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8.色褪せた記録

「ルーン、なんだか髪が湿っているけど、どうしたの?」

 母に問われ、ぎくっと顔を上げる。呑みこもうとしていたトマト煮込みが喉の途中で引っかかり、ルーンはあわててミルクの入ったお茶で喉を潤した。

 ひよこ豆と夏野菜をトマトで煮込んでつめたくしたラタトゥイユ。くるみの入ったライ麦のパン。とうもろこしのポタージュ。それに添えられたカリカリのパン。濃く淹れたお茶にはミルクと蜂蜜をたっぷり。食卓の上には、いつものように質素ながら彩のある朝食が並んでいる。

 湿ってしまった寝間着は着替えた。だから気付かれないと思ったのに、もともと癖のあるルーンの髪が濡れた猫のようにしんなりしているので、さすがに母も不審に思ったらしい。

「ちょっと早く起きすぎちゃって、家のまわりを散歩したんだ。そしたら葉っぱにたまった滴で濡れちゃって」

 声がふるえるのをごまかすように、とうもろこしのポタージュをスプーンですくう。

「散歩? めずらしいわね、いつも起きる時間までぐっすり寝ているのに……」

 言ったあと、母はひどく気遣うような表情になって、ルーンの頬に手を当てた。

「顔も、すこし赤いわね。もし眠れないようだったら、早めに先生に相談するのよ? 先生のハーブティーはよく効くから」

 母はきっと、ルーンが森のことで心労がたまって眠れないと思っているのだろう。よっぽど、母の背中に向かって本当のことを言ってしまいたい衝動に駆られたが、なぜだかそれは、言葉にする寸前で止まってしまった。開いたまま、何の音も発せず固まるくちびるを、しばし様々な母音のかたちに変えたあと、

「……うん。ありがとう」

 最初の予定とは違う言葉を母に告げた。

 よく考えてみたら、母に嘘をつくのは生まれて初めてだった。罪悪感が胸をちくりと刺し、背徳感が体温を昂らせる。こんな感覚は初めてだった。ユナと出逢わずにいたら、知らずにいた痛みだったのだろうか。ふと、これが先生の言っていた「心に大切な宝物を持つ苦しみ」なのだと気付いた。先生は、僕がこういう気持ちになることを、知っていたのかな。

 薄く切ってカリカリに焼いたパンをポタージュに浸しながら、ルーンは、ポタージュにはない苦みを口の中に感じていた。


「わ、わっ」

 つま先に本の硬い感触を感じると、ルーンは持っていた羊皮紙の束をまき散らしながら、飛び込みするように顔から転んだ。どさり、という重い音と、ばさばさばさ、というたくさんの音が、恥ずかしいくらい大きく先生の書斎に響いた。

「い、痛たた……」

 おでこを押さえながら痛む上半身を起こすと、積んであった本の山が見事に雪崩を起こしていた。

「大丈夫かい、ルーン!?」

 盛大な物音に驚いたらしい先生が、座っていた椅子からガタンと立ち上がって駆け寄ってきてくれる。

「だ、だいじょうぶです。先生、すみません、本が……」

 ルーンの座っている場所から弧を描くように散らばった様々な文献。それは先生とふたりで村中から集めてきたものだった。ほとんどが傷みのはげしい古いものなので、表紙が破れたり、ページが剥がれたりしたものはないか、ルーンはあわてて周りの本を見渡した。見たところ幸い、本に損傷はないようだった。

「そんなことは気にしないで。それより、怪我はないかい?」

 手早く、舞い上がって散り散りになった羊皮紙を集めながら、先生はルーンの手をとった。先生につかまるようにして立ち上がり、脚を曲げ伸ばしてみる。痛みは感じるが、ひねってはいないみたいだ。

