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6.森の遺志

 空を見上げれば、ビロードのような濃紺の夜空。しかし森が作り出す屋根の下は金色の光にぽうっと彩られ、ランタンの必要ないくらいの明るさだった。

 葉が風で揺れるたび、金色の粒子が舞う。それはとてもこの世のものとは思えないほどの幻想的な風景だった。

 ルーンは思わずぼうっと見惚れて歩を止めてしまい、先を歩く長老が降り返った。

「どうしたんだね、ルーン?」

 縦一列に隊列を組み、しんがりを務めて歩いていた先生もルーンに並び、心配そうに肩に手を置いて声をかけた。

「ルーン? 何かあったのかな?」

「あ、す、すみません。夜にちゃんと森の中に入ったのは初めてで。いつもはお母さんが心配するので、陽が落ちる前に帰るようにしていて」

 なるほど、と合点がいったように先生は頷いた。

「確かにこの景色は、夜でないと見ることはできないからね。満月の日はもっと明るいんだけど、それでもいいタイミングだったね、ルーン」

「問題の場所は南のほうだと言っていたね。まだ、着くまでに時間がかかる。それまで充分に堪能すると良いだろう。私もなるべくゆっくり歩くように心がけよう。ああ、足元にはきちんと注意するんだよ、ルーン。腐敗が起こったせいで、土に雑菌が繁殖しているかもしれないからね」

 感謝と喜びで頬を上気させ、ありがとうございます、と熱っぽい声で答える。長老は頷き、隊列は再び森の奥へと足を進めた。

 長老がルーンの歩幅にあわせてゆっくり歩いてくれるおかげで、ルーンは余裕をもって周りを見渡すことができた。

 過ぎたばかりの満月の名残が、淡く光を放つ森を作り出しているのだろう。

 低く張り出した梢の前で、ルーンはそっと、金色の粒子に向かって手を伸ばす。触れたらあたたかいのかな、やわらかいのかなと想像していた。でも実際は、想像よりももっと大きな感覚だった。森にいるだけで、全身が淡い光に包まれ、守られている。寒さも暑さも感じない。ただ、果てのないような優しさと大きな愛だけが、そこにはあった。まるで月光樹の胎内で眠っているみたいだ、とルーンは思う。

 この優しく偉大な森が、消滅への一歩を踏み出しているとしたら、それは凍りつくほどの恐怖だった。森の存在によって秩序も、心の平安も守られてきた村。もし森がなくなるようなことがあったとしたら、村の人たちは、僕は、どうなってしまうのだろうか。そして、世界にも、大きな影響を与えるに違いない。

 森がなくなっても生きていくのと、森と一緒に村も消えてしまうのと、どっちが楽なのだろう。じわり、と涙が滲み、光溢れる光景も滲んで揺れた。森が抱えている恐怖、そして村がやがて味わうことになる恐怖を感じると、やるせなかった。僕にこの森を守れるのだろうか。この異変を止められるのだろうか。この森から恩恵を、幸せを、一方的に浴びるように与えてもらっているだけで、僕はまだ何も返せていないのに。


 やがて光の粒子が大きくなり、視界の金色もいっそう明るさを増した。目の前に見えてきたのは、御神木。どの月光樹よりも光を放ち、そしてその姿は見るものに凄烈な神々しさを感じさせるが、同時に神の懐の如き安心感も与えてくれる。

 ユナ。僕のたいせつな友達。いとしいその幹に両手で触れる。守るからね、きみのこと。ルーンは目を閉じ、そう心の中で唱えた。それは誓いだった。臆病な自分を奮い立たせるための。

 ルーンのその姿を、長老も先生も、何も言わずに見守ってくれた。

 そしてもう一人の友達――今日出会ったばかりの、御神木と同じ名を持つユナの姿は、今はなかった。なのに、ルーンが御神木に語りかけた瞬間、その気配を感じて、その声が聴こえてきた気がして、ルーンはぱっと顔を上げた。月に向かうようにして高く高く張り出した梢。ユナと同じ色を持つ、金色の光を放つ葉を見上げる。そこに一瞬ユナの姿が見えた気がして、ルーンはごしごしと目を擦った。

「ルーン、目にゴミでも入ったのかな?」

 距離をおいて待っていた長老が、ルーンの背中に呼びかける。ルーンは慌てて返事をすると、長老と先生の間に駆け戻った。長老の背中を追って歩きながら、ふと、思いつく。長老ならば、ユナのことを知っているのではないか? それを確認すれば、ユナは何も関係してないと、証明することができるのではないか?

