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9.星の言葉

 空一面が、熟れたような太陽の色に染まるころ。女たちは男たちより早く、祈祷祭の準備から解放され、家へ帰る。そこで待っているのはひとときの休息ではなく、やがて帰ってくる家族のための夕餉の準備だ。

 ルーンと先生が書斎を出たのは、熟れすぎたトマトのような夕陽が山脈の稜線に沈みかけたころだった。赤いひかりに沈んだ村の小路を、先生と歩く。ひとつひとつの民家から零れる、とんとんとん、という包丁の音や、空気に満ちた夕飯の匂い。眠りに落ちるにはまだ早く、一日の中の空白を持て余し、じっと空を見ているような家畜たち。

 それは喧噪と静寂の間の、わずかな時間。かみさまが作り出した、奇跡みたいな昼と夜のさかいめ。夕陽の眩さに目を奪われていると、いつの間にか空も世界も蒼く染まり出してしまう。ルーンはいつも、太陽がもっとゆっくり沈んでくれればいいのにと思う。

 朝陽には一日の始まりの希望がつまっているけれど、夕焼けには一日を過ごした者たちを包み込むあたたかさがあると思う。夕陽に染まった村の景色は、いつもよりゆっくり時間が流れている気がするから。

 やがて一軒の民家の敷地内へと足を運ぶ。門も柵もないけれど、家の前面に左右対称に作られた畑と、その間の均された地面が、玄関までのささやかな道を示していた。ルーンと先生は、すでに窓からいい匂いが漂ってくるその民家の扉を叩いた。

「すみません、だれかいませんか」

 ルーンが声を張り上げると、扉のむこうで「はーい」と答える年嵩の女性の声がして、一拍おいたあと、こちらにぱたぱたと急ぎ足で向かってくる足音が聞こえた。

「はい、どちらさんだい? ……おや?」

 すこし傷みのみえる厚い木の扉を半分開けて顔を出した女性は、まず先生と目が合い、そのあと視線を下に向けてルーンの姿を認めると、急に警戒心のない笑顔に変わった。

「こんばんは。あの、すみません、お忙しい時間に」

 ルーンは緊張しながら、視線を落としてにこにこする女性に向かって口を開いた。僕、もしかして、年齢より小さく見られていて、おとうさんとおつかいに来た子供だと思われているのかな。

「お久しぶりです。先日は貴重な文献をお貸しいただいて、どうもありがとうございました」

 先生が頭を下げ、ああそっか、先生が本を借りにきたんだから僕のことも知らないはずはないんだ――とほっとしたのもつかの間、

「いや、お役に立てたのならいいんだよ。それにしても、こっちは先生のところの生徒さんだろう? ずいぶん小さいのに頑張ってるんだね」

 女性は膝を折ってルーンの背の高さにあわせ、目を細めて話しかける。頭でも撫でられてしまいそうな雰囲気だ。

「あ、ありがとうございます……」

 実年齢より幼く見られるのはいつものこと。それはいいのだけれど、小さいのに頑張っている勤労少年、みたいないたわりの目で見つめられるのが、なんだかはがゆかった。村の子供たちは学校を終えたらそれぞれなにかしらの仕事に就いているし、自分だけがとくべつなわけでもない。でも樹木医が先生一人しかおらず、書生もルーンだけという村の中では、珍しい目で見られてしまうことも確かだった。

「今日は、どうしたんだい? まさか、わざわざお礼を言いに来たんじゃあるまいね。夕飯だったら多めに作ってあるから、良かったら食べていきなさいな」

 さっぱりした気性の女性らしく、どことなく話し方や表情も豪快だった。肉付きのいい容姿も貫禄があって、長年、妻として母として、一家を束ねてきた姿がありありと思い浮かべられた。

