りないわけでもないのにエンブレムもらえないんだよ」
あきれと馬鹿馬鹿しさにため息の大安売りになってしまう。
「そもそも、年下の女の子相手に二対一とかどれだけ卑怯な事かわからないかな? 君が同じ事やられたらどう思う?」
たたみかけると、少しは自分のした事の卑劣さに思い当たったのか、僕に怯えてるのか、どんどん顔色が悪くなってるな。ま、どっちでもいいか。
「どれだけ親しい相手でも尊敬に値する人でもね、間違ってると思ったらいさめないと。人間である以上、いつか必ず間違うんだから。それができないなら犬にすら劣るんじゃない?」
さて、こんなもんかな? ひとまず言うだけ言ったら少しは気分もましになったかも。
「言いたい事はあるかい?」
「――家族はまきこまないでください。必要なら俺は学園をやめて家も出ます」
「ふぅん? 少しは学習したのかな。……ま、いいよ。とりあえず二度と彩香の視界に入らないようにね。時期も微妙だし、あの子は騒ぎを大きくする事を望まないだろうから学園をやめろとは言わない。家を出る必要もない。ただ、適当な理由で跡取りの座は辞退してくれる? 相良との付き合いを切らないためには君が跡取りじゃ不便なんだよね。パーティで彩香と顔を会わせられたら困るしさ」
安いもんでしょ、弟君エンブレムもらうくらい優秀なんだし、と笑みをむける。相良家の三人の子供のうちエンブレム持ちじゃないのは長男のこいつだけなのをつつくと、悔しそうに表情が歪む。
「これはね、ただ成績が良ければもらえるんじゃないんだよ。自分のすべき事を把握して実行できるだけの器があって、なおかつ周囲に気を配って必要な手を貸したり借りたりが的確にできる事が必須なんだ。――わかるかい? 好きな相手に盲従するような神経してたら駄目なんだよ」
本当、先生方の見る目は確かだよ。エンブレム持ちは全生徒の代表なんだからね。意外と知られてないけど、本来内部推薦枠に上限はない。ただ、毎年一割に満たない生徒しかその基準をクリアできないだけ。
特権もなくただ注目されるだけなのに、なんでこんな制度があるのかよく考えればわかる事なんだ。注目されて天狗にならないか、特別なものをもらってまわりを見下さないか、そういった事を始めとした、人の上に立つ資質を確かめるためにこそ、このエンブレムは存在するんだってね。そんな簡単な事に気づけない程度じゃ跡取りは務まらない。
僕の説教に相良は目を見開いた。
「なぜそんな話を?」
「君はかなり馬鹿みたいだけど、弟君は節度あるいい子みたいだからね。そっちへの軽いお礼だよ」
今度ばかりは本心からの笑みが浮かぶ。相良巧――彼の弟は彩香と同じクラスで仲のいい方らしい。少なくとも、彩香をいじめている連中を時折いさめたり、雑談をするくらいには。
「ま、何かあったらこっちから連絡するよ。それ以外はおとなしくしてさえいればいい。――あと、この話は他言無用だよ。誰であろうと話さないようにね」
もういいから行けよ、と仕草でうながすと軽く頭を下げて立ち去った。
やっと、これで朝一のつまらない仕事は終わりだな。次は昼休みに克人と話し合わないと。
――――――――
高等部の中庭にあるテラスで本を開いたものの、まったく内容が頭に入ってこない。本に目を落としてもちらつくのは彩香の顔ばっかりだとか、かなり重症だなぁ。
あんな言葉、言わせるつもりじゃなかった。ただ彩香にいらついたところを見せたくなかっただけなんだけど……。
制服についた血と腫れ始めていた頬を見れば怪我の酷さはすぐにわかって、顔に手を近づけられたくらいでパニックを起こす程怯えてるあの子を見ていたら、心配なのと同じ強さで犯人に対する怒りが湧いてきた。あんなに近づかれるのを怖がった癖に、間違って驚かせないようにって距離をとったら嫌われたとでも誤解したのか余計泣いちゃうとか、一体どれだけ自信がないんだか。
思い出した光景に思わずため息をつく。本当、あの後の失敗はどうしようもなかったなぁ……。
「そこの悩める美少年君。よければ僕とお茶でもしないかい?」
不意にかかった笑混じりの声に慌ててふり返る。校舎の一階、中庭に面した掃き出し窓が開けられてそこから見慣れない男の人がこっちを見ていた。
「もう五限が始まってるよ。チャイムに気づかない程悩んでいるのなら相談に乗らせてくれないかい?」
