いろんな思い出。
「はい、どうぞ」
甘い香りと湯気が立つマグをさしだされ、つい口元がゆるんじゃう。
「ありがとう」
受け取ったマグにはたっぷりとミルクティがはいってる。一口飲むとちょうど私好みの、ミルクだけを入れた紅茶だった。
「本当、紅茶いれるの上手だね」
「そりゃ、あんた喜ばせたくて精進しましたからね」
薄く笑みを浮かべた桂吾はそれだけ言うと、手際良く全員のマグを取り替えて片付けに戻った。
「……これ、彩香が家でよく飲んでるのと同じ?」
「うん。昔から好きなんだよね」
桂吾が選んだこの紅茶、カフェインレスのフレーバーティで、チョコレートの香りがする。綾も好きでよく飲んでた茶葉は、普通に手に入るから彩香もよく飲んでるんだよね。
「聞いていいのか悩ましいところなんだけど、彩香と瀬戸谷先生はどういう関係だったんだ?」
「うん?」
「ただの先輩後輩って感じじゃないし、恋人っていうのもなんだかしっくりこない気がしてな」
克人兄様の言葉にちょっと首をかしげる。
「……ええと、桂吾はどう思う?」
なんだかしっくりくる言葉が見つからなくて桂吾にふったら、食べ終わったら答えてあげるよ、とふり返りもせずに返事が来た。
「気になる事が多いのはわかるけど、二人はともかく食事をすませた方がいいよ」
やんわりとした注意を受けて兄様達がサンドイッチをかじり出す。うん、確かに二人ともご飯が進んでないもんね。
兄様達がランチボックスを空にすると、さて、と桂吾がつぶやいた。
「僕と彼女――高浜先輩の関係だったよね。確かになんとも言いにくいんだけど」
そう言って小さく笑う。
「君達が気にしてるだろうところで答えると、体の関係はなかったけど八割くらいの相手に付き合ってると思われてた程度の関係、かな?」
なんとも言い難い返事に兄様達が反応できなくて変な沈黙が落ちた。
「まぁ、否定はしないけど……」
「なんていうか、素晴らしく間合い取るのが上手い人でね。一緒にいても僕が何かに集中してるとほうっておいてくれるのに、ふと様子をうかがうと気づいてちらっと笑いかけてくるんだよ。そんな時おざなりに流しても気にしないでくれるのに、話しかければ必ず自分の作業を止めてこっちに付き合ってくれるんだよ」
「それは居心地がよさそうですね」
「それはもう気楽だし、何を相談しても的をいた返事をしてくれるんだからね。ついつい、一緒にいる時間が長くなって、付き合ってるんだろうって言われ出したんだ」
「一緒にいるだけで、ですか?」
「基本ほぼ無表情のあの人が僕に限っては笑顔を見せたり、あたりが柔らかかったりはしたけどね」
のんびりと返事をする桂吾に兄様達が苦笑いなのは、事実無根の噂じゃないって思ってるのかな?
「でも、そういう間合いの取り方は変わらないんですね。彩香もそうやってこっちの様子をすごくよく見てますから」
「ま、人間の本質なんてそう変わるものじゃないからね」
雅浩兄様の言葉に桂吾はさらりと応じてから、何か考える様子になる。
「そういや、身体的な特徴はあんまり共通してないですね。まだ成長期だってのを差し引いても身長が全然違いますし」
「……気にしてるんだから言わないで」
綾は百七十四あったけど、今は百三十七センチ。綾が同じ年だった頃と比べても十センチ以上低いんだよね。
「彩香はそのくらいがかわいいと思うけどね」
「俺も同感。そんなに気にしなくてもまだ伸びるんじゃないか?」
「気にするよ……。せめて百六十は欲しいもん」
「なんでまた?」
「だって、克人兄様百九十超えそうだし……。雅浩兄様だってまだまだ伸びるでしょ? 私が小さいと兄様達が踊りにくいもん」
私にとっては割と深刻な問題なんだけど、男ども三人は思い切り笑ってくれましたっ。なぜっ?!
