お散歩とこれからの事。
久々に外に出ると、めまいでもしそうな陽射しとむし暑い空気。
快適な温度湿度に保たれた室内だとあんまりわからなかったけど、やっとこの季節を肌で感じることができた。
「もう夏だぁ」
思いきりのびをして歩き出そうとしたら、ぽん、と帽子ごし頭に手が置かれた。ふりかえって見上げると、少し心配そうな雅浩兄様と目があう。
「走らないでね? まだ本調子じゃないんだから散歩は少しだけだよ?」
「はぁい、わかってま~す」
もう手術をしてくれた先生からもお許しが出てるのに、心配性だなぁ、とは思うけど、それだけ私を大事にしてくれてるからこそなのもわかるんだよね。
だから、暑くなる前の午前中に庭を軽くひとめぐり、だけの散歩と言われても不満なんて言わないもん。それに、雅浩兄様も一緒だしね。
英国風に整えられた一角を、咲き乱れる花を楽しみながら歩いてたどり着いた東屋で休憩。座った時に視線をさえぎらない位に低い壁に区切られたそこには、先に用意していてくれた休憩の用意が整っていた。いい感じに古びた雰囲気の東屋の中に、テーブルと椅子を配置したそこはこぢんまりとして落ち着くのに広く庭が見渡せて気持ちいい。
「ジュース、おいしい」
「暑かったからね。喉渇いたんだよ。彩香は外に出るの久しぶりで、自覚してるより疲れてるだろうから、少しゆっくり休もうか」
飲みごろにひやされたフレッシュジュースについ笑顔になったら、雅浩兄様がまたもや心配性な事を言う。本当、過保護なんだから。
……それが嬉しいのは秘密。
「うん、無理はしないから」
だから、笑顔でいい子のお返事をした。確かに、東屋の中で日陰にいれば、風があるのも手伝って辛くない程度の暑さだけど、陽射しの下にいるとかなり暑かったもんね。
「本当、彩香が元気になってくれてよかった」
心底安心した、とでも言いたげな言葉にちょっとだけ苦笑いになってしまう。雅浩兄様ってば、手術が終わって、私の容体が落ち着き始めてから――つまり、後遺症が出そろった頃から――毎日そう言ってませんか?
桂吾と片野教授はどんな無理を通したのか、脳外科では世界一、と言われる医者を春になる前につかまえてきた。ただ、さすがに患者をたくさん抱えるあの人が日本に来ての手術は難しいと言われて私はドイツで手術を受けた。
まぁ、ドイツ語なら綾の知識の中にあったし別に異存はなかった。それにむこうにいた三ヶ月間は、医療スタッフとして桂吾と片野教授、付き添いとして百合子母様が一緒にいてくれたんで、さびしさなんて感じる暇もなかったし。政孝父様と雅浩兄様、克人兄様も、手術の前後十日くらいはいてくれて、ずいぶんいい状態で手術に臨めたと思う。
ただ、執刀医の予告したようにまったく後遺症がない、というわけにはいかなかったのだけど。
「わっ?!」
ぼんやりしていたからか、突然の風に帽子を飛ばされて慌てた声をあげる。この前克人兄様にもらったばっかりの帽子なのにっ!
「僕が拾ってくるから彩香はここで待ってて?」
反射で立ち上がろうとした私を制して雅浩兄様が動き出す。風に乗って噴水の近くまで行ってしまった帽子は、水面に落ちる寸前、雅浩兄様の手にすくい上げられた。
「ふぅ、間に合った」
噴水の縁に手をついて体を乗り出していた雅浩兄様がもらしたつぶやきが耳に届く。帽子片手に少し噴水から離れた後、雅浩兄様は両手に持ちなおした帽子を器用に回転させてから、何ヶ所か軽くはたく。
その動きで麦わら帽子につけられている、飾りの赤いビーズが光をはじいた。……偶然なのか違うのか、幸兄にもらったのとよく似た、造花と赤いビーズをあしらったコサージュのついたつばの広い帽子は最近の私のお気に入りだ。
手術とその後の検査のために髪を切った――本当は、そった、が正しいんだけど。そこは微妙な乙女心、という事で――私のために、みんな帽子をくれるんだよね。今はまだ伸ばし始める許しが出たばっかりで、なんとかベリーショートと言い張れる程度の長さ、と言ったらわかってもらえるのかな?