「あの……長老」

 ルーンは緊張して声を震わせながら、迷いのない足取りで先を歩く長老に声をかけた。

「何かね?」

 長老は歩を止めずにルーンを振り返ると、またすぐに視線を前に戻す。

「私に緊張することはないよ。君が話したいことは、何でも話してくれていい」

 威厳のある姿を前にすると、どうしてもなかなか言葉が出てこなくなってしまう。それを分かっていてこのような言葉をかけてくれ、ルーンが口を開くまで辛抱強く待ってくれる長老は本当に大きなひとだ、とルーンは改めて感服した。

「はい、あの、今日あたりから……村に外からのお客さんは来ていますか?」

「客?」

 長老は疑問形で呟き、白く伸びた眉の間をしかめる。

「はい。例えば金髪の女の人で……誰かの親戚とか、そういう人は」

 ルーンのその言葉に、長老の目が見開かれ、一瞬時間が止まったように感じた。星を宿した黒い夜空のような瞳に、戸惑いの光が揺れる。

「ああ……そうだね。そういえば、来ていたかもしれない。どこに滞在しているのかまでは、知らないが」

 しかしそれは見間違いだったのかなと思うくらい、答える長老の声は自然な調子だった。

「そうですか……!」

 良かった。長老が知っているということは、ユナは本当に、ただのお客さんなんだ。疑った自分が、ちょっとおかしかったんだ。そうだよ。そんなこと、あるはずないのに。

 目に見えて表情が明るくなったルーンを、長老は複雑な表情で見ていたが、

「あの、何か……?」

 その視線に気付いたルーンが問うと、なんでもない、というふうに首を振って、ルーンの後ろを歩いている先生と目を見合わせた。ルーンの位置からでは、先生がどんな顔をしていたのかは、知ることができなかった。


 森と村の境目に近付いてくる。ルーンが見つけた、異変の起こった場所もこのあたりだ。

「ルーン、このあたりでいいのかな? 君が見つけた場所は」

 立ち止まり、長老に訊ねられたルーンだが、その横顔は血の気が引いて真っ青になっていた。

「ルーン、どうしたんだい!?」

 先生が近づき、その細い肩を揺さぶる。

「先生……」

 ゆっくりと顔を上げたルーンの表情は、何か恐ろしいものを目にしたかのように怯えていた。そしてそのあと、何かを決意した表情になり、涙を瞳にためたまま、ルーンは走り出した。

「ルーン!?」

 先生と長老は、驚きその後を追う。

「すみません、ついてきてください!」

 あの小柄な体でどうしてこんなに早く走れるのだ、というくらい、ルーンは野ウサギのように森を駆ける。追従する二人はたちまち置いて行かれ、追いついた時には、ルーンは放心したように地に膝をついていた。

「ああ……どうして」

 枯草の覆う地面に、ぽたぽたと涙を落とす。

「これは……」

 長老と先生があたりを見回す。それは、数時間前にルーンが見た景色そのものであったはずだった。漂う、腐食の匂い。緑から薄茶色に色を変えた草。その中心にある、枯れた月光樹。

