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4.禍の足音

 ルーンは、御神木の幹に背中をもたれかけさせて座っていた。並んで座っている、ユナと名乗った女性にそう促されたからだった。

 湿った土と、その上に生えたやわらかい草は天然のクッション。草をくたっと倒し、ルーンの脚と尻が沈み込む。

 いつもお昼を食べる時と同じ場所、同じ体勢だけれど、ルーンの心は落ちつかなかった。触れられそうなくらい近くにユナが座ったからだった。

 なにも、こんなに密着しなくても、と、妙齢の女性とあまり話したことのないルーンの胸は、ばくばくと滑稽なくらい弾む。おかげで、聞きたいことはたくさんあったのに、口がなかなか開いてくれなかった。

「あの……、もう少し、離れて」

 なるべくユナのほうを見ないようにして、そう懇願してみる。

「どうして?」

 ユナはルーンより年上なことは間違いないし、本当だったら敬語を使ったほうがいいのだろうけど、うっかり気安く口をきいてしまうのは、ユナのこの、子供のように屈託のない話し方のせいだろうか。

「どうして、って……」

 説明しようとしたけれど、それは余計に恥ずかしい、ということに気付いて、やめた。それよりも、今にも触れそうなユナの二の腕を、意識しないようにすることに努めた。

「ユナって名前は、本名なの?」

 どうしてユナという名前なの、と聞きたかったが、御神木と同じ名前だなんて知らない相手にはおかしな質問に聞こえると思い、やっと考えた質問がそれだった。

「名付け親が、ユナ、と」

 じゃあ、名前は偶然の一致なんだ。同じ名前の樹の下で、同じ名前の人と出会う偶然なんて、もう偶然の域を越えている、と感じる。

「あの、あなたは、どこの人なの? このへんでは見ない髪と瞳の色だけど」

「遠いところで、うまれたのかもしれない。でもわたしの場所は、この地」

 海を越えた西の大陸には、金色の髪を持つ人たちがいると聞いたことがある。出身は遠くだけど、この村にゆかりのある人なのかな、とルーンは想像した。

 それにしても、変わった話し方をする人だ。その言葉に意味を捉えるのは難しく、歌のように響く。

 ルーンは、膝の上に載せた布袋の中から、母が作ってくれたお弁当を取り出す。木をくりぬいた水筒に入れたお茶と、清潔な布にくるまれたサンドイッチ。

「それは、なに?」

 興味津々と言った様子で、ユナは身を乗り出してお弁当を覗き込む。

「うん。僕の、お昼ごはん」

 そう答えて、ちょっと考えて、

「あなたも、食べる?」

 と聞いてみた。もしかして、食べてみたくてじっと見ているのかな、と思ったからだった。

 でも、ユナは嬉しそうに笑顔を作ったものの、首をゆっくり横に振った。

「いいえ。――でも、見ていても?」

「え、お昼ご飯食べるところを? うん、別にいいけど……」

 そんなに珍しいものではないんだけどな、と思いつつ布を開く。

 トウモロコシの粉を丸めて焼いたパンに、炒った卵や、燻製した肉を薄く切ったもの、野菜を細かく切って煮込んだラタトゥイユなどが挟んである。母のお手製サンドイッチだ。具材は毎日変えてくれるし、これだけは毎日食べても飽きない。

 燻製肉を挟んだものから、かぶりつく。肉の塩味と、燻製独特の薫りがじわっと口の中に広がり、甘みのあるパンとの相性がとてもいい。

 ルーンが母の味を噛みしめて夢中で口に運んでいると、ユナがまるで母のような笑顔でこちらを見ていた。

「口に、パンが」

 そう言ったのが早かったのか、手を伸ばしたのが早かったのか、ルーンが身を引く前に、ユナは細い指でルーンの口の端に付いたパンくずを取った。

「あ、ありがとう……」

 言いながら、ルーンは不思議な感覚になっていた。あんまりきれいなひとだから、最初はどきどきしたし、緊張もした。でも、いつの間にか、まるで母と接しているようにすっかりリラックスしている自分に気付いたのだ。初めて会ったのに、ずっと昔から知っている友達に接しているような、お互い言葉少なでも、ちゃんと通じているという感覚。

