誰だ、こんな小悪魔に育てたのっ?!
克人兄様視点です。
彩香がソファでうつらうつらと眠ってるのは訪ねる予告をしたからだろうか。誰がかけたのか、暖かそうなもこもこのブランケットがかけられていて、一見平和そのもののかわいい光景なんだけどな……。
最近の彩香は、雅浩に言わせると、起きてるのは食事中くらいだというから、ほぼ一日中眠っていると言っても過言じゃない。
膝をついて彩香の顔をのぞき込むと涙の跡がある。もう乾きかけているそれを指でぬぐうと、閉じられていたまぶたが押し上げられて、定まりきらない視線がさまよう。
「起こしたか?」
不安にゆらぐ前に、と声をかけるとようやく彩香の視線が俺をとらえる。そして、喜んでいるようにも残念がっているようにも見えるあいまいな笑みを浮かべると両手をさしのべてくる。
無言での求めに応じて抱き起こすとブランケットごと膝に抱き上げた。
「よく眠れたか?」
質問に答えはなくて、ただ華奢な手が背中にまわされてしがみついてくるだけだ。……これはろくな夢を見なかった、という事だろうな。
「今日は雅浩の帰りが遅いから、俺が代理な」
ゆるく抱き返してやりながらそう言っても特に反応はない。わかっているのかいないのか、ついため息がもれた。
「はやく、戻ってこいな?」
口にした願いには、首すじにひたいを押し当てる仕草で返事があった。甘えて側にいてとねだる意味のそれは、たまたま返事のタイミングになっただけかもしれない。
彩香は高浜幸仁とのチャットの後、話すことができなくなった。そして、一月ほどたった頃から少しずつ眠る時間が増え始まった。そろそろ寒さの底を越えつつある今、彩香がはっきりと目を覚ます事はなくなった。瀬戸谷先生に言わせると、過負荷を避けるために限界まで回転数を下げてるだけ、らしいけど、心配なものは心配だ。
今も半月に一度続いてる検査の時にははっきりと目を覚ましてるから心配ない、とは聞いてるけど……。瀬戸谷先生と片野教授、三人きりの時だけしか目を覚ましてくれないのが悔しいのはどうしようもない。ちゃんと目を覚ませるなら、たまには俺達の前でも目を覚まして欲しい。
「そう言えば、昨日検査だったんだよな? 結果はどうだったんだ?」
返事がないのをわかった上で尋ねると、彩香の体がこわばった。
「どうした?」
ぼんやりしていても、早口にしゃべったりしなければちゃんと理解してる、という瀬戸谷先生の言葉通り、質問の意味を理解しての反応なのか、たまたまだったのか、彩香の体のこわばりはすぐにとけた。そして一層しがみついてくる。
「怖い夢でも見たのか?」
なだめようと背中をなでて尋ねたら、声にならないかすかな吐息が彩香の口からもれる。
「……っ、……ぁ」
熱をはらんだそれが服越しに体に触れるのがわかった。あえぐような苦しげな息づかいと、首すじに押しつけられているひたいの近くにぬれた感触。
「……そっか、辛いな」
何を言いたいのかなんてわからない。ただ、こんな風に泣く彩香が苦しんでいないはずがない、とわかるだけだ。
泣きたいなら泣きたいだけ泣けばいい。今の彩香にはそうやって心のうちにため込んでしまったものをはき出す事が必要なんだろうから。
「大丈夫、側にいる。一人になんてしないから安心しろ、な?」
少しきつすぎるか、と思うくらいに抱きしめると、声が出てたら泣きわめいてるんだろうな、と思える勢いで泣き出した。変に抑えつけてるよりも辛そうじゃなくていいんだけどな……。でも、なんでこんな辛そうに泣いてばっかりいるのか……。
まるで、篠井に引き取られてきた直後のような、辛そうな様子に心が痛む。事情を知ってるらしい瀬戸谷先生はこの人なりに戦ってるんだから見守ってやれ、一人にしないでやってくれ、としか言ってくれない。
