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10.歴史の守り人

「おはよう、ルーン。ちょうど良かった、畑からトマトをもいできてくれる?」

 家に帰って一旦部屋に戻り、身支度を整えて食堂に顔を出した。すでに朝餉の準備を始めていた母の姿に一瞬ぎょっとしたが、いつもと変わらない様子で声をかけてきたので安心した。

「うん、わかった。いくつ?」

「三つお願い」

 気付かれていないよね? 毎朝女の人に会っているなんて言えないし、気付かれたら心配されるに決まってる。

 玄関を開けて庭に出る瞬間、ちらりと母の横顔を盗み見た。鼻歌を歌いながら薪をくべるその姿に、ルーンの胸はちりりと、ちいさな刺がささったように痛むだけだった。

 家の周りに区画配置された畑。たわわに真っ赤な身を揺らすトマト畑に、ルーンは足を進める。

 陽射しがまぶしい。ルーンは手のひらでまぶたの上にひさしを作り、空を見上げる。夏が濃くなって、スモックもズボンも、薄手のものに切り替えた。それでも畑の中を動くとじわりと肌が汗ばむ。透明な産毛の生えた葉っぱが、服からはみ出した手足を撫で、ちくちくとかゆくなる。

 本当は、大好きな夏。村中が鮮やかな作物の実りで満たされて、秋の収穫祭への期待が高まるとき。でも今は、不安で心がどんどん冷えていく自分と裏腹に、熱を増していく世界がとても怖い。

 祈祷祭が成功してもしなくても、月光樹の森がどうなったとしても、世界は時を進めるのをやめない。夏は彩りを増し、太陽のひかりは強くなる。作物は葉を広げてどんどん育つ。そんな当たり前のことに、今までは気付かなかった。この村と、月光樹の森が、ルーンのすべてだったから。森が時を止めてしまったら、自分の時も止まってしまうと、そう思っていた。

 でも違うんだ。太陽が昇って、沈むこと。月が夜を照らすこと。それは変わらない事実で、僕も成長していく。どうしてだろう、今はそれがとても怖い。時間が止まってしまえばいいのに。そんなふうに思ったこと、今までにはなかった。それはとてもわがままな感情なのかもしれない。それでも、そう思わずにいられないほど、今のルーンは不安に苛まれていた。満月の夜が来なければ。このまま時間が進まずに、腐敗も進まなければ。そんな後ろ向きな思いが心を支配する。まだルーンには、大切なものを失った経験がない。想像するだけで胸が押しつぶされそうになる、そんな苦しみは味わいたくない。ふとした瞬間に悪いほうに考えてしまい、心臓をぎゅっと押さえることが多くなった。

 じりじりと肌を焦がす太陽は、そんなルーンに焦れているようだ。

 ルーンの背丈ほども育ったトマトの蔓をかき分けながら慎重に進み、太陽のように真っ赤に完熟したトマトをもぐ。朝に摘んだトマトは特においしい。

 血色のないユナの細い腕を思い出し、ユナはちゃんとご飯を食べているのだろうか、と心配になる。今度、完熟トマトをひとつ、持って行ってあげよう。ひとくち食べたらきっと、その甘みに笑顔を見せてくれるはずだから。


 母に言われてルーンがトマトのおすそわけを持っていくと、先生はとても嬉しそうな顔でトマトの入った袋を受け取った。同じく衣替えした先生の服装は、肘までの薄手のシャツとズボン、袖なしの綿のベストという装いだった。それは涼しげで、色素の薄い先生によく似合っていると思った。

 今日はおそらく、夏に入ってから一番の気温だ。高地にあるツクナ村は夏でも湿度は低く、蒸し暑くなることはないが、それでも毎年夏日が来ると、みんなどこか晴れやかな顔で暑中への準備を始めるのだ。

 先生の書斎にも、天蓋のような薄布が、窓からの陽射しを防ぐようにかけられている。窓や扉はすべて開け放たれ、風の通り道を作っている。ふわふわと揺れる薄布が、夏の風が通り抜けたことを教えてくれた。