特に克人兄様はお見舞いのたび、病室でもかぶっていられるようなやわらかい生地で作ったベレー風からお散歩用のカジュアルな麦わら帽子、パーティで使うようなビーズや造花がふんだんに飾られたものまで、あれこれ持ってきてくれる。私のクローゼットを帽子で埋めつくす計画でもあるの、なんて言っちゃったくらい。
まぁ、手術前に情緒不安定だった私が、坊主にされちゃうし何ヶ月もそのままとかやなんだもん、なんてぐちったせいだとは思うけど。あの時の克人兄様はすごく困った顔をしてたなぁ。
ちなみに、政孝父様は元から私の髪が結構長かったんで、切った髪でかつらを作ってくれた。いや、フルオーダーのやつはすごいね。自分でも一瞬、少し髪切っただけ、に見えたし。
百合子母様は、せっかく短くしてみたんですからね、って普段あんまり着てなかったショートカットの方が似合いそうな服をたくさん届けてくれました。
「はい、帽子。たいして汚れてなかったよ」
「雅浩兄様、ありがとう」
考えを飛ばしてる間に戻ってきた雅浩兄様に帽子をさしだされて、笑顔で受け取る。
「彩香は不本意かもしれないけど、短いのもかわいいね」
帽子を渡して、空いた手で頭をなでてくれたついでにたらしなセリフもいただきました。
「そうかなぁ? なんか、違和感ばっかりだよ?」
「そう? 僕はすごくかわいいと思うよ。――まぁ、彩香がかわいくない時なんてないけどね」
「……雅浩兄様」
「シスコンとか、今さらなコメントはいらないよ?」
思わずため息をついたら、雅浩兄様が楽しそうに笑いながらそう言って、隣の椅子に腰をおろす。
「まわりにそう思われておくのもけっこう便利なんだよ。おかげで、まとわりついてくるうるさい連中をふるう網が一個増えたしね」
自覚があるのかないのかわかりにくいコメントに、つい首をかしげてしまう。
「ま、僕は後何年かは彩香より大切な相手を作る気ないから。安心して克人とケンカ別れしておいで?」
「ちょっ?!」
何怖い事言いだすの、この人はっ?!
「あれ? 最近、克人が彩香のお見舞いに来ないの、ケンカしたんじゃないの?」
「してないしてないっ」
「じゃあ何で?」
「何で、って、克人兄様風邪っぽいから、もし私にうつしたら一大事だから治るまで来ない、ってメール来たよ?」
「あぁ、確かにもしそんな事したら制裁ものだもんね」
いや、風邪うつされるくらいたいした事じゃないから……。
ちょっと遠い目になったのは私悪くない……。
「まぁ、冗談はともかく、克人が風邪ひくより前から少しお見舞いの頻度下がってなかった?」
「うん、まぁね」
首をかしげながらの質問に一つうなずく。
「だって、克人兄様、来るたび帽子買ってきてくれるし。そんなにあっても使いきれなくてもったいないんだもん。だから、手ぶらで来れないなら週一回以上のお見舞いお断り、って言ったの」
ちょっと唇をとがらせて説明したら、雅浩兄様がふきだした。
「手土産禁止とか……っ。彩香らしいけど、克人困ったんじゃない?」
「うん。世間体として手ぶらじゃ来られない、って真剣に悩んでたよ」
「かわいそうに。今ごろやきもきしてるんだろうな」
くすくすと笑う雅浩兄様は、克人兄様を心配してるというよりも、困ってる姿を想像して楽しんでる風だ。
「桂吾みたいにペットボトルの飲み物片手に来てくれればいいだけなのにねぇ」
「だよね。持ってきた事実だけあればいいんだし」
ふんわり笑ってそう言うと、雅浩兄様がもう一度私の頭をなでてくれる。
「でもまぁ、ケンカしたんじゃなくてよかったよ。少し、心配してたんだ」
「ごめんなさい。でもまさか、克人兄様がそういう抜け穴に気づかないで来られなくなるとは思わなかったの」
「克人は彩香の事になると、時々すごく馬鹿になるからね」
苦笑いですごいコメントをする雅浩兄様。
「まぁ、それだけ彩香の事が大切で大好きだって事なんだろうけどさ」
くすくす笑う雅浩兄様がもう一度頭をなでてくれる。
「じゃなくちゃ大事な彩香を任せてもいいかな、なんて思えないしね」
「……へ?」
なんか今変わった事を言いませんでした?
