あったかのんびり。
湯気がふわふわと立ちのぼる湯面から、やわらかく懐かしい香りがただよってとっても気持ちがいい。
「ふわぁ……」
つい幸せ気分でため息をついたら、雅浩兄様がくすくすと笑う。
「本当に気持ちよさそうだね」
「うん、あったかくて気持ちよくて幸せ」
私にはちょっと湯船が深過ぎるのがなんだけど、おっきいお風呂にみんなで入るのもいいなぁ。こうやってみんなで入ってれば、あの人が現れたら、とか脳裏をよぎらないし。
「本当は風呂大好きな人だからな」
桂吾の笑いを含んだ声もなんだかくつろぎきってる。お風呂好きは桂吾も同じだよね。
「お風呂大好き。かばとかくじらとかと、お風呂入るの夢だったなぁ」
「あぁ、例の絵本ですか。あんた好きでしたよね」
「うん~。まだ売ってたら欲しいなぁ」
体を洗ってる間に少し冷えた体がゆっくりとあったまっていくのが気持ちいい。
「この入浴剤、なんだか覚えのある香りなんだけど……。なんだっけかなぁ?」
お湯をすくってにおいを確かめてる雅浩兄様の言葉に、克人兄様も同じように首をかしげる。
「俺も覚えはあるんだけど思い出せないな」
「桂吾のコロンじゃない?」
「うん? 先生そんなの使ってたんだ?」
「使ってんぞ。ただ、かなり近づかなけりゃわからねぇ程度だけどな」
意外そうな視線をむけられて、桂吾が苦笑いでうなずく。
「これは昔彩香が専門家と協力して作ったんだよ。香りが強くないし気持ちを和らげて緊張をほぐすような効果がある。カウンセリングに来る生徒にはリラックスしてもらわねぇと仕事になんねぇだろ?」
「意識にはのぼらない程度で、でも香りの作用はあるって絶妙な加減だよね。たぶん、あのくらいならみんな、桂吾の雰囲気と紅茶の香りでリラックスできるんだと思ってるんじゃない?」
たぶん、今もほんの1~2滴お湯にたらした程度だろう。市販の入浴剤なんかよりもずっとやわらかな香り方だもんね。
「俺にその加減を教えたのはあんたでしょう。――お前らも香り物使うならその程度に抑えろよ? 物によっては呼吸器弱い人間の発作誘発すんぞ」
「香水で?」
「ああ。匂いってのは要は刺激だからな。何が誰にとってあわないかなんて千差万別すぎてわかるもんじゃない。ましてやたまたま居あわせた人間の好みや体質なんて把握しきれねぇ。だから、香水の類をつけてるってすぐにわかるような使い方は勧めねぇぞ」
言って桂吾が小さく笑う。
「もっとも、全部彩香の受け売りだけどな」
「そんな事まで彩香が?」
驚いたようにこっちを見られて、思わず肩をすくめる。
「元は私自身が香水使いたかったんだけど、気に入ったのがなかったってだけなんだけね」
「そこでアロマセラピストと相談してオリジナルを作るあたりが才能の無駄遣いなんですよ」
意地悪な事を言うくせに、声がやわらかくて、少しだけ嬉しそうで、ほめてくれてるようにしか聞こえないよ?
