怖い人現る。
幸兄が私の前に現れてから半月以上、すぐにでも接触してくるかと思っていたら、これといった動きもないまま十一月が終わったのは少し予想外だった。なんだか沈黙が怖いなぁと思っていたら、放課後担任の先生に呼び出された。いじめの件か、殴られた事だろうかと思っていたらなぜか応接室に案内されて——。
お約束って言葉、本当に嫌いになりそう。しっかりと礼儀を無視してドアに一番近い席をおさえた幸兄が待ち構えてました、と。
仮にも高浜の当主がなんで下座に座ってるんですかしかも生徒に会うのに理事が下座とかあり得ないでしょう礼儀知らずにも程があるわ。
いつ現れるかって警戒してたおかげで、今回はなんとか理性を保ったまま相対することが出来たけど、体は正直でいっそ見事なくらい硬直してしまった。
ドアを入った所で硬直した私をどう思ったのか、案内役の先生が、あぁ、とつぶやいた。
「高浜理事、彼女が篠井彩香さんです。篠井さん、この人はうちの理事の一人で高浜幸仁さんだよ。この前篠井さんが学園内で殴られた事件をとても気にしてくださっていてね。少し話をしたいそうだよ」
あぁ、そんな便利な口実もありましたね。……とりあえず、小賢しくてかわいくない方向で対応してみようかな。
「相手が理事になったからといって話せる事に変わりはないですけど?」
私が相手に関して完全に黙秘しているから、学園側では犯人が見つからなくて困ってるらしい。確かに、暴力事件を起こすような生徒を放置するわけにはいかないから捕まえたいんだろうけどね。面倒な事になりそうだから、私も兄様達も桂吾も学園に犯人の名前は伝えてない。——雅浩兄様が相良先輩つるしたらしいって話は聞いたけど。
だから、話はしたくない、とふくませた言葉を口にする。
「そう警戒しなくても無理矢理聞き出すつもりはないよ。ともかく、話をさせてもらえないかな?」
微苦笑で座るようにうながす声音は、優しかった頃の幸兄のまま。だけど、中等部が終わっても高等部は授業中なのは週に一度、今日だけ。しかも、今日は桂吾も学園内のカウンセラー同士の情報交換を兼ねた会議でそうそう席を外せない。しっかりと私が孤立する日を狙ってるんだから、裏があるに違いないってばればれだからね?
つい癖が出た、といった雰囲気で左の袖口をいじりながら少し迷った後、しぶしぶ口を開く。
「どうしても、ですか?」
「そんなに時間は取らせないから。どうぞ、座って」
断るのを許さない口調で示された席は幸兄の正面で、普通なら一番の上座に当たる席だった。
「……私がそこに座るのはおかしくないですか?」
「あぁ、さっきまで理事長と話していたんだよ。それで私が下座に座ったんだけど動くのも面倒でね。今日はこちらのわがまま、という事で座ってくれるかい?」
うぅん……。できれば出口までの動線を塞がれるのは避けたいんだけど、ここで変にこだわるのもだしなぁ……。
あきらめて座ると、先生が私にも緑茶をいれてくれた後いなくなる。
……やっぱり二人きりですか。予想はしてたけどきついなぁ。
「今日はこの前みたいな顔をしないんだね」
「……はい?」
「この前篠井さんのクラスに視察で行った時、君は私の顔を見て、幽霊にでも出くわしたような顔をしていたから」
小さく笑いながらの言葉には数回まばたきをしただけで明確な反応は返さない。礼儀にかなってない態度を責められた、と思っての反応だと解釈してもらえればラッキー、かな。
「私はそんなに誰かに似ていたかな?」
こちらの反応を探るような問いに、小さく首をかしげる。
「理事は幽霊を信じてるんですか?」
「——うん?」
「だって、幽霊に出くわしたような、なんて表現、幽霊の存在を否定してたら使いませんよね?」
わざと変なところを指摘すると、幸兄は苦笑いで肩をすくめた。
「わかった、まわりくどい探り合いはやめるよ。——久しぶりだね、綾」
「私は篠井彩香です」
「戸籍や生物学的な個人名がどうという議論はいらないよ。君の過去を調べた結果、篠井彩香が高浜綾の生まれ変わりであると判断しただけだからね」
笑顔で断言されて少し眉をよせる。ここにも中二病患者がいたよ、とか思っちゃった私は悪くないと思います。
「顔の痣とか身体的特徴の一致もあるようだし、藤野美智の邪魔をする手並みといい、間違いないと思ってるんだけどね?」
「何の事だかわからないんですが……?」
通じないのを承知ですっとぼけると、幸兄の笑みが一層深くなる。
「まぁ、綾が認めなくてもかまわないよ。今回は俺がその事実を知ってるって伝えたかったのと、久しぶりにゆっくり話したかっただけだから」
うわ、嘘つきがいる。このタイミングで逃げ道塞ぐように座らせておいて何を言いますか?
