魔人(レア)降臨。
桂吾の勧めにしたがって午後の授業は早退して帰る事にした私達三人――結局兄様達も一緒に早退する事になったんだよね。桂吾は一体どんな理由で早退許可証書いたんだろう?
ともかく、私達が家に着いたら、篠井の両親がリビングでそわそわとお茶を飲んでいた。
「ただいま――って、二人とも早いね?」
「ただいま。父さん、今日遅くなるって言ってなかった?」
「お邪魔します」
三人それぞれに挨拶をする。
「克人君、ようこそ。雅浩、彩香はおかえり。二人がそろって早退すると連絡をもらったから切り上げてきたんだ」
「克人さんまで付き添ってくださったのね、ありがとう。二人はおかえりなさい。彩香さんは気分が良くないのでしょう? 大丈夫?」
返事の途中で篠井の母様が心配そうに眉をよせたんで、側に行ったらほおに手を添えて顔を引き寄せられてしまった。
「顔色は悪くないようだけど……。今日は習い事はお休みしましょうね」
「もうなんともないから大丈夫だよ?」
「彩香さんはいつも大丈夫って言うから心配になってしまうのだけど」
うわ、思わぬところで信用ゼロですか?!
「ええと……。克人兄様が大丈夫にしてくれたからもう平気なの」
あの人に出くわしたせいでの大混乱をおさめてくれたのは克人兄様だし、と思って言っただけなんだけど、篠井の母様は驚いたように目をまたたく。
「克人さんが?」
「うん。そうだけど?」
「こういう時、彩香さんの口から雅浩さん以外の名前が出るのは珍しいわね」
くすくすと笑いながら篠井の母様は私の頭をなでてくれる。そりゃ確かに何かっていうと雅浩兄様雅浩兄様ってまとわりついてるのは認めるけど……。それじゃ私がブラコンみたいじゃない。
ちょっと腑に落ちない気分になっていたら、篠井の母様の視線が克人兄様にむく。
「克人さん、本当にありがとう」
「いや、俺はそんなたいした事はしてないんで」
苦笑いで篠井の母様に答える克人兄様、少し顔が赤いです。何思い出してるんですか?
「そんな事はないわ。もし彩香さんに何かあったらって、私も政孝さんもとても心配していたの。いつも彩香さんを守ってくれてありがとう」
篠井の母様の言葉がちょっとひっかかって、内心首をかしげてしまう。……ただ、早退の連絡があったくらいでこんなに心配してくれるものなのかな?
「彩香?」
私の表情に気がついたのか、篠井の父様に名前を呼ばれた。視線を送ると心配そうな顔の篠井の父様と目があう。その表情の中に、ただ体調が悪い子供を心配する以上の何かがあるのに気づいて、逆に腑に落ちた。
「どうした?」
「――知ってるんだ?」
「知ってる?」
「私に――高浜綾に何があったのか、篠井の父様は知ってるんだね。だから、あの人に会った事で私がどうなるか、そんなに心配してくれるんだよね?」
私の確認に篠井の父様がびきっと音がしそうな勢いで硬直しちゃった。……仮にも篠井本家の当主がそんなわかりやすくてどうするんですか。
「あぁ、高浜綾との関係については兄様達に話しましたから大丈夫ですよ」
「話した、のか?」
「ええ。混乱して一時的に記憶が混乱したらしくて、思いきりあの頃の態度で接してしまったのと、大切な悪友の勧めもあったので。一応ですけど信用してもらえそうで助かりました」
なんとなく態度を決めかねて、つい、綾の習慣通り年長者としゃべる時の口調が出てしまう。だって、あれこれ知られてると思うとなんか彩香の態度は色々痛いっていうか……。
「彩香さん?」
――って、なになになにっ?! 篠井の母様からただならぬ冷気がなんで魔人降臨なの怖い怖いっ。
「は、はい……?」
引きつり気味の表情をごまかしつつふり返ると、満面笑顔の篠井の母様。うん、すっごいいい笑顔ですね。めちゃくちゃ怖いけどっ!
「政孝さんに対してその言葉遣いはどうしたのかしら?」
「へ……? いえ、おかしくない、えっと、ですよね……?」
別に失礼にあたるような口調じゃなかったと思うけど……。救いを求めて雅浩兄様に視線をむけたら、わざとらしくそらされました。ちょっと待って、それ酷いからっ! 助けてっ?!