「でもこれは失敗作だよね。この香り、わきまえて使う分にはリラックスできる程度の効果だけど、使い方によっては結構強い催眠作用がでちゃって悪用できるもん」
お湯の感触を楽しみながら答えたら、兄様達がぎょっとしたような表情になる。
「そんな効果もあるのか?」
「うん。まぁ、これ単独なら少々つけすぎてもそんな効果ないけどね。わりと身近によくある香りと混じるとそういう効果が出ちゃうから」
「まぁ、あんたの意識飛ばして無理やり眠らせるのには便利でしたけどね」
うん、よくやられたよね……。つい半笑いになったら克人兄様がふきだす。
「なるほど? 昔はしょっちゅう無理して止められたって事か」
「そういうこった。この人は無理してると思ったら力づくでとめないと倒れるまで無理するからな」
「倒れるまでなんて無理しないよ?」
「何しれっと嘘ついてるんですか」
「嘘って……。桂吾が倒れる前にとめてくれるから大丈夫だったじゃない?」
小さく首をかしげたら、それは盛大なため息の三重奏が。
「……たち悪りぃ」
「これは確かにとめないと危ないな」
「これまで何もなかったのがラッキーだったんだね」
兄様達まで……。そんなまずいのかな? でも、桂吾がとめてくれる頃合いはわかってたから、それより早くある程度のめどが立つようにしてたんだけどなぁ。一応、とめられる前に終わるようにしてたつもりなんだけど……。
「まぁ、とりあえずそろそろあったまってきただろ。髪とか洗い残しの部分洗っちまうか」
話題を変えたかったのか違うのか、桂吾がそう言って立ち上がる。
「あんたは自分で髪洗えますか?」
桂吾の確認は嫌味とかじゃなく、さっき、ついたてのむこうに兄様達がいてくれるってわかってたのに体を洗ってる最中に気持ち悪くなったばっかりだからなんだよね。話しながら体洗ってたのに、突然気持ち悪くなって動けなくなっちゃったとか、自分でもどうかと思う。自分でも何がきっかけだったのかよくわからなくて、ただ吐き気に耐えるしかなかった。水着を着る前だったから、兄様達もどうしたものか悩んじゃったらしいし。でも、後から現れた桂吾は容赦なかった。私の様子を察するなり、さっさと着替えないとついたてどけますよ、と一言。それに反射で、ちょっと待って?! と返したら平然と、落ち着いたようでなにりです、なんて言うんだもんなぁ。
まぁ、だから、みんなの姿が視界から消えても平気か心配してくれるのも当然なんだけどね。
「うぅん……」
今回はついたてどけても問題ないとはいえ、大丈夫って断言できる程の自信はないんだよねぇ。かといって、髪の毛を洗わないって選択肢はないし……。
「じゃあ僕が洗ってあげようか?」
悩んでいたら、雅浩兄様がくすくす笑いながら立ち上がった。
「久しぶりだからうまくできないかもしれないけど、彩香が嫌じゃなかったら」
「ええと……。でも、昨日ふき取って蒸しタオルした程度だよ?」
普段ならともかく、昨日の今日で私の髪はきれいとは言いがたい状態だと思うんだけど……。
「僕は別に気にならないよ。だって、どうせ僕の手も一緒にシャンプーで洗っちゃうわけだしね」
うん、私が言ったらアウトな正論きた。……まぁ、雅浩兄様が気にならないなら別にいいのかな? 昔は雅浩兄様に髪の毛洗ってもらってたんだし。
「じゃあお願い。雅浩兄様に髪の毛洗ってもらうの好きだから嬉しい」
ついこぼれた笑みでお礼を言ったら、雅浩兄様の手が軽く頭をなでてくれた。
「じゃ、話がまとまったところで全員さっさと洗うぞ」
桂吾に急き立てられてわらわらとお湯からあがる。ちなみにここのお風呂、体を洗うためのシャワーは三つついてる。その辺だけそこはかとなく温泉旅館風なのは気にしない方向で? やっぱり、日本人にはこういう方が馴染むし、深く考えたら負けだと思うの。
お湯から上がった順に奥からシャワーの前に陣取ると、ちょこんと椅子に座る。雅浩兄様がシャワーで髪をぬらした後、髪を洗い始めてくれた。なんか、人に髪の毛を洗ってもらうのってすごく気持ちいいよね。
「今日は僕達が一緒だけど、明日からは母さんに頼んで一緒に入ってもらうといいよ。僕から事情話しておくから」
「ありがとう、雅浩兄様。でも、自分でお願いできるから大丈夫」
たぶん、お風呂が怖い理由を話すのが嫌だろうって心配してくれてるんだと思うけど、そのくらい自分でやらないとね。
「それにたぶん、私が直接お願いした方が百合子母様は喜んでくれる気がするし」
「あぁ、それは確かにね。父さんも母さんも彩香に甘えて欲しくてしかたないみたいだからきっと喜ぶよ」
くすくす笑いながらの返事に首をかしげたら、隣で髪を洗ってた克人兄様がふき出した。
「そういえば昨日はすごかったな。叔母さんが本気で怒ったところ、初めて見たぞ」
「うん?」
「高浜潰しはもちろん私にやらせてもらえますわね? なんて全開笑顔で言うんだもんなぁ。本当、母さんは彩香が大切なんだね」
「はい?!」
雅浩兄様の言葉に思わず裏返った声が出たのは悪くないと思うのっ。なんでそんな話になってるのっ?!