「嬉しいな。大好きなんだ、トマト。特にきみのお母さんの育てたトマトはおいしいからね。どうしてこんなに甘くなるんだろう」

 先生は丸々とふとったトマトをひとつ取り出して、その色艶を眺めた。完熟しているのに、しっかりとした硬さがあり、陽のあたる部分がつやつやと光る。夜の間外に出して冷やしておいた水桶に、先生はトマトを浸した。光を反射しながらゆらゆら揺れる水面に、ぷかぷか浮かぶトマトが、真っ赤な宝石みたいだ。

「人柄が出るのかな、育てた野菜にも」

 それは力強く濃い味の母の野菜を食べるたび、ルーンも感じていたことだった。

「いつだったか……野菜を育てるのも子育てと同じだ、って母が言ってました」

「なるほど。それはきみとお母さんの野菜を見比べれば、とても納得できる言葉だね」

「僕は……」

 お母さんの育てた野菜ほど力強くもたくましくもないです、と言おうとして、口をつぐんだ。そして、くちびるをぎゅっと結び、いつの間にかうつむいていた顔を上げる。

「母の野菜とはちがう、けど、そうなりたいと思っています」

 焦っても、急にちがう人間にはなれない。僕が急にガイになれないことと同じだ。でも、そうなりたいと思うから、その願いは口にして、言葉だけでも変わろう。

 踏み固められた土でも芽を出す野菜のように、不安が大きくても、胸が痛くても、力強い想いは芽を出し実ると信じたいから。

「うん、願いは言葉にすれば強くなる。最近のきみの言葉はとても変わってきたね」

 先生は穏やかな笑顔をみせ、水桶につけたトマトをひとつ、ルーンに差し出した。

「うん、甘い」

 自分もひとつトマトを取り上げ、なにもつけずにそのままかじった先生が、促すようにルーンに目配せする。先生の家まで歩いてくる間に喉が渇いてしまったルーンは、ありがたい気持ちでそのトマトをかじった。歯を当てるとぷちりと破れる皮。そこからじわりとしみ出してくる、甘くて、けど酸味もしっかりした汁。噛めば噛むほど口の中で味が濃くなる、弾力のある果肉。

 夢中でかぶりついたあと、口の周りがトマトの汁まみれになったお互いの顔を見合わせて、ルーンと先生は吹き出すように笑いあった。


 朝が過ぎると、太陽はあっという間に高い位置に昇る。村の小路を歩くと、立ちのぼる草いきれ。夏は畑の土のにおいが濃くなる。畑のそばを通ると熱気と一緒にむわっと漂ってくるそれは、ルーンにとって不快なにおいではなかった。土のにおいに混じって、かすかに鼻腔をくすぐる野菜のにおい。植えてある野菜の種類によって違う、畑ごとのにおいを嗅ぎ分けるのがとても楽しかった。

 汗ばむ額を、袖でぬぐう。先生と一緒に役場に向かう足取りが、だんだんと重たくなっているのが自分でもわかる。それは暑さや疲れのせいだけではないことには気付いていた。村長を訪ねるのは、一度近くで話した今でも緊張する。もしかしたら、近くで話したせいで、ガイと村長がとてもよく似ているってわかってしまったから、余計に気が重いのかもしれないな、とルーンは思った。ガイに似た鋭いあの眼差しで射るように見つめられると、身が竦んでしまう。

 先生はふぅ、と息をついて、陽射しが目に痛いな、とつぶやいた。見上げると、先生の前髪が、汗で額に張り付いていた。前髪の下の表情は、すこし苦しそうに見えた。先生は瞳の色素も薄いから、目が弱いんだと聞いたことがある。

 どうして今まで忘れていたんだろう。ルーンはあわてて、脱いで持っていたローブを先生に差し出した。

「これ、はおってください! フードがついているから、少しは陽射しを遮れるかも」

 先生は、張り付いた前髪を指でかき上げて、いいのかい、と聞き返した。

「もちろんです」

 むしろ、今まで先生に無理をさせていたことが、心に痛かった。それに気付かずに自己中心的な物思いにふけっていた自分にも、嫌気がさす。

 先生はそんなルーンの思いに応えるように、ありがとうと言ってローブを受け取ってくれた。背の低いルーンのローブでは、先生がはおると丈が短い。フードをかぶって、丈の下から足がほとんど出ているその姿は、不謹慎ながらとてもユーモラスだった。