「いえ、実はお借りした文献のことでお尋ねしたいことがあるんです」

 先生の真剣な口調と表情に、女性の表情も柔和なものから何かを察したものに変わる。

「まあ、ここで立ち話もなんだから、お入りなさいな。お茶くらいは飲んでいってくれるんだろう?」

 しかし扉を大きく開いて迎え入れてくれたその口調は、どこまでもあたたかだった。家に入る前に振り返って見た空は、半分が蒼に染まり始めてていた。


 ことり、と控えめなやわらかい音がして、木製のカップがみっつ、テーブルに置かれた。いびつで味がある手作り風の、取っ手が太くがっしりしているカップを見て、ルーンは顔をほころばせる。ルーンと先生のカップからは、ミルクを入れたお茶が湯気を立ちのぼらせていた。「いただきます」とことわってからひとくち飲むと、疲れた身体がほっとするような甘みが口の中に広がり、女性がわざわざ自分とは別にお茶を作ってくれたのだと分かった。

 おいしいです、と言うと、自分はそっけないハーブティーを飲んでいた女性が、片目だけつぶって笑顔をみせた。

 全員がお茶をひとくち飲みテーブルに戻すと、相手の出方を伺うような居心地の悪い沈黙が場に流れた。そのタイミングを計って、先生が話し出す。

「ライザさん。今日はお尋ねしたいことがあって来たんです」

 ライザ、と呼ばれた女性は覚悟していた、というように神妙に頷いた。

「実は、お借りしたこの本のことなのです。この本の著者が誰なのか、何年前に書かれたものなのか、ライザさんならお分かりになるのではないかと思って」

 先生は例の本を取り出し、ライザさんに手渡す。

「あと、実は糸が老朽化していて、ページが何枚か取れてしまったんです。すみません」

 ライザさんは本をぺらぺらとめくり目を通したあと、ぱたんと表紙を閉じた。

「かまわないさ。なんでもいいから役に立ちそうな文献を、と言われて思い出したくらいで、べつに貴重な本ってわけじゃないんだから」

 心配そうに自分を見つめるルーンに向かって、からからと笑ってみせる。

「そう、著者の話だったね。これはね、あたしの祖母の持ち物だったんだよ。祖母の祖父が樹木医だったみたいで、何冊か記録を残していてね。もうほとんどがぼろぼろになって捨ててしまったんだけど、奇跡的にまだ残っていたのがこれだったのさ」

 その奇跡とめぐり合わせに、ルーンは感謝せずにはいられなかった。村の誰もが知らない、忘れ去られてしまったちいさな歴史。何十年も語りつがれるには、きっと語りべが足りなかった出来事。それを自分たちが見つける確率は、どれくらいだったのだろう。

「樹木医だった高祖父の記録なら……と思って渡したんだが、当たりだったかい?」

 ライザさんはなかなか聡い女性らしく、こちらが質問した意図も、森の異変に関するなんらかの情報が見つかったことも、お見通しのように見えた。

「ライザさんは、この本の中身は御存じだったんですか」

 もしかして、もともと何が書いてあるかを知っていて僕たちに渡したんじゃ、という疑念が広がり、ルーンはテーブルからわずかに身を乗り出して、向かいに座るライザさんに問いかける。

「いいや、何しろ分厚いし、専門用語ばかりで読む気にならなくてね。棚に埃かぶってしまいっぱなしになってたんだよ」

 しかし、その直感は確かだった、と思う。こうしてルーンたちの前に一本の道が開けたのだから。それが開けた明るい場所に出る道なのか、行き止まりなのかはまだ分からないけれど。

「その、高祖父の方が樹木医をやってらした年はお分かりになりますか」

「うーん……ずいぶん歳をとるまで続けていたみたいだからねえ。今から八十年から百二十年前、ってところじゃないかね」

 ルーンと先生は揃って肩を落とす。四十年。調べるには範囲が広すぎる。

「では、この本が書かれた年は」

 まだ引き下がるわけにはいかないという力のこもった声で、ぐっと背筋を伸ばし、先生が改めて質問する。

「ああ、それなら分かるよ。祖母がよく言っていたからねえ。この本は何年前、こっちが何年前、って。そうだねこの本は……ちょうど百年前だったね」


 ライザさんの家の玄関を出ると、世界には濃い藍色のカーテンが幾重にも引かれていた。ランタンがなければ右も左も分からない村の小路を、先生と肩を並べて歩く。

 本が書かれた年は分かったので、明日からは百年前の文献を探す仕事が待っている。

「夜はやっぱり冷えるね。大丈夫かい、ルーン」

 くしゅん、とくしゃみを漏らしてローブの前をあわせたルーンに先生が声をかける。

「はい、大丈夫です。すみません、送ってもらって」

「かまわないよ。この前みたいに、御両親も心配しているかもしれないしね」

 ライザさんの家を出たあと、先生の書斎に荷物やローブを取りに帰った。すでに、祈祷祭の準備をしていた男たちも家々へ帰った時間。一人で帰るルーンを心配して、先生が家まで送ると申し出てくれたのだ。