「ひとまず美智の無作法は謝っておくよ。あれももう少しうまく立ち回るかと思ってたんだけど、予想以上に愚かだったみたいで迷惑をかけたね」
「なんで理事が藤野先輩の代わりに私に謝るんですか?」
少なくとも、学園側には私が藤野美智さんに謝られる理由があると知られていないはず。
「もう知ってるだろう? ずっと俺の身辺調査をしてるんだから、報告は受けてるはずだよ」
うは、それもつかまれてるのか。……ここのところの沈黙はその辺りを調べてたのかな? それとも、ずっと知りながら放置してたの?
「何の事だかわかりません」
それでも表に出さないでとぼける。今は些細な言質も与えないのが重要だもの。
「そうかい? じゃあ説明しようか」
だけど相変わらず楽しそうな幸兄は気にした様子もない。
「綾がいなくなった後、部屋を整理してて見つけたゲーム、なかなか面白かったよ。セーブデータがかなりの量になってたから珍しいと思ってやってみたら、色々実在の名前が出てくるのには驚いたけどね」
待て待て待てっ?! なんで私のまわりの男の人達はみんなあのゲームに食いつくの?! 本来男がやるもんじゃないんだからねっ?!
「だからね、藤野美智を見つけた時思ったんだよ。あの子をヒロインに仕立て上げたら、君の憧れた世界を再現できるんじゃないか、ってね」
……はい?
「まぁ、最初は冗談のつもりだったんだよ。でも、俺が少しかまったら藤野宮の方からくれてよこしたんで、色々教えこんだんだけどね。やっぱり元がさほどでもなかったみたいであの程度にしかならなかった」
…………ちょっと待って。それってつまり、藤野さんは転生でもなんでもなくて、単に幸兄にそう思い込まされてるだけって事?
「あのゲームを何度もやらせて、丁寧に丁寧に言い聞かせたんだよ。このゲームの世界に生まれ変わったんだ、うまくクリアできたら今の状況から逃げられる、ってね」
笑いながらの言葉にうすら寒いものを感じて思わず身震いする。……この人は、藤野さんに逃げ出したいと思うような生活をさせてたの?
「……あなた、一体何を……?」
「綾にしたようにかわいがってあげただけだよ? 危険のない程度に傷つけて、精神的に追い詰めて。まぁ、綾にした程優しくはできなかったからだいぶ怖がってたし痛がってたけどね?」
くすくす笑う幸兄の雰囲気にのまれてソファの上で後ずさる。
「毎日毎日丁寧に教えてあげたのに、あの程度にしかならなくて本当に残念だよ。綾はあんなに優秀だったのにねぇ」
笑いながらの言葉が恐ろしく冷たく聞こえる。昔も怖い人だとは思ってたけど……、ここまでだった?
「あれのいいところといったら、声が少し綾に似てる事だけだね。真っ暗にして遊んであげる時だけはそれなりに俺を満足させてくれたけど」
真っ暗にして何をしたの、と口から出かけたのを必死にこらえる。聞いたって絶対怖い答えしか返って来ないに決まってる。
「だから、少しずつ登場人物がそろって行くのが楽しくてねぇ。最年少の篠井彩香が生まれなかった時は焦ったけど、調べて末端の篠井に生まれてたってわかった時はほっとしたよ」
「ちょっと待って。それじゃ、私が生まれた時から……?」
「そうだよ。ずっと、調べてた。そうしたら篠井雄馬が綾や俺の事を調べ始めてね。気になって詳しく報告させたら、篠井彩香は綾の生まれ変わりだとしか思えない。あれ程嬉しかった事はないよ」
はやく会いたくてしかたがなかったよ、と微笑まれ、背筋が凍る。ずっと手のひらで踊らされてたって事……?
