紅茶にはクッキーをそえて。
「克人兄様、来てくれてありがとう」
克人兄様が部屋に入ってくるなり、特別上等な笑顔でそう言ったら、なんだか軽く硬直されました。失礼な。
「座って?」
「というか……。なんで彩香の部屋なんだ?」
すっかりお茶の支度が整っているテーブルの、空いている隣の席――私の部屋の応接用スペースにある四人掛けの丸いテーブル。で、私の隣にカップやらセッティングしておいて、ここに座ってね、という圧力かけてます。普段ならこんな事しなくても二人の時は隣に座るのが定番だけど、今日は逃げられても困るからね。
「……私の部屋、嫌だった?」
眉をハの字にして気持ち上目遣いにつぶやいたら、またもや克人兄様硬直。そして、横を向いていくらか雑に頭をかいた。
「だからそれは卑怯だと……」
「あぁ、うん。わかっててやってるよ?」
「……おい」
「克人兄様のした事程酷くないよね?」
やっぱり笑顔のまま言ったら、克人兄様が言葉につまる。でも、今日は怒ってるからやめてあげないもん。
「立ったままだと話しにくいから座って? 桂吾ほど上手じゃないけど、紅茶いれるから飲んで欲しいな」
もう一度席を勧めてから立ち上がってティーポットの様子を確かめる。うん、ちょうど頃合い。丁寧にカップへつぎ分けて、片方を克人兄様に座ってもらう予定の席に置く。
「ね、お願い」
だめ押し。とばかりにもう一度満面笑顔でおねだりしたら、克人兄様はそれは盛大なため息をついた。だから、さっきから失礼ですよ?
腰に手をあてて、片手で髪の毛をかき混ぜる仕草は初めて見るかもしれない。
「……ったく、そういうの、どこで覚えて来るんだ?」
「な・い・しょ」
にっこり笑って軽く首をかしげた上、人差し指を唇にあてる、というお約束ポーズをしたら、克人兄様ったら息を飲んだ後赤くなりました。だからさっきから狙い通りの反応しすぎだから。そんなんじゃパーティでつけいられますよ?
「その格好でその表情は反則だぞ……?」
「ただの普段着だよ?」
「どこがだよ?!」
瞬殺とか酷いから。襟のあいたベビーピンクのモヘアのセーターの下にオフホワイトのタートルを重ねて、普段使い用の薄いパニエを重ねたこげ茶のフレアスカート(膝上丈)と白のタイツ、足元はこげ茶のルームシューズ(靴底が柔らかいゴムになってるだけのショートブーツ)なだけですよ? まぁ、髪に淡いピンクのバラとリボンをあしらった髪留めをつけてるのはグレーゾーンかもしれないけど、どれも普段着てる服だもん。
「充分気合入ってるだろ?!」
「習い事に通う時の服装だもん。普段着と言わずしてなんと呼ぶ?」
「……あぁ、まぁ、そうだよな。そうだろうけどな……」
ひたいに手をあててうめくように同意してくれる克人兄様。
「それも普段着だとして、ならなんでいつもはもっとくだけた服装なんだよ?」
「そりゃ、普段は子供が従兄のお兄ちゃんに会うだけだからね。今日は篠井本家の娘として久我城の跡取りに会ってるわけですから? それ相応の身だしなみってものがあるよね?」
笑顔で言ったら、克人兄様が何かを飲みこみそこねたみたいな反応をした。
「……いや、だからそれは」
「で? いつになったら座ってお茶を飲んでくださるのかしら?」
失礼にも程があるよ、とにおわせたら、克人兄様はため息をついてひとしきり髪をかき混ぜてから、ようやく席についてくれた。
「……まったく……」
「ため息つきたいのはこっちだからね? それとも何? こんな噂が出た以上克人兄様と婚約するしかなくなるだろう、っていうたちの悪い作戦?」
「そんなわけあるかっ!」
思いきり怒鳴られて思わず体をすくめたら、克人兄様は、あぁもうっ、とはきすてた。
