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二日酔いと思い出話。

「……うぅ……。頭痛い……」

 一体いつぶりなのか思い出せないくらい久々の二日酔いの痛みにたえかねて、リビングのテーブルにつっぷした私が涙目でつぶやいたら、雅浩兄様の苦笑する気配がした。

「大丈夫? 早く治るといいね」

 そう言いながら、ことりと何かが置かれる気配。視線をむけると、スポーツドリンクのボトルとグラスが置かれていた。

「たくさん飲むと早く治るらしいよ」

「雅浩兄様、ありがとう。――そういえば桂吾が二日酔いになるとスポーツドリンクよく飲んでたっけ。二リットルのペットボトル、ラッパ飲みで」

「それはちょっと行儀が悪いね」

 言いながらグラスについでくれたスポーツドリンクに口をつける。

「おいしい」

 思ってたよりのどが渇いてたみたいで、一気に飲み干したら雅浩兄様がおかわりをついでくれた。おかわりも半分くらい飲んでやっとひとごこちつく。

「母さんのおちゃめにも困ったものだよね。いくらお菓子に入ってる範疇だからって、彩香にお酒を飲ませるなんて」

 少しだけ笑いをふくんだ言葉を受けて再度テーブルにつっぷす。

「あの程度で二日酔いとか……。あり得ないし……」

「まだ小さいんだからしかたがないよ。それに、昔の君はお酒に強すぎたらしいから、それを基準にしたら駄目だよ?」

「だってぇ……。桂吾と飲むの好きだったのに……」

 これじゃ楽しむ暇もなく酔いつぶれたあげく二日酔いだよ……。

「いいじゃない、軽いカクテルとか少し飲んで、後はノンアルコールに切り替えれば」

「そんなの面白くな~いぃ……」

 桂吾をつぶすのが楽しかったのに、とぼやいたら、雅浩兄様がふきだした。

「なに? そういう楽しみ方なの?」

「うん。桂吾ってば、酔うと面白いんだよ。くだらない疑問を真面目に考察し始めるし」

「そうなんだ?」

「うん。いつだったか、ねずみがすごく巨大なオムレツ作る絵本についての考察なんて面白かったなぁ」

「……それ、何を考察するの? 確か、ねずみが家サイズくらいある卵でオムレツ作る話だよね?」

「ねずみに対してあの大きさだと何の卵なのか、とか、どうやって卵を運んだり割ったり、調理したか、浅いフライパンであんなぶ厚いオムレツにするにはどのくらい膨らまないと駄目か、その膨張率を確保するには何をどのくらい投入するべきか、とか?」

 私の説明を聞いていた雅浩兄様がこらえきれなくなったのかとうとうふき出した。

「そんな事真面目に考察してどうするの? しかもなんで考察対象がそれなのか問い詰めたいよ」

「酔ってる時の桂吾にそういう正論は通じないんだよね。ちなみに、そのせいでどうしても食べたくなったから、翌日に責任取れって言って、オムレツで有名なお店に連れてってもらったんだ」

「まぁそうなるよねぇ。なんだか僕もオムレツ食べたくなっちゃったな。お昼ご飯に作ってもらおうかな」

「あ、私も。ふわふわのオムレツ食べたいっ」

「彩香は朝ご飯食べられなかったんだっけか。じゃあ、ちょうどおやつの時間も近いし、作ってもらう?」

「うんっ。雅浩兄様ありがとう」

 早速、とスマホを取り出してコックさん達に連絡してくれた雅浩兄様にお礼を言ったら笑顔で頭をなでてくれた。

「どういたしまして。でも、お礼は作ってくれた人にも言ってね」

「はぁい」

 ふふ、オムレツ楽しみだなぁ。卵白を泡立ててから作ってくれるから、ふわっふわなんだよねぇ。そこにトマトソースだったりデミグラスソースだったり、いろんなソースをかけてくれて。あつあつふわふわですごくおいしいの。

