昔の話。
気がすんだのか、笑い疲れたのか、ようやく笑いがおさまり始めた克人兄様の前に新しい紅茶を置く。
長話になるかもしれないと思ってお湯をポットで用意してもらった私、えらい。
「何もそんなに笑わなくてもいいと思うの」
「悪い悪い。彩香が鳩が豆鉄砲くらったみたいな顔するから、つい、な」
「動物虐待よくないよ。……というか、実際どういう顔なの? そも鳩の表情とかわからないと思うんだけど……」
「言われてみれば、だけど、慣用句にそういうつっこみは無粋だろ。――紅茶ありがとな」
まだのどの奥で笑いながら、克人兄様がカップを手に取る。一口二口飲んでから、真剣な表情になって私の方を見た。
「それで、まずい位置にある内出血っていうのは、具体的にはどんな状態なんだ?」
さらりと戻された話題に、私もいれなおした紅茶を一口飲んでから口を開いた。
「まぁ、正確には内出血がないか調べてる時に血管腫が見つかったの。規模自体はすごく小さいし、手術適応にするにはちょっと位置が悪いのもあって今治療法を検討してもらってるところなんだよね。だけど、最適な方法を選んでる最中、ってだけで、治療は問題なくできるって。でも、雅浩兄様に話すと自分のせいって抱え込んでしまいそうだからもう少し内緒にしましょうね、って百合子母様が言うから内緒なの。――ただまぁ、なんていうか……」
「うん?」
「……高浜綾も同じような場所に血管腫があってね。……わかった時にあの当時はすでに治療不可能だった」
十数年の間に医学は進歩していて、確かに手術は難しいけれど、階段から落ちたせいでの小さな内出血が治れば治療は可能、ということらしい。
前と違って、まだほんの小さな血管腫の間に見つけられたのもよかったんだろうけど……。
「なんか、違うってわかってるのに、こう続くと、昔と同じ体なんじゃないか、って気がしてきて嫌だな」
あの人につけられた傷と同じ場所にあるあざといい、今回の事といい……。なんだか、あの人に触られた感触がまとわりついてるみたいで怖いというか、気持ち悪いというか……。思わず自分の体を抱くようにして身ぶるいする。
「大丈夫だよ」
そうしたら、まるで私の心を読んだみたいなタイミングで克人兄様が笑う。
「雄馬さんが残してくれた資料の中にDNA鑑定の結果があったろ? 彩香は間違いなく雄馬さんと栞さんの子供だし、高浜綾だって浮気だの何だの出生時に騒がれてたなら、鑑定結果が出てるんじゃないか?」
「まぁ、確かに、高浜綾が高浜前当主夫婦の実子じゃない確率はコンマ数パーセント――実子に間違いないって結果だったけど……」
昔、高浜の資料を漁って確認した事だから、間違いないとは思う。ただ、あの当時の親子鑑定は、今のDNA鑑定と違って百パーセントのものじゃなかった。要は父親である確率が高い事を証明できるだけで確定にはならなかったんだよね。
だから、変な話、本当の父親と鑑定した父親(仮)の二人が遺伝的に近しい間柄だった場合、どの程度正確に判定できるものなのか、私にはわからない。そんな事を調べてるのが誰かにばれても面倒だったから、概論的な資料までしか見なかったし。
「そんなに気にしなくても、篠井と高浜は元からそう親しくないし、コンマ数パーセントを気にしないといけないような血縁のはずないぞ?」
「まぁ、確かにそうなんだけど……。なんか、そういう話じゃなくてね?」
生物学的な意味で別の個体なのは私にだってわかってる。……わかってるんだけど、それでもなんだかぬぐいきれない気持ち悪さがあるというか……。
「彩香が何を言いたいのかしっかりわかってるわけじゃないけどな。けど、生まれ変わりとかいう話になると、前世に関わるあざとかがあるのはわりとある話だって聞くぞ。そういうのは精神面の影響を受けるとも言われてるしな」
「……え?」
ついこの前まで、そのての話題にまったく興味がなかった克人兄様の口から出たとは思えない内容に目をまたたいたら、やわらかく頭をなでられた。
「彩香の事があってから少し調べてみたんだよ。人が信じこむ力は時々信じられない事態を引き起こす。――俺には、記憶に引きずられて思い込みが結果としてあざを作った、っていう方が納得がいくな。特に彩香はそういう記憶がはっきりある分、影響も強く受けそうだし」
まぁ、確かにひたいのあざは生まれた時からあったらしいけど、背中のあざは高浜綾の記憶が戻った後目立ち始めたって話だもんね。
「……なる程……って、なんでそんな事調べたの? 克人兄様忙しいのに……」
「なんでって、彩香の事だからだよ。好きな相手のために関わりそうな事を調べるなんて当たり前だろ?」
さらりと言われて、意味が脳に達した瞬間、ほおが熱くなる。何さらっと言ってるの?!
