テラスにて。
時間ぴったりに現れた相手はするりと私の正面に座る。
「綾の方から誘ってくれるとは思ってなかったから凄く嬉しいよ」
椅子に座るなり、嬉しそうに言われ、小さくため息をつく。
「彩香と呼んでほしいんですが」
「綾がその堅苦しいしゃべり方をやめたら、そう呼ばせてもらうよ」
皮肉ったお願いは笑顔のままさらっと返されてしまった。
「今の関係性を考えるとこのくらいの方がふさわしいと思いますが?」
「君が綾じゃなければこんな場を設ける必要すらなかったのにかい?」
正論返しに苦笑するしかない。確かにそれもそうだ。
「じゃあ、幸兄って呼んでもいい?」
「――彩香ちゃんにそう呼ばれるのはなんだか不思議な感じだね」
一瞬目を見開いた後、幸兄が微苦笑でつぶやいた。頭の中と口に出す呼び名が違うと呼び間違いやすくなるし、と思っただけなんどけど、なんか驚かれた?
「一応、最初に断っておくけど、今回の会話は全部録音させてもらうから」
言いながら取り出したレコーダーをテーブルの真ん中に置いて電源を入れる。
「まぁ、録音くらいかまわないけど、厳重だね? 同席者だけじゃ物足りないかい?」
「当然の用心ですよ。この前自分が何やらかしたか覚えてないんですか?」
幸兄の言葉に桂吾があきれた様子で言うと、幸兄がさも不愉快そうに眉をよせる。
「けんか、しないでね?」
先手を取って言ったら、二人がしぶしぶうなずく。――リアクションそっくり、とか言ったら地雷かしら?
まぁ、ここまでの流れでわかってくれたと思うけど、今は桂吾に同席してもらって幸兄と会ってる。場所は篠井でよく使ってるホテルのテラス。――いや、この寒い時季にテラスとかあり得ない、なんてつっこみはしないでね。テラスって言ってもオープンテラスじゃなく、ガラスで隔てられた温室のような開放感あふれるカフェテラス。室内の席とのしきりもガラスだから、人目があって、かつ、話を聞かれない、なんて無茶な条件をクリアするいい場所ではあるんだから。
……風がなくて日当たりもいいけど、雰囲気を大事にしているのか暖房がないから寒いのものは寒い……。なので、全員コート着用のまま。私はふわふわもこもこコートの着用中。これ、ケープ付き、というか、もはやポンチョ付きっていう感じで、作りとしては本気でコートの上にポンチョくっつけてある。上半身は二重だからすごくあったかいんだけど……、フードにちっちゃなうさ耳がついてる理由はあえて言及すまい……。どんな理由でこれを選んだのか、あとでじっくり問い詰めさせてもらうけどね? というか、どこで見つけてきたのよこんなコート……。
「あんたは飲み物どうするんです?」
桂吾の声に我に返ると、目の前にメニューが差し出されてた。
「あぁ、私はダージリンのロイヤルミルクティーがいいな」
ほとんど反射で答えたら、幸兄が小さく笑う。
「フルーツサンドは頼まなくていいのかい?」
幸兄の言葉に目をまたたく。確かに小さい頃、幸兄とお茶をすると大抵ロイヤルミルクティーとフルーツサンドを食べたいってねだってた。でも、そんなのずいぶん昔――私がまだ高浜本家で暮らしてた頃の話だし、幸兄と一緒に外食する機会なんて数えられるくらいしかなかった。あんまりお腹が空いてなくても頼んでは、幸兄にも手伝ってもらったものは確かだけど……。
「多かったら俺が引き取るから頼んだら?」
笑顔でうながされて、うん、と小さく返事をする。となりをうかがうと桂吾は気にした様子もなく、三人分の注文をすませた。