 そもそも初めて会った人と隣り合ってお昼ごはんを食べているということ自体、人見知りなルーンにとっては珍しいことだった。

「わたしはもう、行かないと」

 ルーンがお弁当を全部胃に収めたと同時に、ユナはそう言って立ち上がった。

 このひとの所作は、全部に音がないみたいだ。まるで身体が羽でできているように、動きに重さが感じられない。

「どこに行くの? 村のどこかに、泊まっているの?」

 ユナは答えず、大丈夫よ、というように目を細めて微笑んだ。

 遠くで生まれた風が、月光樹の葉を揺らしながらこちらに近付き、通り過ぎる時にユナの金色の髪を舞い上がらせた。

 ユナは頭を手で押さえるが、腰よりも長いその髪の毛は、風に翻弄されるがまま広がり、ルーンの視界を金色に染める。

「あの、これ、髪をくくるのにいいかもしれないから」

 ルーンも立ち上がり、羊皮紙をまとめていた飾り紐を布袋から取り出す。

 染めた糸を束ね、手で複雑な模様を編みこんでいく、織物に次ぐツクナ村の伝統産業だった。

 ルーンが差し出した飾り紐は、母に教わって自分で編んだもので、緑と黒の糸で「森」を意味するパターンの模様が編まれている。

「きれい……。これを、わたしに?」

 ルーンが頷くと、ユナはルーンの手を包み込むようにして飾り紐を受け取った。壊れやすい宝物をそっと扱うみたいに。

 ありがとう、と小さく呟く。うつむいたその頬は、美しい薔薇色に染まっていた。

 ルーンの胸は嬉しさであたたかくなる。

「じゃあ、僕も巡回に戻るね。……ねえ、あなたはまた、ここに来る?」

 布袋を肩に提げ、フードを被りながらルーンは訊ねる。弱気な声を出してしまったことに自分でも驚いた。

「ええ。きっとまた会えるわ」

 金色の瞳にしっかりとルーンの顔を映し、ユナはしっかりと頷いてくれた。

 再会の約束は、きっと叶うだろうと、不思議と信じられた。これきりになるという不安はなかった。それは予感とは言うより、もっとはっきりとした感覚だった。

 うん、と頷き返し、ユナに背を向けて歩き出す。

 御神木から離れ、印をつけた場所まで戻ろうと歩を進めていたルーンは、あることを伝えていない自分に気付いて振り返った。

「……あっ、僕の名前は、ルーン……!」

 でも、ルーンが振り返った時にはもう、ユナの姿は風のように消えていた。

 ただ、金色の粒子だけがまだ、辺りに漂っているような気がして、ルーンはしばらくぼうっと、ユナがいた場所を見つめていた。

 

 いつかの野ウサギが耳をぴくぴく動かしながらこちらを見ていることに気付いて、ルーンははっと我に返った。

 野ウサギは驚くことに、そのままルーンの側まで寄ってきた。

この間までは、近くの木陰から様子を伺っているだけだったのに。

 ルーンが腰を落とし、戸惑いながら手を差し出すと、野ウサギはためらいもせずにぴょん、とさらに距離をつめ、ルーンの手のひらに近付いて、鼻をひくひくとさせながらにおいをかいだ。

 これは一体、どういうことだろう。

 嬉しさで胸をあたたかくしながらも、ルーンは不思議に思う。

 一足飛びに、野ウサギのほうから近付いてくれるなんて。きみに触れるのには、もっと時間がかかると思っていたのに。

 敵じゃないと、森の友達だと分かってくれたから? でもなぜ?

 ルーンがその身体を撫でてやると、野ウサギは気持ち良さそうに耳を倒してくれた。

 ひとしきり触れ合って満足したあとルーンが立ち上がると、野ウサギは元いたほうにぴょんぴょんと跳ねながら姿を消した。

 ユナの周りに、鳥たちが集まっていた光景を思い出す。その時は呆然としていてあまり深く考えられなかったが、野生の鳥が人の腕に自ら止まることなど、ほとんどありえないことだ。

 ユナには何か、動物たちを惹きつける力があるのだろうか。それは単に人柄や雰囲気によるものなのか、それとも。


 見つめられると吸い込まれそうになる金色の瞳を思い出しながら、ルーンは目印をつけた場所まで戻った。そして今度は別のルートで、森の外側まで歩く。

 順調に終わると思っていた巡回だったが、森のざわめきが、昼前とは違う気配で、ルーンの耳をふるわせた。ユナと会ったときの、どこかそわそわとしたざわめきではなく、不穏というより、不安?