「彩香は恋愛するなら克人がいいんだよね?」
「ちょっ?! えっ?! 何々なんなの急に私そんな事言ってないですからっ?!」
「違った?」
大慌てする私にさらりと投げ返してくる雅浩兄様。何なんですか、そのすごくほほえましそうな楽しくてしかたがない、って笑顔はっ!
「私は結婚も恋愛もしなくていいんだからっ」
「でも克人の事、好きだよね?」
「……うぅ」
だからそうやってさらっと返されると返事に困るんですってば。どうしよう、なんか今真っ赤になってる自信あるんだけど。
「真面目な話、僕としては克人はけっこうおすすめだよ? 父さんと母さんも克人は有力候補に入れてるから何の問題もないと思うけどね」
「……だから、そういう話じゃないんだもん……っ」
真っ赤なのが自分でもわかるから、帽子を深くかぶって表情を隠す。ばれてるのはわかってるけど、気分の問題なの!
「そう? じゃあ、久我城から来てる彩香への婚約申し込み、断る?」
「やっ、駄目っ!」
……って、あ、れ?
軽く首をかしげた雅浩兄様の言葉に反射で否定を返してから、気づく。視線を泳がせた雅浩兄様の肩がなんだか不自然にゆれているというか……。口もとおさえて視線そらして肩が……って、笑ってませんっ?!
…………って、私は今、何言ったっ?!
「何肩震わせて笑ってるんですかっ?!」
「や、うん。僕、彩香のそういう素直なところ、好きだなぁ」
「笑いながら言われてもちっとも嬉しくないからっ!」
「だって、彩香がどうしたいのか素直に言ってくれないから、聞き出すしかなくなったんだよ?」
「私のせい?!」
「まぁ、彩香のかわいいところ見たくていじわるしたのは認めるけどね」
だから楽しそうに何笑ってますか、とっ!
「ま、そういうわけで、篠井の方針としては、克人が条件をクリアできたら正式に婚約の申し込みを受ける、って事でいいよね?」
「……まぁ、うん。……依存ない、です」
恥ずかしいのもあってもごもごと答えたら、雅浩兄様がすごく楽しそうにうなずいた。
「了解。でも本当、君達いつまですれ違って遊んでるつもりなの?」
「遊んでないですからっ! そんなつもりまったくないからっ!」
大事な事なので二回言いました!
「だって、克人が彩香を好きで、彩香も克人が好きなんだよね? なんではっきりさせないの?」
不思議そうに言われて、はふぅ、と息をはき出す。確かにはたから見ればそんな風に見えるんだろうな、っていうのはわかってるんだけど……。
克人兄様の前で散々弱音をはいて、馬鹿な事を言って、でも、克人兄様は私のそういう弱くて馬鹿なところもふくめて受け止めてくれる、って言ってくれた。それが嬉しくて、……ううん。そんな言葉じゃ足りない。使い古された言葉だけど、泣きたくなるくらい幸せだった。それは桂吾だって、雅浩兄様だって同じなのに、克人兄様相手だとよくわからないけど、何かが違う。なんていうか……。克人兄様は、背中あわせに立ってお互いを支えてるような桂吾との距離感とも、無条件にかわいがってくれて甘えさせてくれる雅浩兄様とも、違うんだよね。
昔幸兄にむけていた触れられる怖さを和らげるだけのものじゃくて、桂吾にむけてたみたいに闇雲に関心をひきたくなる衝動もない。だけど、克人兄様といると、馬鹿で弱い自分を隠さないでいられる。そういうところを見せるならあの人がいいな、なんて思ってしまう。馬鹿な私を一生懸命なぐさめようとしてくれるのが嬉しくて、ずっと側にいて辛い時に支えて欲しい、だなんて思ってしまった。望んでもらえるなら、ずっと一緒にいたいのは確か。
だけど……。
「……笑わない?」
少し話してしまいたい気分もあって、そうつぶやいたら、雅浩兄様はにっこり笑顔になった。
「たぶん、ね」
「たぶん……?」
「いや、ほら、嘘はつきたくないからさ。努力はするけど断言はできないかな、って」
正論だけど保身に走ってますね? むむぅ。
「悩んでないで教えて?」
優しくうながされて、結局うなずいた。だって、誰かに相談したかったのも確かだし。
「……なんていうか……。今まで私が好きになった人って、恋愛的な意味では私の事好きになってくれなかったし……。認めちゃったら克人兄様私の事好きじゃなくなっちゃうかも、って……。それに、結婚ってなんか怖いし……」
もそもそと説明したら、雅浩兄様が小さくふき出した。
ちょっ、いきなりですかっ?!
