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5.銀の司祭

「先生!」

 ルーンが先生の書斎のドアを開け、転がり込むように部屋に入ると、先生は目を丸くしてルーンのもとに駆け寄った。

「どうしたんだい、ルーン。そんなに血相を変えて」

 説明しようとするが、歯の根が噛みあわずガチガチと鳴ってしまい、声にならない。

「とりあえず落ち着こうか、顔が真っ青だ」

 そう言ってルーンを椅子に座らせると、先生はお茶の準備を始めた。大地のような書斎のにおいと、この場所と先生から醸し出されるゆったりとした時間の流れに包まれ、ルーンは自分の心がだんだんと落ち着くのを感じた。

「はい、どうぞ。お茶でも飲んで」

 机の上に出されたのは、木でできたマグカップ。手に取ると、底に沈んだハーブが茶の中でぷかぷかと浮き沈みする。

 先生はハーブティーを淹れるのが得意だ。いくつものハーブを調合し、それぞれをちょうどいい塩梅に炒ったり乾燥させ、他にはない独特の香りと風味のブレンドを作り上げてしまう。

 大小、いろいろな形のハーブがゆらめく琥珀の液体は、見ているだけで落ち着く。ふーふーと息をふきかけてさまし、カップに口をつける。瞬間、口から鼻にハーブの芳醇な香りが通り抜け、あたたかな琥珀の液体は胃まですべり落ち、ルーンはハーブの魔法にかかる。

 リラックス効果のあるハーブ。身体をあたためる効果のある薬草。入っているハーブの名前をひとつひとつ数え飲み終わるころには、ルーンの身体の震えはすっかり治まっていた。

「落ち着いたかい?」

 向かいに座った先生が、気遣わしげな笑みを浮かべて訊ねる。ルーンは先生の目をしっかり見て、感謝の気持ちを込めて頷いた。

「何があったのか、訊いてもいいかい?」

 ルーンは、森の様子が昼前からおかしかったこと、そのあと様子が変わり、そして目にした腐敗した幹と、枯れた月光樹について、できるだけ詳細に話した。話している間にまた青ざめてしまったり、恐怖で混乱しそうになってしまったけれど、そのたび先生が背中をさすってくれた。そのあたたかい手はまるで鎮静剤のように、ルーンの昂った感情をすーっと鎮めてくれた。

 最後まで話し終えたあと、はっと思う。ユナのことは、言ったほうがいいのだろうか。こんなことは考えたくないけど、ユナがもし、森の異変に関係しているとしたら。でも、こんな事態なのになぜだか、ユナのことは他の人に話したくなかった。ユナを独り占めしたいとか、そういう幼稚な感情ではなくて、ユナと出逢ったことは、誰にも秘密の宝物として、自分の胸の中だけで大切にしたいと思った。それはユナを信じるということでもあって、もしそれが間違っていたら、ルーンは大きな罪を犯したことになる。でも――。

 ルーンが口ごもり、眉を寄せて煩悶してると、黙って相槌を打ちながらルーンの話を聞いていた先生が口を開いた。

「ルーン、報告はここまでかな?」

 顔をあげると、こちらの気持ちをすべて見透かしたように穏やかに微笑んでいる先生の顔があった。

「はい、あっでも、まだ……」

 先生には、ぜんぶわかっているのかな。先生に秘密にしておくのは、悪いことなんじゃないのかな。先生の顔を見ると、自分のしていることがいいことなのか悪いことなのか分からなくなって、いっそのことすべて打ち明けてしまおうかとも思ってしまう。この優しい瞳にぜんぶ委ねてしまって。そうしたらもう、ユナのことで自分が悩むこともなくて。でもそれは、ユナとの再会の約束を裏切ってしまうことにならないだろうか。決して子供扱いせず、自分を信頼してくれたユナを。

