昔と今の間で。
今回は幸仁視点です。
アプリを終了させたスマートフォンをテーブルに置いた時、自覚しないままに淡く笑みを浮かべていた事に気づいて苦笑する。
――それ程までにあの子が俺にとって特別だという事か。
内心を探って出てくるのは、怯えてばかりいたあの子が随分としたたかになっていた事への驚き――たぶん、これは嬉しいんだろう。
昔と違い、まわりにいる人間を信頼できるようになり始めているのかもしれない。その推測はほのかに浮き立つような気分を連れてくる。
そんな事を思いながら用意しておいた飲み物を口にする。すっかり冷えたコーヒーはさほどうまくもないが、新しいコーヒー程度で人を呼ぶのも面倒だった。
――――――
俺が初めて綾と名付けられた、俺の母親が産んだ子供を認識したのはもう随分と昔の事だ。
あの頃、俺の世界は両親とその命令で俺を監視している人間、同じ親から生まれたという弟と妹が二人だけだった。対外的に三人目の妹と言われている子供は、いるのは確かだったが、食事の席に現れるでなく、両親といるところを見かけるでなく、ほとんど意識する事もない存在だった。時折、弟妹達や使用人が幼い子供を折檻してるのは見かけたが、そんな時はかまうのも面倒で気づかないふりで通り過ぎるか道を変えるかだった。
そんな環境の中、誰に教わったのか、あるいは元からそういう性質を持っていたのか、あの子は初めてまともに顔をあわせた俺を気遣い、涙を流した。
今思えばあれがすべての始まりで、俺の世界が変わった瞬間だったんだろう。
まわりの目を気にしながらも綾と接するようになってすぐ、その頭の良さに驚かされた。たどたどしい舌ったらずのしゃべり方に反して、物事を理解するのが恐ろしく速いのだ。時間をかけて聞き出してみると、あの子の教育係であるシッターは、知育玩具と呼ばれるものと絵本が積み上げられた部屋にあの子を放り込み、ひたすら知育ビデオをたれ流しているだけ。何かあると暴力をふるい、怒鳴りつけられる以外の時はひたすらノートパソコンにかじりついていたという。つまり、あの子は知識として言葉の意味を理解しているだけで、ほとんどしゃべった事がなかったらしい。
ほとんど話さない上、舌ったらずなあの子をほとんど知的障害扱いしていたというのだからお笑いぐさだ。俺と話すようになって、あの子は驚くべき速さで話す事を覚え、初等部に上がる前に受けた知能テストではかなりの成績をおさめた。
その頃には、あの子は俺にとって唯一の特別な相手になっていた。あの子の笑顔を見るのが何よりも嬉しかったものだ。
あの子を取り巻く環境は決していいものではなかったが、なんとかしたくて俺が動けば動くほど、より事態がこじれていくのに気付いたのはその頃だった。
俺がかばえばかばうほど、父親はあの子に冷淡になり、母親は父親からむけられた苛立ちを俺とあの子にぶつけて発散しようとした。
何もしないでいるしかない、とあきらめたのはあの子が十才になる前だったろう。
せめて高浜の影響が薄い学校へ進ませれば、環境が変わり、暮らしやすくなるはずだし、高浜本家御用達というだけで俺達兄妹と同じ学校に入れられているのだから、学力がより上のところへ合格すれば体面や見栄ばかりを気にする俺の親は反対するはずもない。頭のいい子だから何の問題もない、それまでの辛抱だ、と楽観していた自分がどれだけ愚かだったのか、思い知らされたのはそのすぐ後だった。
――――――――
「最近、随分あれをかまっているようだな」
いったいいつぶりになるのか――十数年ぶりだろう――両親の部屋に呼び出され、何事かと思えば聞き飽きた小言らしい。しかも、ソファに座らされるというのは、めったにない。普段は立ったまま、用件を聞かされるだけだ。
家族しかいないところでは不機嫌な顔でなかったためしのない父親の言葉に、母親がわずかに眉をよせるのが見えた。自分で産んだ子供だろうに母親は綾に冷淡だ。時折部屋に呼び出しているのだって、苛立ちをぶつけるためでしかないのを俺は知っている。
けれど、この時の母親はいつになく顔色が悪く、普段の女王然とした余裕と貫禄がなりを潜めていた。