「彩香が信じてくれようがくれまいが、俺は本気で彩香が好きだからな?」
「ちょっ、な、何急にっ?!」
「この前ものすごく疑われたからなぁ。しっかり主張しておこうかと思っただけだ」
いたずらっぽい口調と、なんだかものすごく優しい――雄馬父様を思い出させる笑顔で言われて、いっそう赤くなった顔を隠そうとそっぽをむいたら、かすかに笑う気配が届く。
「それだけうろたえるって事は、少しくらい信じてもらえてるのか?」
「……克人兄様が嘘ついてないのはわかるよ」
そうなんだよね。克人兄様はいつでもさらっと大切な事を言うから、本気なのか違うのわからない時がある。でも、それがある種のポーズなのもなんとなくわかるんだよね。だって、さらっと言ってても、大切な事とか、克人兄様が本気でむきあってる事を話題にしてる時は少し雰囲気が違うから。だから、今も、この前も本気で言ってくれてるのはわかる。わかるんだよね。……でも。
「でも、意地悪な克人兄様なんて好きじゃないもん」
「そうなのか? すっかり嫌われちゃったな」
「だって、一緒にいてくれなくなるなんて言うんだもん……」
そりゃ、気がついてなかった私がお馬鹿だったんだろうけど……。でも、何もあんなタイミングで気づかせなくてもいいと思うの。
「そうは言うけど、彩香は俺より雅浩の方が好きだよな?」
「……まぁ、それは確かに……」
「だったら雅浩とこじれるより、先に俺に話して、雅浩が嫌がるかどうか確認した方がいいだろ? それに、それで俺と気まずくなっても、まわりは俺に恋人でもできれば、疎遠になってもおかしいとは思わないだろうから気楽だろうし、って意味だったんだけどな」
少しばかり苦味の混じった笑みを浮かべて克人兄様が説明してくれる。それもわからなくはないんだけど……。
「でも、悲しかったの。篠井の家に来てからずっと、克人兄様、側にいてくれたから、いなくなっちゃうとか考えた事なかったし……。確かに雅浩兄様の方が好きだけど……。でも、克人兄様に嫌われちゃうのも、一緒にいられなくなるのも嫌……」
もしも、を想像しただけで涙がにじんでくる。確かに雅浩兄様は特別で大好きだけど、克人兄様も大好きなんだもん。
「私は考えただけでこんなに悲しいのに、克人兄様は平気なの?」
隣に座る克人兄様を見上げて聞いたら、涙のせいか視界がぼやけてる気がしたんでまたたいたら、にじんでた涙がひとしずくこぼれる。
そうしたら克人兄様が真っ赤になりました。……なにゆえか?
「だから、そういう告白もどきの事をそんな顔で言うなって」
まったくもう、と頭をかいてため息をついた後、克人兄様の指がこぼれた涙をぬぐってくれた。
「俺だって彩香とうまくいかなくなるのは嫌だし、そんな事起こらなければいいって思ってる。――でも、俺が実験台になる事で彩香の背負ってるものが少しでも軽くなるなら、それもいいか、って思ったんだよ」
小さな子供に言い聞かせるような声音なのに、克人兄様は考え込むような表情だった。
「彩香がどうしてそんなに不安になるのか、俺にはわからないんだよな。理屈では、あの人の事があって完全に気を許した後で変わられたら、ってすくんでるんだろう、ぐらいにはわかるんだけどなぁ。それがどういう怖さなのか、どれくらい辛いのか、正直見当がつかない」
脈絡があるようなないような、はっきりしない言葉に小さく首をかしげる。
「……知りたいの?」
「彩香が話すのが嫌じゃなければ、な」
無理には聞かない、と言ってくれる言葉にほんのりと笑う。本当、克人兄様って興味を持つとつきつめないと気がすまない所があるよねぇ。まぁ、話すのが嫌、って事もないんだけど……。
「面白くない話になるよ?」
「それは覚悟の上だからかまわないさ」
私の確認にさらりと返してくる克人兄様。まぁ、そこまで言うならいいのかなぁ?