「高浜潰しって、まずくない?!」
確かに四強の中で一番古い家である高浜は、昨今その変なプライドの高さがたたって少し落ち目ではあるけど、それでもたぶん、動員できる一族の数が多くて、まともにぶつかったら篠井より強いんじゃないかな。そのくらい、みんなもわかってると思うんだけど……って、久我城と綾瀬が協力してくれるなら充分可能な範囲なんだっけ。でも、そんな事をしたら後が大変だと思う。高浜がいなくなった後、空いた席を巡っていざこざが起こるだろうし……。
こういったらなんだけど、四強はどこもさほど力に差がないけど、その下ってなると、一気に差が出るんだよね。たぶん、百合子母様がどこまでやるつもりかにもよるけど、たぶん四強から追い落とされても他の家よりは高浜の方が強い可能性が高い。そうなるとむしろ三すくみ状態になりそうかなぁ。でも、篠井と久我城はここ数世代かなり親しいし、そうなると綾瀬が微妙に……って、瀬戸谷が意外に綾瀬と親しいからバランスは取れるのかな?
それに、篠井が本気で高浜潰しにかかった、なんて話が広まったら経済が大混乱になりそうだよね……。国内だけの騒ぎじゃすまないし、倒産する会社も出るよね……。うぅん……。
ざっと計算してみた路頭に迷う人の人数にため息が出てしまった。
「相変わらず甘いですね、あんたは」
「うん?」
「見知らぬ他人がどうなるかなんでどうでもいいでしょう。五桁の人間が職を失う程度、なんだっていうんです?」
「大事だからね?!」
「グループを背負っていればそれ以上の人間の生活に責任があるんですよ。高浜はそれを放棄して好き放題した報いを受けるだけです」
さらりと言われて反射で返したら、やっぱり髪を洗ってる桂吾が苦笑いで視線をよこす。
「それに、篠井の当主夫人は不必要に職を失わせたりしないでしょう。首のすげ替えがすんだら、新体制の会社で雇い入れる計画も組んでるんじゃないですか?」
「僕もそう思うけどね。二人とも、社員の首を切る前にコスト削減と自分の給料を切れ、いよいよ駄目ならまずはワークシェアリングから、ってしつこくしつこく言ってるよ」
「言われてみれば……」
確かに二人のいう通りかも知れない。
「本当、あんたただのガキですね。昔ならこの程度意識するまでもなく計算してたでしょうに」
「……だから、私の脳みその劣化具合についての検証はいらないよ」
「いい事じゃないですか。あんた、何でもかんでもすぐに計算して答えが出せるもんだから、すっかり退屈しきってましたしね。今は予想外の事が山程あって人生楽しいでしょう?」
本当に嬉しそうな確認に、今度は私が苦笑いするしかなかった。確かに昔に比べるとわからない事の多さは、その分楽しさに繋がってるんだよね。
なんでも簡単に予測できた昔は驚く事なんてほとんどなかったけど、今はいろんな事に驚く事ができるんだよね。今回の計画みたく、楽しかったり嬉しかったりする事がほとんどなのもとっても嬉しい。それに、サプライズが成功した時のみんなの嬉しそう顔を見るのも嬉しい。――今思うと、昔ゼミ仲間がサプライズで誕生日を祝ってくれた時、予測できてたからちっとも驚かなくて残念がられちゃったのは申し訳ない事をしたな……。
「こうしてみると、綾はかなりもったいないことしてたよね」
ついため息をついたら、背後から笑う気配がした。
「それに気づいたなら、これからは大丈夫だよ」
「今の彩香はいつも楽しそうだし、俺達もそんな彩香を見てるのが楽しい。でも、こういう事は実際に楽しいって知ってるからわかる話だからなぁ。昔の彩香が気付けなかったのはしかたがないと思うぞ」
二人がかりでのなぐさめに、うん、とだけ答える。確かに、知らなければわかならい事はたくさんあって、昔の私はできるだけ多くの可能性を計算して備える習慣があった。何があってもあんまり驚かないように、感情を表に出さないようにする事で自分を守っていたんだけど、その代償に何を失くしてたのか、あの頃の私は気づけなかった。こんな暖かいものがあるだなんて知らなかったから、それを失くしてるだなんて分かるはずもなかったんだよね。
