幸せ気分。
克人兄様と二人きりでのんびりしゃべるの、久しぶりだなぁ、なんて思いつつ、言われた事を反芻する。
なんていうか、やっぱり私にはわからない事が多いんだって再確認した気分。特に人の心についてはわからない事だらけ。
院にまで進んでいるのにわからないなんて言うと、何を勉強してきたのか、って言われそうだけど、人の心なんて同じ状況に置かれても同じ反応をするとは限らない。類型的な形を勉強して、どれに当てはまるか推測する事はできてもそれ以上となると手に余る、というのが私の本音。
こと、幸兄みたいに身近な相手だとどうしても客観視しきれなくて精度が下がるんだよね。
「難しいなぁ……」
ついため息をついたら、克人兄様が小さく笑う。
「何がそんなに難しいんだ?」
「なんか、いくら心理学を勉強したところで人の心はわからないなぁ、って」
「まぁ、そればっかりは決まった答えがあるものでもないからな。でも、わからないからって勉強した事が無駄になるわけじゃないだろ。そもそも勉強なんて知識を蓄えるためにしてるわけでもあるまいし」
「勉強は課題をクリアする事にこそ意味がある、だよね」
久我城のおじ様の口癖をまねると、克人兄様がうなずいてくれた。
確かに、いつまでにこのレベルの結果を出す、なんてわかりやすい課題は、内容よりもそれをクリアするための手順を考えたり、計画通りに勉強を進めたり、という行動そのものの方に意味があるんだと思う。そう考えると、高校まではそういう勉強以前の地力を鍛えたり、人間関係の経験を積むための場なんだよね。
そもそも、専門学校ならともかく、それ以外の教育機関で教える内容が生きるのに必須だったり、実用レベルの知識になってる事って少ない――というか、ほとんどないもんね。大学ですら教養科目なんかは必須の知識じゃないし。
「ま、彩香が悩んでるのはあの人の事なんだろ? 話してみろよ。同じ男だし何か意見くらいは言えると思うぞ」
「……うん、なんていうか、あの人ってどんな人なんだろうなぁ、って考え出したらわからなくなっちゃって」
「……それはまたずいぶん基本から悩んでるな?」
「そうなんだけど……。なんか、わからないと思うと気になっちゃって」
「……そうだな、俺もあまり話した事があるわけでもないんだよな。高浜の現当主とは何度かパーティで顔を合わせた事がある程度で、年が離れてるし本当に軽い挨拶程度しかした事がないんだ。……ただ、なんていうか読めない人だとは思う」
どんな印象を持っているのか、克人兄様が首をかしげながらつぶやく。
「あたりが柔らかいし、話をするといろいろな事に詳しいから勉強家で穏やかな人なんだろうな、って印象はあるよ。だけどなんていうのか……。話している中に時々ひやっとさせられる部分が見え隠れするんだよなぁ。こう、上っ面を一枚はがしたらとんでもない化け物が出てきそう、とでもいうのか」
「犬だと思ってたら狼だった、みたいな?」
こういう時によく使われるたとえを出したけど、克人兄様にはしっくりこなかったらしくて、あいまいな返事が返ってきた。
「いや……。そういう感じとは少し違うんだよな。なんか、探られてるっていうのか、粘着質な興味を持たれてる感じがするというのか……。それさえなければわりと尊敬できるタイプの人だと思うぞ」
「……それって、克人兄様が久我城克人だからじゃない?」
あのゲームの存在を知っていて、かつ、篠井彩香が綾だと知っているからこそ、私の側にいる克人兄様に興味があったとしても当たり前だと思う。それに、ずっと私の様子を調べてたというあの人は、私が兄様達にべったりなのも知ってたはず。顔を合わせた時に意識しないはずがないと思うんだよね。
「あぁ、確かに言われてみればそうだな。むこうからすれば大事な妹についた虫扱いだろうし」
「……大事、かなぁ?」
「当たり前だろ。ホテルでの録音も聞かせてもらったけど、本当にあの人にとって彩香が大事なのは間違いないと思う。ただ、やり方や感情を色々と間違えてるとは思うけど」
思い切り首をかしげたら、克人兄様が苦笑いになった。
「彩香には、大切すぎてかえって傷つけてみたくなる、とかって気持ちは難しいか?」
