応接室にて。
雅浩兄様視点になります。
「昼からお酒は……って、彩香に飲ませたのっ?!」
部屋に入るなり鼻をついたアルコールのにおいに苦情を言おうとしたものの、視界にとらえた彩香の姿に思わず声が跳ね上がる。ソファに体を預けてすやすや眠ってる姿は一見平和そのもの。でも、部屋にアルコールのにおいがする以上、母さんが彩香に飲ませたのは間違いない。
「あら、だって彩香さんは成人あつかいでもかまわないでしょう?」
「それは中身だよ! 体はまだ九才なんだからねっ?!」
案の定、さらっととんでもない事を言う相手に声を荒らげる。彩香はただでさえ成長が遅れ気味で心配なのに、お酒を飲ませるなんて言語道断だよ。なのに、母さんはものすごく楽しげな笑みを返してきた。
「あら、でもとっても興味深い話が聞けたのだけど……。方法に不服があるのなら、雅浩さんは聞かないという事よね?」
「そういう問題じゃないよ。彩香の体によくないって言ってるんだけど?」
「言っておきますけど、彩香さんが飲んだのはチョコレートボンボン三つ分くらいの量なのよ? そのくらい、許容範囲でしょう?」
「……へ?」
「私が彩香さんの体に障る程の量を飲ませるとでも思って?」
少しばかり意地の悪い笑みを浮かべての返事に、言葉につまる。確かに、彩香をこれでもかとかわいがってる母さんが体に負担をかけるような事をするはずがない、か。
「ごめん、ちょっとあせって視野が狭くなってた」
「そのようね。もう少し気をつけなくては駄目よ?」
「うん」
やんわりとした注意にうなずくと、着ていたブレザーを脱いで彩香にかけてからあいている席に座る。眠っちゃうと体温が下がるから風邪をひいたらかわいそうだ。
それにしても並んでいる食べ物はまったく手つかずみたいだし……。彩香は相当お酒に弱いのかな?
「綾さんはかなりアルコールに強かったようだけど、彩香さんはそうでもないみたいね。まぁ、栞もアルコールはまったく駄目だったから不思議でもないけれど」
どこか懐かしそうにつぶやいた母さんは、そういえば彩香の実の母親である栞さんと親しかったんだっけか。母さんがさん付けしないで呼んでるの、使用人さん達以外だと栞さんだけだし、相当仲が良かったんだろうな。雄馬さんと父さんも仲がよかったっていうし、二人が生きていたら家族ぐるみの付き合いができただろうに。
「雄馬さんと栞さんって、どんな人達だったの? 母さん達、親しかったんだよね?」
「彩香さんが大好きな人達、というのでだいたいわかるでしょう? 他の情報なんて必要かしら?」
「それはそうなんだけど、単純な興味? 僕、雄馬さんと栞さんについては彩香の両親ってくらいしか知らないからさ」
「それでいいと思うわ。……彩香さんの夢を壊しても悪いもの」
……なんだか思わせぶりな言葉と笑顔が怖い。本当、どんな人達だったんだろう?
「それで、僕に用って何?」
帰ってくるなり、母さんがここで呼んでるって言われて、着替えの暇もなく連れてこられただけの理由があるはずなんだ。無駄な事をする人じゃないからね。
「本当は少し酔った彩香さんが雅浩さんに甘えて慌てさせてくれるかしら、と期待してたのだけど」
「……母さん?」
……うん、そういう遊びのためにも労力を惜しまない人だけどさぁ……。
思わずため息をついたら、母さんがおかしそうに笑う。
「ひとまず桂吾さんの事はもう切り替えがついているようね。たぶん、感情が落ち着くまであと少しかかるとは思うけれど、その意味では心配なさそうね。むしろ、克人さんとの事の方が心配だわ」
しばらく本題に入らないのかと思ったとたん、さらりと話題を変えられて気を引きしめる。母さんはこういうところがあるから油断ならないんだよな。まぁ、僕が将来篠井の跡取りとしてやっていくためのいい訓練になってるんだけど。
「なんだかこじれていそうな雰囲気よ? 意地悪を言う克人兄様なんて好きじゃないもん、ですって」
さすがに心配そうに眉をよせてそう言った母さんは、彩香が話した内容を教えてくれた。
「……ちょっと克人に同情した」