飲み物とフルーツサンド、それにプチフールの盛り合わせが届けられた。ウェイターさんが下がるまでは無難なあいさつや近況の話題だけで流れた。
「変わった入れ物で出てきたね」
「あぁ、席が外だから普通のカップだとすぐ冷めちゃうでしょ? お願いして今日だけ特別に携帯マグで出してもらったの。これなら保温効果高いし、そうそう冷めないから」
寒い場所で冷え切った飲み物とかなんの罰ゲームですか、って話だもんね。
「なるほど。それは確かにそうだね」
「ただ、熱々のままだからやけどしないように気をつけて?」
「わかった、ありがとう」
優しかった頃のままの笑顔で言われてなんだか落ち着かない。人目のある場所だからなのか、たまたまそういう気分なのか、まだ判断はつかないけどひとまず落ち着いて話ができそうでよかった。
「それで、今日は何の用事なんだい?」
「用事っていうか、話がしたいだけ、かな」
「話? ……俺と?」
思いもよらない事を言われた、というように幸兄が目をまたたく。
「君がそんな事を言うのは初めてじゃないかい?」
「かもしれない。……正直、今でも幸兄の事は怖い。ずっと、それを理由に逃げてたけど、本当はもっと早く、……あんな事になる前に、ちゃんと話をしなくちゃいけなかったんじゃないかな」
なんて言ったらいいのかわからなくて、考え考えそう言ったら、幸兄も少し考えるような表情になる。
「……俺に何を聞きたいんだ?」
少しの間を置いた後、返ってきたのは幸兄の声の温度がわずかに低い。一瞬ひるみそうになってしまうものの、隣に圭吾がいるって自分に言い聞かせて言葉を続ける。
「うぅん……。何っていうか、幸兄が今まで何をどう感じてきたのか知りたいの。小さい頃の話から全部」
「そんな事を聞いてどうするんだい?」
「どうもしないよ。ただ知りたいだけ。幸兄がどんな世界で生きてきたのか、私の事をどう思ってたのか、何をしたくて、何をしたくなかったのか……。知りたいと思ったから、教えて欲しいだけ」
そう。知ったところで私に何ができるはずもない。もう起こってしまった事は変えられないし、たぶん幸兄は私にわかって欲しいだなんて思っていないんじゃないかな。聞いて理解したり同意できるとも限らない。だから、これは無駄な事なのかもしれない。ただの自己満足でしかないってわかってるけど、それでも――知りたい。
「今思うと、幸兄はいつも優しくて私の事を大事にしてくれてたけど、私はそれに甘えるだけで幸兄の事を知ろうともしてなかったんじゃないかって気づいたの。だから、知りたい。それだけなんだ」
そう言ったら、幸兄は少し考える様子だったけど、優しい時の声で、泣きそうな顔をしたんだよ、とつぶやいた。
「泣きそうな顔?」
「ああ。……あれは何の時だったかな。模試だか定期テストだかの結果があんまりよくなくて、二人にあれこれ言われて荒れた気分を切り替えたくてピアノを弾いてたら、綾が現れてね。たぶん、まだ二才になって少ししたくらいの頃だったかな」
そう言って、幸兄が懐かしそうに笑う。
「あんな両親だったし、下手にかまって耳に入ると面倒だと思ってたからね。それまでまともに相手をした事もなかったんだけど……。あの時、世話係の目を盗んだのか何なのか、部屋に入って来て来たんだよ。面倒だったし、ほうっておいたらしばらくはおとなしくピアノを聞いてたみたいなんだけど、急に俺の足にしがみついてきてね。驚いて思わず手を止めて見下ろしたら、泣きそうな顔で、ないない、ないない、って繰り返して」
「……ええと、それは一体……?」
ごめんなさい、なんだか意味がよく……。……って、あれ? なんか覚えが……?
