夢と古い知り合い。
さすがに昨日の今日だと気まずいよなぁ、なんて思いつつも放課後、桂吾の部屋にむかって高等部校舎への渡り廊下を歩く。この廊下、二階にあるから桂吾の部屋に行くにはこの後階段を降りないといけないんだよね。まぁ、校舎の反対側には一階にも渡り廊下があるんだけど、あっちは屋外を通るから寒いし……。
そんな理由で二階の渡り廊下から高等部校舎の階段にむかう。――と、上から降りてくる人の気配を感じて階段口で顔を上げたら、何やらダンボール箱を抱えた雅浩兄様と手ぶらの藤野さん。あぁ、中等部と共有の教材でも届けるのかな? 中等部と高等部は使用頻度が低くて高価な癖にないと困る標本類を共有してるんだよね。まぁ、藤野宮で買えない程高いはずもないけど、収納スペースは有限だからね。
「あれ? 彩香?」
一瞬、しまった、というように眉をよせた雅浩兄様が声をかけてくる。うん、このタイミングで無視する方が問題だもんね。藤野さんといる時はあんまり接触しないように気をつけてたんだけど、こういう偶然ばかりはどうしようもない。
「雅浩兄様、藤野先輩、こんにちは」
軽く頭を下げると、なんだか藤野さんから不穏な気配が……。……いや、そんな感情表に出しちゃったら隣にいる雅浩兄様にばれるよ?
「高等部に用事?」
たぶん、あえて無視してるんだろう。兄様は特に藤野さんの様子には触れずに話を続けてくれた。
「瀬戸谷先生のところに行くの」
「あぁ、今日はカウンセリングの日だったか。……早く終わりになるといいね。この前貧血で倒れたの、何かあったせいって誤解されたせいで大変だよね」
「うん。でもそれで先生達と父様と母様が安心するなら我慢する」
「中等部のカウンセリングルームは憩いの場になっちゃってるから、真面目な話はしにくいしね。わざわざこっちまで来るのは大変だろうけどがんばって」
「はぁい。――あ、約束の時間に遅れちゃうからもう行くね。藤野先輩、失礼します。雅浩兄様、またね」
「うん、またね。美智、待たせてごめんね。ありがとう」
不自然じゃないくらいに短くまとめた会話を終わらせて、私は下にむかって、雅浩兄様は藤野さんをうながして渡り廊下の方に歩き出した。なんだか足音からして藤野さんが歩き出さないみたいだけど……。まぁ、雅浩兄様がなんとかしてくれるだろう。
あまり気にしないで階段を降り始め――。
背中に衝撃を感じたのと、バランスを失った体が宙に投げ出されたとのだと気がついたのはほぼ同時。まずいと思ったけど、上半身を押されたせいか、前のめりになった体勢は立て直せそうにない。
うわ待ってまずい手すりつかんでない時に限ってこれはない受け身取れるかなせめて頭だけはかばわないとてか目撃者いる場面での犯行とかどれだけ馬鹿ですか。
空転し始めた思考の中、突き落とされた、と理解した時には階段と床に体が叩きつけられる衝撃が来た。
「彩香っ?!」
雅浩兄様の叫びと。
何かが床に投げ出される音と。
誰かの駆け去る足音と。
やけにうるさい心臓の音に混じって、
――ほら見な。甘いって言ったのに。
あきれきった綾の声を聞いた気がした。
――――――――
「馬鹿だね、あんた」
ため息まじりの声に目をまたたくと、はっきりした視界には琥珀色の液体と氷の入ったグラスを片手に、床に置いたローテブルにもたれるようにして座っている綾の姿。
その姿ははっきりと見えるのに、背景は黒く塗りつぶされていてどこにいるのかわからない。相手が床に座っていて、私が立っているからか、本来なら見上げないと視線があわないはずの相手を見下ろす格好だった。
……なんで死んだはずの人間が目の前にいるの? ……あれ? でもそれを言ったら私も? というか、そもそも綾と彩香が顔をあわせてる事自体がおかしくない?