 怯え、とまではいかないけれど、森全体から発せられている不安のざわめきは、ひとつの樹からひとつの樹、ひとつの葉からひとつの葉、と伝染して、森全体が震えているように感じた。それは、寒くて、人が震える時に似ていた。

 ルーンは寒さは感じていなかったが、葉擦れの音を聞いて、身を震わせた。一瞬、嫌な予感がして、血の気が引いてしまったのだ。

 森は生きている、とルーンは思っている。樹の一本一本がこころを持っているし、それをさまざまなかたちでぼくらに伝えようとしてくれている。

 たとえば、風に乗せて葉を躍らせたり。たとえば、声のかわりに、葉擦れの音で歌ったり。

 ルーンのように、肌で森の気配を感じられる村人は稀だったが、ルーンはそれが自分だけに備わった特別な資質であることをまだ知らない。

 ルーンには分かる。森のざわめきは森の声そのもので、いま、森が感じていることは、例えようのない不安なのだ。

 太陽の位置が下がり、だんだんと陰が濃くなってくる森の中、ルーンはできるだけ多くのものを見つけ、多くのことを感じようと、いつもにも増して真剣に、一本一本の月光樹を観察した。

 気にかけてみれば、樹の多くが、なんだか元気のないような――やつれた、というような様子だった。普段だったら、天候の影響だと言って数日様子を見るところだけれど、今日は気がかりで、そうすることもできなかった。

 幹に自分の手のひらの体温を移すように、ゆっくりゆっくりと触っていく。いつもは幹の中のいきいきとした躍動を感じられ、その弾力で手のひらを押し返すくらいなのに、それが感じられない。幹の核が風邪をひいてしまったような、器を残して魂がすっぽり抜けてしまったような、生気のなさ。

 ――嫌な予感がするんだよ。ただの偶然ではない気がして。

 ――森の変化にいち早く気付けるのは、ルーン。きみだよ。

 父の声と先生の声が、頭の中を風の速さで吹き抜ける。

 これなの? お父さんが心配していたこと、先生が思案していたことは。もう、変化は森に起こってしまっているの?

 思わず、幹にぎゅっと爪を立ててしまい、表皮が剥がれる。

「あっ、ごめんねっ」

 ルーンは手提げの中の道具を漁り、慌ててその箇所を直そうとする。しかし、鼻をひくつかせたあと、怪訝な顔で手を止めた。

 風が運ぶ、緑の、土の、芳ばしく爽やかな匂い。その中に混じる、異様な甘い匂い。その匂いが強くなっているのは、ルーンが爪をひっかけた場所だった。

 剥がれた表皮の中から、わずかに見える幹の内部。ルーンは、どきん、どきん、と脈打つ胸をおさえ、震える指で表皮をぺりぺりと大きく剥がしていく。

 そして、黒曜石の瞳は表皮の内部を見た途端、凍りついた。

 幹の内部は、腐っていた。

 幹のでこぼことした筋にそって、一枚一枚鱗を剥ぐように裂けるほど乾いているはずの月光樹の内部が、どろどろの樹液によって茶色に変色し、得も言われぬ匂いを放っていた。

 樹液の甘い匂いと、腐敗臭の混じったような匂い。

 ああ、そうか、これはきっと、死の匂いだ。

 目の前が真っ暗になる。ルーンは眩暈を起こし、その場で倒れかかった。吐き気を堪えて、唇をかむ。

 早く、報告しないと。先生のところに戻らないと。

 何かが起きている。まだその正体は分からないけれど、確実に、何かが近づいている。

 青ざめた顔に苦しげな荒い息を吐きながら、ルーンは血の気が引いて感覚のなくなった脚を必死で動かす。

 森と村の境目、緑の円の出口が見えてきた時だった。ルーンははっと息をのんで、足をとめる。

 ルーンの視線の先には、一本の月光樹があった。その樹のまわりだけ、ありえない、あってはいけない色をしていた。

 まわりに生えた草は円状に色を変え、月光樹に一番近い位置に生えている草は、すでに枯れ、触るとぱりぱりと壊れてしまうような色だった。その樹に近付くごとに、地面が、緑から薄茶色に色を変えていく。

 月光樹の側まで行くと、ルーンの足の下で、枯れた草がぱり、という音を出して壊れた。ルーンは、血が出そうなほど唇をぎゅっと噛みしめた。涙が零れそうなのも必死で我慢した。


 月光樹は、その樹は――もうすでに、治療の余地がないほど、枯れきっていたのだ。



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