「大事なら大事にすればいいと思うけど……」
「確かにそうなんだけど、なんていうか……。男のメンタリティーなのかもしれないな。ついつい、好きな子に意地悪するっていうのは」
「……あれはそういうレベルじゃないと思うの……」
克人兄様の思わぬかわいらしいたとえにため息をついたら頭を軽くなでてくれた。
「俺からすると、盛大にやり過ぎてはいるけど、確実に好きな子をいじめるたぐいのパターンだと思うけどな。嫌がる事を言ってみたり、おどかしてみたり、なまじ優秀な人だからやり方が念入りで徹底してるからかなり怖いけど」
「……そういう所は手抜きしてくれていいのに」
「いや、好きな子相手にほどほどに手を抜くとか、それなりに恋愛こなしてないとできないだろ。良くも悪くも、一生懸命なんだよ、あの人は」
克人兄様の言葉はさっきから苦笑いばっかりだ。
「もちろん、真に受ける彩香が悪い、とかそういう事じゃないからな。ただ、なんとなくわかる気がする、って話なだけだよ」
「うん、そこは大丈夫。……でも、幸兄も私を好きでいてくれるだけなら、なんで幸兄は間違えちゃって、兄様達は私に優しくしてくれるの? 幸兄の好きと兄様達の言ってくれる好きって、同じだよね?」
やっぱりわからないなぁ、と思いながら首をかしげる。回転数の制限を解いて本気で計算すればある程度の答えは出るんだろうけど、あんまりやりたくない。兄様達は気にしないって言ってくれるけど、やっぱり私は高浜綾の続きを生きるんじゃなくて、篠井彩香として生活したいもん。あんまり昔の回転速度で物事を処理したくないんだよね。最近の方が悩み始めても悲観的になりすぎなくてすんでるの、回転数落としてるからだと思うし。
――それに、桂吾の前以外では本当はできる限り普通の人と同じくらいの処理速度を維持した方がいい理由もあるからね。
「本人の性格とか、環境とか色々あるんだろうな。たとえば、俺は彩香とは従兄妹だから一緒に住んでないし、跡取り問題もないよな?」
「うん」
「雅浩は一緒に住んでるけど、篠井の叔父さんと叔母さんはいい人達で、雅浩の意思を尊重してくれてる。だから、雅浩も二人が好きで彩香一人が特別な存在って事はないよな?」
「うん」
「つまり、そういう違いが集まって結果が変わってきたんだと思うぞ。話聞いてるとあの人は彩香以外に自分を心配してくれたり、好かれてるって思える相手がいなかったみたいだしな。その上、跡取りとしての重圧がかなりかかってたみたいだからな。――俺の友達にも一人、跡取りになんて生まれたくなかった、って毎日こぼしてるやつがいるよ。話を聞いてると、確かにそうだろうと思う」
克人兄様の言葉に目をまたたく。克人兄様は好きで久我城の跡取りとしてやってきてるように見えてたけど、違うの?
「そいつは別にやりたい事があって、弟の方が跡取りにむいてるのがわかってるから余計嫌なんだろうけどな。弟と年が離れてるから弟が跡取りとしてやっていけるようになるまでの間だけだって親とも弟とも話がついてるのに、それでも辛そうだよ。たぶん、興味がなかったりむいてない奴には耐えがたい世界なんだろうな」
「まぁ、パーティなんてお世辞と嫌味が飛びかってるし、裏を読んであれこれやるだけでもかなり面倒だもんねぇ」
「それに、やっぱり会社を背負って大勢の生活を支えていくってのはかなりの責任がある事だからな。俺とか雅浩はそれをやりがいに感じるけど、重荷に感じる奴がいても当然だろ」
克人兄様の言葉にそれもそうかとうなずく。
「だから、そうやって苦しんでる奴を見ると、まわりにわかってくれる相手が一人もいなかったらどれだけ大変なんだろうな、って想像して同情できる面もある、なんて考えちゃうんだよなぁ……」
彩香に酷い事した相手なんだからこんな風に思うべきじゃないんだろうけど、と苦笑いの克人兄様。
「私嬉しいよ?」
「そうか?」
「うん。だって、私、幸兄の事嫌いなわけじゃないもん。怖いし苦手だとも思うけど、でも、嫌いとは思わないの。だから、色々複雑なんだけど……」
ため息混じりに言葉を濁したら、大きな手が頭をなでてくれた。
「雅浩と瀬戸谷先生はあの人の事大っ嫌いだもんな」
「うん……」