「なんか、面白い姿になっちゃったね、これ」

「か、かわいいと思います。頭巾みたいで……」

 ルーンの必死のフォローの言葉に、それは喜んでいいのかなあ、と先生は苦笑した。再び歩き出したときには、足取りは再び軽くなっていた。履き古したブーツの底から、水分が蒸発して硬くなった大地の熱を感じた。ああ、夏の大地だ。生命の躍動をその土から感じることができる季節が、やって来たのだ。

「ルーン、村長は怖いかい?」

 鼻をひくひくさせながら歩いていたルーンに、さっきまで浮かない顔をしていたようだったから、と先生が気遣わしげに声をかけてくれた。

「確かに村長の前に立つと、僕でも背筋が伸びるくらいだからね。付きあわせて悪かったかな」

「いえ、そんなこと!」

 否定しながらも、首をひねる。影を踏むようにして歩きながら、僕は村長が怖いのだろうかと考えてみる。この感情は、怖いという気持ちとはちょっと違う気がする。もう少し複雑で、どろっとしたものが胸につかえるような。それはきっと、自分への罪悪感からも来ているのではないか。慎重に考えなから、ルーンはゆっくりと言葉を紡いだ。

「村長は怖い人なんじゃなくて、威厳があるだけだっていうのはわかるんです。……たぶん、僕がガイを苦手だと思っているからいけないんです。だから、ガイに似ている村長のことまで、苦手に感じてしまうんだと思います」

 みんなには一目置かれているガイを、自分だけが苦手に思っているという罪悪感。苦手に思う自分がおかしいのかもしれない、と思いつつも、どうしてガイは僕に意地悪をするんだろうという、ふつふつとこみ上げる怒りと理不尽さ。気持ちを変えようと思っても、でも相手が悪いんだから、とそこで思考を止めてしまう。本当は、こんな自分は嫌なのかもしれない。

「だれにでも苦手なものはあるからね。前にも言ったけれど、僕なんて苦手なものばかりだし」

「でも、先生は誰にでも優しいし、誰とでも上手に付き合っていると思います。それに、先生を嫌うひとなんて、いないと思うし……」

 そんなことはないんだけど、ありがとう、と苦笑してから、先生は目を細めて穏やかにルーンを見つめた。

「でもねルーン、苦手と嫌いは違うんだよ」

「違う?」

 同じように目を細めて、でも先生とは違って眉間に皺を寄せ、考えこむような声色でルーンは訊ね返す。それはルーンにとっては、どちらも似た感情だった。嫌い、というほど強い気持ちではないものが苦手、なのだと思っていた。

「苦手っていうのはきっと、相手が自分とは違うから、自分とは違うものを持っているから感じる気持ちなんだと思う。相手を苦手だと思ったら、それは自分にない部分を見つけられるきっかけなんじゃないかな」

 自分にない部分。たしかに、ガイと僕は正反対だ。でも、それを見つけたとして、僕のガイへの気持ちは変わるんだろうか?

「ルーンは、ガイくんのことは嫌いなのかな?」

「よく、わからないです。……でも」

 学校でのガイの振る舞いを思い出す。いつだって率先してみんなを引っ張っていき、ガイがいるだけでその場には活気が沸いた。そんなガイを遠くから、まぶしそうに見ていた自分。陽射しが強すぎるときのように目を細めた、そのときの気持ちはきっと、嫉妬の混じった憧れだったのかもしれない。

「みんなに慕われる理由もわかるし、すごいと思う面もあります。嫌いではないのかもしれない。でもガイは、きっと僕のことが嫌いだと思う」

 いつも強い態度で僕に関わってくるガイ。攻撃的な言葉からは身を遠ざけたくて、いつもびくびくと避けていた。

「僕はきみとガイくんを見ていて、そんなふうには思わなかったな。きみたちの関係は、あえて言うなら、ライバルなんじゃないかな」

「ライバル……僕とガイが?」

 信じられない思いで、先生を見上げた。ガイが僕のことを、そんなふうに思っているわけがない、という思いと、もしそうだったら、という期待がないまぜになってルーンを襲う。ライバルということは、お互いを認めあっているということ。僕のことなんて鼻にもかけていないと思っていたけれど、そうじゃなくて、ガイにも僕みたいな複雑な気持ちがあったとしたら。僕の見ていたガイは一部分で、もっとたくさんの感情を持っていたとしたら。だとしたら僕は、どうすればいいんだろう。いや、どうしたいんだろう?