 最初は遠慮したけど、やっぱり先生についてきてもらって良かったなあ、とルーンは思う。夜になると、ツクナ村を照らすものは家の窓から漏れるランプのちいさな灯りだけ。ぽつぽつと見える頼りない灯りを心の支えにしても、暗い道を歩くことはまだルーンには怖かった。がさがさ、と物音がするたびにびくりと身体が大きく跳ねてしまい、ランタンを落としそうになってしまう。

 ひとりだったら、うっかりランタンの灯を消してしまって、途中で帰れなくなっていたかもしれない。

「ルーン。足元を見ているのが恐ろしかったら、空を見てごらん」

 なるべく無心で足を動かしていたルーンは、先生の言葉に空を見上げる。濃紺のビロードを視界いっぱいに広げたような空に、宝石のような星たちが数えきれないほど煌めく。ちかちか、と星が瞬きするたび、夜空で遊んでいるように見えた。猫の爪のような三日月が、空の揺りかごのように星たちの間であたたかいひかりを放っていた。

「うわぁ……」

 もしかして、夜になると地上が暗くなるのは、この夜空を見るためなのかな。昼に動いていた世界は夜になると眠りにつき、舞台の主役を夜空と交替する。だとしたらきっと、地上で僕たちが夜の闇に怯えて作り出す灯りは、無粋なものなのかもしれないな。でもまだ僕には、星の位置だけで家に辿りつけるまでの知識がない。すこしの間だけ、僕のランタンにもひかりをわけてね、とルーンは星たちに心の中で囁いた。

「わっ、わっ」

 ずっと上を見て歩いていたので、足元の小石に気付かずつまづいてしまった。身体が倒れかけ、ランタンの炎が斜めに傾ぐ。

「おっと」

 間一髪、転ぶ前に先生が腕をとってくれた。ぐらぐらしていたランタンの揺れが治まると同時に、安堵のため息をつく。

「あ、ありがとうございます、先生」

 なんだか僕、今日は先生の前で転んでばかりだ、と少し情けなく思う。

 大丈夫だよ、と言って、先生も星空を仰ぐ。視線を上に向けたまま、不思議だね、と夢見るようにぽつりと呟いた。

「足元を見ないで歩いているとつまづいてしまうけれど、下ばかり向いていると頭上にあるひかりに気付かない」

「……足元を見て歩くのがこわいときにはどうすればいいんでしょう」

 ルーンがおずおずと問いかけると、先生はにっこり微笑んだ。ランタンに照らされて、橙色に反射する眼鏡のひかりが、星の瞬きみたいに見えた。

「暗い足元を見て歩くのがこわいときは、こうやって、だれかに手をとってもらえばいい」

 ルーンの腕を掴んでいた手を、今度はルーンの手のひらに伸ばし、がっちりと掴むように繋いだ。おとうさんとは違う華奢な指、だけどユナとはちがうごつごつした感触と、そのあたたかさに驚く。

 抱き締めてもらったり、手を繋いでもらったり。今日は先生に子供らしく扱ってもらっているけれど、それは不快ではなく、胸がぽかぽかするようなあたたかさを覚えるものだった。

 暗い道。きっと先生と僕が手探りで進んでいる道もそうなのだろう。でも先生が一緒だから、僕は希望を仰ぐことができるんだ。その手を信じて進むことができるんだ。百年前にもきっと、空にはおなじ星が輝いていたはずだから。

 ルーンは少し照れながら、

「ありがとうございます」

 と、ちいさく呟いた。自分の言葉が空に吸い込まれて星になればいいのにとルーンは思う。そうすればその星を見るたびに自分を思い出してもらえて、その星が瞬くたびに感謝の言葉を思い出してもらえるのに。