「綾をどうやって篠井本家の養女にするかは少し悩んだけどね。うまく二人が事故死してくれて助かったよ。その後、籍は入れないでくれたのも好都合だね」
「……どういう、意味?」
自分で導き出した仮説を否定したくて、かすれた声でささやくと幸兄が笑う。
「ゲームの期間が終わったら、君の希望で高浜本家の養女になるんだ。——断ったらどうなるか、わかってるよね?」
心底楽しそうに言われ、確信する。この人が雄馬父様と栞母様を殺したんだ。そして、私がいう事を聞かなければ今度は兄様達や政孝父様と百合子母様に手を出すつもりなんだ……。
「あぁ、今すぐ返事をしなくてもいいよ。綾が昔と同じ素直ないい子だって俺に教えてくれればそれで、ね」
おいで、とうながすように手をさしのべられて、逆らえずにふらりと立ち上がる。ローテーブルをよけて幸兄の正面に立つと、片腕が腰にまわる。体の線を探るようにゆっくりと手が下がった後、ブレザーの下にもぐりこむ。昔刺された場所をブラウスごしにひっかかれ、体をすくめくると幸兄は満足そうに笑う。
なんで、この人、ずっと笑ってるんだろう?
「この前教えてあげたはずだよ。綾は俺に逆らわない、全部俺のものだって、態度で示してごらん?」
口調だけはやわらかな命令に体がこわばる。何を求められているか知ってるからこそ、これにしたがったらまずいって思うのに、動かないだけでもものすごい気力がいる。
逆らったら何をされるか——この人が口にした事を本気でやると知ってるからこそ、言うなりになった方が安全だとしたがい慣れた綾がささやく。
「……っ」
音にすらならなかった息が喉にひっかかって、唇からもれる。
それをどうとったのか、幸兄の空いていた手が私のほおに触れる。ゆっくりと左ほおをすべり、唇のふちをたどった後、あごのラインにそって耳の下まで戻る。そのまま首すじをなでる感触に、首をしめられた時を思い出して体が震えた。
「本当にあの頃のままだね。この前も、首に触れたらそうやって震えてた」
微笑ましそうに言われても嬉しくない。こんな風に首すじに触れられるたび、ほとんど恐怖から指先すら動かせなくなるのを見て、何がそんな嬉しいんだ、この人は……。
幸兄の手がすべり、襟元にたどり着くとリボンがほどかれる。ブラウスのボタンがゆっくりと外されていくけれど、とめる事もできない。やがて、邪魔になったのかブレザーのボタンも外されてしまった。
……そろそろ本当にしゃれにならないんですけど。この人とむきあって、したがわないでいるだけの事にこんなに気力がいるだなんて思ってもみなかった。もう何分も持たないよ……っ。
「綾、俺のいう事をきけるね? 大切なものがあるなら、なおさら全部俺のものにならないといけないよ」
重ねられた言葉にひそむ苛立ちが怖くて手を動かしかけた時、叩きつけるような勢いで応接室のドアが開けられた。
「許可なく入室するとは無礼だね」
「妹は対人恐怖症で加療中です。慣れない相手と二人きりにさせるわけにはいきません。——担任の先生にも伝えておいたはずですが?」
幸兄の言葉を一蹴した雅浩兄様は、私を見てちらりと笑みを浮かべた。
「もう大丈夫だから」
普段と同じやわらかな声に思わず泣きそうになる。かけよってしがみつきたいのに、怖い腕から逃げられないのがもどかしくて、でも、その腕のおかげてへたりこまずにすんでいるのは皮肉な話かもしれない。
雅浩兄様が来てくれた事でほんの少しだけ心に余裕ができたのか、現れたのが雅浩兄様だけじゃなくて他にも誰かがいるのがわかった。
そして、雅浩兄様と誰かの後ろから見慣れた姿が顔を出すなり、強い光が視界を焼く。
「その体勢、性的虐待ととらせてもらいますよ」
「……瀬戸谷桂吾っ」
「一応これでもそこにいる今にも倒れそうな顔色をした子供の主治医ですから。——さっさと手を離してください」
初めて余裕の表情が消えた幸兄の怨みがこもった声をさらりと受け流した桂吾がデジカメをもてあそぶ。
「お忘れでしょうけど、この学園では、男女関係なく信頼のおける相手以外と二人きりになる事を強制された場合、その様子の録音・録画は正当な権利として認められてます。無論、二人きりになろうとした時点でそれに同意している前提なので法的に有用な証拠になりますが」
「そんな規則あるわけが——」
「あります。ちゃんと生徒手帳にも書かれてますよ。——篠井君、理事に見せてさしあげるといい」
余裕しゃくしゃくの桂吾にうながされた雅浩兄様が近づいてきて、ブレザーの内ポケットから取り出した生徒手帳の一ページを開く。私を幸兄の視線から隠すように、目の前に差し出されたそれを見て、幸兄の顔が歪む。
「ご理解いただけたところで妹から手を離してもらえませんか? でなければ本当に司法の介入を乞う事になりますが」
感情のこもらない平坦な声と同時に雅浩兄様の手が、ゆっくりと私を閉じ込める幸兄の腕を引き離してくれた。
「小賢しくナイトのつもりかい?」
「未熟な自覚はしてますよ。——だから、なりふりかまったりする余裕がないんです」
言いながら私と幸兄の間に体を滑りこませた雅浩兄様の手に押されて一歩下がる。
「本当、清々しいくらいの思いきりだよね。——まさか、綾瀬を味方につけるとは恐れ入ったよ」
……え?