 結論が出ないまま、ルーンの目の前には、背の高い土色の門扉が見えてきた。


 先生はルーンにローブを返し、歩いているうちに崩れた服装を、どちらが言い出したわけでもなく整えてから、ルーンと先生は役場の扉の前に立った。

 先生はちょうどルーンの頭の位置で、コンコン、とノックの音を響かせる。同じ木の扉なのに、ルーンや先生の家とは音の質が違う気がする。なんだか硬質で、鋭い感じのする音だ。厚さと高さが違うからだろうか、とルーンは天井近くまで伸びる扉を首を伸ばして見上げた。

 扉を叩いてしばらくたっても、中から村長が出てくることはなかった。不思議に思って、先生と顔を見合わせる。

「留守でしょうか?」

「いや、こんな時期だからおそらく中にいると思うけれど……もしかして」

 鍵がかかっていると思っていた扉は、先生が押すと引っかかりもなく簡単に開いた。勝手に入るかどうか迷うよりも早く、部屋の奥の椅子にもたれかかって眠る村長の姿が目に入った。

 入口の人の気配に気付いたのか、こめかみと瞼をぴくぴくと動かし、村長は呻き声を上げた。その声に、具合が悪いのだろうか、とルーンは一瞬どきりとしたけれど、ゆっくりと目を開いた村長を見て、寝言だったのか、とほっとした。

「ああ……君たちか」

 村長はまだぼんやりとした眼差しでルーンと先生を目にとめ、ゆっくりと上体を椅子から起こした。

「すまない、うたた寝をしていてしまったようだ」

 眉間に皺を寄せ、指でこめかみを揉む。その様子を見ていたら、村長の目の下に隈があることに、ルーンは気付いてしまった。以前感じたような胆力も今は感じられず、顔の皺が深くなったような気がした。

「村長、あまり寝ておられないのでは?」

 先生も気遣わしげに声をかけるが、村長は「心配いらんよ」とそっけなく言い、早く中に入れと手招きをした。

「おそらくそろそろ訪ねてくるだろうと思っていたよ」

 扉をくぐり役場の中に入ると、視界に遮られていた部屋の全貌が目に入る。左右に作りつけられた大きな本棚の中身は散乱し、床に散らばっている。この状態は、僕たちが文献を調べていたときの先生の書斎といっしょだ。ただ、規模が違う。圧迫感があるほどの本棚を埋め尽くしていたこの書物たちは、いったい何百、いや何千冊あるのだろう? 床の上を占領している本のせいで、絨毯がわりに敷かれた織物の凝った模様も見えなくなっている。

「これを探しに来たんだろう?」

 村長の大きな机の上には、積み上げられた書物。村長が机の向こうで腕を広げる仕草をしたので、本を踏まないようにゆっくりと近付いた。

 すべてが同じ革張りで、同じくらいの厚みの本。村にあるどの書物よりも頑丈な作りをしているそれは、代々の村長が書き記し続けてきた、ツクナ村の歴史書だった。そのうちの一冊を、村長は先生に手渡す。

「村長も……独自に調べてらしたんですか? 村の歴史書を」

 その表紙を見た先生は目を見開き、驚きの声をあげた。横からルーンが覗きこむと、そこに書かれていた年号は、ちょうどルーンたちが探していた百年前のものだった。

「君たちが思いつくようなことに私が手を出していないとでも思っていたのかね」

 村長は、驚きを隠せないルーンと先生をからかうようににやりと笑った。

「でも……これだけの量を、一人で?」

 ルーンたちのように偶然見つけられたわけではない。指標もないまま、すべての年代の歴史書を、読みこぼすことがないよう紐解いてゆく。今、床に散らばっている歴史書、このすべてを。それは想像するだけで気の遠くなるような作業だった。異変の分かった日から今日まで、すべての日を徹夜して挑んでも足りないかもしれない。

「一人ではないさ。息子のガイも手伝ってくれたのでね」

「ガイが……」

 それはとても意外な言葉だった。ガイが父親の仕事を手伝っているというのもそうだし、それが珍しいことではないのだと察することのできる村長の口ぶりにも。そして、ルーンが眩暈を覚えるような作業をガイがこなしていたということ、その作業が樹木医を助けるためのものだということ。