「俺も何言われてるんだろうって思ったんだけどね。あんまり一生懸命だし泣きそうだから――正直、泣かせたって言われても面倒だって思っただけなんだけど。膝にのせて、どうしたのか聞いたら、今度は俺の顔をなでて、いちゃいのないない、って。きっと俺が泣いてるように見えたんだろうね」
今思うとあの頃の俺は相当荒れてたし、と苦笑いで飲み物に口をつける幸兄。
「まわりから勉強の進み具合やらを確認された事はあっても、精神的な面で――俺自身が本当に平気なのか、って心配してもらったのはそれが初めてだったよ。だから、すごく嬉しかった」
幸兄の話が一区切りした時には、話題になってるのがいつの事だったのか思い出せた。
――あの時、私は勝手に遊んでろとばかり庭に出されてて、いつも側にいた人もいなかった。だから、聞こえて来たピアノの音に興味をひかれるまま、部屋に入り込んだんだ。そうしてはっきり聞こえるようになった演奏は、声に出せない代わりに泣いてるみたいで、聞いてるだけで苦しくなってきた。だけど、あの頃の私には難しい事はわからなかったから、単純にどこか痛いんだろうって思った記憶がある。
痛いなら、たまに現れては私に優しくしてくれる人がしてくれるおまじないが効くだろう、って、真似したんだ……。なのに、幸兄が泣いちゃって、いけない事をしたのかな、って慌ててたら、大丈夫、ありがとう、って抱きしめてくれた。
私が覚えてるのはそのくらいなんだよね。
「私、ただ、どこか痛いのかなって……」
「うん、そうだろうね。まだ小さかった君にはその位しかわからなくて当然だったと思うよ。……ただ、俺はそれがすごく嬉しかったんだ。口を開けば跡取りの責任としか言わない親と立場をわきまえろと言われて他人行儀にしか会話もできない弟妹、監視兼の用意された友人しか周りにいなかったから、ね」
「……なかなか最低な環境だね……?」
うん、普通そんな環境にいたらひねくれるわ……。
「最低だよ。だから、せめて君のまわりは少しでもましな環境にしてあげたくてね。――これが、俺が君を大事にしようと思ったきっかけ、かな」
私の脱力したコメントをどう思ったのか、幸兄の答えは苦笑まじりだった。
「それがどこでどうねじれてああなったのか知りたいもんですが」
ずっと黙ってた桂吾の言葉に、幸兄が小さく首をかしげる。何気ない仕草に、なぜか背筋に寒気が走った。
「そうだねぇ……。正直言えば俺もそれを知りたいよ。――かわいがるのが高じて妹として見られなくなってたのは認めるけど、殺したいと思った事はないし、……あの時もそんなつもりはなかったはずなんだけどね」
「つもりのあるなしの問題じゃないかと思うんですが?」
何も気づかないのか、あえて無視してるのか、態度を変えないまま会話を続ける桂吾と幸兄。
……でも、何かが違う……。
今、目の前にいるのは優しい幸兄じゃない。何が違うとはっきり言えるわけじゃないけど、でも幸兄じゃない幸兄だ……。寒いはずなのに、背中を嫌な汗が流れる。桂吾に合図をして切り上げてもらうべきだ、って頭ではわかるのに、それでさらに幸兄の機嫌を損ねたらと思うと、テーブルの下でコートの裾をひく、という簡単な動作すら、凍りついたように動かすことができない体はしてくれない。
「確かに結果は変わらない。……だけどね、綾?」
今まで圭吾と話していた幸兄が私の方に向き直る。目はまったく笑っていないのに、口角だけを釣り上げる。言葉と同時に体を乗り出した幸兄の手がほおに触れた瞬間、幸兄にのまれないように、って裏で進めてた無意味な計算すらできなくなって思考が完全に漂白された。
「いいのかい? あの時俺に言った言葉を知られて。――思い出してしまったら、また、君の世界は壊れてしまうんじゃないのかな?」
不意に触れてきた指先に、怖い記憶に、幸兄の声と笑顔に、こわばった体から血の気が引くのが自分でもわかる。軽く触れただけの指先はすぐに離れていったけど、まばたきすらできない。全身が冷え切ってるのになぜかサウナの中にでもいるような息苦しさを感じて小さくあえぐ。
嫌怖いこっちを見ないで私に気づかないで怖い怖い怖い怖いっ。お願い何でもいう事をきく逆らったりしない他の誰かを見たりしないから私を壊さないで――っ!