「そこで僕達が踊りにくいって気にしてくれるところが彩香らしいよね」
「だなぁ。そういうところがかわいい」
「本当、昔は隠してた本音がだだ漏れですね。あんたやっぱりそっちが地ですよ」
「むぅ……」
だからなんでそんな微笑ましそうなんですか、と。
「現状、こういう状況証拠的なものを積み重ねていくしかないわけだけど、納得いきそうかい?」
「今ひとつすっきりしない感じではあるんですけど……。確かにどうしようもないんですよね」
「いっそ篠井さんに脱いでもらう? ほくろの位置が同じとか出てくるかもしれないよ?」
「桂吾っ?!」
「そういう情報は俺達が高浜綾について調べても出てこないと思うので遠慮します」
慌てる私をよそにさらりと受け流す克人兄様。ナイス正論……って、あれ? そういえば……。
「身辺調査って、詳しい死因もわかるの?」
「あんたのって事なら、そこそこ詳細にわかると思いますよ。俺は、刺された場所――傷のあった位置と死亡推定時刻、死因、推定されたおおよその事情までは聞きましたから」
「でもなんでそんな事が気になったの?」
「私、背中に痣あるの、雅浩兄様は知ってるよね?」
「あぁ、 腰のちょっと上あたりにあるあれ? ちょっと手術痕みたいにも見える縦筋のやつだよね。でも、それがどうしたの?」
「なんで裸にならないとわからないような位置にある痣の存在を知ってるのか、つっこんでもいいかい?」
桂吾のしれっとした指摘に雅浩兄様が紅茶をふいた。
「どういう意味ですかっ?!」
「だって、水着から見えたとかなら久我城君だって知ってるはずだよね? なのにあえて篠井君限定って事は、篠井さんはその痣を気にして露出するような水着を着た事がないって意味だと思うんだけど?」
……認めるけどもっ。確かに桂吾の言う通りだけどっ!
「今の問題はそこじゃないからね?!」
「いや、僕としては気にせざるを得ないんだよ。万一、よからぬ理由でそれを知ってるんだとしたら見過ごせないからね」
「よからぬ理由ってなんなのっ?!」
「なんだと思います?」
「……桂吾?」
「いや、冗談じゃないですよ? 万が一のレベルですけど、あんたに何かあったなら篠井を完全に敵にまわそうがうちに引き取ります」
相変わらずのカウンセラー然とした笑顔で言ってるくせに、本気の凄みがある。……まったく、本当過保護なんだから。
「別に面倒な話じゃないよ。篠井に引き取られてしばらくは雅浩兄様ともお風呂入ってたってだけの話」
「一緒に風呂って……って、あぁ、そういう理由ですか?」
「ま、軽い後遺症みたいなものだと思う。今はさほどじゃないから心配しないで」
「ま、あんたには風呂場は鬼門でしょうけどね。無理しない方がいいですよ?」
「気をつけてはいるから。――それで、話戻すけど、たぶん背中の痣、綾が刺された位置と同じだと思う。顔も傷のあった場所に痣があったし」
「そりゃ、また見事な物証になりそうそですけど、本当に?」
「背中の傷はそんな気がするってだけだけど、顔は確実に同じ場所だったから。――ただ、顔の痣はレーザー治療でとっちゃったんだよね」
残っていれば、確実な証拠、になったんだろうけど。私の話を聞いて痣の意味を知った父様と母様が、そんなものを残しておく必要はないから、って治療の手配をしてくれたんだ。医者には、私が大きくなって気にするようだったらでも充分ですよ、ってたしなめられたんだけど、顔だしどうしても気になるからって強引に説得して治療が受けられるようにしてくれた。
確かにそんなに濃くもなく目立たないと言えば目立たなかったんだけどね。でも、篠井に来る前に治療は終わってる。治療痕も今はほとんどわからないと思うし。
「顔の痣は僕も覚えてないなぁ」
「俺もわからないな。そもそも彩香が前髪あげてる事自体滅多にないし」
兄様達のつぶやきに桂吾が思わずなのか目をまたたかせた。
「……あんたが前髪あげた? 何があろうとそれだけは嫌だって言い続けて、黒歴史増やしてまでそれだけはって拒否したあんたが?」
「そんなに嫌だったの?」
桂吾の驚きように今度は雅浩兄様が目をまたたかせる。
「昔の傷はかなり目立ったし、場所が場所からに言い訳もしにくかったから。……それに、あの人に憎まれてる証拠だからなんか嫌で」
「憎まれてるって……。彩香が?」
信じられない、とつぶやく克人兄様の声を拾った桂吾が、苛立たしげにため息をついた。
「正確に言えば、彼女個人が憎まれてた、というわけじゃないかな。――この話題にふれるには、まず当時の高浜家の事情から説明しないとわからないんだけど、かまいませんか?」
「あぁ、いいよ。私が自分で話すから」
説明を肩代わりしてくれるつもりでいる桂吾を制したものの、少し悩む。どう説明したらわかりやすいのかな。
「あの当時、高浜には子供が五人いたんだよね」
「現当主の幸仁氏を頭に、和也、芙美、加奈子、綾、の二男三女だったな」