 再び口を閉ざしたルーンに、先生は御伽噺を聴かせるような優しい口調で語りかける。

「ルーン、僕に言おうかどうしようか迷っていることが、なにかあるんだね」

 ルーンは、目を水分でいっぱいにして、ぱっと顔をあげる。迷いと戸惑いにその瞳を揺らしながら、ルーンは先生の次の言葉を待った。

「秘密を持つのは、悪いことではないんだよ、ルーン。大人になるにつれ、誰にも打ち明けず、胸にしまっておきたいことも増えていくんだ。心の中でそっと大事にしておく自分だけの宝物が、きみにもあっていいと思う。そして、それはきみが成長している証拠なんだよ」

 先生のあたたかい手が、くるむようにしてルーンのちいさな手を握る。

「そしてね、その分責任もともなうし、苦しみも多くなる。それが大切な宝物を持つということなんだ。ルーン、きみにはそれができると僕は思っているよ」

 先生にすべて打ち明けてしまえば、責任からも逃れられ、悩むことからも逃げられると考えていたことは、やっぱりお見通しだったのだろうか。楽なほうに逃げようとしていたルーンに、先生は「なんで隠すんだ」と叱るでもなく、「まだ子供なんだから仕方ないよ」と慰めるでもなく、「きみならできる」と信頼の言葉をくれた。

 僕は先生の言葉に恥じない人間になりたい。どんな時でも、先生の信頼を裏切らない人間でいたい。

「……でも、先生。もしそれを秘密にしたことが、まちがいだったら……?」

 ユナには謎の部分が多すぎる。不思議な出会いの前後に起きた、森の異変。ユナを信じたい。ユナのせいではないと信じたい。でも――。

 ルーンが先生の手を握り返しながらそう問うと、先生はその手にぎゅっと力を入れ、力強い瞳をルーンに向け、きっぱりと言い切った。

「僕はきみの判断を信じるよ、ルーン」

 僕はまだ自分の判断を信じられない。けれど、先生とユナは信じられる。だから僕も、二人が信じてくれた僕を信じてあげよう。

「はい」

 と揺るぎない声で答えて、ルーンは誓った。


 長老と村長のところに報告に行こう、と先生と準備をしているとき、ルーンはふと気になって訊いてみた。

「先生にもあるんですか? 心の中にしまってある、自分だけの宝物が」

 持っていく資料を鞄に詰めていた先生は、

「うーん、そうだねぇ」

 と言いながら振り返り、曖昧に微笑んだ。

「ひとつだけあるけれど、いつかきみには話せるかもしれないな」

 ここではない遠くを見ているような、いつもの先生の表情。でもいつもと違って、存在が消えてしまいそうな希薄さは感じられず、声には愛しさ、瞳には希望が滲んでいる気がした。

 誰にも言えなかったことを、自分だけには話してもいいと言ってくれた。その言葉に、ルーンは頬が熱くなるくらい嬉しかった。

 いつか、僕が立派な樹木医になったら。その時は僕も先生に、ユナとの出会いを話そう。とてもきれいで、とてもふしぎなひとなんだよって。


 ツクナ村の司祭館は月光樹の森の北、村の境から半分森にくい込むかたちで建てられている。司祭館は代々長老が管理してきたが、現長老はここで一人で生活している。高齢なのだが生涯独身で、家族もいないためだ。冗談まじりで、月光樹に身を捧げたから私は結婚をしなかったのだ、と言っているが、本当の理由はルーンには分からない。

 ルーンは、本当はもっと深い理由があるのではないかと思っている。ルーンから見ても、長老は年老いても衰えない生気に満ち溢れ、とても魅力的に映るからだ。

 ルーンたちが司祭館を訪ねた時、すでに月が空に昇り、司祭館の三角形の屋根を照らしていた。大きな三角柱の両端に、細長い三角柱がくっついた形状の建物。中央の塔は祈りを捧げる祈祷台や、月光樹の苗やサンプル、たくさんの書物で埋め尽くされている。夜になると、吹き抜けになっている天窓から月明かりが斜めに差し込み、神聖な空間を幻想的に照らす。両端はそれぞれ、村人のための小さな集会所と、長老の居住スペースになっている。