雅浩と二人がかりで挑んでも、篠井の叔父さんと叔母さんが問いただしても返事は変わらなかったというんだから、あの人は絶対に答えを教えてはくれないだろう。
泣いている彩香をどのくらい抱きしめていたのか、やがて落ち着き始めた彩香の髪をなでる。膝の上にぺたりと座りこんでいる相手の顔をぬぐっていると、泣いて疲れたのか、普段にも増してぼんやりしてる目が俺にむいてるのに気づいて笑いかけた。
「少しはすっきりしたか?」
置いてあったティッシュで鼻をかんでやって、ひたいにかかる髪をはらう。そのまま唇をよせると、彩香の口元がゆるむ。遠い昔、そこにあったという傷痕も、それを示すあざも、俺は見た事がない。辛い思い出の象徴でもある場所なのに、俺が唇をよせると彩香は笑う。ぼんやりとしてばかりの彩香の笑顔が見たくて、言葉だと通じてるかわからないから、つい何度も繰り返してしまう。
今も、触れるたび深くなる笑みに誘われるようについ何度も触れる。甘くとろけた笑みを見せる彩香がかわいくて、つられるように笑みが浮かんだ。
そのまま夕飯の時間まで彩香とすごした後、叔母さんと三人で夕飯を食べた。雅浩と叔父さんは早くて今日の深夜、遅ければ一泊して明日の朝帰ってくる予定だ。
「ごめんなさいね、こんな事をお願いしてしまって」
風呂をすませた叔母さんが、俺の使わせてもらってる客間にやっぱり湯上りの彩香を連れてきて、そんな事を言った。
「いえ、このくらいで彩香がよく眠れるならお安いご用ですよ」
眠そうにしている彩香が、俺に気づいたのかふらりと近づいてきた。転ぶ前に、と膝にのせてやると寄りかかって目を閉じた。
「ずっと眠そうにしているのに、眠りが深くなるとうなされて飛び起きてしまうの。……どうしてこんな状態が続くのか……」
彩香の様子を見て叔母さんがため息をつく。彩香が落ち着いて眠れるのは雅浩が添い寝してる時だけだ。俺がいたからって眠れるわけじゃない。でも、飛び起きた彩香は俺がいると比較的はやく落ち着きを取り戻して、その分はやく眠れる。だから、雅浩が側にいてやれない時は俺が代わりに彩香に添い寝をする、というわけだ。もっとも、こんな事態は今回でまだ二度目だ。彩香を溺愛してる雅浩が、それでも外せない用事で外泊する機会なんてそうそうあるはずもないからな。
「彩香はきっと大丈夫ですよ。前だって、ちゃんと乗り越えられたんですから」
「そう、ね。そうだといいんだけれど……」
またもやため息をついた叔母さんが、うとうとし始めた彩香の頭をなでる。
「克人さんにも話しておかなければいけないわね。
彩香さんは近いうちに手術を受ける事になるわ。……難しい手術なの」
「……え?」
思わぬ言葉に目を見開くと、叔母さんは空いていた椅子に座って俺と視線をあわせた。
「階段から突き落とされた事件で発覚したのだけど、彩香さんの脳に血管腫があるの」
「あぁ、その件なら彩香から聞きましたけど、特に問題ないんですよね? 本人は治療にしても命に関わるような事はない、って言ってましたよ?」
「実際には彩香さんに話したよりもずいぶん悪かったの。……彩香さんには伏せたままにした方がいい、というのが瀬戸谷先生と片野先生、二人の意見でしたしね」
そう言って、叔母さんは詳しい事を話してくれた。高浜綾がすでに手遅れの状態になってから告知を受けて、その後様子がおかしかった事、間を置かずに殺された事、そして、瀬戸谷先生と片野先生はそれがある種の自殺幇助じゃなかったのかと疑っていた事……。
前に、殺してくれと頼んだ、と言ってたけど……。そんな理由があったのか……。もし俺が同じように余命の宣告を受けたら……? その時自分が冷静でいられる自信なんてあるはずもない。それに、彩香の事情を知った上でそんな事を言われたら……? 俺は前に口にした正論を言えるんだろうか?