二人の間で何かあったんだな、とは思ったが、余計な事には触れないで流すのがこの家で生活するための必須技能だ。心配するだけの義理もない。父親の言葉に意識を戻す。
「妹ですから。そりゃ多少はかまっておかなければ問題でしょう。学校なりで家族と何かした、なんて話題が一切できないんじゃ、怪しまれます」
俺が綾をかわいがるのはそんな理由じゃないけど、こう言っておいた方がこいつらには納得がいくのはわかってる。いつもなら、まぁそうだがな、とすぐ別の話題に移るのに、父親は皮肉気に顔をゆがめて俺を見た。
「妹? 本当にそれだけか?」
「……はい?」
「あれがお前の妹だと?」
父親の問いの意味がわからずに眉をよせる。
「綾はお二人の実子である、と鑑定結果が出ていたはずですが? 万が一、浮気の末の子供だとしても、半分は血がつながってる事になるわけですし、妹に間違いないかと?」
「なるほど?」
俺の返事に不気味な笑みを浮かべて笑った男が、二枚の紙をテーブルにすべらせた。見ろ、と態度で示されて、まず一枚を取り上げた。
そこに書かれていてのは、綾とこの二人の親子鑑定の結果だった。そして二枚目は、俺と両親の親子鑑定……?!
そんなものが今取り出される事の意味に内心蒼白になる。けれど、ここで変な反応をするのは墓穴を掘るだけだ。自制心をかき集めていくらかあきれた風に笑う。
「よもや、俺が浮気の末の子供だと疑われる日が来ようとは思いませんでした」
「お前の出自は疑ってない。……が、綾とかいう子供が私の子であるとは思えなくてな。よく鑑定結果を見ろ。何も気づかんのか?」
言われて二通の鑑定結果を見比べる。すると、綾の鑑定結果の方にある父親のデータと、俺の方の父親のデータが一致していなかった。
これはつまり、どちらも父親との親子関係を肯定してるものの、どちらかは父親以外の誰かと鑑定した、という事だ。それも、父親の鑑定サンプルをすり替えてまで。
……つまり、偽装があった事を知って、俺を呼び出したわけか。そして、俺を呼び出す前に父親はまず母親を問い詰めたのは間違いない。なぜなら、俺がこの件に無関係だと思っているのなら、こんなものを見せるはずがない。見栄と対面の事しか頭にない父親が、恥でしかない事実を無関係な相手に話すはずがなかった。
今度こそ、取り繕いようもなく蒼白になっているのが自分でもわかった。
「俺は……っ」
「お前があれをかまいたいのなら好きにしろ」
何か言わなければ、と、必死に声を絞り出した時、むしろ面倒臭そうな声が投げかけられた。
「……それ、は、一体?」
「ただし、生涯お前の監視下に置いて、お前自身の手であれを壊せ。変に聡いようだからな。気づかれても困る。暴力で従えても、薬で狂わせてもいい。お前自身が手を下すのなら、どんなやり方をしようがかまわん。――あぁ、いっそ、あれを跡取りにすえるか? 飛び抜けて優秀なようだし、お前も時間ができてあれを壊しやすくなるだろう?」
「待ってくださいっ! あの子には何の責任もないでしょうっ?!」
「それがどうした?」
せめて矛先を綾からそらせないかと口にした言葉に、間髪入れず返事が来た。
「このおろかな女にはお前を苦しめるのが一番効くようだからな。そして、お前はあれに何かあるのが苦しかろう?」
「……そんな理由、で、ですか?」
「むろん、あれを連れて高浜と縁を切って生きていくだけの覚悟があるのなら好きにしろ。お前達が沈黙する限り、邪魔はしないでおいてやる」
それだけ言うと、話は終わりだとばかり、父親が出て行けと合図する。
その態度にもはや何を言っても無駄だと悟らされた。この男は、あの子が産まれた背景に何があったのかを正確に知っている。知った上で、おろかだと言い捨てた女より弱い立場でしかない俺とあの子にすべてを押しつけると決めている。それも、自分を軽くあつかった相手に対する意趣返しに。――復讐という程の熱もない、本当にただの意趣返しのためだけに……。
――――――――
たぶん、あの時俺の中で何かが狂い始めたんだろう。