「はい、だいじょうぶです」

 先生はほうっと息をついたあと、ルーンの額を押さえる。

「おでこも打ったみたいだけど、痛くない?」

 その言葉でユナに額に口づけされたことを思い出して、ルーンの顔はみるみる真っ赤になった。

「ルーン?」

「な、なんでもないです」

 なんでもないという言葉が不自然すぎるほど、今日の自分は挙動不審だ、とルーンも感じていた。朝から何度もぼんやりして作業の手を止めてしまい、そのたび先生に身体の具合を心配されていたのだ。案の定、先生も眉根を寄せ、もの問いたげにルーンをじっと見つめていた。

「ルーン、もしかして、何か悩んでいることがあるんじゃないのかな」

 口火を切ったのは先生だった。それは深く、真剣な声色で、声をかける頃合いを朝からずっと慎重に伺っていた様子の口ぶりだった。

「それはもしかして、この間僕に言おうかどうか悩んでいたことと、関係あるんじゃないかな? 秘密にしていることは話さなくていい、でも、僕に話して楽になることがあれば、僕はいつでもきみの力になるよ。いや、なりたいと思っている」

 先生の薄茶色の瞳が、しっかりとルーンの視線を受け止める。時に遠いどこかを見ているような眼差しが今は、ぶれてしまいそうなルーンの存在を、ここに繋ぎとめてくれている。

 信頼と安心を先生の中に見つけて、ルーンの瞳を覆っていた水分の膜が、小石を投げ込まれたように、揺れた。

「先生……」

 我慢していた涙が、堰を切ったようにあとからあとから零れだしてきた。それは、気付かないふりをして直視しないようにしていた、ユナへの気持ちが溢れ出すのと同じだった。

 両親が起きてくる前にこっそり家に戻ったあとも、母の言葉にあわててごまかしたあとも、先生の書斎に来てからも、朝の出来事は夢だったんじゃないかという不安が、ずっとつきまとっていた。

 ユナのあたたかい身体。ユナが額にしてくれた口づけ。ユナのやさしい子守唄。そのままユナの胸の中で眠ってしまったことも、思い出せば思い出すだけ、きれいすぎて現実離れした出来事に思えてくるのだ。

 なのにどうしてだろう。夢だと思うとくるしくて、こんなに涙があふれてくるのは。会いたくてたまらなくて、胸がかきむしられるほど切ないのは。

 別のことを考えようとしても、いくら消そうとしても、すいこまれそうな金色の瞳が、可憐な花のような笑顔が、髪を撫でるほっそりした指の感触が、頭から消えない。口づけされた場所がそこだけ熱を持ったみたいにひりひりする。

 いつの間にこんなに、ユナが心の中を占めるようになったんだろう。たった二回しか会っていないひとなのに。どうしてこんなに、昔から一緒にいたように感じられて、ユナと一緒にいる未来しか、考えられなくなっているんだろう。いつかは、遠くの国に帰ってしまうひとなのに。

「わからないんです、自分の気持ちが。どうして涙が出てくるのかも。今は森のことを考えなくちゃいけないときなのに、頭がぐるぐるして、胸がもやもやして、くるしくてたまらなくて。どうしてこんな気持ちになるのかも、わからないんです……!」

 嗚咽を、ともすれば悲鳴になってしまいそうな声を必死で抑える。神に懺悔するように先生を見つめる瞳の中には、今はまだ燻っているちいさな火が宿っていた。

 先生は膝を折り、ルーンと目の高さを合わせると、ルーンの肩をしっかりと握った。

「ルーン、初めての気持ちに名前をつけるのはむずかしい。僕はたぶん、きみにその答えをあげられるけれど、それはきみが自分で見つけなければならないことだ。でもひとつだけ言えるのは、その気持ちはとても貴くて、たいせつにしなければいけないものだということ。だからきみは、自分の気持ちをうしろめたく思うことも、自分を恥じることも、何も必要ないんだ。その気持ちに、まっすぐ向き合ってごらん」

 涙の膜が張られた黒曜石の瞳がみるみる透きとおり、瞬きと同時に透明なひかりの粒を、散らせた。

 こんな気持ちになる自分は、おかしいのだと思っていた。貴いだなんて、たいせつにしていいだなんて、思いもしなかった。消さなければ、忘れなければいけない気持ちなのだと思っていた。