「悪かった。彩香を突き落としたのが藤野だって聞いて、高浜がかんでるんだと思ったんだよ。だから、そんな噂がでれば標的が俺に変わるんじゃないかと思って、わざとうちからもらしたんだ」
しぶしぶといった体での告白――自白?――に、今度は私がため息をつく。
「せっかくだけど、それ、無意味」
「なんでそう言い切れるんだ?」
「あの人が私に危害を加えるなら直接やるに違いないからね。――それに、あんな顔して人をなぶるような人間は誰かにやらせるにしても、自分の立ち会わない場所での実行は許さないはず。だから、あれは単に藤野さんの暴走だと思う」
今頃、私に手を出したの理由にねちねちいじめてるんじゃないかな、としめくくったら、なんとも言えない微妙な沈黙が返ってきた。
「……あんな顔って……」
「心底楽しそうで、私が反応を返すたびに嬉しそうに笑うし、こっちは痛くてたまんないのにものすごぉく気持ち良さそうでしたが?」
思い出した光景に吐き気を覚えて、ごまかすように紅茶に口をつける。
「それに、あの人はなぶって楽しんでたんだから、命に関わるような事はやらないよ」
「……でも、それですまなかったから、あんな事になったんだよな?」
眉をよせてのつぶやきには軽く肩をすくめる。
「それは私が引き金をひいたから、だと思うの。それがなければあの人たぶん、とどめはささない……というか、させないよ。だって、あの人が一番怖がってたのは私がいなくなる事ななんだから」
そうなんだよね。桂吾には遅かれ早かれ、と言ったけど、たぶんあの人は、誰かが背中を押さなければ人を殺すことなんてできない。本当は優しくて弱い人だから、ねじれてしまってもその弱さは変わらない。あの人は高浜綾という存在に依存していたから、相手がいなくなって困るのは私じゃなくてむこうの方だ。
「私は、殺される事だけはない、って知ってたから、悠長に機会をうかがっていられたんだもの」
「……機会?」
「あの人をおとしいれる機会を、ね。高浜の跡取りから蹴落としてやりたかったから」
お茶菓子のクッキーをつまみながらそう言うと、克人兄様の眉間のしわが深くなった。
「意外?」
「まぁ、意外といえば意外だけど……。普通に考えたらそういう風に思わない方がおかしいよな」
「そういう事だね。私だってそのくらいは思ってたし、実際あれこれしこんでたから」
「それはそれとして……。どうして急にそんな話なんだ?」
「そりゃ、彩香のめっきがはがれるくらい、腹たってるからじゃない?」
しれっと言ったら、克人兄様硬直。だから、露骨に内心出しすぎですからね?
「それに、なんでも話してみろ、って言われたし? どうせだから高浜綾がどんな人間なのか見てもらおうと思ったりとか?」
くすくす笑いながらそう言ったら、克人兄様がものすごく渋い顔になった。
「綾はあの人が好きで、同時に憎んでもいた。間違ってるのはあの人だけじゃなくて自分もだ、ってわかっていながら気がつかないふりですべてあの人に押しつけていたんだよ」
言いながら昔の自分を思い出す。たぶん、最初の事件以降のあの人の行動は私が誘発した部分だってあるはず。特に、最後の頃は私の考えを察してたんだと思う。そんな風ににおわされた事だって何度もあった。だからこそ、あの人は私の前であんな顔をしてたんだろう。
記憶の中の光景を追っていたら、不意に頭をなでられた。驚いて顔を上げると、苦笑いの克人兄様と視線がからむ。
「そうやって彩香が全部背負う必要なんてないだろ?」
「だってこれが事実だものっ」
「そうだとしても、だ。自覚してないのもわかってるけど、彩香は何でもかんでも自分の責任にしすぎだぞ」
ひとつため息をついた克人兄様の手がすべって私のほおに触れる。そして、そのまま……。
「にゃにっ?」
「何って、ほっぺたつまんでるんだけど?」
さらっと返された?!