「たぶん、そもそも対人関係の基本が違うんだよね。綾にとって、親はあれこれ命令してくる相手で、逆らったら食事を抜かれたり部屋に閉じ込められたり叩かれたりする、って認識だったし」
「……おいおい」
「兄さんと姉さん達からは、いないものとして扱われるか暴力ふるわれるか汚物扱いだったかなぁ」
親からも雑な扱いしかされてない私は、年の離れたあの人達にとってちょうどいいストレスのはけ口だったんだと思う。広い家は人目の途切れる場所なんていくらでもあって、されたい放題だった。
「家の人間がそんなだから、使用人達も私に下手にかまって首切られちゃ大変とばかり無視するか、尻馬に乗って見下してくるか、これ幸いとばかり楽しそうに危害加えてくるか、だったよ」
さらっと説明したら、克人兄様絶句。
「幸兄が優しくしてくれるようになるまで、私の世界には攻撃してくる人と私の存在しない世界で生きてる人しかいなかったの」
正確に言えば、もう一人例外はいた。でも、あの人は自分で幼児相手に、僕は君の味方じゃない、状態を観察するために必要だから会話をしてるだけだよ、なんて言い放つような人だったから。今になってみれば、あの環境から私を助け出す事は絶対にできないから無駄な期待はしない方がいい、という忠告だったのかもしれない、とは思うけれど。
数ヶ月に一度、ふらりと現れてはほんの数分話すだけで去って行くあの人が、どういう立場で何のために私と関わっていたのかはわからない。さすがに、その頻度でしか会っていない相手で、しかも幼稚園に上がる前に会わなくなったものだから顔も声もほとんど覚えてないし。
「雄馬さんの遺してくれた身辺調査にもいい扱いじゃなかった、とはあったけど……。そこまで酷かったのか……」
「幸兄が優しくなってからは多少楽だったよ。あの人、私が怪我するたびにいろんな理由つけてやめさせるように動いてくれたから。……まぁ、かえって巧妙になって致死率高そうな行為になった側面もあるけど」
そうなんだよね……。それまでは単純に殴る蹴るが多かったのに、真冬に庭の噴水に突き落とされた上に締め出される、だとか、病気した時薬捨てられたりとか……。しゃれにならなかったのは、水泳の特訓と称して足のつかないプールに放り込まれて、プールから上がろうとする度に、水中とプールサイドの両方から水中に引きずり落とされた時かな。どうしても水を飲むし、後で熱を出して酷い目にあった。おかけで立ち泳ぎとおぼれたふりはうまくなったけども。
「それは……。いじめですむ範囲じゃないだろ……っ」
私の話を聞いた克人兄様の声はおさえつけすぎたのか、変にかすれておかしな抑揚になってた。
「そんな事されてなんで……っ、……って、言っても、家長の父親が放置――この場合黙認か? そんな状態じゃ助けを求める相手もいない、か……」
「うん。幸兄は怒ってなんとかしようとしてくれたけど、結果は事態の悪化だったから。それなら、やりたいようにさせておいた方がいいかな、って。それに、本当に致命的な事が起きれば、病院から警察に通報されるか、死ぬかで決着がつくと思って」
「さらっというなよ……」
苦々しげにつぶやいた克人兄様が八つ当たりのような勢いで堅焼きのおせんべい――私は必ず甘いのとしょっぱいの、両方お茶菓子を用意するからね――をかじり出す。その様子をながめながらこっそり息をついた。
……大丈夫、ここはあの家じゃない。ここには克人兄様しかいないんだから、大丈夫。――表に出すな。怖がれば、痛がれば、行為は加速する。だから、大丈夫。おさえつけてふたをして、何も感じてないふりをしていればすぐに終わる。麻痺させてやり過ごせ。
ゆっくりと数を数えながら息をする。息を整えれば波だった感情は自然と落ち着いてくる。誰にも勘づかれないように、間違っても声がもれたりしないよう、慎重に呼吸を繰り返す。
「……って、彩香?!」
慌てた声がしたと思った次の瞬間、肩をつかまれ強引に相手とむかいあわされる。
「悪い、平気なはずなかったな。酷い顔色だぞ? 横になった方がよさそうだ。ベッドまで連れてっていいか?」
心配そうに眉をよせた相手の手のひらがほおを包み込むように触れる、その暖かさが古い記憶を刺激した。