「彩香は本当にオムレツ好きだよね」

「うん。栞母様が私に初めて作ってくれたのがね、ふわふわのオムレツだったの」

 そう、高浜綾の記憶が戻った後、最初に食べたのは栞母様手作りのふわふわのオムレツだったんだよね。厳密な意味ではそれより前にも何か食べる事はあったんだろうけど、物を食べた記憶はあの時が初めてなんだ。泣きわめいてばっかりで、ろくに食事もとれなかった私を雄馬父様がだっこして、栞母様と三人でキッチンに入って、楽しそうにおしゃべりをしながら手際よく作ってくれた。

「栞さんが?」

「うん。絵本に出てくるオムレツみたいでしょう、って笑って、大きなフライパン目一杯の大きさに作ってくれたの。それで、できたての熱々を、フライパンからおっきなスプーンですくって食べさせてくれたんだよ。ちょっと熱くてびっくりしたけど、でも、すごくおいしかった」

 あの頃の私はまだ自分の置かれた環境がよくわかってなくて、ただまわりの人達――栞母様と雄馬父様を怖がっていた。まぁ、正直なところ、死んだと思った後に意識が戻ったら、お前ら巨人か?! みたいな人達に囲まれてたんだから普通怖がっても仕方ないと思う。それに、()にとって親という存在は決していいものじゃなかったから、状況を飲み込み始めたら、それはそれで優しくされるのが不思議で、理解できなくて、どう対処すればわからなかったから。

 そんなこんなで、夢に怯えて泣きわめくか、落ち着いていても警戒心むき出し、というおかしな子供になっていた。なのに、栞母様はいつも優しくしてくれた。だからなのか、最初の一口は熱すぎて味なんてわからなかったけど、すすめられるまま食べた二口目はとっても優しい味がした。

 思わず、おいしい、とつぶやいたら、栞母様は満面の笑みで、たくさん食べてね、と言ってくれたっけ。雄馬父様も嬉しそうに、彩香が喜んでくれて嬉しいよ、って笑ってくれて。なんでそんな事で関係ないこの人が喜ぶんだろう、と思って見上げた雄馬父様の目元に涙がにじんでるのには本当に驚いた。

 思わず、なんで私なんかにそんなかまうの、だなんてかわいげのない事を言ったら、見事なユニゾンで、彩香が大好きだから、って答えてくれた。

「そんな事があったんだね」

「うん。たぶんあの時初めて、私は栞母様と雄馬父様を家族だって――本当の意味で、ちゃんとした家族なんだって実感したんだよね」

 それまで得体の知れない他人だったのが、大切な家族に変わったきっかけ。

「それで彩香はオムレツが好きなの?」

「うん。ふわふわのオムレツはね、栞母様と雄馬父様の事を思い出せるし、すごく幸せな気分になるの」

 幸せな時間の始まりはたぶんあの瞬間で、その記憶はとっても大切な思い出。たぶん、味覚としても好きなんだろうけど、私のオムレツ好きはあの思い出があるからなんだよね。

 なんであの時作ってくれたのがオムレツだったのか、後になってから聞いた事がある。

 返ってきた理由は、たまたま桂吾の言葉を思い出して例の絵本をながめていた私を見て、あのオムレツならって思ったから、というもの。上手に作るため失敗作を山程食べさせられたんだよ、と笑う雄馬父様に、栞母様はいくらでも食べるから彩香においしいのを作ってあげてくれって頭を下げたのはあなたよね、なんて返してた。

 笑顔でなんでもないように話してたけど、あの頃、私がいつ目を覚ましても必ずどちらかが側にいてくれた。練習の時間は全部睡眠時間を削って作ってくれていたはず。そんな風に私を守ってくれる人は初めてで、どう接していいか悩んでしまった私を――それも、唐突に前世の記憶がどうのなんて言い出した私を二人はとっても大事にしてくれた。間違いなく、篠井彩香の両親があの人達じゃなかったら、私はこんな風に変わる事はできなかったと思う。