「……彩香さん?」
いやーっ! 何でさらに温度下がるの怖い怖い怖いっ。兄様達の数段上とか本当やめて怖いいや誰か助けてぇっ。
――いやだ怖いそれを私にむけないで――っ
「彩香が本気で泣きそうなんでそのくらいで許してもらえませんか?」
苦笑いをふくんだ声と、頭に置かれた手の感触に一瞬思考が止まる。
「大丈夫だから彩香も落ち着けな?」
やわらかな声にとなりを見上げると克人兄様が立っていて、普段と変わらない笑顔に緊張がゆるんだ途端、体がふらついた。
「……っと。大丈夫か? 膝打たなかったよな?」
足に力が入らなくてへたり込んだ私を支えてくれながら、一緒に床に膝をついた克人兄様から心配そうな声がする。返事をしなくちゃと思うのに、喉に引っかかりでもしたのか、うまく声がでなくてかすれた音がもれた。
「あぁ、無理に返事しなくていいからな。ちょっとびっくりしすぎただけだ。すぐ落ち着くさ」
小さく笑ってくしゃくしゃと頭をなでてくれる優しさに我慢できなくて、克人兄様にしがみついたら、一拍おいて体にゆるく腕がまわされた。
「こういう時は泣いとかないと駄目だぞ。怖かったのはそうやって吐きだすのが一番だからな」
違う。怖くなんてない。あの人とは違うんだから、篠井の母様が怖いはずない。――怖いだなんて思ったら駄目なんだから。
「こんな震えてるのに何意地はってるんだか。――あのな、俺と雅浩が驚かさないようにって加減してても怖がってる彩香が、篠井の叔母さんの迫力に怯えないはずがないだろ。ばれてるんだから隠したって無駄なんだよ」
違うってわかってるのちゃんと知ってるから心配するな、と背中を叩いてくれる感触がなんだかすごく嬉しい。なんでこの人はこんな風に私の考えてる事がわかるみたいに、欲しい言葉をくれるんだろう?
「彩香の考えなんてお見通しなんだよ。何年お前の兄様やってると思ってるんだ?」
まさかの内心につっこみ?! 思わず体をひねって克人兄様の顔を見上げたら、楽しそうに笑われてしまった。
「なんて言ったら、図星か?」
……これはからかわれたのかな? それとも本当にわかっててやってるのかな?
「なぁ、彩香。これだけばれてるんだから、お前が泣くの我慢したところで泣きたいのもばれてるって気づこうな?」
……っ?! そ、それはっ?! ……確かにそうかもしれない。
「だから、泣きたい時は素直に泣いてくれた方が安心だし嬉しいんだよ。怖かったのも辛いのも、全部我慢しないで教えてくれな?」
壊れものに触れるみたいにそうっとほおをなでられて、堪えきれなくなった涙があふれる。このタイミングでこれは卑怯だよ、克人兄様。あの人の顔を見て、いろんな事を思い出してただでさえ弱ってるのに。すごくよくしてもらってるのに、魔人モードが怖くて本気で――あの人に感じたのと同じものを篠井の母様に感じてしまった自分が嫌だった。
たくさんたくさん愛してもらってるのにいつまでも高浜綾に縛られたままなのがやりきれない。だけど、私がみんなに大切にしてもらえるのはあの頃の記憶があったからこそでもあって、大切にしなくちゃいけないものなのか、忘れた方がいいのかわからなくなる。
優しい人達が大好きなのに、いつかあの人みたいに変わってしまうんじゃないかって、線をひいてしまうのがよくないってわかってるのにやめられない。大切なのに、冗談混じりじゃなければそう伝えられない。でも、伝えなかったら嫌われるんじゃないかって気もして……。
そんな、ごちゃごちゃとからまった感情を全部見通した顔で、泣いていい、だなんて言われたら我慢できるはずないじゃない。
「そんな目見開いたまま泣いてると目玉までこぼれるんじゃないか?」
ちょっとだけ冗談めかした言葉に、ほんの少し浮かんだ笑みが呼び水になったのかもしれない。甘えさせてくれる人にしがみついてうまく言葉にならない声で何か言うたび、短いけれど優しい相づちが返される。
だって、私には泣く資格なんてないと思ってた。何もかも私のせいだから、泣いてすませていいはずがないのに。それに泣いたらみんなに心配をかけるから、その意味でも泣いたら駄目なんだって、ずっと思ってた。……でも本当は苦しくて、行き場のない感情を全部はき出してしまいたかった。
「馬鹿だなぁ、こんな大変になるまでためこんで……」
ほんの少しのあきれとたくさんの優しさが混じった声音は、初めて綾が抱えるものを知った時、桂吾がもらした、あんたとことん馬鹿でしょう、というつぶやきとおんなじだった。
こんな風に馬鹿呼ばわりする人は、本当に私を大切にしてくれるし、たくさんの事を許してくれるのだと教えてくれたのは桂吾だ。
そして、ただただ感情に任せて泣きわめくのを許されるのがこれ程心を軽くしてくれるのだと、初めて克人兄様が教えてくれた。
お読みいただきありがとうございます♪
克人兄様いいとこかっさらいましたね?(笑