「今はどんなにつらくても、くるしくても、自分が嫌になっても、宝物をたいせつに胸に抱き続ければ、いつかその答えは出る。きみならちゃんと、それができる。自分と、自分の気持ちを信じてごらん」

 どうやって向き合えばいいのか、どうやって大切にするのかもまだ分からない。自分も、自分の気持ちを信じる方法も分からない。でも、この気持ちを否定しなくても良いのだと、そう言ってくれた先生のことを、僕は信じられる。

 だったら、くるしい想いに蓋をするのではなく、胸の痛みに気付かないふりをするのではなく、それを見つめてみよう。そうしたことで涙が流れても、今はかまわない。

「先生……」

 表情と、瞳に宿した色の変わったルーンを、先生は見守るような眼差しで見つめていた。ありがとうございます、と言うと同時に、先生にそっと抱き寄せられた。それは決してルーンを子供扱いしない先生の、初めての抱擁だった。

 先生の衣服から匂う、森の香りと、やさしいおひさまのような香りに、ルーンの涙は止まり、目を閉じるとなつかしい景色が浮かぶような気がした。シャボン玉みたいなたくさんのひかりと、陽だまりのあたたかさ。それは僕の記憶? それとも先生の記憶なのかもしれない。

 華奢な印象があったけれど、先生の胸はとても広く、腕は大きく、あたたかかった。それは父親と同じ、大人の男の人のぬくもりと包容力だった。先生は子供扱いも、半人前扱いもしなかったけれど、こうしていつも自分を包んで守っていてくれていたんだと知った。ルーンには気付かれないようなさりげなさと優しさで。

 それに気付いた今、さっきまでとは違う熱い涙がこみ上げてきた。でも涙を零すわけにはいかなくて、先生の腕の中でその香りを胸いっぱいに吸い込んだ。

 今の僕はまだ、ありがとうと伝えることしかできない。先生にも、長老にも、両親にも。でも僕が大人になったら、もっと多くのことを伝えることができるんだろうか。与えてもらった以上のことを返せる日が、来るんだろうか。

「先生。僕は、先生のことが、大好きです」

 今はこんな言葉でしか返せないけれど、きっと、いつか。

「ありがとう、ルーン。僕もきみが大好きだよ」

 いつもより近い位置から届く深くてやわらかい声。語りかけるような先生の言葉は胸にすーっと落ちて、あたたかな陽だまりを作った。そのあたたかさに、ルーンは顔をほころばせる。顔をあげたときに見た先生の笑顔も、やさしいおひさまみたいだった。

 朝とは同じ書斎で、朝とは違う空気を感じながら二人で本を片付け直し始めたけれど、ルーンには、まだ先生に聞いてみたいことがあった。腕に抱いた本をきゅっと抱き締めて、本を拾う先生の横顔に、そっと問いかける。

「先生も、こんな気持ちになったことが、ありますか……?」

 先生は手を止めてゆっくりこちらを振り向き、遠くを見るような表情で微笑んだ。今のルーンなら分かる。これは、誰か大切な人を思い出しているときの笑顔だと。

「あるよ。一度だけ」

 それは以前先生が言っていた、ひとつだけある宝物のことだろうと思った。先生がこんな笑顔で思い出せる宝物は、どれだけ綺麗な結晶なんだろう。僕もいつか、こんな笑顔でユナのことを話せるときが、来るのだろうか。


 二人で集めてきた文献は、とても本棚には入りきらない。少しずつ積んで置いておいても、先生の書斎を占領してしまうほどの量だ。拾った本を大きいものから床に積んで、まだ散らばっている本を手に取る。タイトルの書かれていない、陽に焼けたセピア色の表紙をつまみあげると、ページが何枚か落ちた。