「今でも二人の事大好きなの。一緒にいられた時間は短かったけど、すごく幸せだった。私に家族の暖かさを教えてくれた人達だから、これからもずっと忘れたくない。ずっと、どんな小さな事でも全部、覚えてたい、って思うんだよね」

「そっか、二人ともとっても素敵な人達だったんだね」

「うん。それにね、栞母様の作ってくれたオムレツ、すごく大きかったんだよ。一番大きなフライパンで作ってくれたんだもん」

「一番大きなフライパンっていうと……?」

「なんと直径四十センチ!」

「四十センチ?!」

 大きさの想像がつかないらしい雅浩兄様に実際の大きさを言ったら、雅浩兄様が声を上げた。うん、驚くよね。あの頃私には実際以上に大きく見えて、すごくびっくりしたもん。

「すごいな。そのサイズできれいに作れるとか、栞さん、本当に料理上手だったんだねぇ」

「う、うん、上手だったよ?」

 感心したようにつぶやく雅浩兄様の言葉に、一瞬言葉につまっちゃった。

「どうしたの? なんか微妙な返事だね?」

 ……うぅん、別に隠すような事じゃないからいいかなぁ? 私も栞母様の話したいし。なんとなく、こんな風に話がむいた時以外だと話しにくいんだよね。まぁ、百合子母様と政孝父様に話すより話しやすいんだけど。

「話したくない?」

「そういうんじゃなくて……。……ええと、雅浩兄様は雄馬父様と栞母様の話を聞くの、嫌じゃない?」

「僕は教えて欲しいけどな。だって、彩香の大好きな人達の話だよ? 彩香だって、僕や父さんと母さん、克人の好きなものとか知りたいって思ってくれてるよね? それと同じだよ」

 ほほえんでの言葉に、それならいいのかな、と首をかしげたら、雅浩兄様が目をまたたいた。

「どうしたの? 何か心配事?」

「……えっとね、昔、実習であつかったケースなんだけど、実の親の記憶がはっきりしてる子供を引き取ったら、昔の話ばっかりして、比べられてるみたいで嫌、っていうのがあったから……。みんなも雄馬父様と栞母様の話はあんまり聞きたくないかな、って思ってたの」

「そっか、彩香は僕達の事を心配してくれてたんだね。ありがとう」

 嬉しそうに笑った雅浩兄様が頭をなでてくれる。

「確かに、彩香が何をしても雄馬さんと栞さんの事ばっかり話題にしてたら嫉妬するかもしれないけど、こうやって話がむいた時は教えて欲しいな。……まぁ、もったいなくて話せない、って言うなら、彩香の気持ちを尊重するよ?」

 最後だけ冗談めかして片目をつぶってみせた雅浩兄様の言いように、なんだか肩の力が抜けてつい笑っちゃった。

「雅浩兄様が知りたいって言ってくれるなら、話したい。素敵な人達だったから、自慢したいもん」

「うん、教えて?」

 楽しそうに先をうながされて、一つうなずく。

「あの、ね?」

「うん?」

「栞母様、お料理はね、上手じゃなかったよ?」

「え? でもさっき……」

「うぅんとね、栞母様が上手に作れるのは、ふわふわのオムレツだけなの」

「……それって、つまり、料理自体は苦手って事?」

「うん。栞母様、本当に料理はすごく苦手で、ふわふわのオムレツもコックさんに特訓してもらってやっとできるようになったんだって」

 綾なら一度お手本を見せてもらって、二回もやれば完璧に作れるんだろう。今の私だって、たぶん何回か練習すればできるようになると思う。きっと栞母様と料理はすごく相性が悪かったんじゃないかと思うんだよね。