「あいつより早く手がかりを見つけるんだ、と言ってね。私が止めるのも聞かず毎晩遅くまで、歴史書を読むのに没頭していたよ」

 ルーンは複雑な気持ちで、歴史書を読むガイの姿を想像した。それは意外な姿に思えたのに、真剣に没頭するガイの姿を難なく思い浮かべることができて、そのことに動揺する。

「あいつとは、君のことだろう? ルーン君。君に負けたくないと言ってやっていたことが、結局は君の仕事を助けることに、ガイが気付いていないはずはないと思うんだがね」

 誰に似たんだろうな、あいつは。と言って、村長は片頬を歪めて笑った。ルーンはぼうっとした気持ちで、ガイに似ている村長の瞳を見つめた。

「昔、森になにかあったということは、祖父に聞いたことがあったのだが。詳しい話はすっかり失念してしまっていたよ。なにせ子供の頃だったし、その記憶も確かではなかったからね」

 しかしあの時祖父にちゃんと聞いていれば、今こんな苦労をすることもなかったのにな、と村長は自嘲気味に呟いた。

「君たちは、気付いていたのかね? 百年前の異変について。ここに来たということは、そういうことだろう?」

 村長は机の上で手を組んで、どこか挑むような口調でルーンたちに問いかけた。

「はい。昨日偶然、樹木医の記録を発見して」

 先生はぱらぱらと捲っていた歴史書からゆっくりと視線を上げて、村長に答えた。

「そこに、なにか手がかりは?」

「一か月後に異変が収まったこと、当時の樹木医のしていた治療に特に変わったものはないこと、よって何が原因で異変が収束したのか分からない、ということしか……」

「ふむ。当時の村長の記録した歴史書には、手がかりになるかどうか分からないが興味深いことが書いてあったよ。その年は、なぜか地震が頻繁に起きたそうだ」

「地震……ですか」

 ツクナ村ではめったに地震は起きない。この大陸自体に地震が少ないのだ。それが頻繁に起きたということが、ただの偶然とは思えない。でも、地震と森が枯れることがどう関係あるんだろう。

「そして今と同じように、異変とほぼ同時に村の周辺から動物がいなくなった。異変の収束と同時に動物たちはまた姿を見せるようになった」

 先生は顎に手を当てて神妙に考え込んでいた。

「先生、なにか分かったんですか?」

 ルーンが問うと、先生は睫毛を伏せて「今は何とも」と弱々しく首を振った。


 部屋の片付けを手伝う、と村長に申し出たのだが、百年前の歴史書を数冊持たされあっさりとあしらわれて、ルーンと先生は役場を後にした。疲憊した様子の村長に、あの大量の本を運ばせるのは忍びなかったのだが、きっとガイが手伝ってくれるのだろうと思った。

 あの場所は、ツクナ村の歴史を代々管理してきた場所なのだと思った。村長の役目には、歴史書を途絶えさせず、過去と現在のツクナ村を守ることもあるのだと。あれほどの堅牢な門、重厚な造りには、理由があったのだと。

 村長の仕事について、今までなにも分かっていなかった自分が恥ずかしく思えた。つくづく自分には、森のことしか見えていなかったんだなと感じた。先生は、村長が歴史書という記録をつけていることも、代々それが役場で管理されていることも知っていた。森を守ることは、村を守ることとも一緒だ。森のことだけでなく、村全体のことをよく知らなければいけないのに、僕にはなにも、見えていなかったんだ。

 ガイはきっと、そんな僕を見ていると苛々したのだろう。僕にはもう、そんなガイを責めることはできない。次期村長と嘱望されるに見合った行動をこなしているガイと、樹木医見習いとしてなんの役にも立っていない未熟すぎる自分。そこには二歳という歳の差以上の隔たりがある。

 俯いていると、頭の上に急に影ができた。先生が、身を寄せるようにして、手のひらで頭をぽんと撫でてくれた。そのぬくもりに、目の端にじわりと涙が滲む。今の僕には太陽の光は眩しすぎるから、先生の作ってくれたやわらかな日陰はとても安心できた。

 でも、自分が日陰を作ってもらっている場合じゃない、先生にローブを貸さないと、と思い出してはっと気付く。手に持ってたはずのローブがない。

「あっ……! ローブ、忘れてきちゃったみたいです……!」

 帰るときに村長にせっつかれたので、知らない間に役場の床に落としてきてしまったのだろう。

「待っているから、取っておいで」

 先生は咎めもせずにそう言ってくれるけれど、この遮るもののない陽射しの下、じっと立ったまま待っているのは、先生にとってはとても酷なことではないのだろうか?