混乱する私をよそに、相手はあきれ混じりのため息をついた。
「忠告したと思ったけどね? あれは馬鹿だから必ず暴走する。大切な人間を泣かせたくなかったら再起不能にしろ、ってね」
「……だって、桂吾が……」
「見苦しい。よりによって桂吾のせい? 救いがたい馬鹿だね」
せせら笑うような言葉に言い返そうとして、でも言葉が出てこない。……だって、私は、確かに藤野さんとやりあう前、それが一番確実だと思ってた。攻略対象の親なんかじゃなく、藤野宮の理事達に同じ手紙を送るべきだったんだ、本当は。そうして彼女を退学に追い込めば、すべて解決する問題だったんだから。
確かに桂吾は藤野さんに甘い提案をした。でも、それを受けいれたのは私自身なんだから、責任を桂吾にかぶせるのはおかしい。
「人間味かなんだか知らないけど、間違いなくあんたは私よりおろかだ。自分がそこまで劣化すると思うと寒気がする」
言い捨ててグラスの中身をあおる相手をなんとなくながめる。……劣化、したのかな? 意識して回転数をおさえてるのは確かだけど……。でもそれは充分考えた上での決断だもの。危険なのもわかってた。それでも。
「私は、ちゃんと私らしく生きる、って決めたんだもん」
言われる筋合いはない、とふくめたつもりなのに、相手は鼻で笑う。強がりなんてお見通しだ、とでも言いたげなその態度が癇に障る。……こうしてむきあってみると、本当、嫌な人間だったんだなぁ。桂吾はよくこんなのに関わろうと思ったもんだ。
「自分らしく? その結果、馬鹿にやらかされたわけ? 取れるはずの対策を怠っておきながら?」
グラスを持った手に反対の手のひらを重ね、あごを乗せてこっちをみる目にはわかりやすく見下した色がある。
……確かに言われた通りなんだよね。だって、私は起こりうる危険を予測できるはずだった。
常に昔の速度で処理したりしなくても、その程度できなければ綾はもっとはやくに死んでいたんだから。幸兄だけじゃない。高浜に危害を加えたい連中は、一人家を出てどうしても警備の薄くなる私を狙ってきた。もちろん、親がそれを狙ってわざと警備を薄くしてた事も知っていた。だから、昔は常に経済関係のニュースには目を通して、何かありそうな気配がある時期は瞬間的に処理速度をあげられるよう準備して、突発事態に備えていた。そういう、危険な時を見分けたり、処理速度を瞬間的に上げるためのアイドリングみたいな状態を維持するのは簡単なんだもの。普段私がかけてる制限の中でも充分できる範囲だった。
だから、私が危険度を読み違えたのは……そんな対処に慣れきってる様子を兄様達に見せたくなかった、という甘えでしかないから。確かに、そんな姿を見せるのは彩香らしくない。でも、それを理由に何かあったらみんながどう思うかわかっていながら警戒をおこたっていいはずがなかったのに……。
昔なら――敵意を持たれてる相手の前で階段を下りるならかならず手すりにつかまった。……ううん、それ以前に相手を見送ってから階段を下りたはず。露骨に警戒してる態度はまずくても、できる事はあったのに私はそれをしなかった。そういう注意をしなくちゃいけない事をうっかりしてたんだ。
……間違いなく落ち度だ。態度は最悪指摘は正論、とか、最低。正論だってわかるだけに何も反論できなくてうつむくと、彼女はにっこりと微笑んだ。
「自分の馬鹿さ加減は自覚した?」
「……うん。もうこんな馬鹿やらないよ」
「そう願いたいね。あんたはせっかく自由になれたんだから」
皮肉気な言葉に違和感を感じながら、なんとなくグラスに口をつける姿を見ていて、ふと気づく。
「……似て、る?」
「なに?」
「お酒飲む仕草、幸兄に似てるな、って」
元から飲まない人だったのか、綾の前では飲まなかっただけか、あんまりお酒を飲む印象がない幸兄だけど、たまに私の部屋やレストランで食事をしてる時にお酒を飲んでいた。……まぁ、飲むとなるとブランデーだの焼酎だのがメインで、強いのばっかりだったから弱くはなかったんだろうけど。
「そりゃそうだ。私はあの人になりたかったんだから、無意識に似せるくらいして当然」
「…………え?」
まったく考えた事もなかった言葉に目を瞬くと、彼女はあきれたようにため息をついた。
「本当に馬鹿だな。どこまで劣化してんの? 自分が何を望んでるのかすらわからないとか、あり得ない」