「こんなかわいいんだから、素直に甘えてくれればいいのになぁ」
そう言ってそのままひたいをあわせてくる克人兄様の目が楽しそうに笑ってる。
「彩香自身が否定しても、俺は自分の見てきた彩香の姿を信用してる。まわりに気を遣ってばっかりで優しくてまっすぐで、子供っぽい癖に時々妙におとなびた所のある、大事な子だよ」
「だから私は……っ」
「彩香の意見は聞いてないよ。俺が勝手にそう思ってるだけで、別に誰に強制されたわけでもない。それで失敗したとしても俺自身のせいだし、その覚悟で彩香の評価を決めてるんだから口出しされるいわれもないぞ?」
きっぱりと言い切られて反論しそこねてしまった。
「彩香が昔の失敗を悔やんでるのはわかる。でもな、彩香は失敗したと思ってるから同じ失敗はしないようにってがんばってきたんだろ? なら、俺は昔失敗したことを責めるんじゃなく、今がんばって変わろうとしてる事、変われた事を認めて、今の彩香を評価したいんだよ」
だからそれが彩香本人だとしても、あんまり悪く言って欲しくはないな。としめくくって克人兄様が元どおり座り直す。
「だからそろそろやり過ぎな反省は終わりにしろな? そのために必要なら、いくらでも協力するぞ」
ぽんぽんと頭を軽くたたかれて、目をまたたく。なんか、さっき雅浩兄様に言った言葉をそっくり返されちゃった……?
「俺はさ、彩香は実際以上に自分の事を悪くとらえてる気がするんだよ。だから、違うっていうならきちんと教えて欲しい。そうすれば本当はどうだったのかわかるだろ?」
「……うぅん……。……って、違う違う。今日は克人兄様の暴挙の話題っ!」
あやうくごまかされかけたっ。
「だからそれは悪かったよ。多少無茶しても篠井のみんなならそれを理由に変な条件出してくるわけがない、って安心感があったから押し通したのは謝る。だけど、彩香、入院してた頃、あんまり顔色良くなかったし、なんとなくふさぎがちだったろ? だから、雅浩が側にいられるだけでも多少は違うんじゃないかと思ってさ」
「……あぁ、そっか。うん、心配かけちゃってごめんなさい」
克人兄様に言われて、確かに入院中はあれこれ考えちゃってぼんやりしてる事が多かったかもしれない。それをさして、ふさいでる、ととられてもしかたがない。
「ちょっと、色々考えちゃって」
「考えるって何をだ?」
「う、ん……。まぁ、克人兄様に怒られそうな事?」
聞かれて、話したらまた言われちゃいそうだなぁ、と思ってにごしたら、大きな手が頭を軽くたたく。
「自分を責めるのもたいがいにしろよ?」
「責めるっていうか、私、昔は幸兄の事憎んでる自覚がまったくなかったんだよね。あれこれやってたのも、まわりの情報を集めるのは身を守るため、って言い訳で自分をごまかしてたの。なんでそこまで自覚したくなかったのかな、って思ったら色々気になり始めちゃって」
ここしばらく考えてた事を口にしたら、克人兄様は少しばかり思案げな表情になった。
「言いたい事はわかるけど、今まで自覚してなかったならなんで急にそれに気づいたんだ?」
そうして、紅茶を一口飲む。……そして、目をまたたいた。
「彩香、紅茶いれるのうまくなったな」
「あぁ、ここの所で桂吾がいれてるの見る機会が増えたからじゃないかな。私、上手だと思ってる人の動きは無意識のうちに覚えてまねるみたいだから」
「……無意識の領域でこれだけ変わるとなると、意識して覚えようとしたらあっという間に極めそうだよな」
あきれてるのか感心してるのか、どっちともつかない口調でのつぶやきに今度は私が目をまたたいた。
「まぁ、覚えようとしてしっかり観察してれば一回でしっかり記憶できるから、後は再現できるかどうかの問題だけなのは認めるけど……。でも、元のスペック以上の事はできないよ?」
「そういうものか?」
「うん。見て覚えたからって、関節の可動域とか筋力までコピーできるわけじゃないからね。無理に再現しようとすれば体を痛めるだけだもん」
「つまり、頭の中にビデオ教材しこめる、って感じか?」
「あ、うん。そんな感じだと思う」
「静止画にも応用できたらかなり便利そうだな」
「ん? 静止画像覚える方が簡単だよ?」
「……そうなのか?」
「うん」
お茶菓子のクッキーをつまみながら答えたら、克人兄様がなんとも微妙な顔になる。
「そりゃまたうらやましいような、やっかいなような……」
「……やっかい?」
「だってそうだろ? 下手に覚えたらそうそう忘れられないだろうし。彩香の昔の環境を考えると、覚えてたくない事も多かったろ?」
辛かったよな、とやわらかく頭をなでられて、反応しそこねる。
だって、そんな事今までに誰も言ってくれなかった。私の記憶力をうらやましがる人は大勢いたけど、それで苦労してるだなんて考える人は一人もいなかった。桂吾はうすうす察してたみたいだけど、口に出すような性格じゃないしね。だから、不意にそんな事言われたら……。
「って、どうした?!」
慌てた声がして、克人兄様の指先がほおに触れる。そして、目元ににじんだ涙をすくい取ってくれた。
「どこか……、まだ頭痛が治まらないのか?」
心配そうな声に小さく首をかしげる。
「少し頭は痛いけど……。これ、二日酔いだし」
「二日酔いっ?!」
「……克人兄様、頭にひびく」
立て続けの叫びに眉をよせたら、克人兄様が慌てて口元をおさえた。
……あれ?