こうして一人でいて冷静な時には自分の行動がどれだけ狂気まみれなのかがわかる。あの時、あの男は家を出れば何もしないと言っていた。つまり、俺と綾に適当な理由で相続放棄でもして、別荘なり新たに用意したマンションなりで息をひそめて飼い殺しにされていろ、と言いたかったんだろう。
だが、跡取りであるためだけに生きていた、そしてあの男に逆らう事が許されなかった俺には、あの言葉は綾と心中しろ、としか聞こえなかった。
だからあの子を殺そうとして、けれど殺せなかったあの後、俺はあの男の言葉に従うしかなくなっていた。
目を離した隙に何かされはしまいかと不安になり、目の前にいればすべて綾が産まれたせいだと憎しみをぶつけずにいられなくなりもする。
俺があの子にする事は多かれ少なかれ、あの女にされた事をそのまま綾にしているだけという自覚もあった。それでも……。
「……愛情と憎しみの間を揺れ動きながら少しずつ壊れていく君は、とてもかわいかったよ」
知らずこぼれた言葉は、自分で聞いてもあきれる程甘くて、露骨な熱をはらんでいた。
そういえば昨日はあの無作法な子供にしつけをしてやるのを忘れていたな。俺の大切な綾の、心も、体も、傷つけていいのは俺だけだというのに。これで二度目、か。これは少し厳しくしつけてやらないと駄目そうだ。
――あぁでも、あの子の事を考えていたせいか、色々と思い出す。
泣きながら、一人は嫌だ、と助けを求めてきたあの子は、それまでで一番かわいらしくて――初めて見せてくれた弱さがとても愛おしかった。
――――――――
顔を見た瞬間、どこか別のところに心を持って行かれているのがわかった。それを裏付けるようにいつも飲み頃の温度と濃さでいれてくれる紅茶が、わずかにぬるくて渋い。普段なら言わずとも別に出てくるミルクと砂糖が、今日は彼女の好みで入れられてから出てきた。
そんな些細な、けれど、普段のこの子なら絶対にしない小さなミスが続く。
「綾?」
「……っ、ごめんなさい。何?」
言葉を聞き落して慌てるだなんて、本当に君らしくない。
「何があったんだい?」
普段通りにふるまおうと無理をしている気配が心配でもあり、不愉快でもある。
「君の心を占めていいのは俺だけだと言ったはずだよ? 隠し事をするつもりかい?」
やんわりと笑って尋ねると、綾の顔がゆがむ。泣くのをこらえる様子に眉をひそめたら、うつむいた彼女が何かつぶやいた。
「ちゃんと聞こえるように話してごらん」
「……私、死ぬんだそうです」
「……うん?」
唐突な言葉にさらに眉をひそめる。一体何を、と問い返すより先に、顔を上げた綾が目に涙をためたまま、無理やり作ったとわかる笑みをむけてきた。
「脳に血管腫があるそうです。手術も他の治療法も、もう無駄だと言われました」
「……なんだって?」
これ以上ひそめようがないはずの眉がさらによるの感じながら問い返す。ここ数年、この子が能力テストを兼ねた脳の検査をよく受けていたのは知っている。けれど、そんな話は一度も聞いた事がない。
「先月、脳波や主要部分の血流以外の検査もしてみたんです。……ここのところ、無理をした時の頭痛があまりに酷くなってきたので」
いつもならしっかりと目をあわせる彼女が、カップに添えたままの手元に視線を落とし、俺の背後にある時計を見て、ようやく俺の顔に視線を戻したと思ったらまた視線がさまよう。
「ちゃんと俺の顔を見てごらん」
注意すると、はっとしたようにまたたいて視線が戻される。……けれど、数秒でまたさまよい出した。
「能力を抑えて、……たぶん、この年の平均的な能力よりも少し下程度に固定して、無理をしなければ、半年から数年はもつだろう、と」
つぶやくように言ってから、綾がぽつりぽつりと説明を始める。要約すると、綾がその能力を発揮する時、加速度的に脳の血流が増える。そして、その場所に血液を供給している大元の部分に血管腫があるのだという。場所が綾が活用する場所とは離れている事と骨の陰で写りにくい場所だったため、今までの検査では見つからなかったために既に手遅れ、いつ破裂するともしれないそれを抱えて生きるしかない、という状態らしい。