「……とうさ、ま?」
優しくて暖かくて、いたずらっぽく笑っている事の多い人だった。楽しそうに笑いながら、泣きながらしがみつく私をあやしてくれたのがなつかしい。
「……大丈夫だから」
困ったように笑って頭をなてでくれるのは間違いなく克人兄様で、一瞬の見間違えだと気づく。……だって、父様はもうどこにもいない。とっくの昔に納得したはずなのに、その事が今更のように悲しくてさびしくて、涙があふれた。
「……父様に会いたい」
無理だとわかってるわがままを言って困らせてもしかたがないとわかっているのに、おさえきれずに口をついた言葉を聞いた克人兄様は目を見開いたけど、一拍おいて困ったような、嬉しそうな、判断しにくい笑みを浮かべた。
「そうだよなぁ」
つぶやいた克人兄様の手がそうっとほおをなでてから軽く頭をたたく。
「会いたくて――さびしくて当然なんだから、素直にそう言わなくちゃ駄目だ」
ゆっくりと頭をなでてくれる手の暖かさに後から後から涙があふれる。
「父様と母様に会いたい……っ。家に帰りたい……っ」
三人で暮らしてたあの場所が――暖かくて優しい人達とすごせた時間がなつかしい。
みんながほめてくれた日舞の発表会、百合子母様が一緒に作ってくれたクリスマスケーキ、兄様達と行った旅行、桂吾が企画してくれたこの前のお出かけ、他にもたくさんたくさん、楽しい事があった。今、すごく幸せなのに、それでも思う。
母様が作ってくれたオムレツが食べたい。父様と手をつないで散歩がしたい。三人でひなたぼっこをしながらお茶を飲んだ庭がなつかしい。
……あの頃に戻りたい。
泣きながらそんな事をうったえる間、克人兄様は短い相づちをうってくれる他には何も言わないでくれた。
たくさん泣いて、感情の波も去って落ち着き始めた頃、克人兄様がハンカチで涙をふいてくれた。
「俺が何を言ってもなぐさめにもならないだろうから、これだけな」
なんだろ、としゃくりあげながら首をかしげたら、少しあらっぽく感じるやり方で頭をなでられた。
「辛いのもさびしいのも、どうにかしてやれるわけじゃない。両親が健在で、姉さんも優しくて、ずっとよくしてもらってる俺にわかる事じゃないからな。けど、ぐちを聞くくらいはしてやれるからあんまり我慢するな」
一体何年ため込んでたんだよ、とため息をついたくせに、なんだかすごく安心したような笑顔だった。
「……言って、いいの?」
だって、みんなすごくよくしてくれてるのに、昔がなつかしいだなんて失礼な話だと思うんだけど……。
「いいに決まってるだろ。何変な遠慮してるんだか。でも、彩香の気持ちもわかるから、内緒にしといてもいい。どうしたい?」
いつもの笑顔で言ってくれた克人兄様の浮かべた笑みの種類が変わる。あれ、と思ってる間に、椅子から立ち上がった克人兄様にふわりと抱き上げられた。
なんでまたお姫様だっこなの、と目をまたたかせたら、すぐ近くで克人兄様が楽しそうに笑う。
「やっと弱音はいてくれたな。まったく、とんだ意地っ張りだ」
言いながらベッドまで移動した克人兄様は、私を膝にのせたまま腰を下ろす。髪の中に指をもぐらせるようにしながら頭をなでるのは、父様――雄馬父様がよくやってくれた仕草だ。
「彩香がこの家に引き取られてから一度も、二人を恋しがるような事を言わないから、みんな心配してたんだぞ?」
「……え?」
「突然事故で家族を亡くしたら、大人だろうが子供だろうが関係なく辛くて当然だろ。それなのに彩香は一度もそういう事を口にしないから、よっぽど我慢してるんだろうな、って昔からみんな心配してるんだよ。……正直、そうやって甘えられる程気を許してくれてないんじゃないか、って気にする程にな」
克人兄様の言葉に思わず目を見開いたら、指先がからかうようにほおをつつく。
「彩香が鉄壁の自制心を誇るのは知ってたつもりだけどな。青くなるのを通りこして顔色が白っぽくなる程でも声だけは平然としてるとか……。我慢するにも程がある」
口調だけはたしなめるように、でもどこか楽しげな気配をまとわりつかせた克人兄様の腕にひきよせられて体を預ける。服越しに感じられる体温がゆっくりといろんなものをとかしてくれるような気がして、一つ息をついた。