 先生は、長老の生活空間である端の塔ではなく、迷わず中央の塔の大きな扉を叩いた。長老は寝る以外はほとんどこの場所で書物に目を通したり、書き物をしたりしているからだ。しばしの静寂のあと、両面開きの扉が、ギイィと音を立てながらゆっくりと開く。

 扉の間から、長い白髪を後ろで束ね、白い髭は胸まで垂らし、片眼鏡の奥から怜悧な瞳をのぞかせる人物が顔を出した。

「先生に、ルーン。どうしたんだね、こんな時間に」

 深く、それでいて澱みのない声で声をかけた人物――それが、ツクナ村の現長老、その人だった。


 長老に促され、司祭館の中に足を踏み入れる。端の集会所を利用したことはあったが、今までで、ルーンが司祭館の中に入ったのは初めてのことだった。先生の書斎とは比べものにならない数の書物と、月の光と夜の青に染められた厳粛で神聖な雰囲気に、ルーンは圧倒されていた。

 青い空間の中で、銀色の光を放つ人物。裾をひきずるような灰色のローブの上に、白髪が優雅なカーブを描いて垂れている。月の光を吸いとり、白髪は銀色に輝く。

 ああこれが、神聖なものに使えるひとの姿なんだ、と透明な鈴が鳴るようにルーンの胸は震えた。

 なにもかも超越しているように見えてそうではない。なにもかもを享受し、受け入れ、すべてと共存しているのだ。

 今まで収穫祭の時などに遠くから見るばかりで、こんなに近くで言葉を交わしたのは初めてだった。その時は、自分とはとても遠い存在だと思っていたけれど、こうして対峙するとなんて大きな存在感のある人なんだろう。ああ、きっとこの人の存在によって村も森も調和を保たれ、守られていたんだ。どっしりと大地に根を張る大木のような力強い安心感を感じられる。

 本棚の奥に据え付けられた、ちいさなテーブルと椅子をすすめられる。椅子はひとつしかなかったので、最も若輩であるルーンは遠慮したのだが、

「今一番休息を欲しているのは、君だ」

 と長老に告げられ、長老と先生に恐縮しながら腰をおろした。先生はルーンの隣に立ち、長老はテーブルを通してルーンと向かいあった。手を伸ばし、テーブルの銀の皿の上に着けていた片眼鏡を置く。皺の多い、乾燥させた灌木のような手のひらは、それでもつやつやと血色が良かった。

「月光樹の森に、何かあったんだね」

 ルーンと先生が顔を見合わせ、口を開くよりも早く、長老から核心をついてきた。

「どうして、わかるんですか!?」

 ルーンは驚いて、思わず訊ねてしまったが、それは失礼な質問だったかもしれない。長老は神聖な存在として森に仕えているのだから、異変などはすべて感じ取れているのかもしれない。

 ルーンは身を乗り出したあと、恥ずかしくなって椅子の上で縮こまってしまったが、長老はそんなルーンに目を細め、ふっと微笑む。

「何も、そんなに不思議なことじゃないんだよ、ルーン。君と先生が二人で、こんな時間にわざわざ私を訪ねてくる理由が、他に思いつかなかっただけなのだから」

 え、それじゃあ、とルーンは先生の顔を仰ぎ見る。

「詳しいことは何も分かっていないんだ。話してくれるかね」

 先生はルーンの目を見て頷いて、長老に向き直る。

「これからお話しすることは、ルーンが報告してくれました。森に何か異変が起これば、最初に気付けるのは彼だと思っていました」

 長老の皺の奥の、輝きを失わない黒い瞳が見開かれる。年老いた羊たちの目はだんだん濁ってくるのに、このひとの瞳はどうしてこんなに澄んでいるんだろう、とルーンは思う。視線を動かすたびに、黒い夜空に星が瞬くように光を放つ。