 ルーンは薄茶色の円の中心に倒れこみ、拳で土をぎゅうっと握っていた。

 予想よりも衝撃的だったその光景に先生と長老が愕然としていると、ルーンは呟くような声で二人に告げた。

「広がって……いるんです」

「何だって……!?」

 長老がルーンに近付き、自らも膝をつき助け起こそうとすると、ルーンは長老の腕に縋り、大きな涙の粒を散らせながら、半ば悲鳴のような声で訴えた。

「広がっているんです! 僕がここに来た夕方よりも! 枯れた草の範囲も、腐敗臭の匂いも!」

「まさか、そんな、数時間で……?」

 先生も駆け寄り、ルーンの肩を抱くようにして起こした。

「そして、きっともうすぐあの樹も枯れる」

 下を向き、吐き出すようにしたルーンの言葉。それには怒りや絶望や、形容できない感情が滲んでいた。

 ルーンが指した方向には何本かの月光樹があり、すでに変色が始まっていた。

「ルーン……」

 フードをいっぱいに下げて泣いている顔を見られないようにし、血が滲むんじゃないかというくらい、ぎりぎりと唇をかみ、拳を握りしめているルーンに、先生がやさしく声をかける。

「僕たちを、ここまで連れてきてくれて、ありがとう。きみにはとてもつらい作業だったろうに。僕と長老は、これからこの一帯を調査して、村長の家に報告に行く。でもきみにこれ以上の負担はかけられない。僕が家まで送るから、今日は帰って休もう」

 先生の差し出した手を、ルーンは素直にとった。でも、

「……帰れません」

「ルーン?」

「さっきは取り乱してしまって、すみません。でも、できますから! 僕にも一緒に、調査をさせてください! 足手まといにはならないように、しますから! このまま帰れなんて……言わないでください……!」

 誓ったんだ。約束したんだ。守るって。現実を直視するのはとてもこわいけれど、逃げてしまったら、きっと後悔することになる。森が苦しんでいるなら、その苦しみは僕の苦しみだ。だからいくら胸が痛んでも、それは森の痛みなんだ。だったら僕は、苦しみも痛みもすべて――森と一緒に受け入れたい。一人にしないからね、ユナ。

「ルーン……」

 先生は、なぜだか泣き出しそうな笑みを浮かべていた。

「そうだね。一緒にやろう。きみもこの森に必要な、樹木医の一人なんだから」

 さっきとったルーンの手を、先生はきゅっと握り返してくれた。きっと先生もルーンと同じくらい大きな衝撃を受けただろう。森に対する二人の気持ちは、きっと同じ。言葉がなくても、伝わるお互いの決意。見習いの僕を、必要な樹木医だと言ってくれた。先生が、僕の先生でよかった、とルーンは思った。

 パンパン! と長老が手をたたく音で、ルーンはびくっと我に返る。

「さあ、話がまとまったところで、さっそく調査を始めてしまおうか。最初は何をしたらいいのかね、“先生方”?」

 長老が茶目っ気たっぷりに言った最後の言葉に、ルーンと先生は顔を見合わせて噴き出した。


 まずはルーンが、幹を剥いで内部の腐敗を見つけた樹を見せた。そのやり方を倣い、枯れた月光樹の周りから、一本ずつ幹を剥いでいく。腐敗の進んでいるもの。進んでいないもの。それらを程度によって選り分けると、どこからどこまでが腐敗に侵されていて、どこからが無事なのかという地図ができた。

 それを見ると、腐敗は森の境目から始まり、境目同士の樹に伝染しながら中心に向かっているらしい。そして腐敗が進むと変色が始まり、やがてその樹は枯れる。南から始まった異変だが、この広がり方ならば、いずれ森の境目すべてが枯れた月光樹で埋め尽くされる。円状に、じわじわと御神木までその手を伸ばそうとしているのだ。

 これは、森の外からいくつも松明を投げ入れ、まわりから徐々に焼き殺していく方法に似ている、と思った。

「そうなると、一番猶予があるのは御神木、というわけだな。不幸中の幸いとでも言うべきか……」

 ルーンはむしろ、ユナに被害が及ばないように、まわりの月光樹たちが守っているのではないかと思った。自分のところで止まるように、先まで進まないように。苦しみと痛みを、自己犠牲によって受け入れて。そうしてあの樹たちは枯れていったのではないか。なぜだか、そんなふうに思えた。