私が体の力を抜いたのに気づいた克人兄様の腕が体を支えてくれる。安心感に目をつぶると、また克人兄様が笑う気配がした。
「彩香は雄馬さん達が大好きなんだろ? なら、難しく考えないで、思い出してさびしくなったらそう言えばいいんだよ。俺も雅浩も、篠井の叔父さんと叔母さんも、彩香の事甘やかしたくてしかたがないんだから、ちょうどいい口実だってこれ幸い飛びつくだけの話だ」
そういう問題なのかなぁ、と思わないでもなかったけど、雅浩兄様も雄馬父様と栞母様の話を聞くのは嫌じゃない、って言ってくれてたもんね。だからきっと、同じような意味なんだろう。
克人兄様が嫌じゃないならいいや、と思ったら暖かくて安心な環境に気がなんだか嬉しくて自然と口元がほころぶ。
「……私の世界にはずっと怖くて冷たいものしかなかったの。でも、今はあったかくて安心な場所があるから、すごく幸せ」
「そのくらい当たり前の事なんだぞ? 彩香はもっともっと幸せにならないと駄目なんだからな」
少し笑いを含んだ声にたしなめられて首をかしげる。
「早いとこ、彩香が今の生活を当たり前だって思えるようになるといいんだけどな」
さらにわからない言葉が続いて克人兄様を見上げたら、頭をなでてくれた。
「彩香を無視したり傷つけたりするような奴がいない生活が当たり前って思えるには、――思い出すだけであんなに顔色が悪くなる程の記憶が薄れるには、後どれくらいかかるのか、って思っただけだ。早くそんな日が来てくれればいいのにな」
ここは、私の記憶力だと思い出さない事はできても自然風化的な忘却は無理そう、なんて指摘はしちゃいけないところだよね。
「辛い時やさびしい時はいつでも甘えてくれよな? そうしてくれた方が俺達も嬉しいんだ」
「……そうなの?」
「そうなんだよ」
きっぱりとした返事に一つうなずいてから、ふと気づく。
「そう言えば話が途中だったね」
「話すのしんどいだろ? 無理しなくていいぞ」
「まぁ、楽しくはないけど、問題が解決しないと話し損の気分になりそう」
軽く眉をよせて返事をしたら、克人兄様が小さくふき出した。
「なるほど。そういう理由ならもう少し続けるか。でも、辛くなったらすぐ言うんだぞ? 俺相手に隠す必要なんてないんだからな?」
「うん、ありがとう」
言われてみれば確かに、克人兄様は調子悪いのを隠す方が嫌みたいだもんね。
「まぁ、家ではさっき話したみたいな感じで、幼等部と初等部は高浜系列の子供が多い学校だったの。だから、何かするのも怖いけど関わるのも怖い、って感じでずっと孤立して――させられてた?」
「高浜系列の子供が多くたって、関係ない子供もいるだろ?」
「だって、派閥作ってるのは高浜関係の子供だから。たまに話しかけてくれる子もいたけど、そういう連中が何かやってくれてたみたいで、いつも数回だけ、だったかな。それ以外では事務的な連絡以外で口聞いた事なかったし」
「……それはまた……。というか、そんな状況で教師に何も言われなかったのか?」
「教職員だって所詮はただのサラリーマンだって事じゃない? 一度たりとて先生方が助けようとしてくれた事はなかったよ。グループ活動で私が一人あぶれてても見ないふりだったし」
「……おいおい」
「お笑いだったのは三者面談だよ。その状況で、何も問題なくクラスメートともうまくやっていますよ、だもん。まぁ、問題起こす程度の接触すらないのもある意味うまくやってる事になるのかな?」
あの頃の事を思い出してくすくす笑いながら話したら、克人兄様が盛大なため息をついた。
「笑い事じゃないだろ」
「いや、だって、最初は期待してたんだよね。教師にも親にも。でも、担任が変わってもいつも判で押したように同じ事しか言わないし、親が来てくれた事なんて一度もなかった。だから、家族にすら不要だと判断された人間は死ぬまでろくな目にあわないんだな、と割りきったの」
「……本当、勘弁してくれよ……」
克人兄様、またもやため息。
「あんまりため息ついてると幸せが逃げちゃうよ?」
少し心配になって、ため息をとめられないものかと克人兄様の口をおさえたら、硬直されました。なんで?