「ごめんごめん、でも、あんまりにも瀬戸谷先生の言う通りだから」
「……桂吾が?」
あいつ何ふきこんだの……?
思わず遠い目になったのは必然だと思うの。
「彩香は恋愛的な意味で誰かを好きになったら怖い事か悲しい事が起こる、結婚するとろくなめにあわない、って思いこんでる、って言ってたんだよね」
「……まぁ、その通りだけども」
だって、好意も愛情も、反転する。何かを引き金にそれは突然、同じ熱量の悪意や憎しみに変わるんだ、って私は知ってる。
幸兄が私にむけてくれた好意も、私が幸兄にむけていた気持ちも、高浜の両親が互いにむけていたはずの愛情も――私にはとても信じられないけどあの二人は恋愛結婚なんだから。
だから思うんだよね。大切な相手とは義務の発生する法的に縛られた関係にはならない方がいい、って。
「克人に嫌われるのが怖い?」
「そういうのあきらめるのは慣れてるから大丈夫。嫌われるのなんていつもの事だし」
「……慣れないで。やめて本当……」
ひたいに手をあてて盛大なため息とともにうめく雅浩兄様。あれ? 失言?
「だって、私の事好きだとか相当レアケースだよ? かなりな量の敵意と悪意にまみれて、それでもしれっとしてるからより一層憎まれるのがデフォルトだよ?」
敵意も悪意もそよ風程度にすら気にとめない、だの、敵対しても羽虫か汚物あつかいで対等な敵とはみなさない、だの、散々な言われようでしたしね。
「それは昔の事だよね? いまは違うでしょ?」
「そうかなぁ? 今だって、クラスの連中の事とか完全に格下だって見下してるけど?」
「それは事実むこうの方が露骨に格下だから当然だよ。あんなの、まともに相手する必要ないし」
……雅浩兄様、ちょっぴり黒いオーラが出てますよ?
「そういうのが彩香を守る手段なのはわかるんだけど、心配なのも本当。嫌われるのに慣れてる、とか悲しい事言わないで?」
眉を下げた笑顔の雅浩兄様のお願いに、どう答えようか悩んでしまう。だって、慣れちゃってるのは本当で、口に出さなかったからって事実が変わるわけじゃない。でも雅浩兄様はたぶん、慣れて気にならないって感情を麻痺させる事自体をやめて、って言ってると思うから。これはもう習い性だからやめられないと思うしなぁ。
「口先だけの安請け合いはしない、正直なところは美点なんだけどねぇ」
雅浩兄様、何を考えてるのか察してくれたらしく、苦笑いです。
でもまぁ、うん。
「親しくない人はともかく、仲のいい人の事はそんな風にあきらめたりしないようにがんばる、ね」
「うん、お願い」
妥協案を出したら、雅浩兄様がいつもの笑顔に戻ってくれた。安心したのとしゃべってたので喉が渇いた気がして、ジュースに口をつける。冷たいけど、冷えすぎてはいない、ちょうど飲みごろの温度が嬉しい。
「でも、克人に嫌われるのが怖いんじゃないなら、何が不安なの?」
「だって、友達なら付き合いやめればすむけど、篠井と久我城だよ? 婚約しちゃえば、克人兄様が私の事嫌いになってもそう簡単に別れるわけにいかないもん。でも、別れられないから、で無理に続けた関係がどうなるのか、私は見てきたから。だから、嫌われちゃうのはしかたないかな、って思えるんだけど、そうなった時に離れられない縛りができるのが嫌、というか……」
なんかうまく言葉にできないなぁ、と思いつつ話したら、雅浩兄様は小さく首をかしげた。
「でもさ、克人はもうずいぶん長く彩香の事を見てきたわけだし、今さらな心配だと思うよ?」
「そうかなぁ? ついこの前まで猫かぶってたから、それより前の私とじゃだいぶ違くない?」
昔とはほぼ別人だしねぇ、とため息をつく。
「え? そんな事ないよ?」
「え?」