「でもね、苦手なのに一生懸命がんばってくれたのがすごく嬉しかったの」

「そうだね。苦手な事ができるようになるには得意な事の何倍もがんばらないとだもんね。栞さんはそれだけ彩香が好きだったんだねぇ」

 すごいね、とやわらかく笑ってくれる雅浩兄様にうなずく。本当、栞母様の他の料理は……。まぁ、うん、食べられなくはなかったよ。ただ、ちょっと、コックさんが作ってくれたルゥで作ったはずのカレーでも妙に焦げくさかったりお芋がゴリっとしたり、普通のお料理でも味が濃かったり薄かったり、調味料を間違えてたり……。何か一つくらいはアクシデントが起きてるんだよね。だから逆に、どうしてそんな実力の人があの完璧な特大ふわふわオムレツを作れるのか不思議というか……。雄馬父様は、それだけ彩香の事が大好きなんだよ、って笑ってたっけ。

 栞母様がいない時に、父様のためにはそこまでがんばってくれないのになぁ、なんてすねてたけども。でも、栞母様は栞母様で、父様は彩香を抱っこしてる時が一番嬉しそうなのよ、なんて少しすねてたなぁ。二人とも笑ってたから冗談だったんだろうけど。

「栞母様はお料理がすごく苦手で、でも、音楽はとっても上手だったの。だから、よく歌ってくれたり、ピアノとかバイオリン弾いてくれたの」

「へぇ。そうなんだ?」

「うん。()もピアノは結構弾いてたし、幸兄がすごく上手だったからうまい人の演奏は聞き慣れてたけど、それでもすごいって思ってた」

「そういえば彩香もピアノうまいよね。ここ何年か、すごく伸びてるって先生がほめてたよ」

「あぁ、雅浩兄様も克人兄様もピアノやらなくなったから」

「……うん?」

 ちょっなんか声が低くなりませんでしたかっ?!

「僕達がやってるのと彩香が上達するのに何か関係があるの?」

 にっこり笑顔で、でも、回答拒否は認めないよ、と無言の圧力が……っ。

「い、いや、ほら、色々と……ね?」

「つまり、彩香は僕達よりうまくなるのが嫌で、わざと抑えてたわけだ? ……そういう事したら怒るよ、って言わなかったっけ?」

「いやだから魔人とか勘弁ですからだってコンクールとか出るの嫌いだしそもそも私は桂吾のために弾いてただけでしかもここ何年かなら雅浩兄様が怒るって言うより前の話だから無効だと思うのっ!」

「これはつまり、彩香とかぶってる習い事は全部やめろって事? その上、藤野宮からも転校して欲しいって事かな?」

「違いますからっ! ピアノの先生が変わってコンクールコンクール言われなくなったから好きに弾けるようになっただけだもんっ」

「本当に?」

 大慌てで言いつのると、雅浩兄様が眉間にしわをよせたまま聞いてきた。こくこくと勢いよくうなずいたら、二日酔いの頭が痛んでうめく。

「彩香ってば……。そんなに勢いよく動いたら頭痛くて当然だよ、もぅ。ほら、もっとスポーツドリンク飲んで」

 コップにつぎ足されたスポーツドリンクを飲んで一息ついてから、違うもん、とつぶやいたら、雅浩兄様がふっと目元を和ませた。

「うん、わかったから。でも、違うなら僕達がやめたのがどう関わってるの?」

「あのね、兄様達がやめた後、兄様達の習ってた先生が、手が空いたからって私を見てくれるようになったの。前の人もいい先生だったんだけど、なんていうか、生徒をコンクールに出させるのが好きな人で……。私、そういうの出たくなかったから、あんまりうるさく言われないですむように、発表会でわざと失敗したり、少し下手なふりしたりしてたの……。でも、今の先生は、コンクールは出たい人だけ出ればいい、って考えだから、普通に弾いても大丈夫で、元からピアノ嫌いじゃないから楽しいし、だんだん上達してるっていうか、昔の勘を取り戻しつつあるっていうか……」