 星座を数えることに夢中になっているうちに、いつの間にか家に着いていた。

 先生と手を繋いで見た星空は、とてもきれいで、伝わる手のぬくもりがあたたかくて、ルーンはいつの間にか、周りが暗いことなんて忘れていてしまっていた。


 夕飯をすませると、ルーンは早々にベッドに入った。ちょうどベッドを寄せてある壁側の、低い位置にくりぬかれた窓から、月明かりが射し込む。今日は三日月で光が弱いので、天井から下がったランプを灯し、今日の記録をつけ始めた。今まで、森の記録がほとんどだった日記帳。ユナと出会ってから、その中身には徐々に変化が現れていた。

 流れるようだった筆致はところどころインクが滲み、ためらった筆跡が見てとれた。二本線で消したインクの下にはユナの名前。なぜ? どうして? の言葉が多くなったページ。ルーンはその疑問符の下に、先生からもらった言葉を書き連ねていった。

 それは暗い夜空に自分で星を描いていく作業に似ていた。言葉がひとつ灯るたびに、ルーンの心にも星が輝く。ああそうか、言葉が空に昇って星にならなくても、僕の心できらきら光る言葉は星なんだ。星がみえないときには目を閉じて、先生や長老にもらった言葉を思い出せばいい。自分の心の中だったら、希望を流れ星にすることだってできる。

 書き終わるとランプを消し、日記と羽ペンを枕元に置いて、ルーンは横になって目を閉じた。今日はたくさんのことがあったから、重くなった手足を動かすのも、すでにできないくらい疲憊していた。身体がベッドに沈み込み、眠りに落ちる前の、ふわふわと浮遊するような感覚に身を委ねる。

 意識が夢の世界に飛びかける瞬間ふと、以前本に挟んだ月光樹の葉のことを思い出し、ルーンはベットから飛びあがるようにがばりと起き上がった。半分寝ていた頭と体を急に動かしたため、頭がくらくらして足元がよろけた。ちかちかする視界のなか手探りで、机の上に立ててあった本の中から、一番厚い革張りの本を取り出す。

 心臓が大きく脈打つのを感じながら、葉っぱを挟んだページを探す。もし、あの葉も腐敗していたら。枯れて粉々になってしまっていたら。血の気が引き、指先の感覚がなくなるのが分かった。

 ためらいがちにページをめくっていた手が止まる。そこには、ルーンのフードに迷いこんだときそのままの、つやつやと光る淡緑色の葉っぱがあった。そっと取り上げ、月の光に透かしてみると、月光樹の根のように無数に走る葉脈が、金色に透ける。それはまだ月光樹の葉が脈打っているようで、月の光を血液のように巡らせているようで、ルーンの胸はランタンの火を灯されたように熱くなった。

 生きている。この葉はまだ、生きているんだ。葉っぱだけになっても、樹は人間と同じだ。体中に張り巡らされた静脈の中を、金色の光が駆け巡り、月の力を絶やさないように守っている。大地に還るその日まで。

 金色の躍動は、ユナの瞳を、髪を、その姿を思い起こさせた。考えないようにしていても、だめだ。すこしの風で開いてしまう扉みたいに、ささいなきっかけで、僕の心はユナでいっぱいになってしまう。

 いつも出会うときは突然で、気付いたときには消えていて。ユナはいま、どこにいるの? 僕と同じように、この村のどこかで、この月を見ているの?

 あなたが会いたいと願ったからわたしはここにいる、とユナは言った。だったらこの星空に願いをかけるから。夢の中でもいい、ユナに会いたい。たとえすべてが幻で、蜃気楼のように消えてしまってもかまわない。いま、きみに会いたいんだ。

 空に昇る月を、瞳に映す。金色の揺りかごは、瞬く星たちをやさしく抱くように淡く光っていた。月が、ユナの子守唄を歌っているような気がした。

 本に挟み直した月光樹の葉と、ユナの子守唄の欠片を大事に胸に抱いて、ルーンは眠りについた。


 夜の帳が朝のきらめきに場所を譲り始め、世界に透明度が増すころ、ルーンは目を覚ました。夢を見ていたかどうかは覚えていない。窓を開けても、歌は聴こえてこない。

 まだ、起きるにはだいぶ早い時間だ。しばらくベッドの中で寝返りを繰り返すが、いてもたってもいられず、ルーンはローブをつかみ、こっそり家を抜け出した。自分が悪いことをしているような気がして、両親に対する罪悪感がちくりと胸を刺す。でも、つめたく濡れた空気を肺いっぱいに吸い込んだ瞬間、迷いは消え、ルーンは森に向かって走り出していた。