きつい言葉につい唇をとがらせたら、仕方ないな、とでも言いたげな苦笑いが返ってきた。
「まぁ、年相応を考えるならそのくらいか。……思い出してみれば? しょっちゅう考えてたはずだよ? 私の方が優秀なのになんで跡取りはあの人なのか、私ならもっとうまくやれるのになんであの人のおもちゃに甘んじなきゃいけないのか。――いつか、あの人の立場を奪ってやろう、やられた事をやり返してやりたい、って散々憎しみをむけてたのに、ね?」
くすくすと笑いながらささやくに血の気がひく。
「嘘っ」
「嘘なもんか。散々思ったよね? 殴られるたび、痛めつけられるたび、いつかもっと酷い目にあわせてやる、跡取りの座から追い落として恥かかせてやる、って思ってたよね? たいした能力もない癖に一番に生まれたってだけで跡取りになって、何をやっても許されるだなんておかしい、他の家だったらあの人が持ってた特権は全部自分のものなのに、って妬んでたよね? だから桂吾が欲しかったんだ。瀬戸谷を味方につけられれば、高浜を潰すまではできなくても、跡取りになりかわるくらいはできるもんね?」
「違うっ!」
楽しげな指摘に思わず叫ぶ。そんな事考えてないっ。確かに学力の面では私の方が幸兄より上だったと思う。でも、だからって……っ。
「いい子ちゃんは大変だね。自分までだまさないといけないんだから」
おかしそうに笑う声が心底楽しそうで、それが癇に障る。でも、いくら否定したところで、私の心の底にそんなどろどろした感情があるのは否定のしようもない。ずっと見ないようにして気づかないふりをしていたけど……。確かにそう思ってたのも確かなんだから。
「酷い事をされたのにそんな奴にまで優しいいい子でいたいんだよね? 憎んで妬んで追い落としてやろうとしてただなんて知られたら、大好きな兄様達に嫌われるかもしれないもんね? 素直で優しくてかわいくなくちゃ、いつまたあの人に邪魔にされたみたいに排除されるかわからないもんねぇ?」
「うるさいっ!」
ざくざくと痛いところをついてくる言葉を聞きたくなくて、思わず耳をふさぐ。
「図星さされて聞こえないふり?」
子供だね、とせせら笑うように言われて、きつくつぶったまぶたの端から涙がこぼれた。
それでも、何もかも綾の言う通りで、認めたくなくて、思い出したくなくて目をそらしていた事実だった。気づいてしまった事実に胸のあたりがすごく苦しい。でも、気付いておいて変なごまかしをする程みっともない事はしたくない。
「悪い?! 優しくしてくれる人に好かれたい、って思うのがそんなにいけないの?! 嫌われたくない、大事にされたい、って思ったらそんなにいけないの?!」
「悪かないでしょ。ただ、それを隠していい子ちゃんでいるのが気持ち悪い、って言ってんの」
不意にやわらかな笑みを浮かべた相手の言葉に思わず目をまたたく。
「人間なんだからうらんで当然。それを否定する気はないよ。でも、そんな無理してたら苦しいんじゃないの? あんたの大好きな兄様達だって、不自然さがあるから、心配してるんだろうし、さ」
「それ、は……」
本心を隠して、嫌われたら、っておびえてるのかつらくないはず、ない。いつも私を心配してくれてる兄様達がそんな無理に気づいて、心配してくれてるとしたら、私はどうしたらいいんだろう……?
「だから、変わってあげる」
「……え?」
「私もあんたも、同じ人間なんだから。あんたよりうまく立ち回ってあげる。それに、桂吾は私が表に出た方が喜ぶよ?」
満面の笑みで言われて、いっそう言葉につまった。確かに……。桂吾は今の私より、昔の私の方が……。
えぐられたばっかりの二度目の失恋の痛みにひるんだすきに、じゃ決まり、と楽しげな声がした。
「後は任せて。うまくやってあげる。――あの篠井雅浩と久我城克人を加えた逆ハーレムとか楽しみ」
――――ちょっと待て?! 今なんて言った?!
「ふざけないでっ! 兄様達の人生を引っかき回すつもりなら許さないからっ!」
「うまくやるって。高浜綾になら簡単簡単。波風立てないようにうまく遊んであげるから」
聞いてるのかどうかすら怪しい返事に頭が真っ白になる。
なんなのそれ?! さも心配してるような事を言っておいて、狙いはそれ?!
「誰がさせるかっ!」
自分の顔してなかったら横っ面はりとばしてやりたいっ。なんか自分も痛そうでできないのが悔しいっ!