「あぁ、僕達がやってるから抑えてたんじゃなくて、先生が苦手で抑えてたんだね? で、僕達がやめて先生が替わったから、その抑えを外せた、と」

「うん。えぇと……。それでも怒る?」

 怒られちゃうかなぁ、と雅浩兄様をうかがいながら聞いたら、兄様は少し考える様子で間を取った。

「そうだねぇ。先生が苦手なのを黙ってたのは怒らなくちゃいけないかなぁ」

「でも、コンクールにこだわる所以外はいい先生だったよ?」

「だとしても、それで彩香が楽しくピアノ弾けなかったのなら、隠してたのは駄目な事だよ。父さんも母さんも彩香が目立つ事好きじゃないのは知ってたんだから、コンクール出たくないのに出ろ出ろ言われるのが嫌だ、って言えば、先生替えてもらうなり、コンクールには出さないから話題にしないで欲しい、って言ってもらう事だってできたんだからね?」

「あ、そっか。そういう手もあったね」

 思わず、ぽむ、と手を打ったら、雅浩兄様がげんこつで私のひたいをほんの少しだけこづく。

「そういう所で甘えてくれないの、彩香の悪い癖だよ」

「……ごめんなさい」

 叱られて肩を落としたら、雅浩兄様の笑う気配がした。

「罰として、彩香は当分僕の部屋で寝るようにね」

「へっ?!」

「まぁ、色々あったし、もうしばらく見逃してくれるつもりみたいだから。彩香だってその方がよく眠れて嬉しいよね?」

「そうだけど、それって全然罰じゃないよ?」

「それもそうか。じゃあ、彩香を守れなかったおわび、って事で」

 あっさりと方向を変えた雅浩兄様の言葉に眉をよせる。もう何度目ですか、この話題……。

「だから、あれは雅浩兄様のせいじゃないよ」

「だって、彼女が彩香に敵意を持ったのは僕の妹だからだよね?」

「そもそも、幸兄がからんでた時点で私が見過ごされるはずないって。私の不注意だから気にしないで?」

 体調が落ち着き始めてから何度も繰り返された話題に内心ため息をつく。なんで雅浩兄様は自分の責任にしたいのかなぁ? 警戒を怠った私が悪いだけの話なのに。

「彩香はそう言ってくれるけど、その場にいあわせたのにむざむざやられたのは僕の落ち度だよ。あの時、僕が藤野美智を先に行かせてればあんな事できなかったんだから」

 悔しそうに言う雅浩兄様が、テーブルの上に置いていた手を握りしめた。そんなに力一杯握ったら痛くなっちゃうよ。

「学園内で一番彩香を守れる立場にいるのは僕なんだし、もっと注意してなくちゃいけなかったんだ」

「それを言ったら、安全圏まで藤野さんが遠ざかったのを確認しないまま階段を降り始めた私の方が悪くない?」

「彩香はまだ中学一年なんだよ?」

「中身はいい年だからね?」

「余計な上げ底しなくていいから」

 余計とか上げ底とかなんなんですかっ?! 酷くない?!

「雅浩兄様が意地悪言った!」

「意地悪って……」

()の記憶は余計なんかじゃないもんっ」

 言い返した声は自分で聞いてもなんだか泣きそうで、それ以上口を開けなくて黙ったら、ごめんね、とつぶやく声がして、やわらかく頭をなでてくれる感触がする。

「悪い意味じゃなくて、年上なのを理由に僕の失敗をかばわないで、って言いたかったんだよ。確かに彩香は昔の事も含めたら僕より年上だよね。でも、今は僕の妹なんだし守らせて欲しいんだ」

「だったら、年の事理由にしないで。それ言われると、素直に甘えたら駄目な気分になるんだもん……」

 うつむいてもごもごと主張したら、頭をなでてくれる手の動きが一層優しくなった。

「うん、ごめんね。正直、あの時ものすごく驚いたし怖かったんだ。だから、ちょっと、動揺がおさまりきってないのかもしれないね」

「怖かったって、雅浩兄様が? なんで?」

 思わぬ言葉に顔を上げたら、雅浩兄様は困ったように笑って少し首をかしげた。

「なんていうか……。あの時、階段の下に倒れて動かない彩香が、声をかけても返事をしてくれなくて……。もしかしたらこのまま……、なんて思っちゃったんだよね。その後も中々目を覚ましてくれなかったし。もう大丈夫なのはわかってるんだけど、ね」