 薄紫の空に三日月が輝く。この時間に森に行けば会えるのか、確かなわけじゃない。でも、転びそうなくらい跳ねる脚を止められない。こころとからだがべつべつになったみたいだ。息も上がって、心臓がきりきり痛むのに、脚に羽が生えたように身体が軽い。白いもやに包まれた村の景色が、きらきらした銀の糸をひきながら走馬灯のようにうしろに流れてゆく。

 ああ、僕は、こんなに早く走れたんだ。粒になって零れていく汗も気にならないくらい、何も考えずに走ることができたんだ。ただ、「会いたい」気持ちそれだけで。

 身体が小さいから、力も弱いから。みんなにはできても、ルーン君には無理だよね。それはみんな他人の評価で、自分はそれになんの疑問も持たずに受け入れていただけだ。それを覆そうと、思ったときがあっただろうか。変えてやろうと、努力したことがあっただろうか。自分の可能性を決めつけていたのは、ガイでも、他の誰でもなく、僕自身だったんだ。


 まだほの暗い森の中。月が照らす樹々の影が地面に落ちる。朝もやの薄い部分と濃い部分で、紫色の空気がミルクを混ぜたお茶のような模様を作っていた。

 確信と不安が半分ずつ、心臓も、二種類の鼓動を奏でる。うるさいくらいに鼓動は高鳴るのに、体温が急に下がったみたいに、心臓のある位置はとてもつめたく感じた。

 御神木に近付くにつれ、歩調は遅くなってゆく。もし、ユナがいなかったら。昨日のことが夢だと、確定してしまったら。確かめたいのに、確かめるのがこわい。ユナのいない景色を想像するだけで、ざわざわとこころに不安のさざ波がたつ。

 さっきまではただ夢中で、不安なんて感じなかったのに、どうして僕のこころはこんなに脆いんだろう。指針を失った難破船のように、自分のこころの舵をとることができない。寄せては返す感情の波に、翻弄されてしまう。

 不安が向かい風になって押し寄せて、脚が止まってしまいそうになったとき、朝凪のように止まっていた風が突如正面から吹き、ルーンの髪とローブをばさばさと後ろにはためかせた。反射的に 目をすぼめ、うつむくようにして風を遮る。

 風に連れていかれて、薄くなった朝もや。顔をあげると、そのむこうに金色の光がちかりと瞬いた。

「ユ、ナ……?」

 夢を見ているような足取りで御神木の根元に近付くと、幹にもたれかかって座るユナの姿があった。

「ユナ……!」

「ルーン」

 ルーンに気付くとユナはやわらかく微笑み、両手を広げる。ルーンはためらいなくその腕の中に飛び込んだ。

 あまりにほっとして、涙が出そうだった。夢じゃなかった。また会えた。

「どうしたの、ルーン」

 ユナに抱き着いたまま顔を伏せていると、ユナの手が髪を梳くように撫でてくれる。

「会いたかった。ユナに会いたかったんだ」

 顔を上げると泣いてしまいそうな気がして、ルーンはうつむいたままユナの身体に回した腕の力を強めた。

「わたしもよ」

 いっそう細くなったように感じる腕で、ルーンの頭を抱き締める。その言葉には嬉しさと愛しさがはっきりと滲んでいて、嘘はないように思えた。

「でも、今日は、歌が聴こえなかった」

 半ば咎めるような表情で、ユナを見上げてしまう。子供っぽいわがままだと分かっていても、今日も歌ってくれると心のどこかで期待していた。でもユナは不思議そうな口調で、首をわずかに傾げた。