「——いくら、妹が請われたのが高浜の当主本人でなくても同じ屋敷で暮らすんだ。危険だという篠井君の意見には賛同するよ」
ずっといた、思い当たらなかったもう一人の言葉に顔を改めて見ると、そこにいたのはこの学園の最年少の理事で攻略対象でもある、綾瀬敬道?
「篠井君が言う、藤野美智に対処するのに高浜の意向を斟酌する必要がない理由は、納得したよ。精神を病んだ人間が糸を引いていたとはね。ろくでもない話も多かったけど、少なくとも高浜理事が中学生の女の子を脅して手篭めにしようとするような危険人物だというのは疑いようがない」
「ご理解いただけましたか?」
「ああ。高浜にメスをいれようという申し出、協力を前提に検討させてもらうよ」
「ありがとうございます」
「うちとしても篠井・久我城に加えて瀬戸谷まで敵にはしたくないからね」
人好きのする笑顔で断言した綾瀬敬道はちらりと桂吾に視線を送る。
「桂吾はどこにもつかないと思ってたんだけどな?」
「しかたねぇだろ。あの人が関わってる以上、全力でなんとかするしかねぇんだよ」
「ふぅん? ま、いい加減告白したら? また他人にくわれちゃうよ?」
「黙れ、性悪。あんなガキ抱けるか」
「中身は年上なんだろ? 桂吾がべた惚れしてるくらいなんだから、さぞ面白い人なんだろうな。俺も立候補しようかな?」
「あの人の本気見た後でもたつんならやってみろ」
「下品だよ。仮にも教育関係者だろ」
楽しそうな会話を聞きながら、そういえば綾瀬敬道と桂吾は西荻でクラスメイトだったっけ、と思い出す。あの当時、桂吾が私以外でそれなりに一緒にいた唯一の相手だったような……。今でも付き合いが続いてたのね。
「時に高浜先輩、俺と付き合いません?」
「予測不能キャラは桂吾で間にあってるからいらない」
視線をむけられ、つい呼びかけられた名前に相応しい返事が口から出ると綾瀬がふき出した。
「まったく同じ間合いで瞬殺された! こりゃ本物だ」
「——その声と間合いだけで人物特定する精度、相変わらず人間離れしてるね」
音に関する能力なら私より上だと断言できる、綾瀬敬道の言葉につい苦笑いになる。正直、まともに話をしたのは数回だけ、という微妙な知り合いなんだよね。でも、その数回のうちの一回があまりに印象的で、お互い無視できない程度の縁はある。
「高浜先輩の演算能力と記憶力程機械じみてませんよ。——いつぞやの恩返しがてら、綾瀬はあなたの盾になるとお約束しましょう」
「売っとくもんだね。——ありがたく受け取らせてもらいます」
「いえいえ。一番恩に着せられるタイミングで返す、と約束しましたからね」
笑いながら綾瀬が進み出て、幸兄の肩に手を置いた。
「この怖いおじさんは僕がお相手しておくので、君達は帰りなさい。——彼女の顔色は酷すぎる。瀬戸谷先生、責任を持って自宅まで送り届けてくださいね」
「ありがとうございます。——さ、行こう」
綾瀬に場所を譲った雅浩兄様に軽く背中を押されて応接室から出ると、桂吾が最後に一声かけたけど、ドアは閉めない。
「後は運営側が対応する事だから心配ないよ。ひとまず今は篠井さんを車に乗せるのが最優先だから」
デジカメをズボンのポケットに押し込んだカウンセラーモードの桂吾が、学園内では常に着ている白衣を脱ぐ。どうしたんだろうと思ってたら、雑に丸めて私に押し付けるなり抱え上げられたっ?!