「そういえば、克人兄様って昔のイメージより感情の振れ幅大きいよね?」
「……昔?」
「ゲームのイメージ?」
聞き返されて言い直したら、克人兄様、なんとも微妙な表情に。
「前もゲームの俺がどうとか言ってたけど……。何がそんなに気になるんだ?」
「高浜綾に似ててなんか気になるっていうか……。克人兄様が本当はああいう人だったら嫌だな、とか?」
「いや、だからなんで俺ばっかり気にするんだよ? 雅浩と瀬戸谷先生、それに綾瀬理事も知り合いなんだろ? 気にならないのか?」
「ん~……。綾瀬は別にどうでもいいかな。だいたい、あいつの奇怪な性格知ってると、あぁ、外面で子供たぶらかして遊んでるなぁ、くらいにしか感じないし」
「奇怪って……」
「桂吾と馬があってずっと親しくしてられるんだよ?」
「それを言ったらあや……。……まぁ、こだわらないでおくか」
何かを指摘しかけて言葉を飲み込む克人兄様。別に私が変だっていうのは否定しないけどさ。それ、ブーメランで克人兄様にも返ってくるんだからね? その変な私とこれだけつきあえる克人兄様だって真っ赤ですからね?
「桂吾はまぁ、カウンセラーの仮面かぶってる時そっくりだけど、本性がまったく出てこないからね。きっと、うまく操縦できる便利な奥さん候補だと思ってるんだろうな、くらい?」
「なるほど。そうすると雅浩はどうなんだ?」
「本編は雅浩兄様本人で、逆ハーレム脱線裏ルートは中身幸兄と入れ替わってる感じ?」
質問につらつら答えると、克人兄様が少し考えるように眉をよせた。
「他の面々は納得行くのに、なんで俺だけそんなに気になるんだ?」
「……あれ?」
言われてみればなんでだろ?
「というか、ゲームの中の久我城克人はどんな人間なんだ? そんなに嫌いなタイプだったのか?」
「嫌いっていうか……。同類嫌悪?」
私がゲームの中の克人兄様が好きじゃないのは、高浜綾の生き方を彷彿とさせるから。――より正確に言うなら、私が、まわりからはこう見えてるんだろうな、と思っていた高浜綾の姿にそっくりだから、だ。
「何をやらせてもしれっとこなして、感情を表に出す事もほとんどなくて何を考えてるかわからない。――そんな風に見えるんだよね。きっと、私もそんな風に思われてたと思うし。だからむこうの克人兄様はあんまり好きじゃない」
少しばかり眉をよせてつぶやいたら、克人兄様が苦笑いになった。
「なるほど? 彩香は昔の自分が好きじゃないから、似てるキャラが嫌なのか」
「まぁ、そんなところだと思う」
「でも、それだと俺とゲームのキャラの違いが気になる理由にはならないよなぁ」
「だから、克人兄様がそんな人だったら嫌だからじゃない?」
「おいおい、これだけつきあいがあって、それでもそんな疑い持たれてるのかよ……」
勘弁してくれよ、と盛大なため息をつく克人兄様。……まぁ、確かにそう言われたらそうなんだけど……。
「だって、幸兄みたいに大好きになった後で変わっちゃったら悲しいもん」
そうなんだよね。好きになってから、変わってしまったら悲しい。大切な人に嫌われるのはものすごく辛いから、好きになる前にそんな事にならないかちゃんと確認したいもの。
紅茶をすすりつつそんな事を考える。
「桂吾はああいう性格だから私の事嫌うなんてありえないけど、克人兄様は違うもんなぁ……」
人の心がどれ程簡単に変わってしまうのか、私は知ってる。だからもしも誰かを好きになるなら、ずっと好きでいてくれなくてもいいから、せめて私の事を嫌いになったりしない人がいい。……第一希望はあくまでもソロ軍団への入団ですけどね?