「彩香から昔の――高浜綾だった頃の話を聞くようになってからも別に変わったとは思わないよ。むしろ、安心したかな」
「……へ?」
安心とか言った? 思わず目をまたたくと、雅浩兄様がすごく優しく笑った。
「うん。だって、彩香ってば時々すごくさめたものの見方してるからね。この年でそれはどうかな、って心配になる事多かったんだ。でも、成人してるなら許容範囲内だからね。――それに、こういう言い方していいのかは難しいんだけど、彩香が眠れなかったりうなされやすかったりする理由がずっとはっきりしなかったから。なんで彩香がそんなに苦しんでるのかわかって少しだけほっとした、っていうのもあるんだよ」
最後は苦笑いになった雅浩兄様もジュースを飲む。
「最近は少し落ち着いてきたみたいだけど、昔は本当に酷かったからね。確かに雄馬さんと栞さんの事故っていうわかりやすい理由はあったんだけど、それだけにしては彩香の人間不信はちょっと酷すぎるから。だから、そのあたりに説明がつくようになってほっとした、っていうのかな? 僕達が知らない間に彩香を傷つけちゃったんじゃなくてよかった、って安心した、なんていうとかなり自分本位に聞こえるね」
説明してくれる雅浩兄様は笑顔だけど少しだけ眉が下がってる。別にそんなの雅浩兄様が気にする事じゃないと思うけどな。
「自分に原因がなくてほっとするのは当然だと思うよ?」
「当然でも思うところはあるんだよね。まぁ、だから僕があいつらが嫌いなのはその裏返しでもあるのかな?」
あぁ、幸兄と高浜一党の事ですね。この前桂吾が、どこかのパーティで四強のうち三家が手を組んで高浜を追い落としにかかり始めた、その主導が篠井だ、って噂が出てた、って言ってたもんね。しかもそんな空気の中、雅浩兄様は高浜の人間からあいさつをされた時、冷たくあしらったとか。まぁ確かに高浜は藤野さんを囲い込んだまま、私を突き落とした件に対して謝罪も釈明もさせてない。学園があの事件を公表したわけじゃないけど、話はどこからともなくもれて、いわば公然の秘密状態。たぶん政孝父様達がわざともらしたんだとは思うけど、そのおかげで私の長期入院と手術は階段から突き落とされたせい、なんて話になってる。しかも、学園で私に対するいじめがあったのは、藤野さんが裏で糸を引いていたからだとか、色々事実に反する噂になってるらしい。
ちなみにこの辺の情報は桂吾に聞いたのと、病室で退屈しのぎにネットで調べたら出てきた。いろんなアプリとかサイトをうまく使えば情報を集めるのはさほど難しくない。桂吾に言わせると、匿名性の薄いソーシャルネットワークで、特定の誰かの名前を使わずさりとて自分だとは悟らせずに情報を集めてくるのはそれなりに大変らしいけど、こんなのコツさえつかんじゃえば簡単なんだよね。
でも、なんというか、そうやって調べてみると本当、藤野さんに関しては面白半分に彼女が学園内でやらかしていた逆ハーレム計画の進捗を調べて楽しんでる連中がいたりとか、なかなかな笑える状況になってた。そんな、学園関係者が読めばすぐに個人特定できるような書き方して、教職員にばれたらどうするつもりだったんだ、と。今回高浜は藤野さんに関して放置に近い態度だったけど、もしも違ったら潰されてるだろうに。危機管理のできてないおばかさんが学園内にはけっこうたくさんいるってわかったのは少し微妙な気分。ひっそりと、この家は跡継ぎ次第でつきあい切った方がいいだろうな、なんてふるいにかけられたのがありがたいと言えばありがたいけども。
「どんな理由があっても、私は雅浩兄様が心配してくれたり怒ってくれるのが嬉しいよ?」
「ありがとう、彩香。君は本当にいい子だね。――なんか、決めたつもりだけど克人に譲るの惜しくなっちゃうなぁ」