つい考え込んでしまったら、叔母さんが小さくため息をつく。
「彩香さんも手術の準備が整ったのは知っているわ。……ただ、少し迷っているようね」
「迷うって、手術を受けるかどうか、ですか?」
難しい手術だというのなら、別におかしい事じゃない。やった方がいいとわかっていてもそうすぐに決断できるものじゃないだろう。
「いえ、受ける事には同意してくれるわ。ただ、なんというか……。前向きな気持ちになれないみたいなの。時間のかかる大きな手術で、本人の気力に左右される部分もあるから、あまりよくない事なのだけど」
ため息まじりの説明に、思わず膝の上でうとうとしている彩香に視線を落とす。
「そんなわけだから、もし彩香さんと話ができたらはげましてあげてくださいな」
「……はい」
「それでは後はお願いしますね。彩香さん、おやすみなさい」
最後に彩香の頭をなでた叔母さんの手の感触にか、ゆっくりとまぶたを押し上げた彩香がうっすらと笑う。かわいい、というにはどこかほうけた様子が気になるけど、こうやって反応を返してくれると安心するのも確かだ。
どのみち後は寝るだけだし、いつまでもこんな体勢だと彩香が体を冷やすかもしれない。ベッドに寝かせると、目をこすった彩香が全身で伸びをする。
「悪い、起こしたか?」
「一応起きてはいたよぉ」
いくらか間延びしてはいるものの返事が返ってきた事に驚いてまたたく間に、彩香の手が俺の手をつかむ。
「少し、お話してもい~い?」
耳慣れた、少し甘えたおねだりの声に、反射でうなずく。話したいと思ってたのはこっちもだ。なのにそのままベッドに腰かけたら、不満そうに彩香の手がベッドの空いている空間をたたく。
「……いや、それはまずいだろ」
「今日は政孝父様と百合子母様公認の添い寝の日なんだから問題な~い」
さらりと言われて反論につまる。確かに、今日は二人に頼まれて彩香に添い寝するために来たわけだから、隣に横になれと言われて断るのも変な話かもしれない。
……ただ、眠ってる彩香に何もしない自信はあっても、目を覚まして甘えてくる相手に何もしないでいる自信があるかと言われると……。
どうしたものかと考えていたら、彩香が一つあくびをして目を閉じた。
「駄目ならいいやぁ。おやすみぃ」
「ちょっ?! 待てなんでそうなるんだよっ?!」
本気で眠ってしまいそうな彩香の肩をつかんでゆさぶると、面倒くさそうに片目だけが開いた。
「話しないなら寝てたいんだけどなぁ」
「何でそんなに眠ってたいんだよ? そこまでしなくたって問題ないんだろ?」
瀬戸谷先生は、彩香が過剰な制限をかけてる、と言ってた。なら、血管腫に負担をかけないためだけじゃなくて、何か理由があるはずだ。ずっと気になっていた事を尋ねたら、彩香がもう一度自分の隣の空間をたたく。
隣に横にならないなら意地でも話さない、と態度で示されて、一つため息をついて覚悟を決める。やり慣れて耐性のある雅浩とは違うんだからな、って説教してやりたい気分だぞ……。
彩香の隣に体を伸ばしたら、寝返りを打った小さな体が抱きついてくる。……これは脳内で般若心経でも唱えろ、って事か、おい?
「克人兄様、般若心経なんて暗唱できるのぉ?」
「できるか。気分の問題だ、気分の」
「やりたいなら教えてあげるよぅ?」
「……いや、今はそういう話じゃないよな?」
うっかり口から出てたらしい言葉にどんどん会話が滑りそうな気配がする。眉間をもみながら軌道修正しようとしたら、彩香が小さく笑う。
「今日の克人兄様、いつもと違うねぇ」
「うん?」
「仮面、はげてるよぅ?」
相変わらず眠たげにとろんとした目と間延びした声での指摘に返事につまった。
「誰のせいだ、誰の」
「私相手に外面でやり過ごせるとでもぉ?」
なんとか切り返したら、彩香らしくない、なのに作った不自然さのまったくない、意地悪くからかうような色のある返事が来た。これはつつかれるな、と身構えたのに
「まぁ、そんな話は本題じゃないからいいやぁ」
さらりと流して彩香があくびをした。
「私の脳の使い方は普通にしてるだけでも他の人よりあちこち酷使しがちではあるんだけど、確かにここまで回転数抑える必要はないんだよねぇ」
「だったらなんでだよ? 叔父さんも叔母さんもすごく心配してるぞ?」
「怖いから、かなぁ?」
「……怖い?」
「あのねぇ、理屈としてはわかるんだよ。まだそこまでしなくちゃいけない程危険じゃない、って」
眠気につかまりかけているようなぼんやりとした目がじっと俺を見て、やがて困ったように笑う。
「でも、手術前になんかあるんじゃないか、とか、一人で留守番してる間にぱったり行くんじゃないか、とか、そんな事ばっかり考えちゃうんだよねぇ」
だからなぁんも考えたくないんだぁ、と笑みを浮かべたまま告げられ、思わずかたまった。
これまで俺が見てきた彩香はどんな辛い事があっても、物事のいい面を見て前向きにとらえていた。だから今回もそうに違いない、だなんて何の根拠もなく信じこんでいた事に今初めて気づかされたのだ。彩香なら、手遅れになる前に気づけてよかった、手術すれば治るんだから問題ない、そう考えてるはずだと思いこんでいた。
「私はさぁ、たぶん、みんなが望んでくれてるほど強くないし、かなぁり馬鹿だと思うよぉ?」
泣きそうにへにゃりと崩れた笑みで、それでも軽い調子のまま彩香が体をよせてくる。
首筋にひたいを押しつけてくるのは表情を隠すためであって、さっきのねたを引きずってるんじゃないよな……?