「ねぇ、綾? 覚えているはずだよ?」
空転し始めた思考の片隅で幸兄の目に満足げな光がちらついたのにふと気づく。この前もだったけど、何がそんなに……。
「あの時、俺に何を望んだんだっけ? ……そう、きみは自分で言ったんだよね。俺に――」
「ここまでです。お引き取りください」
空転するだけの思考をさらに塗り潰そうとする幸兄の言葉が、桂吾のきつい声に破られる。その声の鋭さに驚いてまたたいた時、飲み物の香りやまわりの音が戻ってきた。
幸兄から見えないテーブルの下で桂吾の手が私の手をきつく握ってくれてる。外気に冷やされた、それでも暖かい手は覚えてるよりずっと大きくて、大丈夫ですよ、と言ってくれてるみたいだった。
「……け、い、……ご?」
声になったのかならないのか、それでもなんとか唇を動かすと、不思議と息が楽になった。そして、思い出したかのように体が小刻みに震えだす。
「気づくのが遅れてすみません。でも、もう大丈夫ですから」
声を拾ったのか違うのか、こっちに視線をむけた桂吾がふわりと笑う。――あぁ、そうだ。桂吾がいてくれるんだし、高浜当主である幸兄が人目のあるところで何かするわけがない。そんなに怖がる必要なんてないんだった……。
「まだ来たばかりだけどね?」
隠しきれない不快感を含んだ声に幸兄の方をむくと、眉間にしわをよせた機嫌の悪いのがばればれな幸兄が。思わず体をすくめたけど、桂吾は余裕なのか鼻で笑い飛ばす。
「この人を脅えさせるような言動をしたら即終了だと最初に言ってあります。――あんたが動かないならこっちで席を立ちますよ。支払いはこっちでするのでお気遣いなく」
言うだけ言って立ち上がった桂吾がレコーダーをポケットにしまうと、まだ立ち直れない私をそうっと抱き上げる。コート越しなのに暖かさが伝わってくるみたいで思わずしがみつくと、大丈夫ですから、と小さく笑った桂吾はそのまま後ろをふり返りもせず歩き出した。
「次のお誘いを楽しみにしてるよ。――今度は壊してしまわないですむといいね?」
立ち上がりもせず私達を見送る幸兄は、直前の不機嫌さが嘘みたいな上機嫌さでくすくすと楽しそうに笑っている。
なんだか不穏な言葉を最後に、この日の面談は終わった。
――――――――
ふわりと甘い香りがして我にかえる。
「はい、どうぞ。あったまるから飲んで?」
笑いをふくんだ声にまばたきをして、まず目に入ったのは差し出された紅茶のカップ。
「彩香の好きなミルクティだよ。少し熱いから気をつけてね」
大好きな声に視線を動かすと、雅浩兄様が笑顔でこっちを見てる。
「……雅浩兄様?」
「うん? なに?」
機嫌のいい時の声にふっと何かが緩んだ。
「雅浩兄様っ!」
思わずそのまま抱きついたら、うわっ、と声がして、言わんこっちゃない、と誰が笑った。
「どうしたの? 甘えたさんだね」
それでも、少しおいてから雅浩兄様がゆるく抱き返してくれた。優しく頭をなでてくれる感触もいつもと同じで、それだけの事に涙があふれた。
いつも通りを作るために雅浩兄様はどれだけがんばってくれてるんだろう? 無理を言って幸兄と会わせてもらったのにこんな事になって、本当は怒るかあきれるかしても仕方ないだろうに。
「ごめんなさい……っ」
「何泣いてるの? 彩香が謝るような事、何にもないんだよ?」
「だって……」
「いいんだよ、こうなる事だって予想済みだったんだから。言うべきか迷って言わなかったんだけど……。彩香があいつと話をしたいっていう気持ちもわかる。でも、あんまりまともに話ができる相手じゃなさそうってわかっていたからね」
だから泣かないで、と言った雅浩兄様の声はなんでだか、泣いていいよ、って言ってるみたいだった。
やっと涙がとまってきて顔をあげたら、ずっとしがみつかせてくれてた雅浩兄様がふわっと笑う。
……って、なんなんですかっ、その笑顔っ?! 何いきなりゲームの時のベタ甘イベントの時にしか見た事ない全開笑顔ですか?! 私生では初めて見たよ?!
待って有り得ないなんなのあのイベント再現ですかないないないだから私はただのお邪魔キャラですよヒロインじゃないからっ!