今の私には一緒に喜んでくれて、私の事で私以上に怒ってくれる人がたくさんいる。もしかしたら昔だって桂吾以外にもそういう人はいたのかもしれないけど、それに気がつけなかった。そういう事に気づくには、やっぱり精神的な余裕がないと駄目なのかもしれない。
今私がそれに気づけるのは、まわりに目をむける余裕をくれた人達がいるからだ。
「本当、今は幸せ」
楽しい事も嫌な事も全部表に出して、それを当たり前だって受け入れてもらえる。もしかしたら他の人には当たり前の事なのかもしれないけど、私にはすごい事だと思える。
「こんな幸せでいいのかなぁ」
「まだまだ全然足りてないからな」
「彩香はもっともっと幸せになってくれなきゃ駄目だよ」
「何言ってんです? こんな程度で満足しないでくださいよ」
つい口をついた言葉に立て続けの否定を返されて目をまたたく。
「そんな思いっきり否定しなくても……」
「あんたには前の利子つけて人の何倍も幸せになってもらうって決めてるんですから、この程度で満足しないでください」
「そうだぞ。彩香はこんないい子なんだからその分たくさん幸せにならないと駄目だ」
「僕達がそう決めたんだからあきらめてちゃんと幸せになってね?」
「うぅん……。私、充分すぎるくらい幸せだけどなぁ」
「彩香は幸せの範囲が広いからな。多分俺達が思ってるより幸せだって感じてくれてるんだろうけど……。でも、やっぱり俺達基準でこれ以上ないってくらい幸せになって欲しいんだよ」
「僕達のわがままを叶えるためだと思って、もっと欲張りになってくれる? でないと僕達が彩香に幸せになってもらえないって悩んじゃうんだよね」
だからなんでそんなにこだわるんですか。私は充分幸せなのに。これ以上なんて申し訳ないよ。
「あんたがどう思ってるかは知りませんけど、俺達としてはあの変態をなんとかして、あんたが心置きなく、たいした心配事もなく、あんたらしく大切な相手と幸せになってくれないと気が済まないんです」
「……何気なくかなりすごい要求してない?」
「これが最低ラインですよ。びた一文まかりませんからね」
「そういう事」
「まったくだな」
またもやたたみかけられて困ってしまう。そんなに幸せになれって言われてもどうしていいのかわからないし……。それに、今以上を望むのは贅沢すぎると思んだけど。
「とりあえず、一回流すから上むいて」
考え始めたところで雅浩兄様にうながされて上をむく。そうすると、気持ちいいあったかさのお湯がシャンプーの泡を流していく。雅浩兄様の手が丁寧に髪をすきながら泡を洗い落としてくれる感触がすごく気持ちいい。
「こういうのもね、彩香が気持ちよくて幸せ、って思うなら、いくらでもしてあげる。髪の毛洗うくらいなら服着たままでも大丈夫だから父さんと母さんも文句言わないだろうしね」
「というか、篠井本家は何が狙いなんだ? 彩香を雅浩の嫁に欲しいならべったり一緒にいさせた方がいいだろ」
「そういう風になし崩しで彩香の意思を無視したくないから、どこからも文句がつかない程度のけじめをつけてるだけ。彩香が選ぶ相手が事情を話してもわかってくれないような馬鹿だとは思えないけど、まわりの親戚まではわからないからね」
桂吾の疑問にさらっと答えた雅浩兄様がシャワーをとめて軽く髪の水気をしぼってくれる。
「次トリートメントするね」
「うん。ありがとう」
やわらかな声に返事をすると、桂吾が小さく笑った。
「本当に篠井ではあんたを大切にしてるんですね」
「そりゃね。昔から、雅浩は自力で幸せになれるけど彩香は守って幸せにしてあげないといけないんだから、っていうのが父さんの口癖だよ。母さんも、彩香さんはたくさん辛い思いをしてきたんだからその分雅浩さんよりたくさん大事にしてあげたいんですよ、ってよく言ってる」
「……嬉しいけど、雅浩兄様に申し訳ないよ……」
「……お前、それでよく屈託なく彩香を大事にできんな……。妹ばっかり、ってこじれるフラグだぞ?」