「そうやってかわいい事ばっかりするとくっちまうぞ?」
予想外のリアクションにぺりっと引き離された手を思わずながめる。手首をつかまれたまま、何度かグーパーしてみても、手は手だよねぇ?
「生の人肉とか……。克人兄様、悪食だね? しかもよりによってこんな肉が少なくて小骨多そうな部位を……」
つい思った通りの事を言ったら、今度は思いきりふき出されちゃった。
「いや、まぁ、彩香にとってはそういう意味だよなぁ」
喉の奥で笑ってるけども、他にどんな意味があるんですか。
――というか、さすがに本気でまったくわかってないわけじゃないけど……。
「なんか、克人兄様って時々幸兄に似てるね」
「……そうか?」
私の言葉が予想外だったのか、よっぽど嫌なのか、渋面になる克人兄様。
「なんていうか……。時々、答え方間違ったらよい子には見せられない展開に持ち込まれそうな怖さがある」
「……おい」
「だって、今のそういう意味でしょう?」
苦った声にさらりと返したら、ため息が返ってきた。そして、片手で頭をかく。
「そりゃ確かにまったく考えてないとは言わないけど……。でも、彩香の意思を無視してどうこう、なんてつもりはないぞ」
「理屈で理解してるのと感情が納得するかは別問題。念のため言っておくけど、私にとってその手の行為は単純な暴力以上に嫌悪と恐怖の対象でしかないからね? ……それを望まれるイコール虐待予告、と受け取るよ?」
笑顔で言い切ったら克人兄様硬直。今日何度目?
「私が雅浩兄様を好きでいられるのは、あの人が口でどう言おうが、現時点で私にその手の欲求がないからなの。五年後にどうかは知らないけど、それでも雅浩兄様は私が押し倒しでもしない限り本気でその手の事をしようとはしない。……でも、克人兄様は違うでしょ?」
そうなんだよねぇ。桂吾は、克人兄様の方が安全、って言うけど、たぶん本当の意味で牽制しないといけないのは克人兄様の方だと思うの。どうしてって、雅浩兄様はスキンシップ大好きだけど、私を妹として――庇護する対象として見てる面が強い。出会った直後から引き取られる前提で話を聞いてたみたいだし、ずっと家族として暮らして来た時間がある分、雅浩兄様にとっての私は妹――家族の方に傾いてるんだと思う。でも、克人兄様にとっての私は年下の親戚――つまり、最初から恋愛対象の範疇にいた。その違いだと思うんだよね。
だからこそ、克人兄様の側が居心地がいいからこそなおさら、はっきりさせなくちゃいけない。好きだからこそ、あいまいにしたまま克人兄様の時間を使わせるのは卑怯だもん。私はきっと、この人にそれを望まれて抵抗しない事はあっても、自分から欲しいと思う事だけはないに違いないから――。
「だからね、私にとって克人兄様は幸兄と同じ、いつ豹変するかわからない、警戒すべき相手、なんだよ?」
泣きそうになる本心を隠したくて笑顔で言うと、克人兄様はものすごく困った様に笑った。ずっとつかまれたままだった手が放されて、ゆるく抱きよせられる。
「……彩香にとって自分以外の人間は、顕在か潜在かの違いはあっても基本的に敵性の存在なんだ、っていうのはなんとなくわかった。だから、なかなか信じられないっていうのもしかたないんだろうな」
言葉に続いた微苦笑と一緒にもれた息が前髪越しにひたいにかかるのが少し怖くて体をすくめる。
「怖がらなくて平気――って言っても怖いもんは怖いんだろうな。けど、本当に今は大丈夫だ。彩香が――高浜綾がどんな環境で生きてきたのか聞いたら、彩香がくれる分以上の思いが欲しいだなんて口が裂けても言えないからな」
苦笑混じりなのに普段よりもずっと優しく聞こえる声には催眠音波でも含まれてたのか、あくびがもれた。
なんだかんだ言っても、克人兄様の側はあったかくて安心で、大好きな場所なのに変わりはないんだもの……。
「辛い事たくさん思い出したから疲れただろ? 眠るまでこうしてるから安心しておやすみ」
あやすようにかるく体をゆすられ、おとなしく睡魔に負ける事にした。だって、ここで逆らっても絶対寝かしつけられちゃうもん……。がんばるだけ無駄だよね……?
お読みいただきありがとうございます♪