 だってあの樹は、枯れているのに満足そうに微笑んでいるように見えたんだ。枯れて、その身に宿した月の光も消滅してしまったけれど、それなのに、やさしかったんだ。僕が泣きながらその樹を見上げても、「大丈夫」「心配しないで」そんなふうに言っている声が聴こえた気がしたんだ。


 低い家並みと畑の並ぶ朴訥としたツクナ村で、ひときわ目立つのが南門だ。門というだけあって、一般の家の二倍ほどの高さ。左右に伸びた建物もその高さに倣っているので、異様な存在感と威圧感を醸し出しているのだ。

 いつ見ても、おおきい建物だなあ、とルーンは思う。だからと言ってここに住みたいとは思わないけれど。自分の家を自慢するガイに、ルーンは疑問を覚えていた。門は代々村長が管理することになっていて、いわば村の公共財産だ。住居部分もその例に漏れず、村長が代替わりしたら、家は譲り渡さなければならない。

 自分のうちってわけじゃないのにそれを自慢するのって、おかしいんじゃないのかなあ。確かに、この門の威圧感が、村長の威厳を高めている部分もある。こんな大きな家に堂々と出入りしているガイは、そりゃあ自分たちとは違うんだって、思うけれど……。僕がまわりの子のように、純粋にガイを崇拝したり、尊敬したりしないから、ガイは僕がわずらわしいのかもしれない。そういえばガイは、体が弱かったり、小さかったりするだけで、相手をいじめたりからかったりはしていなかった。むしろ面倒見がいいから、みんなに一目置かれていたんだ。その事実に、今はたと気づいた。

「結局、この猟銃は使わなかったね」

 先生が、ほっとしたような口調で呟く。

「良かったよ、ルーンに無様な姿を披露しなくてすんで」

 はは、とおどけたように笑う先生は強いなあ、とルーンは思った。僕だったらこんなふうに、苦手なことを苦手って言えない。ガイだってそうだと思う。

「さあ、入ろうか」

 そんな二人を微笑ましそうに見ながら長老はそう言うと、高い壁に作られた大きな扉を、まるで重さがないように軽々と押した。

 ルーンたちが役場部分に入ると、壁際に置かれた机で仕事をしていた村長が、驚いて立ち上がった。

 ここに入ったことは何度かあるけれど、関所の役割も果たしているというだけあって、様々なものが並んでいる。壁に貼られた、この大陸全体の地図、そしてツクナ村の地図。正式な書状に押すための、石を彫って作られた大きな印。高い天井には、ツクナ村の伝統産業の織物が、中央を弛ませながら四方を止められ、屋根のように掛かっている。

「これはこれは。めずらしい取り合わせですね。私に何か用ですか、長老」

 ガイのお父さんは、やっぱりガイに似ている。たくましい筋肉、堅くとがった髪、こちらがすくんでしまうような、鋭い瞳。壮年の、皺の上に艶の乗った顔からは溢れ出る胆力を感じる。威厳という点では長老と一緒だが、長老には人を安心させる包容力があるのと対称に、村長には、力で抑えつけようとする威圧感がある。

 月と、太陽。ツクナ村を治めるためには、きっとどちらの要素も必要なのだろう。

 村長は客人用の長椅子を長老に勧めたが、その必要はない、と長老はかぶりを振った。

「夜にすまないね。ちょっとした緊急事態なのだよ。今、時間はとれるかね」

 村長は緊急事態という言葉に一瞬顔をしかめたが、すぐに手を打って破顔した。

「それならば、家のほうに行きましょう。みなさんにお茶を出したほうが良さそうだ」


「あ」

「……あっ」

 村長の家にお邪魔すると、ガイとルーンがほぼ同時に声をあげた。ガイは、「なんでこいつが」というような威嚇する声で、ルーンは「しまった」というような困り声で。そうだった、村長の家なんだから、ガイがいるのは当たり前なのに。どうしよう、こないだガイにあんなことを言ってしまったから、何か仕返しをされるかもしれない。ルーンは緊張で身を堅くした。