「そっか、初めて()が現実になったから、それが怖いんだね」

「うん?」

 私のつぶやきに雅浩兄様が目をまたたく。

「お祖父さんのお葬式とか出てるし、別に初めて意識したってわけじゃないけど」

「そういうんじゃなくて、えぇと……。年をとって病気で死ぬみたいな予定調和的な死だけじゃなくて、不意に隣にいる人が殺される事もあり得るんだ、って気づいた、っていうのかな?」

 言葉を探しながら説明すると、雅浩兄様はなんだか戸惑った様子だった。

「そういう理不尽な別れもあり得る、って気づいて不安になったんだね。でも、それと次に活かせない無駄な後悔をするのとは違うよ?」

 手を伸ばして雅浩兄様のほおに触れると暖かい。ごく当たり前の事だけど、そうじゃない事も私は知っている。人はある時突然、その暖かさを失って冷たくなってしまう事もある。……雄馬父様と栞母様みたいに。

 私があの時感じたのと同じ怖さと後悔を雅浩兄様も感じてるのかな? 不可能だってわかってるのに、あの時外出をとめてたら、もし私が少し違う事をしていたら、二人は事故に遭わなかったんじゃないか、死なずにすんだんじゃないか、って何度思っただろう。

 でも、そんな事を考えても何にもならないんだよね。

「雅浩兄様が私の心配をしてくれるのはすごく嬉しいの。でも、よく考えて。もし、人から今回の事件を聞いたとしたら、雅浩兄様は自分の立場の人に落ち度があった、って責める? でなければ、克人兄様と桂吾は雅浩兄様を責めたの?」

「……それ、は」

 言葉につまったのは、二人とも雅浩兄様を責めなかった、という意味だと思う。桂吾とはあの後何度かメールでやり取りしたけど、桂吾もあれを予測するのは無理だったと言ってたもんね。克人兄様は……、連絡しづらいから聞けてないけど、似たような判断をすると思うし。

「だからね、無意味な後悔はもうやめよう? 事実として、あれは防ぎようがなかった。……まぁ、私が昔の回転数に戻してたら別だけど、そうでもなければ危険なれしてる人以外には無理だよ」

「そう、かな?」

「うん。だから、もうそんなに気に病まないで? 私は大丈夫なんだし、むしろ雅浩兄様がいない時にあんな事になってたら、って思うとぞっとするよ。雅浩兄様がいる時でよかった」

 もし、あの時藤野さんと二人きりだったら、と仮定すると正直怖い。だって、あの時は雅浩兄様って目撃者がいたから、あの人はすぐに逃げ出したんだろうし、すぐに対処してもらえた。でも、そうじゃなかったら?

 突き落としただけで気がすまなかったら? あるいは、頭を打ってあんな場所で長時間放置されたら?

 怖い結論しか思いつかないくらいには危険だったんだ。

「それに、あの状況でよくパニック起こさずに連絡してきた、って桂吾がほめてたよ」

 たぶん、面と向かっては言わなかったと思うけど、って付け足したら、雅浩兄様が驚いたみたいに目をまたたく。

「瀬戸谷先生は、悪くない判断だった、とは言ってくれたけど……。本当に?」

「まず俺に連絡いれたのは雅浩にしては上出来でしたね。おかげで高浜の横槍が心配ない病院、それもあの先生がいるところにあんたを運べましたから。――そうでなかったら、と思うとぞっとしますよ」

 桂吾の口調をまねてみせたら、雅浩兄様がいっそう驚いたように目を見開いた。

「本当?」

「こんな変な嘘つかないよ。それに、私もあの状況なら桂吾に連絡するのが最善だと思う。一番近くにいる教員だから対処もはやくできるし、私のからみで雅浩兄様も桂吾と親しいのは学園側も知ってるから自然な流れだよね」

 約束してたんだから確実にカウンセリングルームにいるわけだし、直前で名前を聞いてたから一番に思い出して当然。だから、はた目にも違和感がなくて、そして私にとって一番いい選択だった。