「うん。上の四人はみんな年が近くて、六年で四人生まれてるんだけど、私だけ離れててね。長男とは十七違った」
社交界の主だった家の家族構成は把握しておくのが必須、という常識通り、高浜の家族構成も覚えていたらしい克人兄様にうなずいてから、もう一度考える。
「――高浜は家の体面を重んじるから、長男が跡取りって決めてかかってたんだけど、あの人はむいてなかったんだと思う。ピアノが上手でいつも優しくて……。でも、辛そうに勉強してる人だった」
私の覚えてる長男の幸仁――幸兄は、少し困ったように笑う人だった。いつも眉間にしわをよせて何かの勉強をしている人で、でも私が話しかけると笑顔で頭をなでてくれた。
後から知った話だけど、幸兄は高浜の跡取りになんてなりたくなかったらしい。本当は別にやりたい事があったのに、高浜の両親が跡取りなんだからって他の道は許さなかった。
小さい頃から跡取りなんだからってプレッシャーをかけ続けられたあの人は、常に兄弟で一番優秀である事を求められた。兄さんと姉さん達もかなり厳しくあれこれやらされてたけど、そんな中で私だけは放置されてたんだよね。正確に言えば、習い事と家庭教師は同じにやらされてたんだけど、あの人以外の家族からまったく興味を持たれてなかった。
だから、必然的に私は家族の中で唯一優しくしてくれる幸兄になついてたんだよね。他の家族は話しかけてもろくな返事が来ないか無視されるかどっちかだったから。
「家族がそろってその態度かよ……」
私の説明に克人兄様が苦ったため息をつく。まぁ、久我城と篠井じゃ想像もつかないよね。
「私だけ年が離れてたから、母さんが浮気相手と作った子供だって思われてたんだよね」
これもだいぶ後になってから知った情報を口にしたら、兄様達がなんとも困った様子になっちゃった。
そもそも母さんの浮気自体が父さんの思い込みでしかなかったらしく、私が浮気相手との子供だっていうのは検査で否定されたんだけど、そんな疑いを持たれた母さんとの仲はこじれてしまった。二人とも私が生まれたりしなければと思ったのか、綺麗に存在を無視してくれて、親の態度にならった兄さん姉さんも、家で働いていた人達も私にだけ露骨に態度が違ったんだよね。
だから私は、がんばって勉強していい結果を出せばきっとみんなわかってくれる、という幸兄の言葉を信じた。自慢の娘になればふり返ってくれる、と言われてそれを実行しようとしたんだ。ただ、私は親の関心を買うより何より、幸兄に褒めてもらいたかったんだけどね。いい成績をとる度、がんばったね、って頭をなでてくれるのが嬉しくて、そのために勉強も習い事もがんばってた。
――それがあの人の恨みを買う原因になるだなんて思いもせずに。
――――――――
入室の許しをもらってドアを開けると、机にむかっていた幸兄が笑顔で迎えてくれた。それが嬉しくて駆けよると、大きな手が頭をなでてくれる。十七離れた長兄はいつも優しくて、たくさんいる兄姉の中で私が一番好きな人だ。
「何かいい事があったのかい?」
「うんっ」
問いかけについ弾んだ声で応じて、手に持っていた紙を広げて幸兄に見せる。先月受けた模試の結果が返って来たのはついさっきだ。
「見て! 西荻の中等部、A判定とれたの! 父さんと母さんも、藤野宮の中等部じゃなくて西荻受けていいって!」
西荻というのは、私達が進学先の候補として考える中で最もランクが高い。最近は藤野宮に進学する子供が多くて二校の差は縮まりつつあるらしいけど、今はまだ西荻の方がずっとランクが上だ。
だから、受験してもいいって言われたのがすごく嬉しくて、幸兄に一番に報告しに来たの。受験して受からなかったらみっともないからって、父さんと母さんは合格圏内のところしか受けさせてくれない。私も、模試で三回連続でA判定をとってやっと、西荻を受ける許可をもらえたんだ。
「……綾はすごいな」
私の言葉に目を見張った幸兄の言葉が嬉しくて、私はつい笑み崩れた。
「私、がんばっていい学校入って、たくさん幸兄のお手伝いするね?」
勉強も習い事も、本当はあんまり好きじゃないけど、がんばれば幸兄がほめてくれる。父さんと母さんもたくさんがんばれば私の事を見てくれるようになる、喜んでくれる、って幸兄がいうから、毎日やってるんだもの。
「……そうか、綾は俺の役に立ちたいって思ってくれるのか」
この時、幸兄の目が暗い光を帯びていたのに気づければ何かが変わったのかもしれない。でも、私は何も気づこうともせずに言葉を返してしまった。
「うん。だって私、幸兄が一番好きだもん」
「だったら、……俺のために消えてくれるよな?」
「……え?」
意味がつながらない言葉にまばたきをする私の腕がつかまれ、次の瞬間には体が宙に浮いた。背中と頭に衝撃がきて、どこかに叩きつけられたんだとわかったけど、状況が理解できなかった。
なんで、幸兄と私しかいないのにこんな怖い事が起こるの……っ?