言葉の真意が、少しでも彩香が傷つかないように、って思いやりなのはわかるんだけど、彩香がすねたくなる気持ちもわからなくもない。克人はいつもそつなくさらっとこなしてる雰囲気だから何かに執着するってイメージがないんだよね。だから彩香にとって都合のいい事ばかりを言われたら疑いたくなるのはわかる。しかも、納得しての事とはいっても失恋直後にそんな事を言われたらなぁ……。
でも、僕は克人はなんでもそつなくこなしている顔の裏で、努力家で意外と凝り性なのを知ってる。彩香が努力してないとはいわないけど、あの子はどちらかといえば天才肌で、克人は努力で結果を出してる秀才肌だからね。たぶん、見えないところでは僕と同じかそれ以上に努力してるタイプだ。しかも一度興味を持った事はとことんきわめたくなるタイプ。
克人のあの態度は将来久我城の跡取りとしてやっていくための布石なんだろうけど……。これは克人が作ってきた仮面が彩香にまで有効な程だってほめるところなのか、彩香の観察力不足をなげくところなのか……。……ま、彩香にまでそんな態度で通した克人が悪い。身内に数えた相手にはとことん優しいし本当に大切にする癖に、変な意地はって彩香にまで格好つけるからこうなるんだよ。本人が見せたがらないから見ないふりしてるけど、そういう性格の克人が彩香に対して見せかけだけで好きなふりなんてするはずがない。
でもまぁ、そういう所も含めて克人なんだし、だからこそ彩香の事任せてもいいかな、なんて思えるんだけどね。
「本当、とことん人間不信だよね……」
「まぁ、彩香さんの生い立ちを考えると、今でも充分なくらいまわりに心を許せていると思いますけどね。根本的なところで自信がないというか、信じ切れないというのか……。これを責めるのは酷でしょうけどね」
さすがに苦笑いの母さんがグラスを傾ける。……こらこら、未成年の子供の前で昼からお酒飲まないでよ。
「これは法律的にも清涼飲料水ですからね?」
「わかってるけど気分の問題。まぁ、彩香と克人が仲直りするまでは僕がちゃんと側にいるから」
考えを読んだみたいな言葉に苦笑いで返事をする。
「今回は克人の方から言ってきたんだから、僕がどれだけ彩香の側にいたって問題ないよね?」
「――雅浩さんはそれでいいのかしら?」
「どこに問題があるのさ?」
こっちの意図を探るように、ほんの少し鋭くなった視線を受け止めて笑う。
「一番彩香の側にいるのは僕なんだよ? それなのに気づけないと思われてたんならショックだなぁ」
「そういう意味ではないわ。――確かに、私も政孝さんも、彩香さんを優先する事が多いけれど、雅浩さんの幸せも同じように望んでいるの。たぶん、今克人さんとの仲を取り持ったりしなければ、間違いなく彩香さんは雅浩さんを選ぶでしょうに」
「僕もそう思うよ。でもね、僕にだってプライドくらいあるんだよね。そんな、泥棒じみた方法で彩香を手に入れたいなんて思わないんだ。それに、何よりも彩香は僕に大好きな兄様でいて欲しいみたいだからね。――兄妹なら一生縁が切れる事はないけど、下手に恋人になんてなったら喧嘩別れの可能性が出てくる。それが怖いんじゃないかな?」
気持ちよさそうに眠ってる彩香の顔に視線を動かすと自然と口元がゆるむ。僕は昔から、ぐっすり眠れてる彩香の寝顔を見るのが好きだった。だからこそ、こんな風に安心しきって眠れる場所を守るためならどんな事だってしてあげたい。
「だから、僕が兄様の位置にいる事で彩香が少しでも安心できるなら、その方がいい。そりゃ、僕の事を選んでくれたら一番嬉しいけどね、でも、この位置も悪くないよ? だって、どう考えたって、彩香は克人ともめた時より僕とすれ違った時の方が辛そうだったからね。僕の方が好きなのは確かだし、一つくらい克人に譲ってあげる事にした」
冗談めかして言うと、母さんがなんとも言い難い表情でため息をついた。
「母さんが僕の心配をしてくれてるのはわかってる。……そのつもりだよ? でも、僕はやっぱり彩香が一番幸せになれる道を選びたいんだ。きっと、彩香には家族と……親や兄様とうまくやっていける生活が必要だと思う。それなのに、そこから急に兄様を恋人としてみろって言うのはかわいそうだからね」