「彩香の人生は私だけのものじゃないのっ! 私によくしてくれた人達みんなが少しでもたくさん幸せになってくれるように使うんだからっ! そんなふざけた根性でこの体使われちゃ迷惑なのっ! あんたは死人らしく、おとなしく私の中で知識だけ提供してくれればいいのっ!」
思いきり怒鳴りつけたら、驚いたようにまばたきした後、彼女はやっぱりどこか見下す態度で笑った。
「わかってるんじゃない。ならさっさと帰って。記憶にもぐりすぎると帰れなくなる事くらい、知ってんでしょ」
「……え?」
「さよなら、篠井彩香。いい加減過去に甘えるのはやめなよ?」
何がどうなってその台詞なの、と聞くより早く、意識が暗転した。
――――――――
ふわりと浮かび上がってきた意識が誰かの声をとらえる。重たい眠りはすぐにさめないみたいで、意識ははっきりし始めたのにまぶたを持ち上げる事すらできない。だから、聞き覚えがあるようなその声に意識をむける。目が開かないなら、せめて耳で状況を探らなくちゃ。
「医者にできるのはここまで、だね」
ため息混じりの言葉には悔しさよりもあきらめが強い。
「彼女が普通とは違う脳の使い方をしていたのなら、通常なら問題ないはずの怪我が彼女には致命的な可能性がある。今は彼女自身の力に任せるしかないんだよ」
老いを感じさせる男の声。誰だったかなぁ、と思って記憶をあさり始めると、一拍おいてものすごい痛みが走る。まるで、頭を貫通させた有刺鉄線をひねりながらのこぎりよろしく前後されてるみたいな、それも何本もいっぺんにやられたらこんな痛みになるのかもしれない。
えげつない痛みに頭をかかえてうめく。頭の片隅で、動けるようになってるなぁ、と思うけど、そんな事はどうでもよかった。
「彩香っ?!」
悲鳴じみた声が頭に響くよ、と文句をつけてやりたかったけど、そんな余裕もなくて。なんとか片目をこじ開けると、顔色をなくした雅浩兄様。
痛みに塗りつぶされそうな思考をなんとかひきよせて、平気、と言葉をしぼりだしたら、嘘つき、と瞬殺されちゃった。でも、私はこの痛みを知ってる。何もしなくても、ここまで酷い痛みはせいぜい十数分で治るんだから。
「平気に見えないよ。頭が痛いんだね? 今鎮痛剤を……」
「悪いね、どいて」
雅浩兄様の声にかぶせて、痛みのせいで浮かんだ涙にぼやけた視界に誰かが割りこんで来た。
「私の声が聞こえるかな?」
声にまばたきをしてなんとか視界をはっきりさせると……。
「…………お、医者、さん……?」
白衣姿の相手になんとか口にしたら、その人は覚えてるよりも年をとった顔で、変わらない笑みを浮かべた。
「強い鎮痛剤が必要ならすぐ打とう。欲しいかな?」
言葉にうなずくと、その人は返事の合間すら惜しむように動き出した。腕に冷たい感触があって、しばらくしたらすうっと痛みがひく。
思わず全身で息をつくと、やわらかい布がひたいに触れる。のろのろと視線をむけると、眉をよせた雅浩兄様と視線がからんだ。
「酷い汗だよ。ちょっとふくからね」
とっても慎重な手つきで顔の汗をふいてくれた後、首すじもおんなじように汗をぬぐってくれた。
「背中は後で母さんか看護師さんにやってもらおうね。さすがに今動いてもらうのは怖いから」
……怖い?
「体動かして痛みがぶり返したら困るからね」
まばたきだけで私の疑問に気づいてくれた雅浩兄様の言葉に、唇の動きだけで了解を告げる。今は声を出す事すらおっくうだ。
「意識が鈍るくらい強い鎮痛剤を使ったから、眠れるようならそのまま寝かせてあげなさい。自己判断で鎮痛剤を使えるよう手配して来よう」
言葉を残して男の人が出て行く。なんとなく視線でその動きを追って、ここが病院だと気づいた。
……病院? なんで?
疑問に思って記憶をたぐろうとすると、今度は鈍い痛みが頭の奥に生まれる。まずいな、と思い出す努力を放棄した途端、痛みは散って行った。
高浜綾だった頃にはおなじみだった痛みは、回転数を上げすぎた時特有のそれで、治るまではあんまり頭を使わない以外に対処法がない。
「大丈夫? まだ痛む?」
「もう、平気。ここ、病院?」
私が眉をよせたからか、心配そうな声がかかったんで、少しだけ笑みを浮かべる。そうしたら、苦笑いの雅浩兄様がうなずいてくれた。
「階段から突き落とされたんだよ。頭を打ったみたいだったし、気を失ってたから救急車を呼んだんだ。ここは病院ね。さっきの人は、瀬戸谷先生が紹介してくれたお医者さん。脳神経外科が専門なんだって」
雅浩兄様の簡単な説明は、それでも私が知りたかった情報を一通り教えてくれた。
……そうか、あの人片野教授だ。教授は綾の能力に興味を持ってあれこれ検査してた人だし、私に何かあって見てもらうとしたら最適な人だと思う。桂吾がどう説明したのかまではわからないけど、まぁ、それはおいおい確認すればいいや。
薬のせいかぼやける意識をつなぎとめておくのがおっくうでしかたない。
「……ごめん、なさい。なんか眠、くて」
「いいよ、眠ってごらん。話は落ち着いてからにしようね。側についてるからゆっくり眠って?」
心配ないよ、と言うように手を握ってくれたのが嬉しくて、安心で、今度の眠りは嫌な夢を連れてきたりはしなかった。
お読みいただきありがとうございます♪
影の薄いヒロインさん、やらかしてくれました。