言われて腕時計で時間を確認する。教室に戻る前の五分だけのつもりが、もう五限が始まって十分以上たっていた。
「今から授業に出るのも面倒だろう? 僕の部屋に来ていたという理由なら欠席にならないし、上がっておいで?」
柔らかくうながされ、急いで脳内を検索する。この場所にいて白衣をはおった三十代後半の……となると、あぁ、高等部のスクールカウンセラーの瀬戸谷先生か。カウンセリングルームは中庭に面した場所だったはずだし。
確かに、スクールカウンセラーの部屋を訪ねるのは保健室と同じ扱いで、書類上は出席扱いだし、確かに今から教室に行くのも面倒だ。
「お邪魔します」
なんとなくその雰囲気に誘いを断りにくかったのもあってうなずく。荷物を持って掃き出し窓から中に入ると、なんとも座り心地のいいソファに案内された。部屋の隅にあるミニキッチンでお茶をいれてくれるのをながめていると、瀬戸谷先生が楽しそうに笑う。
「今日も仕事がないかと思ってたから君が来てくれてよかったよ。カウンセラーが暇なのはいい事かもしれないけど仕事がないのは困りものでね」
「はぁ……」
「ま、おかげで論文ははかどるけとね。それだけというのも味気ないんだよ。――さ、どうぞ。熱いから気をつけて」
応接セットのテーブルに出された紅茶は大きめのマグカップにたっぷりで、続けてミルクや砂糖、お茶菓子にドーナツとおせんべいが並ぶ。
自分もマグカップを片手に斜め向かいに座った瀬戸谷先生は、一口紅茶を飲んでから僕の名前を確認した。
「一年の篠井君、というと……。確か中等部に妹さんがいたかな?」
「ご存知でしたか?」
「うん、まぁね。――こういう言い方は気に障るかもしれないけど、妹さんはちょっと事情が特殊だからね。自分の学部のカウンセリングルームには行きにくいからって、他学部のカウンセラーを訪ねる子もいるし、中等部から時々情報が来るんだよ」
言われてみれば、学園では彩香の経歴を把握しているし、中等部に上がってからはいじめの問題もある。瀬戸谷先生の耳に入っていない方が不自然かもしれない。
「そういうわけで君から見た僕は、事情はなんとなく知ってるけど親しくない大人だよね。親しい人には言いにくい愚痴なんて、すごく言いやすいと思わないかい? 裏庭の穴に叫ぶよりずっと安全だよ?」
なにせ守秘義務っていう法的拘束があるからね、と得意気に言われ、つい吹き出してしまった。
「面白い言い方ですね」
「真面目くさって話してってせっつかれたら気色悪いだろう? 僕は嫌だね。二十も年上のおっさんに上から目線で、相談に乗ってやるから話せ、なんて言われるなんてぞっとする」
やだやだ、と身震いするような仕草までされて、これにも笑ってしまう。
「だから、篠井君が話したければ話せばいいよ。黙って一人で考える方がよければ僕はここでお茶を飲みながら本でも読んでるし」
柔らかな笑みと言葉になんだか肩の力が抜ける。確かに、初対面なのに話した事がもれないと思えるっていうのは、不思議な距離感だよね。
考えを整理するためにも、話してみるのも悪くないかもしれない。そう思って、昨日克人から連絡をもらったあたりから車の中であった事を、できるだけ僕の感情をはさまずに一通り話した。――さすがに犯人二人の名前だけはふせたけどね。
「昨日学園内で暴力事件があったっていう連絡がまわって来たのはその件だったんだね」
まだ詳しい事は中等部で調査中としかわからないんだけど、とつぶやいてから、瀬戸谷先生が僕の方を見る。
「ま、それはいいとして。篠井君の話を聞いてて思ったんだけど、君は何にそんな驚いたのかな?」
「はい?」
「嫌なら答える必要はないよ? でもね、僕には妹さんが君の友達の名前を出したからって驚く理由がわからないんだ。だって、篠井君は彼女の発言を疑ってない――というか、妹さんが言ったんだから事実だと信じているように思えるからね」
「だって、彩香がそんなくだらない嘘をつけるわけがないんですから」
「だとしたら君はなんで、嘘だろ、なんて言ったのかな?」
「なんでって……。驚いたし、信じたくなかったからだと思いますけど」
「友達が妹さんを傷つける片棒を担いだのを信じたくなかった?」
「まさか」
瀬戸谷先生の言葉を思わず即答で否定してから首をかしげる。そういえばあの時、なんでそんなに驚いたんだろう?