 そんなルーンの態度を見て、先生は村長に目配せをする。分かっている、というふうに目だけで頷いて、村長はガイに向き直る。

「ガイ、大事な客人だ。お前は自分の部屋に行っていなさい」

 居間、と言っていいのだろうか。ルーンの家にはこのような客人を迎える大きな部屋はないので分からない。ともかくそこで、おそらく父の帰りを待っていたのであろうガイは、村長のその言葉を聞いても頑として動かなかった。

「ガイ」

 村長が咎めるようにガイに近寄る。

「なんでルーンがいるんだよ。そいつがいるんだったら、俺にだって話を聞く権利はあるだろう?」

 それにも屈しない、という様子でガイは村長に詰め寄る。

「ガイ、この子は先生のところの見習いだろう。お前は部外者だ。あまり聞き分けのないことを言うのは……」

 頑固な息子の様子に村長が態度を堅くすると、それを遮るように長老が助け舟を出した。もっとも、ルーンにとってはあまりありがたくない船だったのだが。

「まあ良かろう。どうせ村人すべてが知るようになる話だ。その子に聞かれて不都合というわけではあるまい」

 ガイは、意外にしっかりした態度で「ありがとうございます」と長老に頭を下げた。その姿を見てルーンは、ガイがふたつ年上だったことを思い出した。

 村長にうながされ、ルーンたちはどっしりとした木の椅子に腰をおろした。ルーンを取り囲むようにして長老と先生、テーブルを挟んだ対面には村長と、ガイ。

 見るからに立派な、ささくれだったルーンの家のテーブルとは違う、丹念にやすりをかけてニスを塗られた、つやつやしたテーブルに、これもまた高級そうな、銀のゴブレットが人数分運ばれてきた。

 お茶を淹れにきてくれたガイのお母さんに、ルーンは軽く会釈をする。ガイのお母さんは、ルーンがこの場にいることに一瞬不思議そうな顔をしたが、

「ルーン君ね。うちに来てくれるのは初めてだったわよね。ゆっくりしてってね」

 と朗らかに言い、奥の部屋に戻っていった。その様子を、ガイはつまらなそうな態度で見ていた。やっぱり村長の奥さんともなると、ちょっとのことじゃ動じないおおらかさがあるんだな、とルーンは感心した。それに、洗練されている感じがあって、とても美人だった。

「葡萄酒もありますが」

 一応、という感じで村長が葡萄酒の瓶を出してきた。

「いや、結構。むしろこの問題が片付くまでは、私は断酒をしたほうが良いのではないかね」

 長老のその言葉に、村長はことの大きさを理解したみたいだった。一瞬で顔つきが変わり、場に緊張感が走る。鋭い瞳に光が宿った村長は、静かな獣のようだった。

 さて、というように長老がテーブルの上で手を組み、全員の顔を見回してから、ゆっくりと話し始めた。

「月光樹の村に、異変が起きた。私が長老になってから……いや、ツクナ村の歴史上でも最も深刻な事態かもしれん」

 部屋が水を打ったように静まりかえる。ルーンは呼吸が苦しくなるのを感じた。

「まずは樹木医の先生方から、今回の異変についてご説明いただこう。その後、さきほど私たちが行った調査の結果を報告しよう」

「最初に異変に気付いたのはルーンです。まずはルーンが見たものから説明してもらったほうが」

 先生がそう言うと、ガイは意外そうな顔をルーンに向けた。そのあと、へえ、というような意地悪い笑みに変わったので、ルーンは嫌な気分になってガイから顔を逸らせた。

「ルーン、いいかい?」

「あ……はい」

 先生が、明るい笑顔でルーンを促す。先生はきっと、ルーンとガイが気まずいのを分かっていて、ルーンにみんなの前で説明する機会をくれたのだと思う。その気持ちに応えたくて、ガイの視線を振り切り、ルーンは立ち上がって話し始めた。