「起きてるとねぇ、また間違えそうなの。だから、放っておいて?」
「……彩香は、間違えたりしないよ」
何を指して間違えると言ってるのかわかって、だからそんな簡単な話じゃないともわかってるのに、それでも願望込みで応じた。彩香なら大丈夫だと信じたい。
「彩香は間違えたりしない。絶対大丈夫だから」
言葉に出した事で現実になってくれれば、と思って断言すると、かすかに笑う気配がして、かもねぇ、と返事が来た。
「ご褒美あったらがんばれるかもしれないなぁ、なんて思ってい~い?」
「ご褒美?」
言われて少し考える。まぁ、確かに怖い事に立ちむかうんだし、モチベーションになるようなものがあるに越した事はない、か。
「そうだなぁ。彩香の好きなあれ、目一杯やってやる、っていうのはどうだ?」
「克人兄様最近そればっかりぃ」
「……う」
確かに彩香が喜ぶからってついそればっかりになってるのは自覚している。でも、彩香が高浜綾でもあって、つまりは精神年齢では年上かと思うと何をプレゼントしたものか悩むんだよなぁ。
定番なところならアクセサリーなんだけど、彩香はそういうものを身につけない。実年齢にあわせてお菓子やおもちゃの類、となると、食が細い上に痩せすぎな彩香がお菓子を食べすぎるのは……、と思うし、おもちゃで喜ぶところなんて想像できないしなぁ。
じゃあ本は、といえば、読書好きの篠井本家には山程本があって、どんどん買いそろえられ続けている蔵書は図書館なみだ。だから、良作はほぼ網羅されているだけにかなり難しい。
「じゃあ何か欲しい物とかして欲しい事はないか?」
逃げ半分で投げ返すと、彩香が小さく首をかしげる様な仕草をした。
「それじゃあ……、うぅん……。どうしようかなぁ?」
彩香にしては珍しく、しばらく考えこんでから何かをつぶやいた。
「うん?」
「桂吾の事、頼んでい~い?」
「瀬戸谷先生?」
なんでここでそんな名前が出てくるんだろうかと思って聞き返したら、彩香が笑う。
「あ~のね? 手術までに何も起こらなくて、かつ、一切後遺症が残らない確率、一割切ってるんだよ?」
「……なっ?!」
「後遺症もさぁ、麻痺とか身体的なものならまだいいよ? 回転数が落ちるとかも許せる。……でもね、記憶が飛ぶとか人格に影響がでかねない後遺症だってあり得るんだよぅ? しかも、死ぬ可能性も二割近い数字だしさぁ」
口調だけはのんびりとしたもののまま、とんでもない事実を告げられて、二の句がつなげない。顔を見られたくないのか、腕に力をこめてしがみついてくる彩香に何か言わないと、と思うのに、口を開いても声どころか息すら満足に出ていかない。
……今、確かにここにいて元気なのに、彩香が――死ぬ?