「泣きやんじゃったの? せっかくかわいかったのに残念」
ちょだからなんでそんないい笑顔なの涙ふいてくれるのは嬉しいけどその笑顔まずいからなんでそんな幸せ全開みたいな笑顔なのもはやそれは凶器ですからね?!
まずいって好みの顔の本気の笑顔を至近距離とか本当危険ですからやだなんか心拍数おかしい気がするからそろそろひっこめて?!
「あれ? 彩香、顔赤い? たくさん泣いたから調子悪くなっちゃった?」
心配いらないからどこも調子悪くない全部雅浩兄様のせい本当やめ……って、おでこくっつけて熱確認したりしなくていいから~っ!
「そのくらいにしてやれよ」
言葉が出なくてあうあうしてたら、苦笑いで克人兄様が割りこんでくれた。
「真っ赤になってうろたえてるのがかわいいのはわかるけど、やり過ぎると嫌われるぞ?」
「ん? 彩香が僕を嫌いになるわけないよ。でも、怒られちゃうからこのくらいにしておこうかな」
くすくすと笑う雅浩兄様はもうすっかり普段通りで……。これはもしかしなくてもからかわれたっ?!
「雅浩兄様ひどいっ」
「ごめんね? 彩香の反応があんまりにもかわいいからつい」
「理由になってないっ!」
「じゃあ……。うん、彩香の気分転換になればと思ったんだよね」
「それ今考えたってばればれだよ?!」
「ごめんごめん」
すごく楽しそうに謝ってもらっても嬉しくないから!
「本当ごめんって。……そうだ、今夜は添い寝してあげるからそれで許して?」
まだのどの奥で笑いながらの提案に思わずぴくっとなる。たぶん、今日は一人で寝たら間違いなくろくな夢を見ないと思うから嬉しいんだけど……。多分最初からそのつもりでいてくれたと思うし、少しごまかされてる気もするんだよね。
「私の部屋でいい?」
なんで、ちょっと条件をつけてみた。だって、雅浩兄様が添い寝してくれる時っていつも雅浩兄様の部屋なんだもん。雅浩兄様の部屋で寝るのは好きなんだけど、私の部屋で一緒に寝たら、なんか効果が残りそうな気がするし。
「……あ~、ごめん。それはちょっと保留にさせて。父さん達との約束に触れるから」
「……約束?」
「うん。僕が彩香に添い寝するのはあくまでも不眠症の治療の一環で、彩香が自分の部屋で眠れない程ひどい時だけ、って建前なんだよね。だから、表向きは彩香が眠れないって泣きついてきたからベッドを明け渡して寝かしつけてるだけ。僕は予備のベッドで寝てる事にしてあるからさ」
初耳の情報に目をまたたく。確かに、雅浩兄様の部屋はほとんど使ってる様子もないし必然性もないのに続き部屋なんだよね。ほとんど封印状態になってるその部屋には予備のベッド――とか言いつつ普段使ってるのと同じやつだけど――と、勉強机くらいしかない。後は私の黒歴史になりそうな物がいくつか飾られてたくらい? 私ももう何年も入った事ないから今どうなってるのかはわからないけど……。
「……って、あの部屋、男の事情部屋じゃないの?」
つい首をかしげたら、雅浩兄様と克人兄様が突然咳こんだ。ついでに桂吾が思い切り笑う。あ、桂吾もいたんだ?
「え、なに? なんで?」
予想外のリアクションにきょとんとしてしまう。何か変な事言った?
「男の事情部屋って……。なんなんだよ、その微妙な名称……」
ひとしきり咳こんだ後、一番最初に立ち直った克人兄様がため息混じりにつぶやいた。
「え? だって、政孝父様がそう言ってたよ?」
「叔父さんが? なんて?」
「なんで雅浩兄様のお部屋は部屋もベッドも二つあるの、って聞いたら、大人になると男にはああいう部屋が必要になるんだよ、って。だから、何か事情があるのかなぁ、って」
たぶん、政孝父様の仕事を手伝うようになったら資料とか人目に触れたら困る物が増えるからだろう、って思ってたんだけど……。違うのかな?