反射で閉じていた目を開けると、いつもと同じ、優しい笑顔の幸兄と視線がからむ。だけど、押さえつけられた肩が痛いし、なんでカッターなんて持っているの?
「末っ子の綾が一番優秀なのが悪いんだよ」
それまでできなかった事が初めてできたと報告した時に、がんばったね、とほめてくれたのと同じあたたかな声で言いながら、幸兄が片手に持った刃物を私のひたいにあてる。痛みに体をこわばらせると、満足そうな笑みが浮かんだ。
「怖いだろう? 俺がずっと綾に怯えてたように、綾も俺に怯えるといいよ」
ゆっくりと金属がすべって行くと、痛みが強くなって、あふれ出た液体が髪の中にしたたる。
……この人は誰なの? 幸兄のはずなのに、幸兄ならこんな酷い事するはずがない。
「かわいそうに、怖いんだね。泣いてる」
痛みがこめかみにたどり着いたころ、幸兄の手から刃物が落ちて私の目元をぬぐう。指先の優しさは変わらないのに、幸兄は別の人になってしまったの?
「綾がこんなに優秀じゃなければ、……あの人達が跡取りを綾に変えるだなんて言い出さなければ、俺は今まで通り綾を大事にしてやれたのに」
ごめんな、とつぶやく声がとても悲しそうで、その時初めて、私のした事が幸兄を苦しめていたんだと気づく。
「ごめんなさい」
大好きな人を知らない間に苦しめていたのが悲しくて情けなくて、謝るとふっと幸兄が笑った。
「綾は悪くないんだよ。――でも、これ以上傷つけ合う前に終わりにしよう?」
ゆっくりと幸兄の両手が首すじにかかる。その行為が何を意味していたのかわからかなったけど、幸兄がその方がいいって決めたならそれでいいんだろう。
だって、父さんも母さんも、もう子供の行事に付き合うのはたくさんだって私の事なんて放りっぱなしだ。授業参観も運動会も、都合をつけて来てくれたのはいつも幸兄だけ。他の兄さんも姉さん達も、年の離れた私の相手なんてしてくれない。
話し相手になってくれるのもほめてくれるのも、叱ってくれるのも相談にのってくれたのも、幸兄一人だから、幸兄が考えてくれた結果が一番正しいはずだもん。
「――幸兄のしたいようにして」
だけど、私の答えを聞いた幸兄は泣きそうに顔をゆがめた。
「ごめんな。俺がもっとちゃんと、綾と家族の間を取り持ってやってたら、そんな事言わせないですんだんだ」
言葉の間に少しずつ幸兄の手に力がこもって喉が圧迫される。苦しさにもがくと、幸兄が突然怒鳴った。
「――そうやって、綾が全部俺任せにするから、俺がこんな事しなくちゃならないんだよっ!」
締めつけがどんどん強くなって、息ができなくなる。こんな状況になってやっと、自分が殺されかけているのだとわかった。
「お前さえ産まれなきゃ、せめてお前が長男か長女ならっ、俺は綾を憎まないですんだんだよっ! なんでよりにもよって末っ子なんかに産まれたんだっ?!」
血を吐くような言葉に、喉を締め上げられる苦しさとは違う原因で涙がこぼれた。
――あぁ、それが理由ならこの人は絶対に救われないじゃないか。私が生きていても、このまま殺されても、知らない場所で死んでも、この人は解放されない。
その事がやけに悲しくて、殺される恐怖が一瞬消えた。私をにらみつけている人を見上げて、必死に口を動かす。伝わるかどうかはわからない。でも、伝えたかった。
「…………っ」
伝わったのか違うのか、幸兄の表情が凍りつく。次の瞬間、間違えようもなく憎悪に染め上げられた顔で幸兄が片手を離した。それなのに喉を締める力は強くなるばかり。