「今日は、あなたが呼んだのよ」

「僕が?」

「星に、願ったでしょう?」

 まぶしいものを見るように瞳を細めて微笑み、歌うようにユナは言った。

「どうして、わかるの」

 顔が熱くなる。寝る前に考えていたことや、星に願いをかけるなんてことさえ、ユナにはお見通しだったのかな。

「星が、教えてくれたから」

「星が?」

「ええ」

 どういう意味、と言いかけてやめた。ルーンにはその意味がすこし分かる気がしたからだ。占星術でも、星占いでもない。

 よく星空のことを、競い合うように輝きあうと言うけれど、僕はそうじゃないと思う。星はだれかと自分を比べたりしてないんじゃないかな。自分の色を、輝きを、ただ誰かに見てほしくて、自由に瞬いているんじゃないかな。もし、この空のどこかに僕と同じ色とひかりを持つ星があったなら、その星がユナに教えてくれたのかもしれない。

 森のこと。本のこと。祈祷祭のこと。並んで御神木の根元に座り、今日は眠ってしまわないぞと心に決めて、ルーンはユナにたくさん話をした。森の異変のことはユナもすでに知っていたようで、いつも穏やかな笑顔を浮かべているその顔を、はじめて悲しそうに歪めた。そうすると余計、身体の苦しさを堪えているように見えて、ルーンは心が痛むのを感じた。

「ユナ、具合悪いの……?」

 ユナはあまり聞かれたくなさそうに見えたけど、血色のない、本物の彫刻になってしまったような肌を見ていたら知らないふりはできず、遠慮がちに訊ねた。

「どうして?」

「だって、会うたびに顔色が悪いし、今日はずっと座っているから……」

 ユナは御神木に背をもたれかけさせたまま、立つことも、上体を起こすこともしなかった。腕に巻かれていた包帯は、昨日よりその面積を広げていた。

 心配そうに顔を覗きこむルーンに、だいじょうぶ、疲れただけよ、と心なしか弱々しい笑顔で告げる。

「ここで休んでいれば、治るわ」

「ここまで来るの、大変じゃなかったの?」

 もしかして、森の中心まで歩いてくることで、ますます身体の具合を悪くしてしまったのでは、と思ったのだが、ユナはここにいると逆に身体が休まるから大丈夫だと言った。

 ルーンはほっとして、そのほっとした理由に邪な想いが含まれていたことに気付き、自分を恥じた。ユナが森にいると安らぐ気持ちは分かる。ここに来たことが原因じゃなくて安心した気持ちもあるけれど、もし出歩くことが困難だったら、もう森で会うことはできないと心のどこかで不安に思っていた。これからもユナに会いたいから、僕はほっとしてしまったんだ。純粋にユナの体調を心配したのではなくて、僕のわがままも、そこには含まれていた。

「ごめんね、ユナ……」

 自分が恥ずかしくて、顔に血が上るのが分かった。膝と胸の間に顔を埋め、腕で抱くようにする。ユナはルーンの背中をぽんぽんと叩いてくれた。

「大丈夫。大丈夫よ」

 なにに対しての謝罪なのか。なにが不安なのか。ユナは全部分かってくれているような気がした。それは勝手な思い込みなのかもしれないけれど、ユナの手のあたたかさは、僕のわがままな思いも、邪な想いも、許してくれると言っているように感じられたから。

 朝陽が世界を明るく染め上げ、森の中を何本もの光の梯子が射し込むまで、ルーンはユナと並んで座っていた。時折思い出したようにぽつぽつと話をする。会話があるかないかは、あまり重要でないように思えた。いっしょにいることが大切なんだ、いっしょにいるだけで、その時間が大切なものに変わるんだ。そう思えた。

 そろそろ家に戻らないと、とルーンが腰をあげると、ユナはもうしばらくここで休んでいる、と言った。

「明日からも、会える?」

「もちろんよ」

 明け方、御神木の根元で。ユナは小指を差し出すと、ルーンの手をとり、その小指に絡めた。

「約束」

 その約束を、小指と小指とを繋ぐものは何だろう。絡めたこの指を離したくなくて、ルーンは涙を堪えたような顔になってしまった。

 家への道を急ぎながら、今は太陽の昇ってしまった空を見上げる。星も月も今は見えないけれど、そこにあるのなら僕の願いをきいてください。どうか、ユナの帰り道が安らかなものでありますように。


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