「その今にも貧血で倒れそうな顔色で平気とか嘘ついても無駄だからね」
ばっさり切り捨てて歩き出す桂吾に、反射でしがみつく。だから、なんでみんな私を荷物扱いするの?!
「私は荷物じゃ……っ」
「いいから静かにしてて。本当に、歩かせるのすらどうかと思う程顔色が悪いんだよ」
隣に並んだ雅浩兄様にまで言われて、口をつぐむ。そこまで……?
「あと、できればそのまま思いきりしがみついててね。酷い格好だよ?」
……って、制服、ほぼ全開だったっ! 桂吾に押し付けられた、丸めた白衣のおかげでわからなくなってるけど……って、そのために渡してくれたのね。
「ありがとう。……助かる」
言われた通り、くっついたままお礼を言ったら、桂吾が小さく笑う。
「どういたしまして。車までこの体勢でいくけど、我慢してくれるかな?」
「鞄とかは克人が回収してくれてるから心配ないよ。克人もすごく心配してたけど、無理言ってフォローに回ってもらったんだ。あの場に踏み込むのはさすがに僕じゃないと学園側に説明がつかないからね。今日はこのまま帰るから」
二人がかりで決定事項として言われ、おとなしくうなずく。……少しだけ、結構な噂になりそうで怖いなぁ、なんて思ったのは秘密。
駐車場に着くと当たり前のようにアイドリングしてる篠井の送迎車がいた。いつもは一人もしくは二人の前提なんでセダンなんだけど、今日は家族で出かける時に使うワンボックスタイプだった。この車、二列目を回転させられるから、むかいあっておしゃべりできるのが政孝父様の琴線に触れたらしい。
なんでだろう、と思ってたら、雅浩兄様が開けたドアから桂吾が私を抱えたまま乗りこむ。
「……へ?」
「理事直々に家まで送り届けるように言われてますからね」
しれっとそのまま座席に座った桂吾の返事に、そういえばそんな事を言ってたっけ、と深く考えない事にする。気にしたら負けな気がするし、正直色々飲み込んでる桂吾がいてくれるのは助かるもの。
「車を出してもらうから、座ってシートベルトしてもらえるか?」
先に乗りこんでいた克人兄様に言われて、桂吾の膝から降りる。さすがに家まで膝の上とかちょっとどうかと思うし。
「……あれ? なんで克人兄様まで?」
「なんでって、……って、彩香っ、その格好?!」
慌てた声に自分の体を見下ろすと、桂吾の膝から降りたからか体を隠してくれていた白衣がずれてる。そうしたらもちろん、制服の惨状がさらされてるわけで……。
そうだった、さっき幸兄に——。
思い出した途端、血の気が引くのと同時に吐き気がこみ上げてきて口をおさえる。なんとかやり過ごそうとしていたら、雑に頭をなでられた。
「さっさと吐いた方が楽になりますよ。車も服も洗えば済むんですから。——病人はシートベルトしてなくても問題ないんだから車出させろ。ここから離れた方が落ち着く」
前半はやたらと甘く、後半は雅浩兄様にむけていたのかいくらか雑な言葉だった。
「それとも口に指つっこんでやらないと吐けないとか言いますか? ご希望ならやりますよ?」
車が動き出す振動にかぶせて、桂吾が口元をおさえた手を引き離す。本気だと示したいのか、そのまま指先が唇の端に触れた。見上げると、怒ったように眉間にしわを寄せた桂吾と目があう。
「……遅いよ、馬鹿っ!」
あれ以上早く割って入れたはずがないってわかってたけど、思わずくってかかった声はみっともない程に泣き出しそうだった。
「だから、服を胃液まみれにされるくらいが丁度いい罰ゲームだって言ってるんですよ。権利を放棄してくれるんなら俺が喜ぶだけの事です」
言葉通りの少し素っ気ない声を聞いて、桂吾がすっかり普段の様子に戻ったならもう大丈夫なんだ、と思ったら最後の糸が切れた。
涙も吐き気もおさえるのをやめた私の八つ当たりでしかない言葉に、時折相づちをはさむ以外に何も言わないくせに、桂吾の手はずっと私の頭をなてでいてくれた。
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