「ふざけるな……っ」
押し殺した叫びとともに離された手が振りあげられ、殴られる恐怖に体がすくんだ――。
――――――――
「高浜綾は優秀過ぎたんだよ。高浜は他の家より体面を重んじるから、芸術家肌でそこそこ優秀程度だった長男は跡取りとしての重責に潰されかけてたんだろうね。一回り以上も年の離れた末妹が自分より――弟妹の中どころか、当時化け物並みの学力を要求されていた西荻学院へ入学確実なんてお墨付きを持って来るほど優秀だと知って暴発した、という事だね」
ぽつぽつと話していた私の言葉が途切れると、桂吾は苦った声でざっくりとまとめてみせた。
「西荻って……。藤野宮が台頭してきたここ十年くらいは学力が落ちてますけど、それでもうちより上ですよね?」
「あの当時は、現在の藤野宮の上位にあたる学力が西荻の下層くらいだったかな。あそこは家柄よりも学力を重視したクラスがほとんどだったし、各学年上位三名は学費寮費無料、十五位までは学用品無料支給と奨学金返済優遇――実質的な学費寮費の減額なんて制度があったんで、一般家庭からも優秀な層が集まってたからね」
よくある学力をお金で買うやり方だけど、その分優秀な生徒が集まったし、家柄がよくて在学できても学院内では特殊クラス――学力じゃなくお金と家柄で在籍してる連中のクラスは馬鹿にされていた。
卒業してしまえば同じ西荻学院卒業だけど、内部にいる間の肩身の狭さは相当だと思う。その居心地の悪さを原動力に勉強にはげむ生徒もいたみたいだけど、ひがんでひねくれる方が多かった気がする。
そんな西荻を反面教師に設立されたのが藤野宮。ま、西荻も上位にいれば雰囲気は藤野宮とあんまり変わらなかっけど。
「なるほど。彩香自身じゃなくて、自分の地位を脅かしかねない妹、が憎まれてたんですね」
「そうなるね。で、その長男はまだ小学生でしかなかった末妹の顔を切りつけた上、首を絞めて殺そうとしたんだよ。幸いと言うべきか、首を折られる事もなく、途中で我に返った相手が手を止めた事で助かったらしいけど」
詳細には触れないけど、事情を把握するには充分な説明に兄様達がそろってため息をつく。
「……そんな事があったのに彩香はよく僕が怖くないね」
「だよなぁ。立ち位置としては雅浩とその馬鹿は同じなわけだし」
「……? だって、現状の私より雅浩兄様の方が優秀だよね?」
兄様達の言葉に少し首をかしげると、雅浩兄様が眉をよせる。
「それはつまり、僕の能力を超えないように加減してくれてるの?」
「ううん。さっき、綾より回転数抑えてるって言ったでしょ? 彩香の出力で出せる能力だと、雅浩兄様の方が上って感じかな。別にあえて雅浩兄様を基準に設定してるわけじゃないよ」
「それはつまり、あと何年かしたら変わって来る可能性もあるんだね?」
「……そうだね。たぶん、今の感じだと私が大学入るまで――早ければ高校入学前には」
雅浩兄様の確認に、答えにくいなぁ、と思いつつ正直な返事をする。たぶん、隠した方が嫌がられちゃいそうだし。
「なるほど。じゃ、何の問題もないね」
「……はい?」
満面の笑みで予想外過ぎる返事をされてフリーズした私は悪くない、と思うの……。
「だって、彩香は僕の事、どっかの馬鹿とは違うって信じてくれてるから、僕を抜かないようにって加減するつもりないんだよね? なら、僕には何の問題もないから」
僕のせいで変な手抜きするつもりだったならお仕置きものだけどね、と笑顔で言い切る雅浩兄様。
……ええと、そういう問題だっけ?