「でも、私は嫌なんです。そんな事をしたら……っ」
「瀬戸谷桂吾が望んでる綾ではいられなくなるから、かい?」
俺の問いに、今にも涙がこぼれ落ちそうな目をした綾がうなずいた。普段なら、俺が相手に興味を持たないようにか、綾の関心が他にあると普段よりじっくりしつけをするからか、認めようとしない癖に。
それ程余裕がない、という事か。
「怖いんです。……桂吾の関心を失うのも、いつ破裂するか……それが今かもしれないと怯えているのも、っもう、耐えられない……っ」
とうとう決壊したのか、ぽろぽろと涙をこぼしながら、綾が抑えた叫びをあげる。おかしな表現かもしれないが、そうとしか言いようがなかった。
泣き顔はかわいいけれど、それが俺のためじゃないのはいただけないな。君が心を揺さぶられるのは俺だけにでなくちゃいけない。
「もし、一人でいる時に、って思うと怖いんです。ひとりは嫌……っ」
あぁ、そういえば綾は一人でいるのが嫌いだったね。人がいるのは苦手なのに、一人きりは嫌。……そうなるように俺がしこんだんだっけか。綾がいなくなるのは辛いけど、人生が短く終わるのは君自身にとっては悪くないだろう。
「側にいて欲しいかい?」
だから、そう聞いたのは、君がすがりついて来ればいいと思ったからだ。こんな事情なら、この子が生きている間、ここに寝泊まりしてやるのも悪くない、と。
けれど、綾は目をみはって、まるで信じられない言葉を聞いた、とでも言うように俺を凝視する。
「……たすけて、くれる、の?」
かすれて、いつの頃からか俺にまで使うようになった丁寧語じゃない言葉に、軽く首をかしげる仕草で先をうながす。助けるもなにも、手遅れだと言われたはずだろう?
「一人で死ななくてすむように、……殺してくれる?」
戸惑いと、隠しきれない希望が見え隠れする言葉に今度は俺が目を見開く。この子がそれを望んでくれたら、と何度望んだかわからない言葉だった。望むのなら、君を壊すためだけの檻から出してやれるのに、と歯がゆく思い続けていたのも確かだ。
君はとても強くてまっすぐで、だから普通ならとっくに壊れてしまっているだろうにまだ、ぎりぎりのところで踏みとどまっていた。痛みをすべて抱えこみ、見せない事で消してしまおうとしているようだったのに、今の君は怯えて泣いて、小さな子供みたいだ。
でも、やっと弱さを認めて投げ出す気になったというのなら。
「わかった。最期にもう一度全部俺のものにして、それから俺の手で殺してあげよう。最期まで抱きしめててあげるから心配しなくていい」
俺の答えを聞いた綾が笑う。涙をこぼしながら、すべてが狂いだす前の無邪気な顔で。
――――――――
綾の記憶を持つ篠井彩香という子供は覚えているのだろうか?
自分が死を望んだ理由を、……そして、俺が最期の瞬間に告げた言葉を。
「愛しているよ、俺のかわいい……」
その言葉はもう二度と口にしないと誓った。
今はただ、幸せに生きていけばいい。
我慢しきれずに少しだけ関わってしまったが、あの言葉を聞けただけでもう満足だ。
……そしてもう我慢する必要はない、な。あれは君の良い身代わりだったよ。君ほど優秀でもなければ一緒にいて幸せを感じるわけでもない。だが、君では感じることのできなかった壊しがいというものをあの子は与えてくれる。俺の命令に二回も逆らったんだ。もう手加減する必要すら感じられない。
さぁて、このいい気分のまま、さっそくあれを壊しに行くとするかな。俺とあれと高浜家と、どれが一番先に壊れるものやら……。くくっ、くくくくく。
おさえきれない笑いをこぼしながら立ち上がった時、棚の上に飾ってある綾の写真が視界に入った。
綾の七才の七五三の時、一緒に撮ったもの。赤い着物を着た綾は幸せそうに満面の笑みを浮かべて、階段に腰かけた俺の膝の上にいる。
……そうだね、あの頃は幸せだった。
だから綾、君はもう二度と俺になんて関わったらいけない。
願わくば、すべて忘れたままで……。
お読みいただきありがとうございました♪
彼は彼なりに、綾が大切なんでしょうね。