「だから、桂吾の事、お願い。何にもないなんて事、あり得ないから。もし私が死んだり、桂吾を忘れたりしたらきっと耐えられない。でも、絶対平気なふりをするから。それを信じないで側にいてあげて欲しいな、って。……駄目?」
かすかにふるえる声と、首筋に涙の感触。
「何度も桂吾を置いていくなんて嫌。……だから、少しでも長く生きてたいのに、そのために桂吾の事忘れちゃったらなんの意味もないよ……っ」
手に力がこもって爪が背中にくいこむ感触がする。押し殺した泣き声を聞きながら背中をなでる事しかしてやれないのが複雑な気分だ。
命の危険がある時に人の事ばっかり心配してる彩香の優しさがかわいそうな気もするし、目の前にいる俺の事なんて物の数に入ってないのが悔しい気もする。彩香にとって瀬戸谷先生が特別なのなんて、とっくにわかってた事なのに今さらそんな事にショックを受けるのがおかしくもある。なんだかもう、我が事ながら複雑すぎてさっぱりわからない。
つい、ため息をついたら彩香が顔を上げた。涙にうるんだ目と、泣いて息苦しいのか少し開いた唇とか色々まずい。無防備で今にも折れそうで、守ってやらなくちゃと思うのに、傷つけて苦しめて彩香の内側にくいこみたい、だなんて馬鹿な考えが頭をよぎる。
軽い体を押してあおむけに転がして覆いかぶさる体勢にしても、彩香はきょとんと俺を見上げるだけで警戒する様子もない。
「……克人、兄様?」
泣いたせいか普段と違うアクセントで名前を呼ばれたのが何のスイッチだったのか。
ひきよせられるように彩香のひたいに唇を落とすとそのまま、目もと、耳のきわ、首すじ、と続けた。
「別にいいよ?」
喉の奥だけで笑うような気配がして、小さな手が彩香の髪の中にもぐりこませた俺の手に重なった。
「こんな体のどこにそんな要素があるのか知らないけど、抵抗するほど嫌じゃない、し」
「……おい」
どこかで予想していた答えに思わずため息がもれた。
「だから、彩香はどうしてそう……」
「みんなが――克人兄様が望んでくれてるほど強くないしかなり馬鹿だ、ってさっきも言ったよね?」
俺の手に触れる手のひらは本当にまだ小さくて、それなのに彩香の口調は少なくとも相手が同年代以上だと伝えてくる。
「したら、克人兄様は絶対に私の事忘れないでくれるでしょ? 篠井彩香にもなりきれなくて、高浜綾でもない、どっちつかずの私がいた事、覚えててくれるなら、そのくらいなんでもないよ」
「……うん?」
「私が忘れたら、みんななかった事にしてくれるだろうから。辛い事ばっかりだった高浜綾の記憶なんてなかった事にしてくるでしょう? ――そうなったら、私は消えてしまうのに」
意味の取りにくい言葉の最後でふせられたまなじりから、ようやく止まったと思った涙がこぼれる。
「彩香の中から綾の記憶が消えたら、きっとそこにいるのは私じゃない。――私に消された篠井彩香だよ」
彩香に消された彩香……?
「高浜綾が現れた時、それまでの篠井彩香は消えたんだよ。それまで積み重ねた時間を全部消されて、人生を奪われた。……いつか、返さなくちゃいけなくなるんじゃないか、って思わなくはなかったんだ」
だって私はもう死んでるんだから、とつぶやく声に背筋が凍る。
彩香が何を言いたいのか、気づきたくないのに、声ににじんだあきらめとも、他の何かともつかないものが意味を突きつけてくる。
手術を境に、彩香は高浜綾の記憶を取り戻してからの事を忘れるのでは、と思いこんでいる、そしてそれはおそらく現実のものとなるだろう。――彩香がそう思えば思うほど、彩香自身が記憶を深く沈め、より確実に忘れさせるに違いない。
手術がどうなろうと自分は死ぬんだと思いこんでるなら、気乗りしないなんてものじゃないだろうし死刑執行日を予告されて生活してるようなものだ。そんな精神状態なら何も考えたくないのも当然だろうな。
……本当、なんでここまでぎりぎりになるまで口に出せないんだか。
「忘れないよ」
「……本当?」
「ああ。忘れたりしない。彩香がたくさん泣きながら、それでもあきらめないで最後までがんばった事、忘れたりしない――というか無理だろ。こんなかわいくて突拍子もない事ばっかりやらかす相手を忘れるなんて」
最後のくだりを冗談めかすと、彩香が目をまたたいた。
「だから、そんな風に思いつめるなよ。確かに俺には大丈夫だ、って言ってやる事はできないけど、俺は彩香と――今ここにいる彩香とずっと一緒にいたい。それだけは断言できる。だってそうだろ? 俺が好きになったのは、今の彩香なんだからな」
正直彩香が何をどう感じているのか、ちゃんとわかってるわけじゃないと思う。だからどんな答えを欲しがってるのかもよくわからない。だから俺に言えるのは、俺の本心だけだ。
「彩香のいうように、高浜綾の記憶が戻る前の彩香が本物の篠井彩香だとしても、俺は今の彩香に隣にいて欲しい。俺と会う前にいなくなった誰かなんて、俺にとっては見知らぬ人間で彩香じゃない。そもそも彩香が思い込んでいるだけで、本当に高浜綾を思い出す前の篠井彩香と、ここにいる篠井彩香が別人だって証拠はどこにもないじゃないか」
こんな言葉でうまく伝わるか、と思いながらも口にしたのに、彩香はじっと俺を見てるだけで反応がない。やっぱり言葉がうなくなかったか?