「わっ」

 字を消さないように薄く蝋を塗って固めた羊皮紙のページは硬く丈夫で、ばらばらばら、と屋根に当たる雹のような音を響かせる。

「ど、どうしよう」

 借り物で、しかもまだ調べていない本だった。どうしよう、僕が落としてしまったせいで壊してしまったのだろうか。ルーンが慌てて床に落ちたページを拾っていると、先生が「ちょっと貸してごらん」と本をすっと取り上げた。中身を検め、本のつなぎ目を指でなぞると、「ああ」と破顔して、開いた本をルーンの目の前に持ってきた。

「これはページを留めていた糸が老朽化していたんだね。ほら、見てごらん、もうだいぶ変色してぼろぼろになっているだろう? いつ糸が切れてページが取れてもおかしくない状態だったんだ。先方にはそう説明すれば分かってもらえるし、ルーン、きみのせいではないから心配することはないよ」

 先生の言葉に、ほっと胸をなで下ろす。

「取れてしまったページはとりあえず、もとあったページを探してそこに挟んでおこう」

「はい」

 本のどの部分か調べるために、先生は本の中身を、ルーンは落ちたページの内容を読んだ。何枚か読み進めるうちに、ルーンは書いてある内容の奇妙な合致に気付いた。著者名はないが、その内容は明らかにツクナ村の樹木医が書いたものだった。月光樹の森、毎日の巡回の記録。古さから言って、相当昔の月光樹の森の記録だと思われる。ルーンは、胸がざわっとして鳥肌が立つのを感じた。

 先生も気付いたようで、お互いに顔を見合わせる。奇妙な合致、それは、ツクナ村に今起きている異変と同じことが、この本には書かれていたのだ。

「これは、ひょっとしたら、ひょっとするかもしれないよ、ルーン」

 心なしか、先生の口調に熱が帯びる。やっと見つけたかもしれない、森の異変へのヒント。ルーンの胸も、走ったあとのように鼓動が駆け足をして、どくんどくんと期待の鐘を鳴らしていた。

「百年か、それ以上前にも、今と同じことがツクナ村に起こっていたんだ」

 同じ異変、つまり、突如原因も分からず森が枯れ始めるという現象。落ちたページは、その現象が始まったという記録で終わっていた。

「ルーン、続きのページを探そう。この時の樹木医がどう対処したのか、分かるかもしれない」

 本を開き、文章が繋がっているページを探す。そこには、原因がつきとめられず腐敗が広がっていく森への焦燥、どんな治療を施してもそれを止められないことへの絶望が、今のルーンには手に取るように分かる慟哭とともに記してあった。

 満月の夜から始まった異変、そして次の満月とともに、

「異変が、止まった……!?」

 治療が功を奏したのか、満月により月光樹の再生力が高まったためか、その異変は唐突に終わり、そしてその後枯れた樹も元の姿に戻った、と書いてある。

 しかしその後の記録は、異変を抑えられたことへの安心というよりも、なぜ異変が止まったのか分からず困惑している、という文章で占められていた。

「どういうことなんだ」

 先生が眉をゆがめ、眼鏡を指で押さえる。ルーンは呆然としたまま、何度もその記録を読み返していた。祈祷祭を行ったわけでもない。今僕たちが行っている治療と、なにか違うことをしているわけでもない。ならどうして、この時には異変は終結を迎えたのか?

「べつの角度から、この年の異変のことを調べる必要があるのかもしれない」

 やがて先生が本から顔を上げ、眼が痛むのか、眼鏡を外して眉間を揉むように押さえた。

「この異変が起こった年が何年前なのか。それを調べて、同じ年に書かれた文献を集めるんだ」

 眼鏡を外した先生の瞳は、ルーンが驚くくらい大きく、レンズを通さないで見た薄茶色の虹彩は琥珀を固めたようだった。

「はい」

 その手にあるのは、琥珀の中に見つけたような、時の流れによって褪せた色で固められた記録。

 それを紐解いていくこれからに希望と期待を見出して、ルーンもまた、高揚した気持ちで頷いた。


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