「もし、克人兄様がゲームの克人兄様みたいな人だったら、きっといつか幸兄みたいに変わっちゃうもん」
「……まぁ、むこうの考えがわかる気がする、だなんて言ったら彩香が心配になってもしかたがないか」
ため息まじりにつぶやいた克人兄様の手が、少しうつむいている私の髪をゆっくりとすいて、後ろにはらってくれた。
「ま、彩香がそうやって気にするのは、俺が変わったら嫌だ、って思ってくれるくらいに好かれてるからだと思っておくか」
「……うん」
「それにしても、本当彩香は甘えただな。自覚してないのはわかってるけど……、やたらとそんな事言ったら誤解されるぞ?」
不意に意地悪な笑みを浮かべた克人兄様の言葉に首をかしげる。
「ちょっと深読みすると、大好きだけど自分の気持ち認めるのが怖い、って告白にしか聞こえないからな?」
「ちょっ?!」
「そんな意味じゃないのはわかってるよ。だけど、他の奴の前では気をつけなくちゃ駄目だぞ」
慌てる私を見ておかしそうに笑う克人兄様……。
「からかわないで……」
「からかったつもりじゃないんだけどなぁ」
「克人兄様って、時々意地悪だよね……」
「そうはいうけど、こういう注意はなかなか雅浩からは言えないだろうしな。俺が言うのが順当だろ」
「どうして?」
「どうって、こういう話題を兄妹でするのはやっぱりなかなか難しいだろ。その点、従兄妹ならまだしも言いやすいからな」
兄妹で恋愛がらみの話ってのもなぁ、と苦笑いになる克人兄様。……確かにそれは微妙かも。雅浩兄様とそういう話をしたくない、っていうんじゃないけど、なんていうか……微妙。
「ま、それはそれとして少し話を戻すか。――今回の件、大袈裟にして悪かったな。確かに、彩香のいう通り、多少の噂くらいじゃあの人は動きそうにないか。読み間違ったな」
「先に相談してくれたら方法考えたのに」
「ちらっと思ったんだけど、克人兄様に標的向けさせるなんて駄目、って言いそうな気がしたからさ」
「……うっ」
確かに絶対言うと思う。私なら確実に言う。だから、そんな事を言われたら反論のしようもない。
「まぁ、何にしても彩香にたいした怪我もなくすんでよかったよ」
大きくため息をついた克人兄様の言葉に微妙に体がこわばる。
「う、うん。そうだね」
「……その微妙な反応はなんだよ?」
「えぇと、なんといいますか。……部外秘?」
えへ、とでも効果音をつけるような笑顔で首をかしげて見せたら、克人兄様がつと目を細める。
「それは、久我城の跡取りとして正式に篠井の現当主に面会を申し込んで直接聞けって事か?」
「ただでさえ微妙な噂が出ちゃってるんだから、そんな事しちゃ駄目っ」
噂に真実味をつけちゃうからっ!