「跡継ぎの立場を争う相手が僕より何倍も優秀だったら辛いと思うよ。でも、彩香は篠井の跡取りになりたい?」
「え? だって篠井の跡取るのは雅浩兄様でしょ? 私関係ないよね?」
何を聞かれてるのかわからなくて、反射で答えると、だから気にならないんだよ、と雅浩兄様がすごく優しく笑う。
「彩香は今も昔も、僕を蹴落として跡取りになりたいなんて思ってないよね。これからもそれは変わらないって確信できるし。だから、君が僕より優秀だとしてもそれは何の問題もないんだよ。だって彩香は僕の夢を脅かしたりしないんだから」
「まったくだな。そもそも、それを言ったらうちの姉さんはどうなるんだよ? 知らん顔してるけどあの人だって充分久我城の跡を取れるだけの才能がある。だけど、俺が生まれた瞬間から、久我城の跡取りを押しつける相手ができたって喜んでるような人だ。頼る事はあっても怖いとも邪魔だとも思わないぞ?」
万一あの人と敵対する事があったらと思うとぞっとするけどな、と苦笑いになる克人兄様。
確かに早苗姉様はものすごく――高浜綾として対峙したとしてもかなりの緊張を強いられるだろうくらいに頭が切れる人だもんね。私も早苗姉様敵に回す事だけはしたくない……。普段はおっとりと優しげで、これぞ大和撫子の見本ですって感じの人なんだけどその有能さが少し怖い。
「能力的な事を言えばたぶん、姉さんの方が久我城の跡取りに相応しいだろうな。でも、あの人は俺がやりたいなら任せる、必要な時は手伝うからやってみろ、って自分でやる気は全くないからな。その意味では一番重要な適正がないんだよ」
「本人のやる気って重要だもんね。――僕だって、好きで篠井の跡取りとしてやっていくつもりなんだから、私関係ないよね、なんて言ってる彩香よりむいてる自信あるんだけど?」
おかしそうに笑いながらの言葉に、目をぱちくりさせる。二人にかかるとなんだかすごく簡単な問題に思えるんだけど……。桂吾もなんだかおかしそうに笑いをかみ殺してるし。
「篠井君にとって篠井さんが脅威じゃない理由は、跡取りの座に一切興味がないから、かい?」
「そもそも僕はとうの昔にこの話を両親と話し合ってますから。彩香を引き取ったらまわりは跡取り候補が増えたと考えて、あれこれ言ってくるから覚悟しておくように。あるいは僕が跡取りを降りたくて彩香にそのつもりがあるのなら、跡取りを彩香に変えることもできるけどどうしたいか、ずいぶん何度も確かめられてますからね。今更です」
なんでもないような言葉に思わず目をまたたく。
「……初耳なんだけど」
「僕はとっくの昔に自分の意志で篠井の跡取りとしてやってく道を選んでるんだよ? 彩香がどうしてもやってみたいって言うなら一部任せるくらいはしてもいいけど、関係ないよね、なんて言ってる子には絶対やらせてあげない。だから言う必要もまったくなかったってだけ」
きっぱりとした言葉だけど、柔らかく笑いを含んだ声で言われるとなんだかすごく優しく響く。
「確かに跡取りの立場にこだわりがあるのは同じかもしれないね。でも、僕は自分の好きでこの立場にいるんだ。それに、父さん達も僕が自分の意志で跡取りとしてやっていく覚悟を決めたなら僕に任せてくれるって約束してくれてる。だから、彩香がどれだけ優秀でも篠井の跡取り問題に発展したりしないんだよ」
だから安心して、と続いていそうな言葉がなんだかすごく嬉しい。だって、この人を疑ってたわけじゃないけど、こうして断言してもらえると安心で。
「僕に遠慮してやりたい事を我慢しないでね。彩香の人生なんだから彩香の一番やりたい事をやりきれるように、ちゃんと全力を出して」
優しく頭をなでてくれる手はいつも通りに優しくて、昔悪夢に怯える私をあやしてくれたのと同じ笑顔が言葉に嘘がないのを教えてくれる。
「雅浩兄様、大好き……っ」
雅浩兄様の言葉が嬉しくて、つい抱きついちゃった。
「うん、僕も彩香が大好きだよ」
返してくれる言葉も軽い抱擁も、全部がいつも通り。……本当、もう私が言ってる事疑ってなんてないのばればれだから。
「なんていうか……。本当仲のいい兄妹だよね」
微笑ましげに言う桂吾の声がなんだかやけに楽しそうで、ちょっと不安になって顔をむけると、肩をすくめられてしまった。
「他意はないですよ。ただ、本当に兄様が大好きなんだな、と思っただけですからね?」
……なんか、やけに、兄様、にアクセント置いてない? 裏がありそうな気もするんだけど、つっこみどころが見つからないんだよねぇ。