 それは最初に先生に説明した時の怯えた様子とは違う、決意のこもった毅然とした話し方だった。人前に出ることも、人前で話すことも苦手だった。でも約束が、誓いが、僕に勇気をくれる。ルーンは途中でつっかえることも言い淀むこともなく、誰でも――ガイでもが分かりやすく把握できる説明を、よく通る透明な声でやり遂げたのだった。

 ルーンが説明し終わり、ふうっと息をついて椅子に座ると、先生が「お疲れ様。上出来だよ」と耳打ちしてくれた。

「それでは次に、さきほどの調査の結果を僕のほうから報告したいと思います。まずはこの地図を見てください」

 先生は、月光樹の森を記した地図を、テーブルに広げる。そして説明をしながら、羽ペンで印をつけていった。腐敗に気付いた場所。最初に枯れた樹。腐敗が広がっていった場所と時間。

「そんな短時間で……」

 村長は驚きの隠せない様子で、地図を凝視し、口元に拳を作った。

「僕と長老、そしてルーンの出した結論では、この異変は森の外側から内側に向かって広がっています。この異変は月光樹の内部を腐敗させ、そして枯れに至らしめる。そして、広がっている速さを考慮すると、御神木まで腐敗が到達するのは――」

 そこで先生は言葉を切り、沈痛な表情で大きく息をはいた。

「――早くて、ひと月。遅くてもひと月半で、月光樹の森は……すべてが枯れます」

 全員が、息をのんだ。ルーンはこぼれそうになる涙を目を閉じて我慢し、ぎゅっと唇をかんだ。長老は、まるで黙祷しているかのように微動だにせず、ガイは驚きで目を丸くしていた。村長は衝動を堪えきれなかったのか、大きな音を出してテーブルにつっぷし、頭を抱えた。

「なにか、打つ手はないのか? こういう時のための樹木医だろう」

 責め立てるような口調で先生を睨む。先生の瞳は光を失ったように急激に曇り、透き通った美しい茶色はその色を濃くし、そのまま琥珀になってしまうんじゃないかという気がして、ルーンは無意識に先生の服の裾を握っていた。

 先生は驚いた顔でルーンを見下ろし、そして声に出さずに「だいじょうぶだよ」と言ってくれた。無理やり作ったような笑顔でも、先生の笑顔は何よりも安心を与えてくれ、裾を握る力は弱まり、ずず、と手を放した。

「申し訳ありません。この腐敗の仕方も、急激な枯れ方も、普通ではありえないことなのです。土や虫、動物が原因の伝染病とも考えられない。文献でも見たことのない異例の症例です。なにか、大きな力が働いているとしか考えられないのです。もちろん僕たちも樹木医として全力を尽くしますが、今のところ有効な手段というものは見つけられませんでした」

 先生のつらい、悲しい気持ちは、ルーンには嫌と言うほど分かっていた。森を守る医者なのに、できることが何もない。ふがいない自分をどれだけ責めても足りず、そうしたところで何も変わらない現状も。だからこれ以上、村長に先生を責めて欲しくなかった。先生の悲しそうな顔を見ているだけで、ルーンの胸は痛み、心臓を服の上からぎゅっと握るようにした。

「なんということだ。これは、災いの前兆なのか? 月光樹の森が枯れるということは、ツクナ村だけではない、この地全体に危機が迫っているのではないか?」

 村長はひどい頭痛に襲われた人のように額を押さえ、うめきながら声を出した。

「それはまだ断定できまい。しかし、他国にもこの事態を伝え、可能ならば知識、そして技術によって手を貸してもらえるよう、書状を出すことは必要であろう」

「しかし! 他国に行くには、西にしても北にしても、山脈を越えなければなりません! いくら今の季節とはいえ、使いを出して戻ってくるまでには、ほとんどひと月かかってしまうではありませんか」

