いつかのラブレター
普段は使わない物入れの奥にしまい込んでいた古い段ボール箱が出てきた。
中を開けて思わず「あっ」と小さく声が出る。
──ラブレターだった。
捨てることも出来ず、どこかに置き去りにすることも出来ず、未だ後生大事にしかし目の触れない場所に隠しておいたものだ。
ポップなキャラクターものの封筒の中に折り畳まれた便箋が一つ。特別なレターセットの一式だろう、某有名なカエルのゆるキャラが可愛くプリントされている。
ずっと昔の過ぎた事のはずなのに、中を開くのを一瞬躊躇った。
最初に記されていたのはアルバイトだった頃にあった二人の些細な内容だ。此処に書かれていなければ忘れてしまいそうな、とても小さな出来事で記憶の片隅にすら留められなかったろう。
ただ末尾に、
「貴方が好きです、返事待ってます」
そう書かれた。
あの頃、最寄り駅に隣接する駅ビルの地下にある生鮮食料品売り場の大手食肉メーカーで日中アルバイトをしていた。
高校を卒業し一年弱の短い期間だったがフリーターで過ごした時期がある。何をやりたいのか見つけられず、何が出来るのか分からなかった。迷走するが然し、取り敢えず親元を離れたいという感情だけが強く先行し実家を出たのだ。
裕福なわけでもなく、だが両親は晩婚で当時は「よく無責任に自分を産んだものだな」と、将来の不安だけがいつも自分に付き纒い、日々焦燥感だけを募らせた。
アルバイトをしながら兎に角、車の免許が一番始めに必要だった。実は高校の頃にもアルバイトはしておりほんの少しだけ銀行口座には予備が残っていた。それを少しづつ切り崩しながら各週で自動車教習所に通い、時間を掛けて車の免許を取得したのだ。
そのラブレターを受け取ったのはそんな最中の時だった。
駅ビルのテナントは女性従業員や各正社員用に事務室や更衣室を備えてはいたが、男子アルバイトだけは扱いが別でこと雑だった。テナント毎に食料品や備品倉庫があり、その中に慎ましく鍵付きのロッカーが設置されている。
ある日そのロッカーの隙間からそっと、便箋を入れた封筒が一通挟まっていた。
解雇通知にしてはと、そもそもバイトで何かやらかせば店長からまず苦言を呈されるだろう。不思議に思って中を開き、文章を読みどきりと胸が鳴った。
記されていた名前には勿論見覚えがある。確か地元の高校に通う三年生の娘だったはずだ。
本音を言えば嬉しくない訳がなかった。ただ、
既に六十を過ぎた両親の存在が直ぐに脳裏をかすめる。自分には先ず就職が先だった。
それにも関わらず、一つ歳下の高校生の彼女もまた進路を選択しなければならない時期のはずだ。在るべき未来の形も自分なんかよりずっと沢山の選択肢があるだろう。
自分がその側にいては、きっと彼女を不幸にする。
そんな加害妄想と、晩婚の親を持ち環境も選べず産まれてきた自分を呪わしく思い、
──だから返事をしなかった。
それから、まるで何事も無かったかの様に普段通りにアルバイトに出て、日を見繕っては教習所へと通った。
あの娘もいつも通りだった、表面上は。
朝にも挨拶はするし普通にバイトの話しもする。一対一の時になってでさえ手紙の話しはお互い、一切口には出さなかった。
ただ、今にして思えば、
パートの主婦の何人かにはまるであの娘との関係を煽られていた様な、もしかすると彼女が奥様方に自分の事を相談していたのかもしれないと後なってようやく気が付いた。
残酷な仕打ちを彼女にしている。
その罪の意識には今でも苛まれる事が時折あった。
あの娘がアルバイトを辞める気配を全く知らず、見送るタイミングさえ失った。
その事から逃げているつもりでもなかったが、いや実際にはそういうことなのかもしれない。車の免許取得の機会も重なり職安に通い詰めた。翌月には就職先を見つけフリーター生活はそこで終わりを迎えた。
何年か経ち、
1Kのアパートから仕事先までは車で通うようになった。自然と最寄り駅回りには近寄らない様になり、何か買い物があれば通勤途中の都内で済ませる。
あのアルバイト先だった駅ビルの食肉店へは簡単に顔を出すことが出来たはずなのに、何処か気恥ずかしく後ろめたさがあり足を運ぶことはあれから一切なかった。
仕事は比較的順調で翌年には直ぐに新人とは呼ばれなくなった。中堅、にはまだ程遠いがそれなりの事は任せてもらえる様にはなっている。
そんな矢先、母が倒れた。
父から連絡があり急いで実家に帰ると、単に転んで少し足を骨折したというものだった。
それでも両親の年齢の問題もあり、近い将来には介護も視野に入ってくる段階だろう。無視も出来ず、せめてそれから半年間は実家に居ようと戻る事を決心した。
また足を引っ張られるのか──
そんな事を思い、母には「生きている内に孫の顔が見たい」などとまた無責任な事を言われた。冗談じゃないと思った。生きとし生けるものの意思の尊重を、自分達の都合でしか子供や孫がこの世に生を成し産まれて来ないのだ。
それがどんなに可哀想な事で、そしてまたこれから存在しようとする人間の尊厳を初めから蔑ろにした感情なのだと、一向に思うこともなく彼らは老いて逝くのだろう。
残された者にはただ、棄民という言い訳もなく、どの世代にもはまらないような負の遺産だけを託され、気持ちも感情もいつかおざなりに亡くしてしまった様な、戻りたい頃というのが只の一つも想い返せない現し世に縛り付けられたままで。
半年間、勤務先は遠くなるが暫く実家通いし様子を見るしかなかった。
荷造りを済ませアパートを引き払う翌日、既に車は実家へ移していた。慣れ親しんだその街を離れるのに今再び電車に乗って帰路に立つことにしたのだ。
あれから、あまり近寄らなくなった最寄り駅に伸びる北口と南口を繋ぐ歩行者デッキ。そこまで続いている歩道を独り歩く。
駅構内に入る直前、その途中で思わず足が止まった。
あの娘の姿を見つけた。
反対側の歩道、
こちらに気付く様子はなく、その胸には小さな赤ん坊をまるで宝物のように大事に大事に抱えている。
隣りに連れるのは少し背の高い見知らぬ男性。
幸せそうに、高校生だったあの頃の面影は微かにしかなく今はもう大人の女性として可愛いというより随分と綺麗になった。
その姿を目の当たりにして、ほっとしたような、けれど何処か少し寂しい様な。
感情の入り混じった不思議な感覚で胸の奥が締め付けられるようだった。
ただ一つだけ、
身勝手で我が儘な願いが届くなら、許してくれとは言わない。そんな権利はもはや自分にはないのかもしれないけれど、
──あの娘がいつまでも幸せであるように。
その想いを密かに背にして、駅の改札口へと独り向かった。