「ま、今は話を戻そうか」
首をかしげてたら雅浩兄様にうながされたんでひとまず座り直す。
「彩香の背中の痣に関しては、高浜綾の身辺調査の結果次第、だよね。今話した方がいい事っていうと何があったかな?」
「そうだな……。気になる事はいくらでもあるんだけど、あんまり一気にあれこれ話したら彩香も疲れるだろうし」
そろそろ話をたたみたそうな兄様達の言葉に、桂吾も軽くうなずく。
「急ぎの話題というと……。篠井さんは嫌がりそうだけど、少し高浜幸仁について触れて置いた方がいいかもしれないね」
「高浜の現当主で、さっき彩香が話した人物すね」
「そう。そして藤野宮の理事の一人でもあるね。今日学園内を視察してる理事一行にも加わってる」
「……って、彩香の様子がおかしかったのはそのせいですか?」
「久我城君の言う通りだよ。不意打ちで顔を見てよっぽど動転したんだろうね」
苦笑いでそう言って、桂吾が小さくため息をつく。
「理事の視察があるのは知ってたんだけど、今まで高浜氏は一度も参加してなかったから油断してたよ。スケジュール通りだとまた鉢合わせしないとも限らないし、篠井さんはこのまま早退した方がいいね。僕が早退許可証書くから」
「お願いします」
「ついでに久我城君も早退してくれると安心なんだけどね。表面いくら冷静でも思い出して楽しい話題じゃないし、精神的にだいぶ疲れただろうから落ち着く環境で休ませてあげたいかな」
「順当なのは雅浩じゃ?」
「篠井君はなんだか煮え切らない事言ってたし、何よりもその人がすっとぼけた事言い出した時理性が保てるか信頼がおけるのは久我城君の方かな、とね」
さらっとなんか変な事言ってない? 兄様達も反応に困ったのか、変な沈黙が落ちる。
「篠井君がわりとスキンシップ過多なのは彼女がそうした方が落ち着くっていうのもあるんだろうけど、今度は別の心配も出て来るからねぇ」
だから別の心配って何? 指摘するのはものすごく危険な気がするから黙っておくけど……。
「彼女を守るためなら篠井や久我城と事を構えるくらいなんでもないからね。――下手な事をしたら喉元かみ破られる覚悟は決めておいて欲しいかな」
カウンセラー笑顔のまま怖い事を言い放つ桂吾の迫力に負けたのか、兄様達が息を飲む。凍りついた場の空気の中、なんだかすごく幸せな気分になってつい笑みを浮かべたら、何笑ってるんです、と少しだけ面白くなさそうな声がかかった。
「嬉しいから」
「俺が坊や達脅したのがですか?」
「だって、それだけ桂吾が私を大切にしてくれてるって事でしょう? 本当にいつだって桂吾は――桂吾だけは私の味方なんだって信じられる。それがどれだけ救いになってるのか、桂吾にわかる?」
家族とうまくいってなかった上、唯一の味方だった幸兄ともこじれて、私は自分以外の人間はすべて敵だと思い込んでいた。誰も彼も冷たくあしらって追い払おうとする私に、桂吾はそれでも話しかけ続けてくれた。
しょうもないけんかもしたし、たぶんお互い本気で殺してやりたいって思ったのも一度や二度じゃないと思う。行動をつかみきれない桂吾を持て余し気味だったのも確かで、最初の一年くらいは顔をあわせる度に酷い舌戦でまわりを凍りつかせてたと思う。
でも、そんな状態でも桂吾は絶対に嘘をつかなかった。どれだけ認めたくないだろう事実を指摘しても、敵意をむき出しにしても。そして、私が何を話しても安易な慰めを言って終わらせたりしなかった。いつだって桂吾が返してくる言葉は、表面がどれだけひねくれていても嘘もごまかしもない。
器用にするすると世間を渡っているようでいて、不器用でまっすぐでどこまでも優しくて……。そんな桂吾の本質に気づいた頃、少しずつ関係が変わり始めた。お互いのとなりが安心でくつろげる場所になって、気づけば誰より側にいる存在になっていたんだ。
「わからないとでも?」
「――そうだね、桂吾が気づかないはずがない。私の思ってる事なんて全部お見通しのはずなのに、一番欲しいものだけはくれないのも、相変わらずだね?」
泣きそうになるのをこらえて微笑むと、桂吾がわすがに顔をしかめる。そう、私に甘くて他の事はなんだかんだで叶えてくれたのに、一つだけ聞いてくれなかったわがままがある。