「私、あの発作出てる時にやると悪化する検査がいくつか時あるんだよね。だから、その辺わかってくれてる教授のいる病院ですごく助かったもん」

「そういえば、頭打ってるのにすぐにはたいした検査もしなかったね。あれだけ酷い頭痛が出てたらたくさんやりそうなものだけど」

「その代わり脳波と血流の検査してなかった?」

「うん、してた」

「たぶん、高浜綾と似てる、って聞いて、同じように過負荷での発作を起こしてる可能性考えてくれたんだと思う。だから、状態が落ち着くまで検査ひかえてくれたんだと思うの」

「そっか。……少しでも彩香のいいようにできてならよかった」

「雅浩兄様はちゃんと、できる限りの事をしてくれたんだよ。だからできなかった事を悔やむんじゃなくて、これからの事を考えよう?」

 笑顔でおねだりしたら、雅浩兄様のかたかった表情がやっとやわらいだ。

「そうだね。でも、今回の失敗は忘れないよ。もう二度あんな思いはしたくないからね」

 そう言って笑ってくれた雅浩兄様はやっといつもの笑顔で、なんだか嬉しくなってきた。

「私、雅浩兄様が笑ってくれるとなんだか嬉しい」

「そう言ってもらえると僕も嬉しいよ。……まぁ、じゃあ添い寝は彩香のが嬉しい事言ってくれたお礼って事にしておこうか?」

 さらっとつけ加えられた言葉についふき出す。本当、理由はどうでもいいんだなぁ。

「そうだ、克人がお見舞いに来たいって言ってたけどどうする?」

 ふと思い出した、って感じで雅浩兄様の口から出た言葉に思わず硬直する。

「……いいよ、別に。そんなたいした事でもないし」

「そう? 彩香の大好きなムース、お土産に持ってきてくれるって言ってたよ?」

「……食べ物になんてつられないからっ!」

「というか、克人がムースを餌に彩香に会いたがってるって事? なに、けんかでもしたの?」

 少し心配そうな、でもちょっと面白がるような言葉に、口を滑らせた事に気づく。そうだ、あの事は雅浩兄様には内緒にしてたのに……。

「というかね? 克人はたぶん、すごく格好つけだから彩香の前で取り乱したところ見せたくなくて、いつでもしれっとしてるだけだと思うけど? あれで彩香とけんかすると本気でへこんでるから適当なところで許してあげて欲しいな」

「……って、それなにちょっと待ってもしやのつつ抜け?!」

「克人ってば、彩香を泣かせた、って本気でへこんでたよ? 彩香は克人より僕の方が好きだから、僕ともめさせたくなかっただけだったんだけど、って、それはもう特大のため息ついてさぁ」

 おかしそうに笑いながらの言葉に、どうリアクションしていいかわからない。

「だって、克人兄様は……」

「いつだってしれっとしてるからわかりにくいけどさ。克人はいつも彩香に優しいよね? 克人は表に出すの苦手なだけで、いつだって彩香の言葉に喜んだり慌てたり、大忙しなんだよ?」

「そうかなぁ……」

「でなくちゃ、わざわざ父さん達に頭下げて彩香の添い寝解禁をお願いしたりしないと思うよ?」

 あれ、どう考えても久我城が篠井に借りを作った形だよ、とあきれ混じりに言う雅浩兄様の言葉に目をむく。

「ちょ、待ってそれどういう事?!」

「だからね、克人は久我城の跡取りとして、正式に彩香を不用意な発言で傷付けた事、謝罪してきたんだよ。その上で、彩香が落ち着くまで最大限の配慮を、って頭を下げた。だから父さんも母さんも見ないふりをしてくれてるってわけ。でも、できるだけ内々の話にしてるけど、多少はもれるだろうからね。克人としてはちょっと立場が悪くなったんじゃないかな」