それに、高浜幸仁との間にあっただろう事を考えれば彩香にそれを望むのはあんまりにも酷い。今はともかく、恋人になったら五年後、十年後、あの子にそれをまったく期待しないなんて不可能だよ。だから、そっちで失敗して、嫌い、って叫ばれる役目は克人に押しつけておけばいい。もちろん、彩香が望んでくれるなら喜んで引き受けるけどさ。
「僕は彩香が望んでくれる相手でいるよ。今は優しい兄様でいて欲しいみたいだからそっちに重点を置く。――もちろん、将来それが変わる時が来たら、その時は全力で奪い返すけどね」
「わかったわ。雅浩さんがそう言うのなら、私達もそのつもりで動きましょう。それにしても、二人して同じような事を言って……。あなた達は本当によく似た兄妹ね」
「喜んでいいのか悪いのか微妙だけど……。ほめ言葉だと思っておこうかな」
「あら、もちろんほめているのよ? 彩香さんが今ああやって前向きな気持ちをなくさないでいられるのは、一番側にいる雅浩さんが前向きな考え方をしているからだと思っているのだけど?」
そういう意味なら喜んでいいのかな? 彩香とは兄妹でいよう、って決めたけど、まだ事情を知ってる人から言われると少し辛い。……それとも、この痛みにも早く慣れなさい、っていう母さんからのアドバイスなのかな?
そんな事を考えてたら、母さんが笑う。
「久我城には今まで通り、克人さんが自力で彩香さんを口説き落とせたら婚約の申し入れを受ける、とだけ返事をしておくわ。久我城以外からの申し入れはお断りしていきましょうか」
「……他からも来てるの?」
「ええ。高浜本家をはじめとしてね」
「高浜から? でも、彩香と年の近い子供なんていたっけ?」
思わぬ言葉に眉をひそめたら、母さんがため息をこぼした。
「現当主の養女に、というお話ね。あそこは現当主が独身で、跡は一応甥が指定されているけど、まぁ、今ひとつな人だから。彩香さんに跡を取らせたいようね」
確かに彩香なら高浜だろうが他の家だろうが、跡取りにすえたら充分にやってくれるだろうけど……。
「いっそすがすがしいほど違う目的なのが見え見えだ」
「まったくね。あと、他には瀬戸谷から内々の意向うかがいの段階ではあるけど、跡取り――つまりは桂吾さんと、っていうお話があるわね。どうも、現当主夫妻の独断のようだけど」
「だろうね。瀬戸谷先生が言い出すはずないし」
「まだ数件あるけど、雅浩さんが知っておいた方がいいようなのは、相良から次男との婚約の申し入れがあるくらいかしら。長男の廃嫡が決まってからの話だから、たぶん篠井への恭順を示すためね。雅浩さんが内々に処理、と言い渡しているから、不自然なく篠井にこびるための口実が欲しかったんでしょう」
「なるほど。じゃあ、とりあえず久我城、高浜、瀬戸谷、相良の四家からのものは保留、他は順次断る感じかな?」
「そうなるわね。あと問題なのは雅浩さんの縁談よ? 一応、何件か打診はしているけど、どこも彩香さんを猫っ可愛がりだから、って理由で渋っていてよ?」
不意に変わった話題に思わずむせる。
「まぁ高校卒業まではあせる事もないでしょうけどね。大学卒業までには候補くらいは確定させたいからそのつもりで」
「わかってるよ。さすがに三十過ぎてはっきりした相手がいないのがまずいんだよね?」
「雅浩さんにその自覚があるのならこれ以上は言わないでおきましょうか。今は彩香さんの事が優先ですものね」
あっさりと話を畳んでくれた事に内心胸をなで下ろす。この話題だけは困るというか……。居心地が悪い。
「……今さらの疑問なんだけど」
「何かしら?」
「篠井本家としては、彩香を久我城に嫁がせるので本当にいいの? 正直、あの子の才能を考えると、本当はうちで取り込んでおくべきじゃないかって気もするんだよね」
父さんも母さんも口に出さないけど、彩香の能力ははっきり言って他家に渡すのはもったいない。母さんが僕と彩香の仲を取り持ちたがるのだって、何割かはその思いもあるはずなんだから。