他の誰が叶えてくれたとしても、桂吾だけは絶対にくれないものがある。壊れかけの綾に一番最初に手をさしのべてくれたのは桂吾だった。あの頃の私はつかみきれない桂吾のやり口をうっとうしがりつつも、さしだされた手に救われていたのに。手を貸してくれても、どれだけ側にいても、決してそれ以上の関係にしなかったのが桂吾なりの優しさだと知っていた。……知っていたけど、それでも欲しいと一度だけごねた事があったっけ。あの時、桂吾は本当に困り切った顔で、いつか必ずあんたが欲しい物は全部俺が手に入れてやるからそれだけは勘弁してください、なんて言ってたっけ。
……本当に叶えてくれる気なんだね。あの時私が欲しいっていったものが手に入るように、こんな回りくどい事までして。
「ねぇ、桂吾?」
こらえきれずにこぼれた涙をふかないまま、笑みを浮かべて声をかけたら桂吾が軽く眉を上げる。なんですか、と仕草での問い返しに小さく笑いがこぼれる。……そうだ、いつだって私の言葉は桂吾にはちゃんと届いてた。あんまりにも当たり前のように側にいてくれたから、私はその意味に気がつきもしないで安心して桂吾に甘えていられたんよね。
「実は桂吾に思いっきりふられたの、いまだに引きずってるんだけどね?」
「……っちょ、何言い出すんですかっ?! あれはふるもふられるも……って、お前ら何殺気立ってんだよ?! お前らが生まれる前の話だぞっ?! あんたもわざわざ変な言葉選んでんじゃねぇよ!」
本当に珍しい事に大慌ての桂吾を見て笑う。だって、このくらい許されるよね? 親しくなればなるほど、大切にすればするほど、その相手をふり回して困らせずにはいられない。そんな性質をどうしても捨てられないのに、反面人の何倍も情が深くて優しい桂吾にはこういうやり方の方がいいよね? 自分が好意を持ったら相手を困らせるから、確実に自分より能力が上の相手以外しめだして生きてる桂吾には、こうやってふりまわされるのだってめったになくて楽しいでしょう?
「桂吾がしてくれなかったら私、こんな風に変われなかったもの。だから、今でも……ううん、これからもずっと、桂吾が好きだよ。あの頃も今も桂吾以外いらないって思ってるって言ったら信じてくれる?」
「だ・か・らっ! 何とち狂ってわいた台詞はいてんですかっ?! そんなの言われなくたって……って、だから勘違いしてるお前らはすっこんでろっ!」
「酷い、私嘘なんて言ってないもん」
うん、実家から――あの人から連絡が来る度荒れる綾を桂吾が引き留めてくれなかったら、あんな事件が起こる前に私は自滅していたに違いないもの。そうなったらこうして篠井彩香として生きる時間はもらえなかったかもしれないんだからね。それに、こんなに面倒臭くてやっかいで取り扱い要注意なのに、信頼できて大切でしかたがない知り合い、桂吾一人で手一杯だもん。
何一つ嘘じゃないもんね。ちょっとだけ、省略はあるけど、ね?
「……てめぇっ、すっかり調子戻ってんじゃねぇかっ?! この転がされてる感、本調子のあんた以外にやられた事ねぇぞっ?!」
「桂吾のおかげだね?」
「だからやめろっつってんだよっ! 本気でしゃれになんねぇってのっ! 篠井と久我城ににらまれたら瀬戸谷程度、あっさり潰されんだろうがっ?!」
「雅浩兄様も克人兄様も、私の好きな人に意地悪したりしないから大丈夫」
ね? と二人に視線を向けたら、なんだかとても複雑そうにだけどうなずいてくれた。
「まぁ、彩香がそう言うなら、しかたがない、かなぁ」
「だなぁ。俺達がどうこうしていい話でもないし」
「ほら、大丈夫だって」
「だぁぁっ! そうやって誤解をこじらせるような真似をっ! ……そうだった、あんた、時々スイッチ入ってやたらとたち悪くなるんだったよなっ。何で忘れてたんだ、俺はっ?!」
頭を抱えて叫く桂吾に、こらえきれなくなってふき出す。そのままおさまらない笑いの発作にとりつかれてしまった。けらけら笑っていたら、頭の上で驚いたような言葉が交わされはじめた。
「……うわぁ、彩香がこんなに笑ってるところ、滅多に見られないよね。いつぶりだろう?」
「確か……去年辺り、ビデオ大賞みたいな番組で笑い転げてなかったっけっか?」
「うぅん……。でもあの時はここまでじゃなかったよね?」
「だよなぁ。もしかして、初めてじゃないか? 彩香がここまで笑ってるなんて」
うん、私もこんな笑うの人生初かも知れない。あ、やだお腹痛くなってきた。ちょ、待って無理そろそろ息が……。うわ、むせったのに笑い止まらないとかなんで? こんなの来たら無理だよ笑いやめない苦しいしおかしいし誰かとめてーっ?
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