「でも、私は雅浩兄様とは今の関係のままがいいなぁ」
冗談めかした言葉にちょっと眉を下げたら、わかってるよ、といつもの笑顔が返ってきた。
「なんか彩香の話聞いてたら、彩香にとって一番居心地がいいのって、今の僕と彩香の関係なんだろうな、って思うしね。彩香に気持ちよく過ごしてもらえるのが一番だから。ま、不安なら克人の事はもう何年か、――そうだな、彩香が高校卒業するまではこのままでもいいんじゃない? 克人だって待てない程馬鹿じゃないと思うから」
「でも、そうしたら克人兄様、大学卒業しちゃうよ?」
「だいたい、今時中高生のうちから婚約者がいるとか、結婚が前提の資金援助の前借りしてるだとか、親が子供同士を結婚させる事で利益を得られるから、ってだけで本人の意思とは無関係な関係の事ばっかりだから。あんまり早くはっきりさせても克人の立場的にはあんまりよくないと思う。それに、その頃だと克人も社会に出て二年目で、頃合いとして悪くないしね」
雅浩兄様の説明は確かに筋が通ってる。藤野さんの騒ぎでなんとなく下火になったけど、克人兄様が私にひどい事して正式に謝罪した、なんて噂もあったんだよね。だからもし今私と克人兄様が婚約、だなんて話が出たら、その噂と繋げて考える人だってたくさんいるはず。だから、その意味でも時間を置くのは悪くないんだろうな。
ゲームの中で克人兄様と彩香が婚約してたから早く決めなくちゃいけない気がしてたけど、確かに雅浩兄様の言う通り、なんだよね。場合によっては克人兄様の仕事がある程度落ち着いてくるまでか、私の進路次第では大学卒業まで正式には発表しない、って選択肢もあるだろうから。
「克人だってそういう事情はわかってるしね。だから、とりあえずは本人同士の口約束のレベルにしておけばいいんじゃない? そうなったらいいね、って本人達が内輪で言ってる程度なら反故にしても問題ないし、五年あればお互いに長く一緒に生活していけるかどうか、ある程度見きわめがつくだろうから」
たいした問題じゃないよ、とでも言いたげな雅浩兄様の言葉に納得できる反面、困ったな、と思うのも本当。だって、それは……。
「確かにそうなんだけど……。でもそれって、私が最終的に久我城の跡取りに相応しい道を選ぶ前提で、だよねぇ」
「うん?」
ついこぼれてしまったため息に雅浩兄様が不思議そうに首をかしげる。
「彩香は何かやりたい仕事があるの?」
「うん、まぁ、ちょっとやってみたかった、というか。――実は、ずっと考えてた事はあるんだけど。さすがに兼業は難しいからねぇ」
椅子の背もたれに置かれたクッションに体を預けてもう一度ため息。たぶん、私が独身を貫いて篠井で雅浩兄様のおまけとしてやってく分には何にも問題なくて。仮に結婚したとしても、婿取りで篠井から独立する程度だったり、克人兄様が跡取りじゃないか、瀬戸谷くらいの規模の家だったら問題にならなかったとは思う。今時、当主の妻が仕事を持ってるのなんて珍しくないし、百合子母様だって輸入雑貨とオーガニック化粧品を主力に扱う会社の社長さんだもんね。まぁさすがに篠井の企業の中ではそこまで大きいものじゃないけど、でも篠井グループの当主夫人についてくる仕事の量を考えると今以上に規模を広げるのは無理だと思う。百合子母様もそれはわかってるらしくて、売り上げは好調なのに規模拡大の路線は選ばない。
まぁつまり、篠井や久我城の本家ともなると、当主夫人に許されるのはあくまでも本家当主の妻の役目をおろそかにしない範囲でできる仕事、なんだよねぇ。でも私が目指したい職業はたぶんそれから外れてしまうから。克人兄様が長男だから、って理由だけで跡取りとしてやってるなら、わがままを言えるかもしれない。でも克人兄様は自分で進みたい道として跡取りを選んでるから。
