1.月光樹の森
ツクナ村の夜は長い。夕方の早い時間から森には濃い影が落ち、辺りにはさわさわという木擦れの音だけ大きく響く。
「ルーン、早く帰ってくるのよ。森の夜は危ないから」という母の声を思い出す。
でもルーンは、村の誰よりも、この森のことをよく知っていた。
満月の夜には、野犬も狼も寄り付かないことや、御神木の周りには、野ウサギやリスの親子が巣を作っていること。
夏でもひんやりとした森の空気が、御神木に近付くにつれあたたかくなること。大人たちはみんな知らないことも、毎日、長い時間を森で過ごすルーンは知っていた。
昼間の森は、太陽が高い位置にある時、陽射しで葉っぱが透き通って、地面からでも葉脈が見えるのが好きだった。
でも、夜の森はもっと好きだ。特に満月の夜は、月光樹の森全体が、淡い金色の光でぼんやり光るから。
十三歳の少年ルーンは、癖のある黒髪を揺らしながら、足取り軽く草の根を蹴って走っていた。
黒いローブのフードに、風に乗った月光樹の葉が入り込む。ルーンはそれを愛しそうに取り、肩から提げた布袋にしまい込んだ。
広い月光樹の森の奥の奥。その中央に、ひときわ大きい、ひときわ強い光を放つ御神木がある。
通常の月光樹の十倍はあろうかという幹は威厳を感じさせ、空に思いっきり伸ばしたかのように張り出した枝は高く高く、一帯を覆う屋根のようだ。
金色とも、明るい黄緑色とも形容できる葉は、淡く光りながら、気持ち良さそうに風にその体を震わせていた。
「ユナ。元気だった?」
ルーンは御神木に、ユナという名前を付けて、見回りの時に毎日話しかけていた。
ルーンは樹木医を目指して、村で唯一の樹木医の先生のところで修行している。
森はルーンの友達だった。様子を見れば、木の体調だって分かるし、何をして欲しいのかだって分かる。養分が足りないのか、土が合わないのか。森と会話し、森の体調を整えるのがルーンの仕事だった。
ツクナ村の民は、神聖な月光樹の森を昔からずっと守ってきた。大きな森をぐるりと取り囲むようにして建っているツクナ村。
木の幹をかじったりする野犬を狩る猟師、森の植物の生態系を管理する農家など、役割は様々だ。
ルーンの父は猟師だったけど、ルーンは同年代の子供に比べて体が弱くて小さかったし、動物を銃で撃つのは好きじゃなかった。森の動物たちはルーンの友達だったから。
そんなルーンを、まわりの友達は弱虫だとなじったけれど、森は彼のことを分かってくれた。悲しい時も、やるせない気持ちの時も、いつだって変わらず優しい光で包んでくれた。
森にいれば寂しくなかった。だからルーンは、この森の木たちを守る樹木医になりたいと思ったのだ。
いつものように、御神木の幹を優しくなでる。程よく乾いていて、堅さも充分だ。剥がれている箇所もない。
「うん。今日も元気だね」
ひととおり、幹の周りをぐるりと巡回し終えると、ルーンは満足そうに微笑み、今度は葉の状態を確認するために、根元に落ちている葉のついた枝を拾い始めた。
ちいさな気配に気付いて、ふと顔を上げると、近くの月光樹の陰から野ウサギが遠慮がちにこちらを見つめていた。
うふふ、と笑みを零すと、何も見なかったかのように作業を続ける。目の端でこっそり覗いていると、野ウサギはルーンが気になるのか、じりじりと距離を詰めてきた。
警戒心の強い野ウサギは、最初は目が合っただけで逃げていた。だんだんに、ルーンが森にいることに慣れてきたのか、今ではこのように近くまで寄ってくるようになった。
その毛並みを撫でられる日も遠くないかもしれないな、とルーンは楽しみに思う。きみの茶色い毛並みは、どんな感触がするんだろう。きっと、ベルベットみたいにすべすべなのかな。
その体に触れられた時が、ルーンを森の友達だと認めてくれた時だ。
今は、「侵入者」が「訪問者」に変わっただけに過ぎない。
月光樹は、月の光を吸収して成長する。月の力を体にためることができ、その力を使う時、強い光を放つと言い伝えられている。いわば、この地の守り神のようなものだ。
満月の日以外は取り零すことなく月の光を蓄えているが、満月の日は月の力が強すぎるためか、力を吸収する際に葉が淡く光るのだ。
それは月の光そのもののように思える。金色のまあるい光。光の粒子に触れることができるなら、きっとそれはあたたかくてやわらかいのだろう。
この御神木は一体どのくらい前から、この地を見守ってきたのだろうか。ルーンは手を止めて、光を放つ森を見上げる。
何百年? 何千年? ルーンには想像もつかないような長い年月だ。
ざわざわざわ。森を揺らす風が強くなり、影が濃くなる。
遠くの空で夜を告げる鳥が鳴くのを聴き、ルーンは止めていた手を急いで動かす。
お母さんに心配をかけないように早く帰ろう。今日の夕飯は、ルーンの大好きな豆のシチューだ。