「確かに辛い事は忘れられるなら忘れて欲しい、って思わなくはないよ。でもそれで彩香が彩香でいられなくなるなら、泣いてるのも苦しんでるのも全部ひっくるめて受け止めるから。消えるとかもう死んでるとか、くだらない事言ってないで、無事に手術乗り越えた後にねだるものの事でも考えてろ」
「――わたしで、いい、の?」
「彩香じゃなくちゃ嫌だ」
まだ不安そうな声にきっぱりと返したら、彩香の顔がゆがむ。今にもこぼれ落ちそうな程涙をためて、それでも唇が笑みのようなカーブを描く。
「……がと」
少しかすれて、泣きそうにゆれる声と同時に彩香が笑う。ぽろぽろと涙をこぼしながら。それなのに今まで見た事がないくらい幸せそうで、心がざわつく。
まずい、心拍数おかしくないか、俺?
「ありがとう」
同じ言葉を繰り返した彩香の腕が首にからむ。求められるまま体をよせると耳元に笑いの気配が届いた。
「桂吾の言った通りだね。……克人兄様、すごい」
「うん?」
「私、肝心な時に馬鹿でしょうもない間違いやらかすから……。ちゃんと私の事見てて? 間違えないですむように、今みたいに間違えそうな時は呼び戻してね?」
待て待て、この流れでそのセリフとか、空気読めって! 誤解するぞ? 彩香にとって俺は特別なんだ、ってうぬぼれたくなるだろう? 瀬戸谷先生とか雅浩じゃなくて、俺に見てて欲しい、俺だから特別なんだ、って都合よく解釈したくなるからな?!
「俺だけじゃなくて、みんな見ててくれてるし、注意してくれるだろ?」
勘違いしたくなる言葉を、たまたまだと自分に言い聞かせたくて無理やり作った普段の調子で返す。あぁ、でも、これだけ体がくっついてると心拍数はばれてるか……って、待てよ?
改めて意識してみると、彩香から伝わってくるそれだって普段通りとは言いがたい。
「私は克人兄様がいいの。他のみんなだってちゃんと支えててくれてるのは知ってる。……でも、克人兄様じゃなくちゃ嫌」
だからそれは反則だろっ?! きゅっ、としがみついてそんなセリフはかれたら理性なんて消し飛ぶからなっ?!
そうどなりつけてやろうかと思えたのは頭の片隅だけだった。少し体を離して顔を見ると、ぬれた瞳にはっきりと染まったほおだとか……っ。俺がわかりやすく返事になる反応をしないからか、不安げな色をちらつかせる彩香には、外見九才だとか、相手がまだ中学一年だとか、そんな事実を俺の脳裏から吹き飛ばすのに充分な破壊力があった。
思わず唇を奪うと小さな体が硬直した。それでもすぐに離れてやれるはずもなくて、触れるだけのそれを何度か繰り返していたら、すぐに力が抜ける。だからそうやって受け入れるなとっ?!
彩香に自衛する気がない以上、これ以上はまずすぎる、という理性の警告にしたがうために、彩香を大切にしたい思いや篠井家への義理、瀬戸谷先生の忠告、道徳心や法令関係その他諸々のいろんなものをフル動員してなんとか体を引き離す。
――まてこらっ?! この、ひたいにした時以上に甘ったるくとろけた表情は何かの罠か?! 罠だな?! 間違いなく罠に違いないっ!!
「克人兄様、大好き。……もっと、して?」
「――やれるかぁっ!!」
……たぶん、全力でどなった俺は悪くない……。
お読みいただきありがとうございます♪
今回のサブタイトル、克人兄様の魂の叫びだと思われます(苦笑
だけどあなたも犯人ですよ、と(笑