「彩香は何をやりたいの?」
「う、ん……。私ね、本当は研究に進みたかった。医療関係、それも失われた機能を代替するための研究、やりたかったんだよね」
「ええっと、それって、視力とか聴力を擬似的に取り戻すようなもの? 確か研究段階の物はもうあるんだっけ?」
「ううん。私がやりたかったのは、もっと別のもの。たとえば、脳さえ活動停止してなければ体のどこも動かせなくても、明確な意思疎通ができて、ベッドに拘束されて何一つできない、なんて状況に陥らないですむような方法。――治療してもどうせよくて四肢麻痺だろうから死んだ方が楽だろう、なんて理由で治療すらしてもらえない人がでるのは嫌だから」
自分の言葉に触発されて思い出した光景に涙がにじむ。私は、知ってる。自分の親戚がそんな言葉で雄馬父様と栞母様の治療を中断させた事を。あの人達はぼんやりしてしゃべりもしない私が理解してるだなんて思ってなかったんだろう。私の前で――まだ意識を取り戻していない雄馬父様の前でそんな話をしていた。
確かに自分の意志では何一つできなくて、人と機械の力を借りなければ生きてすらいけないという状況はものすごく大変なんだろうと思う。たぶん、いくら想像したって、その大変さは私にはわからないとも思う。でも、それが辛いから死を選ぶのか、それでも生きていたいのか、選んでいいのは本人だけだと思うから。だから、その選択さえ許されないで切り捨てられる人を減らしたい。もちろん、大切な人がそうやって切り捨てられたから私怨でこんな道を望んだ事くらいわかってる。ただの自己満足なのも知ってる。たぶん、うまくそんな技術を見つけられたとしても、そんな物があるから死ぬ事を許されないんだ、って恨まれもするだろう。医療費がふくれあがるから迷惑だ、なんて言われるかもしれない。
だけど、そんな理由をつけても私はあきらめたくなかった。政孝父様と百合子母様に迷惑をかけない程度の学力に抑えておけなかったのも、医学方面からアプローチするにしても工学方面からアプローチするにしても、学力だけは必要だと思ったから。
でも、その道と克人兄様の側にいるの、両方は選べない。たぶん、私の性格だと研究に夢中になればいくら重要だと言われても社交のために時間を割いたりできない。両方を選べないなら片方はあきらめるしかないのが道理で、だから私はあきらめる事にした。
「でも、もういいの。なんか適当な分野で起業するか、仕事のはしっこ手伝わせてもらって稼いだお金でその分野に目一杯投資なり寄付なりしたって同じ事だもん」
そう。自分の手で直接やるか、その分野で頑張ってる人達を支えるか、方法は違ったって結果は同じ。だから、それでいい。あの悔しさを忘れたわけじゃないけど、私は自分の手でそれをはらすよりも、側にいてくれる大切な人達との時間を大切にしたい。
「変な話してごめんね? 実はちょっとだけ、そっちに力入れてくれると嬉しいなぁ、なんて下心があったりなかったり?」
篠井も毎年社会貢献としていろんな分野の研究や各種支援・保護活動に寄付をしてる。その時の選択肢にいれてもらえたらいいなぁ、なんて思ったのも本当。どうせどこかには寄付するんだもん。
ちょっと舌を出して笑うと、雅浩兄様がものすごく盛大なため息をついた。
「馬鹿な事言って悩んだりしてないで、さっさとなんとかしなよ。――彩香に夢あきらめさせて自分だけ好きな事するつもりなんてないよね?」
「……雅浩兄様?」
なんだか脈絡がおかしくないですか? どういう意味なんだろう、と首をかしげ……って、まさかっ?!
ジュースをテーブルに戻すと東屋の壁の後ろをのぞこうと慌てて立ち上が――っ?!