「森のことは予想もできないことだったが……ルーン、君に関しては、私たちの予想通りだったようだね。いや、期待以上の少年に育ってくれたと言うべきか」

「えっ?」

「何度も同じことを説明するのは骨が折れるだろう。詳しい説明は、村長の家を訪ねてから、そこで聞くとしよう。どのみち彼にも報告しなければならないことだからね。一緒のほうが都合がいいだろう」

 ルーンの驚きには答えないまま、長老は先導を立って歩き始めた。ルーンは釈然としないまま、しかし問いかけるタイミングもつかめず、その背を追って司祭館を後にした。


 村長の家は司祭館とはまったく反対側、村の南に位置する。東西南北に配置されたツクナ村の門の中で、南の門が一番大きく、外部から訪ねる時の正式な関所の役割も兼ねている。

 そしてその関所の役割を果たしているのが、村長の家だった。門と同化するように建てられた家。間に門を挟み、村にそってカーブを描いて伸びていく左右の家。こちらも、片方は村長の家族の生活空間となっているが、片方は村長が事務的な仕事をこなす、いわば町役場的な存在になっている。

 司祭館から村をぐるりと迂回して南門まで行くのは時間がかかるため、調査も兼ねて森を突っ切ってしまおうということになった。

「でも、大丈夫なんですか? 夜なのに……」

 あぶなくないのか、もし、先生や長老になにかあったら大変なんじゃ、と心配するルーンに、長老は「ちょっと待ってなさい」と言い、家から何かを持ってきた。それは二丁の猟銃。片方を慣れた動作で肩にかけ、もう片方を先生に渡す。

「これで、何か起こっても大丈夫だろう。でも私は、君が一緒にいる以上、危険なことは森では起こらないと思っているがね」

 先生は、受け取った猟銃をしばらく困惑した表情で見つめていたが、やがて長老をならって肩にかけた。

「弱ったな。僕は銃の扱いには自信がなくてね。君を守るどころか、逆に窮地に立たせてしまいそうだ」

「先生でも、苦手なものがあったんですね」

 ちょっとびっくりしてルーンが尋ねると、

「そりゃ、そうだよ。僕なんて特に、苦手なものばかりだよ。むしろ、唯一できているのが樹木医の仕事だというくらいで」

 と先生は苦笑した。おとなになったら、苦手なものなんてなくなると思っていたルーンには驚きだった。特に先生なんて、頭が良くてなんでもできて、苦手なことなんてないように見えていたのに。

「それが逆に、先生の良さでもあろう。ルーン、大人は君が思っているほど器用ではないんだ。むしろ子供のほうが自由で可能性に満ちていると私は思うよ」

「そう、なんですか?」

 まだ十三歳のルーンでは、長老の言っている意味の本質は掴めないだろう。でも、きっといつかその意味が分かるようになる、それでいいんだと思って話してくれているのだと分かった。長老と話すのなんて、めったにあることじゃない。もしかしたらこれっきりかもしれない。このひとの言葉は、どれもきちんと胸にしまって、覚えておきたいとルーンは思った。

「それにしても君は、自分ではなく、私や先生の身を案じるんだね」

「え? ……あ」

 だって、村にとって大事な人は、僕じゃなくて長老と先生なんだから、二人に何かあったほうが大変なんじゃないか、と思ったのだ。もしかしたら、自分はまだ森で危険なことに出会ったことがないから、という自尊心もあったのかもしれない。それとも心配したことが差し出がましい真似だったのか、と、ルーンはうつむく。しかし長老が続けた言葉は、ルーンの想像の範疇外のものだった。

「私は君が、自分が怖いから守ってくれと言うことが自然だと思っていた。私はまだ君を、子供扱いしていたのかもしれない。すまなかったね」

「もちろん、こわいことはこわいです。でも」

 自分の前で二人が危険な目にあうほうが、想像したらずっと恐ろしかった。

 長老は目を細め、まぶしそうにルーンを見ながら、水面がわずかに波紋を描くようにひっそりと微笑んだ。

「……君はやさしい子だね」

 その声は、今まで聞いた長老のどの言葉よりも、優しくあたたかかった。


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