「雅浩は彩香に悪さする奴はすべからく敵と思うふしがあるからな。瀬戸谷先生は冷静に判断した結果、相容れないって判断してるみたいだけど、二人とも同情の余地なしであの人が悪いと思ってそうなのは同じだよな」
「そうなんだよねぇ。確かに怖い人だし、やった事は許されちゃいけないと思うの。……でも、あの人を責めて、それで解決する問題なのかなぁ、って思っちゃって」
やわらかな声に誘われて、ここしばらく考えていた事を口にする。
「あの人は、自分が何を間違えてるのかすらわかってないんじゃないのかなぁ。だから、あの人が間違えてる自覚を持ってくれて、なんで間違えちゃったのか、これからどうしたら間違えないですむのか、ちゃんと考えないと意味がないのかもしれない、って思うの。――まぁ、具体的にどうしたらいいのか聞かれてもわからないんだけど……」
「彩香は本当にいい子だな」
「ちょ、え? 何? なんで?」
わしわしと頭をなでられて、なにがなにやら。克人兄様を見上げる。
「たくさん怖い事されただろうに、それでも彩香はあの人の事を思いやれるんだな。なかなかできる事じゃないぞ?」
「だって、私にも幸兄だけだったから」
小さい頃の綾の世界には、幸兄しかいなかった。幸兄以外でちゃんと私と話をしてくれるのは、時折現れていた男の人くらいで、その人は数ヶ月に一度、ほんの数分私と話してくれるだけだったから。――そういえば、あれは誰だったんだろう? 私、名前も知らないや。
学校に上がってからも高浜の関係者の子供がたくさん通う学校ではまともな友達なんてできなかった。だから、桂吾と親しくなるまでの私は幸兄以外とは形式的な会話くらいしかした事がなかったんだよね。
だからかもしれないけど、私にとっても幸兄は特別で、とても大切な人。恨んでない、なんて嘘をつくつもりはないけど、今の私が幸せなようにあの人にも幸せがあればいいと思うのは、私にとっては自然な事。――できれば、私と関わらないところで、とも思うけどね。
「怖い事も嫌な事もたくさんされたけど、暖かくて優しいものもたくさんくれたの」
「確かに色々問題はあるけど、彩香に優しくしてくれたのには感謝しないとな。――まぁ、あの二人もそれはわかってるんだろうけど、それ以上に彩香に酷い事したのが許せないんだろ」
少しほほえましそうな克人兄様の言いようについ笑ってしまう。なんだか、桂吾まで弟扱いしてない?
「俺だって思うところがないわけじゃないけどな。二人がああだから俺まで態度硬化させたら彩香はあの人に同情的な話はしにくいだろ? だから意識して好意的にとらえてるところはある。ま、そうしてみたら結構気づく事が多くて、本当に主観にとらわれるのはよくないって再認識できたよ」
だから、とつぶやいた克人兄様は私のほおをつつく。
「彩香は俺達に気を遣ってあの人に好意的な事は言っちゃ駄目とか、気にしなくていいんだからな? 雅浩だって、優しい所は好きでいい、って言ってたろ? 彩香は彩香らしく、素直な気持ちでみんなと接すればいいんだよ」
「うん、ありがとう」
私の考えてる事がわかってるみたいな克人兄様の言葉にうなずくと、軽く頭をなでてくれた後、体をかたむけて……。
あたたかくてやわらかなものがひたいをかすめる。
「本当は、危ない事も怖い事もさせたくないし、安全な所に閉じこめておきたいんだけどな」
少しだけ笑いをふくんだ声が耳元でして、今度はこめかみに触れていく。
「彩香の好きな事はいくらでもしてやるし、欲しいものは全部手に入れる。だから安全な場所から――俺の手の中から出ないでくれ、って言いたいの、何度我慢したと思ってるんだ?」
今はもうない傷痕をたどるように、少しずつ位置を変えながら降ってくる感触が嬉しくて、なんだかすごく幸せな気分になる。
前とおんなじでふわふわとあったかいような、落ち着かないような、不思議な感覚に克人兄様にしがみついたら、喉の奥で笑う気配がした。
「このまま全部俺のものにしたいけど、色々問題がありすぎるからなぁ」
問題? なんだろ? 不安なような安心なような、よくわからない気分のまま、繰り返し触れてくれる感触にぼやけた頭は答えを出してくれない。
「克人兄様が嫌な事するはずないよ?」