「大丈夫です、走って追いつきますから」

 先に進んでいてください、と叫びながら、ルーンは役場へと踵を返した。まだ、ほんの少し進んだだけ。視線の先にはまだ、高い壁のような門扉が見えている。たっ、たっと駆けるたび、上下に揺れながら門扉が大きく見えてくる。

 こめかみにつぅっ、と流れた汗を手の甲で拭って、ルーンは先ほど後にした扉を叩いた。

「すみません、僕、忘れ物しちゃったみたいで……!」

 荒い息をつきながら役場の扉を開けると、さっきまでいた村長の姿はなかった。散乱した本の中心でそれらを拾い上げていた人物が腰を上げる。こちらを振り向いた、村長よりちいさな、しかしルーンよりも大きくたくましい人影は、ルーンのよく知った人物のものだった。

「ガイ……?」

 振り向いたガイは、ルーンよりも驚いて目を丸くしている。手に数冊持っているのは歴史書。きっと本棚に並べ直そうとしていたのだろう。

「あっ、僕、ローブを忘れちゃって」

 言い訳するようにつっかえながらルーンが言うと、ガイは部屋を見回し、「ああ、これか」と村長の椅子に掛けられていたローブを取ってきてくれた。

「あ、ありがとう」

 ローブを手渡してくれたガイに意外な視線を向けながら、夢を見ているような気分でルーンはお礼を言った。何だか今日のガイの視線には、いつもからかってくるときのような鋭さがないような気がする。それとも、先生にあんなことを言われたから、ルーンのガイを見る目が変わったのだろうか。

「……べつに、礼を言われるほどのことじゃ」

 ややあって、戸惑ったような口調の返事があった。いつもと同じぶっきらぼうな低い声。でも、今はこわくない。どうしてだろう。

「それだけじゃなくて、ええと、歴史書のことも……」

「だから、それも。自分の仕事をしただけだ」

 ふいっとそっぽを向いてしまったガイに、続ける言葉がなくなってしまう。どうしよう。このまま帰ってもいいのに、妙な間が空いてしまったから何か言わなきゃいけないような気がして、ルーンは目を泳がせたまま「あ……ええと……」と口ごもる。ガイは眉根を寄せて、そんなルーンを怪訝な目で見ている。

 その視線がいたたまれなくなって顔が赤くなってきたころ、ルーンのうしろ、扉の外から村長の声が聞こえた。

「あれ、君。どうしたんだ。さっき出て行ったばかりじゃないか」

 ほっとした気持ち半分、気のきいたことを言えなかった自分への恥ずかしさ半分で、ルーンは村長を振り返った。

「そ、村長。あの、ローブを忘れたので取りに来たんです」

「ああ、ローブなら、椅子のところに掛けておいたよ」

「もう渡したよ、父さん」

 どこかうんざりとしたような口調でガイが答える。自分が怒らせてしまったのかと、ルーンは少しどきりとした。

「ああ、ガイ。そうか。もうお前は祈祷祭の準備に戻りなさい。お前がいないと子供たちの仕事がまとまらないだろう。ここは私一人で大丈夫だから」

 ガイはちらりとルーンを一瞥してから、ルーンの脇を通り過ぎて、村の中心方面に向かって駆けていった。おそらく、普段は収穫祭の会場となり、今は祈祷祭の準備に使われている村の広場に向かったのだと思った。ルーンは樹木医としての仕事があるので準備には参加していないが、村の子供は子供でやることがたくさんある。ガイはそのまとめ役を任されているのだろう。

 ルーンはローブをぎゅっと握りしめて、ガイの背中を見送る。首も肩もむき出しにした薄い服を着ているから、走るたびにガイの背中の筋肉が動くのが分かった。

 僕もガイも、森に変化のあったあの日から、変わってきているのだろうか。今までの自分には感じることのなかった複雑な心の動きを感じて、ルーンはこの夏、ガイとの関係が変わるかもしれないと思った。それは夏の夕立が突然降ってくる前のような、予感だった。


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