初耳の話に思わず遠い目になったら、桂吾もいくらかあきれたようにつぶやいた。だけど、雅浩兄様は平然と、だって僕もそう思うし、と言った。
「僕が知ってたのは、彩香の両親が事故で亡くなった事と、近い親戚が結構馬鹿であんまりうまくいってなかった事くらいだけどね。それしかわからなくても、僕達の前では泣きも笑いもしない君が夜中に一人で泣いてるとか、夜に眠れないから昼間にうとうとしちゃってるとか、気がついちゃうとね」
「つまり、気付くまでは思うところがあったわけか」
「そりゃ、僕だって子供だったからね。突然知らない女の子連れて来た上、自分より大事にされたら面白くないよ。しかも、彩香は話しかければ返事はするけど、一緒に遊んでてもいつの間にか寝ちゃってるし、そのくせ悲鳴あげて飛び起きるもんだからその度騒ぎになるし」
桂吾の指摘をあっさりと認めて雅浩兄様が笑う。……うん、酷い子供だったよね……。
「だけど、母さんにそう言ったら、なんで彩香さんはそんな風なんだと思いますか、って聞かれたんだよね。雅浩さんが寝てて飛び起きるのはどんな時ですか、って言われて、そんなの小さい頃に怖い夢見た時だけだよ、って答えたんだけど。じゃあ彩香さんは昼間のうたた寝の時ですら怖い夢を見てしまうんでしょうね、って言われてさ」
苦笑いでの言葉に返事ができなくて、鏡ごしに雅浩兄様の顔を見る。私の髪を洗いながらだからか、少しうつむいている表情はわかりにくいけど、口元に浮かんだ笑みはなんだか柔らかい。
「突然大好きなお父さんとお母さんがいなくなってしまって、知らない場所に連れてこられて、不安で眠る事すらできないんでしょうね、って言われちゃってね。正直、すぐに納得できたわじゃないんだけど……。彩香の様子を見てたら確かに僕より彩香に一生懸命でもしかたがないなぁって思ったんだよね」
「そう納得するまでは結構むくれてたけどな」
「余計な事言わなくていいよ」
横からのまぜっかえしに雅浩兄様が素っ気なく切り返す。
「それに、なんで切り替えがついたのかは内緒。彩香は覚えてるかもしれないけど、もったいないから二人には教えてあげないよ」
続いたいたずらっぽい声に記憶をたどる。確かに、私が篠井に引き取られたばっかりの頃の雅浩兄様はちょっと素っ気なかったんだよね。遊んでくれてても、言われてしかたなくなのがわかったし。それが変わったのはいつだったっけ?
「……そんな酷い事、絶対に誰にもさせないからそんな風に泣かないで」
自分の方が泣きそうな顔をして、そんな約束をしてくれた時?
きちんと思い出そうとすれば思い出せるんだろうけど、あの頃の記憶はぼんやりとあいまいなんだよね。精神的にもきつい時期だったし、思い出さない方がいいのかもしれない。
「彩香が覚えてなくても、僕はあの時彩香を家族として守らなくちゃって思ったんだよね。今彩香に手を差し伸べてあげなかったら、彩香はもう笑ってくれないんだろうなって思った。でもそれが嫌で、だから父さんと母さんが彩香の事に一生懸命でも別にいいかって思えたんだよ。それに、二人とも、僕が大事な相談をしたい時はきちんと時間を作ってくれたし、僕が関わる事はちゃんと僕の意見も聞いてくれるからね。手のかかる彩香優先になっても、僕がないがしろにされるわけじゃない、って信じられたからっていうのもあるけど」
「お前達の両親は本当、絶妙な距離感で子供と接してるみたいだな。こんな手のかかるの抱えてどうやったらここまで仲良し兄妹になるのかと思ってたんだけどなぁ」
珍しく素で感心した声をもらす桂吾に、雅浩兄様がちょっと自慢げに笑う。
「そりゃ、自慢の両親だし、僕が目標にしてる人達だからね」
「親が理想で目標にできるのはいい事だよな。……うちの親父は尊敬できるけど目指すのはためらうからなぁ」
克人兄様のしみじみとしたつぶやきに、私と雅浩兄様がふき出す。うん、確かに克人兄様が久我城のおじ様を目指すのはやめた方がいいと思うな。