確かに美智が他人に暴力をふるうような真似をするなんて、と驚いたのもあるけど、それだけにしては驚きすぎだったような……?
泣いてる彩香にほんの少しのいらだちも気どらせたくなくて、ごまかすために表情を取りつくろって……。
……そうだ。あの時――。
「彩香の声が、おかしかったんだ」
「うん?」
「うちに連れて来られたばっかりの頃みたいな、感情がこもらない変に抑えつけた声だったから、それに驚いたんだ……」
両親の死を正しく理解していた彩香が、あの頃どれ程の痛みに耐えていたのか僕にはわからない。ただ、笑う事も泣く事も人前じゃできない程に傷ついていた事だけは確かだ。
彩香は間違いなく、僕が見せたあの態度をあの子を疑ったからだと誤解したに違いない。二度と聞かないですむように祈ってた声を、僕が使わせてどうするんだよ。しかも、それに驚いた僕の言葉が更にあの子を追い詰めたとか、我ながら救いがたすぎる。
「何が理由だったのかわかったかい?」
思わずため息をついた僕に、瀬戸谷先生が相変わらずの柔らかい声で尋ねてきた。
「あぁ、無理に話さなくていいよ。大切なのは篠井君が問題の真相に気づく事であって、僕に話す事じゃない」
ドーナツをかじりながらの言葉は雑談でもしているような気楽さだ。
「篠井君の話を聞いて、僕はね、君が妹さんにどう謝るか悩んでいるように思ったんだよ。でも、彼女を傷つけてしまった理由がね、曖昧だったから」
「……曖昧でしたか?」
「確かに表面上ははっきりしていたよね。篠井君の言葉が妹さんを傷つけた。――でも、いくら動転してたからって、エンブレムをもらえる程聡明で、お兄さん大好きな彼女がたかが失言一つでそこまで傷つくものかな?」
「……それは、確かに」
「だからきっと、言葉以外のところで――例えば普段とほんの少しだけ篠井君の態度が違ったとか、会話の間合いがおかしかったとか、何かあったんだろうなって思ったんだよ。その違和感が妹さんの行動に現れたら君は必ず気づく、という前提にたって話を聞いたら、あの場面での君の驚きが気になった、というわけさ」
なんでもないように説明され、目をまたたく。この人はそこまで考えながら僕の話を聞いていたのか……。
「たぶん、篠井君が妹さんと仲直りするのに一番大切なのは、妹さんの態度が変わった直前に君が見せた普段通りじゃない態度が生んだ誤解を解く事じゃないかな?」
ややこしい言い方で悪いね、と言う瀬戸谷先生はドーナツの最後のひとかけらを口に放った。なんだか、すごい人なのか適当な人なのかわからないなぁ。
「いや、僕はただのしがないカウンセラーだよ?」
内心を見透かされたようなタイミングに、思わずぎょっとして瀬戸谷先生の顔を見つめると、おかしそうに笑われてしまった。でも、なんだかいたずらの成功を喜んでる子供みたいで、腹が立つより微笑ましい。
「このやり方は僕の尊敬する先輩が教えてくれたんだよ。緊張されない間合いも、ちょっと驚かせて気持ちをほぐすやり方も、全部ね」
「すごい人だったんですね」
「そうだね。優秀で尊敬に値する人だったけど、なんともわからない人でもあったよ。学食で水分なくなるほどのびきった上、なぜか餃子ののってるにしん蕎麦を無表情にすすりながら読んでるのが良い子の童話百選だった日にはもうね……」
どこからつっこみを入れるべきか本気で悩んだからね、とため息をつく瀬戸谷先生。
「……それ、本当ですか?」
「恐ろしい事に実話なんだよ。どうやらにしん蕎麦を頼んで席についた直後、論文の相談を受けたらしくてね。気づいたら蕎麦が悲惨な事になっていて、相談主が詫びだと自分の餃子を半分置いて行ったらしい」
「それ、むしろ嫌がらせじゃ……?」
「なぜわざわざ蕎麦にのせるのかという点を問いただしたいね。しかもにしん蕎麦にだよ? あり得ないだろう」
なんだか味を想像しただけで気分が悪くなりそうだよ……。のびきって水分をすったお蕎麦とにしんの魚のにおいに餃子……。逆に無表情に食べられるのがすごいと思うのは僕だけ?