「……彩香にそんなつもりがないのがわかってるし、わかっててそんな事したら雅浩と瀬戸谷先生に何されるかわからない、か……。とことん理性の敵だな」
ふわりふわりと落ちてくる感触が優しくて、嬉しくて、なんだか表情がゆるんじゃう。
「克人兄様、大好き」
落ち着かないし、なんだか不思議な感じなんだけど、もっとたくさん、ずっとやってて欲しい。幸せだなぁ、って思う事はたくさんあるけど、これはなんだかちょっと質が違うんだよね。普段のがゆっくりかみしめる感じだとしたら、克人兄様のは酔ってる感じに近いかも。普段と違うふわふわするような独特の高揚感があって、なんだか妙に浮かれたような楽しい気分になってる自覚があった。
「なんで克人兄様だけ、こんな感じになるんだろ?」
「うん?」
そっと抱きしめてくれる感触と、ゆっくりとひたいからこめかみまでを往復するあたたかさに、頭の中がぼんやりする。それなのに、いつもより速い鼓動が落ち着かなくて。でもそんな感じが不思議と心地よくもある。
「桂吾が触っても、幸兄に触られてもこんな風にはならなかったのに」
そうなんだよね。昔桂吾が傷痕の意味を知った時、まるで触れたら壊れると思ってるみたいにそうっと指でたどった時も、その後かすめるように唇で触れていった時も、こんな気持ちにはならなかった。桂吾が苦しそうなのが嫌で、やるせない気分になっただけ。
幸兄が触れる時は、なんだか怖くて不安で、体が内側から凍りついていくみたいな気分になった。
みんな、してる事はおんなじなのに、なんで克人兄様が触れてくれるとこんな幸せな気分になるの?
「だから、そういう嬉しがらせを言うなって」
どこか苦笑めいた克人兄様の言葉に首をかしげたら、少しだけ長くあたたかな感触がひたいに落ちてきた。
「俺だから、なら嬉しいけどな。彩香の気持ちが落ち着いてきたから感じ方が変わった可能性もあるぞ?」
「でも、他の人にお願いしたら駄目なんでしょ?」
この前言われたのはそういう意味だよね? そうしたら克人兄様だから特別なのか、私の感じ方が変わってきたのか、確かめようがないと思うの。克人兄様が特別なのか私が変わったのか、気にならないと言ったら嘘になるけど、約束を破ってまで知りたいかと言われたらそこまでじゃないもんね。
「それはそうか。じゃ、俺だけの特権、って事にしておくかな」
楽しそうにそう言って、克人兄様の指が傷痕があったあたりをそうっとなでる。
「条件付きでもなんでも、彩香を苦しめてるものが少しでも減ったなら嬉しいよ。ここは――」
もう一度やわらかな感触が降ってきて、その後克人兄様がひたいを合わせてきた。
「あの人に切られて怖かった場所、じゃなくて、俺が触るとすごく幸せな気分になる場所、だからな?」
「うん」
そんなに簡単にわりきれるわけじゃないけど、克人兄様の気持ちが嬉しかったんで笑顔でうなずく。こうやってるとすごく幸せで、触られそうになるだけであんなに怖かっただなんて嘘みたいなのは本当だもん。
「こうやって腕の中にかこって守ってやるのは簡単なんだけどな。それは彩香を一人じゃなんにもできないままにする事だから。俺は、彩香には何かあった時、ただなすがままにされるしかないような、弱い人間にはなって欲しくない。――でも、ちゃんと側にいるし、辛い時は頼ってくれな?」
優しい言葉が嬉しくて、克人兄様に抱きついている腕に力をこめる。
「私、克人兄様に好きになってもらえてすごく幸せ。克人兄様、大好き」
ふわふわした気分に任せてつい普段はなかなか言えない気持ちを口に出したら、克人兄様に思い切り抱きしめられた。
「だから、そうやって理性をぐらつかせる事を言うなと……っ」
「ごめんなさい?」
言ったら駄目だったかな。でも、変な事は言ってないよね? 首をかしげつつ謝ったら、まったく、と苦笑いが返ってきた。
「本当、こんなかわいい反応ばっかりされたらうぬぼれたくもなるし、独り占めしたくなるよなぁ」
そう言って頭をなでてくれる克人兄様の声が楽しそうだから、心配ないのかな?
もう少しだけでもこのままがいいなぁ、なんて思いながら腕のあったかさを堪能することにしよっと。
お読みいただきありがとうございます♪