 ツクナ村は西と北を、それぞれ山脈で囲まれている。大陸で見ると東の端に位置するツクナ村が他国に行こうとすると、必ずその山脈を越えていかなければならないのだ。もちろん他国からツクナ村に来ようとするときも同じなので、滅多に外部からの訪問者は来ない。それゆえ、このような独特の牧歌的な文化が育ったのかもしれない。

「ルーン、君の意見を聞いてもいいかの」

 急に自分の名前を呼ばれ、驚いて長老のほうを見る。案がなくてどうしようもなく、僕にまで意見を聞いたのかと思ったけどそうではなかった。長老の目には明確な意思が宿っていて、深い考えがあってのことだと気付いた。ルーンはしゃんと背筋を伸ばし、森にいた時に気になったことを思い切って打ち明けてみようと思った。

「腐敗というより……樹が抜け殻になってしまった感じがしたんです。器だけ残して、月の力が消えてしまっている気がしました」

 枯れた月光樹。樹と対峙した時に感じたこと。普通の枯れ方だったら植物としての生命力をなくしていくけれど、樹にはまだ意思やこころがあった。

「ほう」

「そして、外側から腐敗が広がっているのも、森が御神木を守っているせいじゃないのかなって……。ごめんなさい、これがどういうことなのかまでは、わからないんですけど……」

 そしてそのこころは、それを受け入れているのではないかと思えた。

「いいや、充分だよ。私たちがなにをすべきかは、少なくとも分かった。月の力が消えてしまっていることが原因ならば――私たちにできることは、祈祷だ」

 長老は一拍おいて、空気を震わせるような低く響く声でその言葉を告げた。額を押さえ、苦しげに顔をしかめていた村長がはっと顔をあげる。

「収穫祭の準備を早め、祈祷祭として森に祈りを捧げるのだ。森の神気が最も高まる満月の日に」

 威風堂々と歌いあげるようにして告げられたその言葉は、神託のように響いた。

「そんなことをしても、付け焼刃にしかならないのでは」

 不安の滲む声で村長が尋ねる。

「神は、信仰されることによってその力を増す。それは御神木、月光樹の森とて同じ。満月と祈祷の相乗効果で森の力が高まれば、腐敗の進行を遅らせることが可能かもしれん。あるいは、枯れた樹に力を与えることも」

 しかし長老の目の光は揺るがなかった。力強い声で返し、不安そうに自分を見つめる皆の顔を見回す。ルーンは長老を信じる、という思いが伝わるように頷き返した。

「満月まで――もってくれれば良いが」

「祈祷祭の準備が間に合うかどうかは、村長、君の手腕にかかっている。やってくれるかね」

「無論、村全体で、全力を尽くします」

 秋に行われる収穫祭は、まだ先のことだった。ほとんど準備のされていないそれを、祈祷祭としてひと月で準備することは、ルーンが想像するよりずっと大変なことに違いない。村が一丸となって動かなければならない時が来たのだ、と思った。

「そして、祈りを捧げる人物だが」

 長老はおおきく息を吐いて、テーブルの上で手を組む。

「これは最も重要な役目になる。今まで収穫祭では、私がその役目を担っていたが、今回は森との繋がりが一番深い人物に任せるのが賢明な判断だ」

 ざわ、と音にならないざわめきが広がる。村長は、何を言っているのか把握できない表情で目線を動かし、ガイは何かに気付いたようにぎりっと歯を噛み、長老をねめつけた。

 ルーンにも長老の意図するところは分からず、思わず先生の顔を見る。しかし先生はその先にある言葉が何であるかが分かっているように、長老の顔をじっと見ていた。

 長老はルーンを見つめていた。その顔に浮かんでいた穏やかな微笑みに、どきりと胸が鳴る。どうして、長老はこんな目で僕を見つめるんだろう。

 そして、静かに、しかし存在感を増しながら次の言葉が告げられる。


「ルーン、今回はその役目を、君に任せたいと思う」



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