「それだけじゃないんだよ。普段からわりと無表情な人だったから、悪のりした連中がゼミの親睦会の席でカラオケ行った時にいたずらをしかけてさ。順番に指名して、指定された曲を歌うってゲームをしたんだけど、あれは酷かった」
「というと?」
「当時動画ではやっていた、ちょっと女の子には歌わせられないようなネタ曲に指名してねぇ。あれ、セクハラで訴えられたら絶対負けるよ」
瀬戸谷先生が眉間をもみながらため息をつく。
「ちょっと困ったふりでもして、歌えないって言ってやれば笑い話ですむのに、あの人ときたら、無表情で完璧に歌ったんだよ。無駄になんでもそつがない人だったけどさ、歌までうまいとかあの時初めて知ったね」
まぁ、空気が凍りつく凍りつく、とぼやいた瀬戸谷先生の言葉に半笑いを返すしかない。
確かに、歌えないって濁してしまえば些細ないたずらですむのに、その対応とか……。意地悪にも程がある。
「しかもだよ? 次に主犯を指名して歌わせたのがぞうさんときた」
続いた言葉にはこらえる間もなくふきだす。凍りついた空気の中で二十歳くらいの男がぞうさんとかなんの罰ゲーム?!
「おかげで空気は瞬間解凍だよ。みんなで大爆笑だったからねぇ」
「それは確かに笑いますよね」
「しかも選曲が酷いだろうって言ったら、金太郎がよかったかな、なんて本気で言うんだ。そういう問題じゃない、と膝詰めで説教してやろうかと思ったね」
ぼやく瀬戸谷先生はどこか楽しげで、聞いてるこっちまで楽しくなってしまう。
そのままいくつかの逸話を披露してもらっていたらチャイムがなり、少し名残惜しかったけど席を立つ。
「あぁ、そうだ。後一つだけ」
「はい?」
部屋からでかかった時後ろからかかった声にふり返る。
「篠井君にとって妹さんは本当に妹かい?」
思いもよらなかった言葉につと目を細めるけど、瀬戸谷先生は相変わらずの笑顔のままで内心が読めない。
「どういう意味ですか?」
「夏のパーティで踊っていたよね。あの時兄妹には見えなかったから、かな。――篠井彩香さんは本当に君にとって妹かい?」
「彩香は妹ですよ。それ以外に思っていいはずがない」
「そうかい? 無理はいつか破綻するものだ。一番守りたいものを守るためには不本意な現実を認める事も必要なんだよ。間違えないようにね」
僕の返事をどう思ったのか、瀬戸谷先生は少しだけ苦笑めいた表情でそう言った。
「ま、気が向いたらいつでもおいで。あの人の逸話はまだいくらでもあるからね」
「……失礼します」
直前の会話などしなかったような態度で言われ、こっちも何も言わずに頭を下げる。
一体どういう人なんだろうな、あの人は。
かなり滅入っていたはずなのにすっかり気分が変わっている事に気づいたのは、カウンセリングルームを出てしばらくたってから。
感謝するのもしゃくだけど、助けられたのも事実でどうにも微妙な気分にさせられてしまった。
そして、文化祭の準備中に克人から送られてきたメールについふきだしたせいで、クラスのみんなから妙な目で見られたのはご愛嬌、かな。
お読みいただきありがとうございます♪
……あれ? 彩香出てこなかった?