これ以上は絶対駄目だからっ! スマホを取り出そうとでもしたのか、ポケットに手を伸ばす克人兄様の手を慌ててつかんだら、なんだか黒っぽいオーラが見え隠れするいい笑顔になってくださいました。
「話してくれるよな?」
「……う」
「教えてくれないなら叔父さんに電話するしかないよな?」
「……話すよぅ」
満面笑顔で自分を人質にとるとかやめて欲しい……。疲れた気分に任せてテーブルにつっぷすふりをしたら、克人兄様が苦笑いで頭をなでてくれた。
「ごめんな。でも、彩香が心配になる反応するからだぞ? 隠すんならもっとうまくやってくれな?」
「……うん。まぁ、その……。雅浩兄様にも内緒だから、秘密、ね?」
「そりゃかまわないけど……。何かまずいのか?」
「打撲とか打ち身とかあざ――内出血ですんだのは本当だよ? ……ただ、ちょっとまずい位置にもあるだけで」
ちょっと視線を外し気味に言ったら、一瞬の沈黙の後で克人兄様がものすごく渋い顔になった。
「まずい場所って、まさか……」
「……てへ?」
「てへ、じゃないだろうがっ?!」
気のせいか少し青い顔で克人兄様に確認されて、思わずごまかし笑いをしたら、思いきり怒鳴られました。だから克人兄様怖いって! そんな風に怒鳴られると、昔を思い出して怖くなっちゃう。
「……話すから怒鳴らないで」
怖くて思わず涙目になったら、克人兄様硬直。こっちを見て、部屋の中を見回して、なにやらうめいた後で自分の髪を雑にかきまぜる。そうして内臓まで出てきちゃいそうな、それはそれは盛大なため息をついた。
「悪い、怖がらせるつもりじゃなかったんだ」
もう一度ため息をついて、それから視線を戻してきた克人兄様はいつも通りの笑顔で、なのに、一瞬脳裏をかすめた光景のせいか体がこわばって動いてくれない。
――そうだ。あの時、あの人もこんな風に怒鳴った後、優しく笑って、それで……。
「彩香?」
心配そうな声とともにのびてきた手がほおに触れそうになる。
「綾は誰のものなのか、しっかりと教えてあげなきゃいけないみたいだね。――君はいい子だから、俺に余計な手間をかけさせたりしないと信じてるよ?」
私の顔をのぞきこんでくる人は笑顔のはずなのにまったく笑ってない。逃げ出したいのに逃げたら何が起こるのか考えるとまばたきすらできなかった。
目を見開いてるはずなのに、なんでだかはっきりと見えない相手の顔に視線をむけたまま硬直していたら、ほおをなでるのかと思った手がずれてほおをつまむ。
「え? ……わっ、なにっ?」
ちっとも痛くなかったけど、驚いて思わず体を引いたら、手はするりと離れて、今度はいくらか乱暴に感じられる勢いで頭をなでられた。
「さぁ? なんだろうな?」
聞こえてきた声は明るく響いて、幸兄みたいな陰性のかげりがない。目をまたたいて、改めて相手を見上げると……。
「克人兄様……?」
「俺以外の誰がここにいるんだよ?」
「……ええと……。雅浩兄様呼ぶ?」
聞き返されて返事が思いつかなかったんで、答えになってないのを承知でそう言ったら、克人兄様が小さくふき出した。
「いや、別に呼ぶ必要ないだろ。とりあえずおやつの続きにでもするか」
何もなかったようにお茶菓子のクッキーをかじり始めた克人兄様にならって、私も紅茶を一口飲んでからクッキーをつまむ。なんとなく口を開くのがおっくうで黙っていたら、克人兄様も同じなのか違うのか黙ったまま。でも、重苦しい気配のない沈黙がなんだか気持ちよくて、気分が落ち着いてくる。
そのままお互い無言でクッキーのお皿を制覇した後、克人兄様が、驚かせて悪かった、とつぶやく。
「彩香の前で怒鳴ったら駄目なのはわかってるんだけどな。どうにも最近うっかりしやすい」
「私が克人兄様を驚かせるような事ばっかりするからかな……?」
色々やらかしてる自覚はあるんだ。だから、そのせいだとしたら克人兄様のせいじゃないと思う。
「それもあるんだけど、一番はあれだな」
「あれ?」
なんだろ? 何かあるのかな?
首をかしげて克人兄様を見上げたら……。なんだか悪役笑い……?
「彩香の事好きだって自覚したら受け流せない事が増えた、な」
「っ?!」
予想外の言葉に目を白黒させる羽目になりましたっ! というかわざとですね驚かせるためにわざと言ったでしょそういう遊び心はノーサンキューですから?!
「何お腹抱えて笑ってますかっ?!」
思わずかみついた私は悪くないから!
何声も出ない程笑いこけてるのっ?!
「もうっ! 克人兄様の意地悪っ!」
お読みいただきありがとうございます♪