「……父さん」
「……叔父さん」
私の返事に兄様達は苦ったため息をついて、桂吾はさらに笑い転げる。あんなに笑ったら後で腹筋痛いだろうなぁ。
そしてこのリアクション、みんなは何か違う意味に取ってるよね。なんなんだろう?
「それで、叔父さんが男の事情部屋って言ったのか?」
「えぇと、正確には、大人の男の事情がたくさんつまってるだけの部屋だから気にしなくていい、って」
何のためなのか、個人の部屋に鍵はないのが基本の篠井の家で、あの部屋と政孝父様の部屋――別名・書斎――だけは鍵があるんだよね。雅浩兄様は跡取りだしそのからみだろうな、って気にしてなかったんだけど、なんか意味があるのかな?
「……なんていうか……。間違ってないんだけど、色々微妙だね」
「さすが叔父さん、というべきか、気づかない彩香の素直さを褒めるべきか……」
二人のなんとも言えない反応に首をかしげたら、雅浩兄様が頭をなでてくれた。
「まぁ、ほら、さっき言ったみたいな建前とか大人の事情がつまった部屋なのは確かかな。ただ、さっきの呼び方はちょっと複雑だからやめてくれる?」
「別にいいけど……。何が複雑なの?」
「……いや、それは……」
「異性の家族には見せられない、ベッドの下が定番の隠し場所な物が積み上がってるみたいに聞こえるからですよ」
笑いながら兄様達がにごしたところを解説してくれる桂吾の言葉がすぐに飲み込めなくて首をかしげる。ベッドの下が定番って……?
……少し考えてから桂吾が何を言ってるのか気づくと、とたんに顔が赤くなってくのが自分でもわかる。
「雅浩兄様のえっち!」
「え? ちょっ、なんで僕だけ名指しなの?!」
「だって雅浩兄様の部屋じゃないっ」
「なんで?! 克人だって同じリアクションしたんだから同罪だから! というか、そんな事に使ってないからね?!」
照れ隠し半分で言った言葉に雅浩兄様が慌てた様子で反論してくる。もちろんそのくらいわかってるけどもっ!
「やだもう、政孝父様ったら何年計画でしょうもないネタしこんでるの?! 気長すぎるからっ」
なんだかおさまりがつかなくてほとんど叫ぶみたいな口調で言ったら、桂吾がまたしても盛大に吹き出す。
「あっはっは! 篠井本家おもしれぇっ」
「そこまで笑わなくてもいいでしょっ?!」
私無実だからっ! 悪いのは政孝父様だからね?!
「克人兄様ぁっ」
助けを求めて視線をむけたら、克人兄様もお腹を抱えて笑ってた。最後の理性なのか、声は殺してくれてるけど……っ!
「克人兄様までひどいっ」
「悪い……っ。でも、……これは……っ」
謝ってくれてるけど、笑いすぎで息も絶え絶えじゃない……。なんか怒る気力が続かなくなっちゃったよ……。
「桂吾はともかく克人兄様までそんなに笑わなくっても……」
ため息まじりにつぶやいたら、雅浩兄様もため息をつく。
「なんかもぅ……。とりあえず紅茶飲む?」
テーブルに置いてあったカップをさし出してくれたんで、ありがたく受け取る。一口飲むと、少しぬるめで飲みやすい。それに私のお気に入りの茶葉だった。
「ありがとう、おいしい」
「いれてくれたのは瀬戸谷先生だけどね。おいしかったならよかった」
軽く頭をなでてくれる手の感触になんだかなごんでしまう。
「あの部屋、気になるなら後で入ってみる? ほとんど物置みたいになってるから面白いものはないと思うけどね」
「ベッドの下をチェックすればいいの?」
「あと本棚の隙間と机の引き出しの奥もですよ」
「その話はもういいから」
わざと蒸し返したら、圭吾ものってきたけどさらりと流されちゃった。つまんないなぁ、っと思ったけど、雅浩兄様まだ顔赤いからこれ以上いじわるするのはやめとこっと。
お読みいただきありがとうございます♪
政孝父様、彩香の中身が高浜綾だとわかって、本人が気づかないのも承知で気の長いいたずらをしこんだつわものです(笑