 年下の従妹を正式な謝罪が必要な程泣かせただなんて勘ぐれば勘ぐりようはあるからね、と雅浩兄様がため息をつく。

 それはそうだ。普段のやり取りで私がすねて怒った、とかそういうレベルの問題じゃない。克人兄様が個人としてじゃなく、久我城の跡取りとして謝罪したという事は、まわりはそれが必要なほどの事があったと思う。しかも、その直前私が入院していたと来れば……。最悪、克人兄様が私によからぬ事をした、だなんて思われてもしかたがない。というか、久我城や篠井を叩きたい人達はそれこそ事実みたいにしてそういう噂を広めようとするはず。

「なんでそんな事になってるのっ?!」

「僕に聞かないでよ。僕だって、父さんと母さんだって、正式な謝罪なんていらない、って言ったんだから。その場にいたわけじゃないけど、克人がちょっと失言しただけだよね? そんなのお互い様だし、彩香だってそんな大げさな話にはしたがらないはずだから、って断ったんだよ。でも、克人がね、久我城の跡取りからの正式な申し入れがあれば融通できる範囲が違うだろうから、って譲らなくてね。泥は全部自分がかぶるから今は彩香の事を最優先して欲しいんだって」

 文句なら克人に直接言ってよ、と困ったように付け加えられた言葉に、唇をひき結ぶ。そりゃあの言葉はショックだったけど……っ。でもこれはない。

「雅浩兄様、スマホ貸してっ」

「え? うん、いいけど……」

 私の勢いに押され気味な雅浩兄様がさしだしてくれたスマホをひったくると、迷わず克人兄様のスマホをコールする。

「もしも……」

「今すぐうちに来て事情説明してくれないと一生口きかないからねっ?!」

 言葉をぶったぎって叫ぶなり通話終了。よし、言ってやった!

「雅浩兄様、ありがとう」

 用のすんだスマホをさしだすと、しきりと目をまたたきながら、受け取ってくれた。

「どういたしまして……?」

 そして、案の定克人兄様からの着信が入って、困ったように私とスマホを見比べる。

「あ、私、電話で話すつもりないから。手土産はなくていいから話がしたかったら直接来てって伝えて?」

 満面笑顔で断言したら、雅浩兄様は苦笑いでうなずいてから電話を取った。

「もしもし? ……何か勘違いしてない? これ、僕のスマホなんだから僕が出て当然だよね? 彩香? もちろんとなりにいるけど出たくないって。話がしたかったらうちに来てってさ。……理由? 僕が克人のやらかした事を話したからじゃない? すごく怒ってるみたいだよ? とりなし? 嫌だよ、僕まで彩香に嫌われたらどうするのさ」

 克人兄様の声は聞こえないけど、楽しそうな雅浩兄様の声を聞いているだけでなんとなく何を話してるのか伝わってきた。

「彩香が嫌がるからやめといたら、って忠告したろ? 僕を巻き込まないでよ。じゃ、伝えたからね。後は自分でなんとかしなよ。……うん、わかった。伝えとく。じゃあね」

 通話を終えた雅浩兄様が私の方を見て笑う。

「克人ってば、すごい慌てよう。僕がでたら、なんで雅浩なんだよ?! とか言ったよ。誰のスマホだと思ってるんだか」

「ぶっ」

 思わぬ言葉についふき出しちゃった。なにその理不尽さ。普段の克人兄様からは想像もつかないんだけど……っ。

「克人、二時間後くらいにうちに来るってさ。生徒会の仕事がたまってるから、さすがに今すぐは抜けられなくてごめん、って。……役員連中の前であの慌てようとか、後で悶絶ものだろうな」

 くすくすと笑いながらの言葉を聞いて、克人兄様がどれだけ慌ててたのかちょっと気になってきたかも。

「克人が来たら少しからかってやるといいよ。克人があんな慌てる事って滅多にないからね。直接見たかったなぁ」

 本当に楽しそうに意地悪な事を言う雅浩兄様。でも、これって親しいからこその間合いだよね。本当、仲がいいんだから。

お読みいただきありがとうございます♪


2015/3/23

ご指摘がありましたので、絵本とオムレツに関する部分を修正しました。

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