勢いよく動き出そうとしたのについていけなかったのか、膝がくだけて体がかしぐ。
「彩香っ?!」
二重の慌てた声と椅子が倒れるような音、両方が落ち着いた時には、雅浩兄様の腕の中に抱きとめられていた。
「大丈夫?」
「うん、ありがとう。……びっくりした」
「それはこっちのセリフ。驚かせた僕も悪かったけど、急に動いちゃ駄目だよ?」
ため息とセットの言葉は動揺の名残か少し揺らいでる。
「座り直そうね。……ほら、克人もばれてるんだからさっさと出てきなよ。ちょっと邪魔だから倒れた椅子どけて」
まだ膝に力が入りきらない私を支えてくれる雅浩兄様が、動こうとして倒れた椅子の脚に邪魔をされたらしくて足元を見てから視線を私の後ろに投げる。そうしたら、後ろで人の動く気配がして、次に倒れた椅子を誰かが遠ざける。雅浩兄様の影で見えないけど、間違いなく克人兄様以外のはずがない……。
「なにやってるんですか、二人して……」
思わず内蔵まで出そうなくらい思いきりため息をついてしまった。私、悪くない……。
「説明は後ね。足は痛まない? どこかぶつけたりしなかった?」
慎重に私を椅子に座らせてくれた後、雅浩兄様は苦情をさらっと流してくださいました。でも心配そうに眉をよせて顔をのぞき込まれちゃったら文句なんて言えませんって。
「どこもぶつけてないし、痛いところもないよ。たすけてくれてありがとう」
「ううん、そんなのなんでもないから。でも、本当気をつけて? もし彩香一人の時にこんな事になったら怪我しちゃうからね」
もう一度大丈夫だと返事をしたら、やっと雅浩兄様の表情が和らぐ。今のが手術の置き土産。どういう原因なのかははっきりしないんだけど、私の手足は急な動きをするとついてこられなくなってしまう。動き出せるのに、次の瞬間すべての力が抜けてしまうんだ。だから今みたいに立ち上がろうとして勢いはついているのにそれを支える足から完全に力が抜けて、勢いのまま倒れ込んでしまう。最悪なのはこの症状が出ると、脱力するのは四肢すべてだってあたりだろう。長くて数秒とはいえ完全に両手両足が私の制御から離れる。つまり受け身すら取れない。今も雅浩兄様が支えてくれなかったら、そのまま東屋の壁か柱に頭を打ち付けるところだった。
ただ、救いなのは回転数を上げた時の過負荷で血管種ができたという可能性を考えて、問題の部分を少し広い範囲で頑丈な人工血管に取り替えてもらってるから、再発の可能性はほぼゼロだって事。だから最近は不意の事態を避けるために少し回転数を上げてまわりの状況や人の気配を探るようにしてる。――でも、まさかこんなベタな待ち伏せ盗み聞き計画があるとは思わなかったよ……。
「それで、これは何の企画なんですか、と」
上目遣いに雅浩兄様と、引き起こした椅子の背もたれをつかんだまま視線をそらしてる克人兄様をにらむ。
「だってほら、彩香がなんだか悩んでたし、克人は克人で彩香に嫌われたとか馬鹿な事ほざいてるから?」
「ちょっ?! 誰がいつ克人兄様に嫌いなんて言いましたかっ?!」
「ほ~ら、彩香がですます調になるくらい怒ってるじゃない。さっさと弁明したら?」
「雅浩兄様、棚に上がらないっ! 同罪だらかねっ?!」
なんなの、もうっ! 思わず瞬殺でぶった切りました。当然だよねっ!
「まぁ、俺は……。そこで壁にもたれてあぐらかいてろって言われたんだよ。……まぁ、うすうすこういう計画だろうと思ってて断らなかったんだから同罪だけどな。ちょっと、置きっぱなしのコップとか取ってくる」
気まずげな言葉を残して一度元いただろう場所に戻る克人兄様。壁越しに視線で追いかけると……、場所は私の斜め後ろだった。しかも、雅浩兄様が座ってるのとは反対側になるとか芸が細かいですね。確かに一番私の視線がむかない位置だよ……。
……って、飲み物その他準備の上ですかっ。準備万端にもほどがあるよねっ。これは怒っても文句言われないよねっ?!
お読みいただきありがとうございます♪
彩香の症状は完全に創作です。