「そうねぇ……。確かに、正直をいえば雅浩さんと結婚して篠井に残って欲しいと思わなくもないのよ? でも、考えてみなさいな。雅浩さんが大好きな彩香さんが、結婚したところで篠井の不利になる事をできるかしら? 万が一があったとしても、絶対、事前に突き止めてなんで雅浩兄様に酷い事しようとするのっ?! って、半泣きで旦那様にくってかかると思うのだけど」
母さんの思わぬ返事にこらえる間もなくふき出す。うん、確かに彩香なら言いそうだよ。
「だから、篠井本家としては彩香さんの生き方に変な口をはさむよりも、より深く良好な関係を築くのが最適解なのよ。だから篠井としては彩香さんが内部に残るかどうかはそう重要視していないの」
「なるほど。それを聞いて安心したよ。最悪、うちの連中を黙らせるところから始めるようかと思ってたから」
「馬鹿はさえずらせておきなさいな。どうせ、本家の意向に逆らうだけの気概も能力もない連中ですからね。中核に近い面々は篠井にとっての彩香さんの価値を見誤る程おろかじゃありませんよ」
品よく笑う母さんかちらりと冷たい気配をのぞかせる。この人、家にいる時は優しい母親だけど、篠井の当主夫人だけあって一歩外に出るとやっかいな人なんだよね。……ここ数日、高浜関連の企業で株価が下がりだしたの、絶対母さんの策略だ。
「そうそう、彩香さんに怪我をさせたお嬢さんはどうなったのかしら? 今日、その処遇を話してきたのよね?」
「さすがの藤野宮家も、いくら本家当主のお気に入りとはいえ分家の娘のために篠井と事を構える気はないらしいね。小賢しくこっちの意向に従うとか言い出したから、身内の不始末を処断する事すらできない程無能なのか、ってせせら笑ってきたよ」
たぶん、本当は最初に聞きたかっただろう話題をふられて、ひとまず簡単に答える。
藤野宮は高浜にこびるのが生きる術だとでも思っていそうな所がある家だけど、さすがに篠井本家の人間に直接怪我をさせた――場合によっては命に関わる事だって充分わかっての所行をかばうつもりはないらしい。高浜としても騒ぎを大きくしたくないのか、単にあの男の気まぐれか、藤野美智は高浜本家で当主の監視下におかれて謹慎中、らしい。まぁ、あの男の言ってた事が本当ならそれはなによりの懲罰になりそうだけど。
話し合いの場で、藤野宮側は全面的にこっちの意向に従う、と処遇を一任してきたけど、それは要するに自分達で藤野美智の処遇を決めて高浜幸仁の不興を買うのが怖いだけだろう。だから、その逃げ道をふさぐためもあって、まずむこうから処罰の案を提示してくるようつっぱねた、というわけ。
「順当なところね。政孝さんはなんと?」
「父さんはこれを機に高浜本家をひきずり出したいみたいだよ。本家預かりにする事で本人が謝罪しない正当性を作ってるだけだろう、当主預かりにするならその当主が頭を下げにくるのが筋じゃないのか、ってけんもほろろ。相手の話なんて一切聞く気なし、の態度だったね。形としてはしかたがないから僕が、最低限高浜当主と本人からの正式な謝罪、処罰内容の提示、および今回の彩香の欠席に対する補填の対応する事、だけ申し入れて場をつないだ、って感じだね。ま、父さんの筋書き通り踊らされたかな」
話し合いの場にいる間から、父さんの狙い通りの発言をするように誘導されてる感じはしてたんだけど、まぁ、僕はまだああいう場での経験が足りないからしかたがない。操られるまま踊るのだって経験のうちだしね。
「あらあら、政孝さんの狙い通り踊るだけだってたいしたものですよ。打ち合わせなしでの事でしょう? 雅浩さんもよくがんばりましたね」
あの人は事前に説明するって頭のない人だから、と笑う母さんに、あいまいなお礼を返す。今回の事は自分の経験になるし、彩香に手を出されて腹が立ってたから自分から手伝わせて欲しいって名乗りを上げたんだけど……。でも、こうやって努力を認めてもらえると嬉しい。父さんや母さんから見れば僕なんてまだまだだし、いつ足を引っ張られるかひやひやしながらだったはず。
それなのにこうやって面と向かってほめられるとなんだか照れくさいや。
「さぁて、周辺がためも進んでいるようだし、高浜との全面抗争が楽しみになってきたわ」
ちょっ、うきうきとなにとんでもない事言い出してるのさっ?!
お読みいただきありがとうございます♪