「早苗姉様が久我城のおじ様目指すならわかるけど……。克人兄様にはあわないと思うよ?」
「僕もそう思う。むしろ久我城の伯父さんは瀬戸谷先生と近い雰囲気だよね」
「あぁ、話聞いた感じそうだよな。克人は久我城の当主夫人の方に似てるんじゃないか?」
それぞれのコメントに克人兄様も苦笑いでうなずいてる。久我城のおじ様って、明るくて優しいんだけどなんていうか、策士属性がついてるんだよね。にこにこ笑顔の裏で何考えてるのかわからなくて怖い時がある。ただ、それが陰性のものにならない珍しいタイプだけどね。
「さて、と。そろそろ流して平気かな。彩香、もう一度上むいてくれる?」
「はぁい」
言われて上をむくと、適温のシャワーでゆっくりと髪を流してくれる。本当、雅浩兄様に髪の毛洗ってもらうの気持ちいいなぁ。
……そういえば、綾も小さい頃はよく幸兄が一緒にお風呂に入って髪を洗ってくれたんだよね。あの頃は世話係の人に無言でごしごし洗われる上に、時間までひたすら無言で浴室の隅に立ってるのが監視されてるみたいで怖かった。そう幸兄に話したら一緒にお風呂に入ってくれるようになったんだっけ。今にして思えば、三才にもならない子供のかたことの訴えを聞き入れて時間を作れる程余裕のあるスケジュールじゃなかっただろうにな。高浜の両親は私を構うのをよく思わなかっただろうし、私の知らないところであれこれ言われたはずなのに、どうしてあんなに優しくしてくれたんだろう?
もしも、そうやって私によくしてくれた事が一層あの人にかかるプレッシャーを強くしていたなら、それはなんだかすごく悲しい。私の幸せが幸兄の苦痛の上にしか成り立たなかったんだとしたら、恨まれても憎まれてもしかたがないよね。
……もしかして、最初にあの人の世界を壊したのは私だったの?
「彩香? どうしたの? 目に入った?」
心配そうな声に意識を現実に引き戻すと、雅浩兄様と視線がからむ。
「ごめん、流しそこなったかな?」
水気をはらった指先で目元をすくわれて、泣いていた事に気がついた。なんでもない、って言わなくちゃいけないのに、言葉じゃなくて涙ばっかりがあふれる。
一緒にいてもらえるのが嬉しくて、あの人がその代償を一人で支払ってくれていた事に気づきもしなかった――気づこうともしなかったんだ。両親は何度も、幸兄にまとわりつくな、って言っていた。でも私はそれを聞き流してた。他に誰もかまってくれないから、幸兄は甘えると喜んでくれるから、って言い訳をして、都合の悪い情報をしめ出していたのかもしれない。
本当に小さかった頃はともかく、あの頃の能力を考えれば十才になる頃には気づかない方がおかしい。だとしたら、私は本当に意図的に気づかないふりをしていたんだろう。
「……ごめん、なさい」
私はあの人の世界を壊すだけ壊して、自分一人逃げだした。あの人はいったいどんな気持ちで私を見てたんだろう? 心理学や精神医学を学んでおきながら、幸兄の心を知ろうとしなかった。表面に現れるものに怯えて考える事を放棄した私に、他の関わり方ができなかったんだとしたら、全部私のせいだ。
「ごめんなさい。……でも、怖かったの……っ」
あなたの心を分析して、そこに本気の憎しみがあったら? その可能性が怖くて、暴力をふるわれるのが怖い、っていうわかりやすい言い訳で逃げ出した。
そのくせ、本気になれば国外に出て行方をくらます事ができるようになっても、ずるずると用意された檻の中から出なかった。幸兄が私をかまわなくなってくる度、耳に入れば気にして接触してくるだろう事をして。
そのつけは全部あの人に支払わせてた。そのせいであの人はどれだけの犯罪を犯してしまったの? 雄馬父様や栞母様、藤野さん、きっと他にもたくさんの人が巻き込まれて苦しんだに違いない。
たくさんの人の心をかき乱して人生めちゃくちゃにしたのは……、あの人がそんな事をしたきっかけは全部私が作ったんだ……。
お読みいただきありがとうございます♪
年末年始にかけて忙しいので、次週1月4日は休載させていただきます。
ご了承くださいませ。